「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第4章 暴風雨の中を上海、そして日本へ

「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第4章 暴風雨の中を上海、そして日本へ

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文化放送は今から70年前、イタリア人の神父たちの手によって設立されたことをご存知ですか?異国の地で東奔西走しながらラジオ局を開局させるまでの秘話を、連載形式でご紹介しています。※毎週火曜日更新

「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

 

第4章「暴風雨の中を上海、そして日本へ」

香港を出発したコンテ・ヴェルデ号は、中国大陸に沿って北上すると、台湾海峡を抜けて上海を目指したが、その途上で暴風雨の直撃を受けてしまう。嵐は夕方に襲ってきた。時化で船は大きく揺れ、雨と海水で甲板はプールのように水浸しとなり、大波の直撃を受けて振り飛ばされそうになった人たちが、手すりやドアノブに懸命につかまっている。言いようのない不安の中、ベルテロがふと甲板に目をやると、腰を落として膝をつきながら這うように進んでいるマルチェリーノがいるではないか。船酔いと恐怖で苦しんでいる乗客たちに声をかけに行こうとしていたのだ。「本当に強い人だな」とベルテロは改めて思ったが、マルチェリーノの足は思うように前に進んでくれない。そうこうしているうちに嵐は激しさを増し、金属の手すりが荒波にもぎ取られ海中に消えていった。マルチェリーノも退却を余儀なくされる。4人がこの旅で初めて味わう恐怖だった。

一夜あけ、朝になるとうそのように嵐は過ぎ去っていた。甲板では船員たちが懸命にデッキブラシで海水を掃き出したり、壊れた部分を直したり、転がっている椅子の片づけをしたりしているた。陽気なジャズがラジオから聴こえ、カンツォーネを歌う船員もいる。午後になると部屋から出てくる人の数はさらに増え、大広間は人でいっぱいになり皆でダンスを踊り始めた。悪夢が去り戻ってきた平和な光景を眺めながら、ベルテロは改めて昨夜の恐怖体験を思い出した。暴風雨の中で頭をよぎったのは「死」だ。しかし死を覚悟した後に、より強く「生」を噛みしめ、謳歌することができる気もする。幸いなことに犠牲者を出すことも無く、コンテ・ヴェルデ号の船体は一部破損したものの船の運行に問題はなさそうだ。ほっとしていると、遠くに上海の街が見えてきた。

現在の上海 INRAINZERによるPixabayからの画像

嵐のあと、魔都と呼ばれた上海へ

昼の繫栄と夜の危険が共存し、上海は「魔都」と呼ばれた。上海を魔都と名付けたのは作家の村松梢風(むらまつしょうふう)だ。「私、プロレスの味方です」などで知られる作家、村松友視(むらまつともみ)の祖父にあたる人物で、上海に魅せられた村松が書いた紀行文のタイトルが「魔都」だった。租界を中心に国際都市として賑わう上海には、当時2万8千人の日本人が暮らしていたが、1931年に満州事変が勃発して以降は、中国人の邦人居留民に対する感情が悪化、不穏な空気が流れていたようだ。1932年1月には、日本人の僧侶らが殺傷された事件に端を発し、日中双方の民間人同士による暴動事件に発展してしまう。さらなる死者を出す事件も続き、日中の軍隊が動き租界周辺で衝突した。これを第1次上海事変と呼ぶ。マルチェリーノたちが上海に立ち寄った翌月からは日本人を狙ったテロ事件が相次ぐなど、日中関係は修復不可能な状況になっていた。中国国内の覇権争いも激しさを増していた。毛沢東の「紅軍」は蒋介石の「国民党軍」に敗れ、徒歩で移動を続けている最中で、後に長征と呼ばれることになるが、敗走していたという表現がより正しい。

一方、当時の上海は租界文化が花開き、市の中心部の外灘地区には中国国内の大手銀行のほとんどが集中していた。欧米の領事館や新聞社、ホテルや上海クラブも立ち並び、有名な国際飯店が南京路に誕生したのもこの1934年で、明と暗が共存した上海は、魔都にふさわしい都会であった。その上海で、4人は長旅を共にしたコンテ・ヴェルデ号から下船し、荷物を全て一時保管所に預けると、サレジオ会の修道院を目指すことにした。ここで10日間ほど寄宿させてもらいながら、日本に向かうフランスの船を待つのだ。
中国で聖パウロ修道会を作るという使命を帯びたファッシーノ神父とベルティーノ神父はそのまま上海に留まることになった。4人揃ってほぼ無一文という状況では、さすがに不安を隠せなかったが、サレジオ会の神父は「自分たちもかつて同じだった。アルゼンチンのパタゴニアには無一文で向かったよ」と、自身の経験を語り励ましてくれた。マルチェリーノも2人に約束した。「必ず、中国に戻ってくるからね。」

しかし、この別れから4年後、日中戦争が勃発する。第二次世界大戦も始まり、日本はアメリカに真珠湾攻撃を仕掛け、戦争は泥沼化。1945年に第二次世界大戦は終わったものの、今度は中国国内で国共内戦が起き、敗れた蒋介石ら国民党とその支持者らは台湾に逃れることに。中国の混乱はこれで終わらず、毛沢東による政敵の粛清が続くなど混沌とした時代が続き、マルチェリーノたちは中国に渡ることすらままならなくなってしまった。中国の聖パウロ修道会は、混乱の政治状況の中、南京に本部を設立。ファッシーノは早々にイタリアに帰国し、代わってカナヴェロ神父が着任したものの、1949年に毛沢東が中華人民共和国の樹立を宣言すると、最終的に全ての外国人宣教師は中国から追放されてしまった。ベルティーノとカナヴェロも、フィリピン・マニラの聖パウロ修道会に一時避難することになる。その後も再入国のチャンスを待ち続けたが、結局それはかなわなかった。

船を乗り換え最終目的地の日本へ向かう

時間を1934年に戻そう。日本に向かうマルチェリーノとベルテロは、上海でフランスの客船「アラミス号」に乗船した。アラミス号は中国から日本に向かう船で、客船は美しく、旅も快適で時化に会うことも無い。同じく日本に向かうフランスの宣教師たちと友好を温めるなど実に楽しい旅となった。黄海、東シナ海をゆく船上で数日過ごすと、対馬海峡が近づいてきたので、2人は望遠鏡で「長崎」を覗いてみた。

大浦天主堂(現在)KanenoriによるPixabayからの画像

長崎が日本におけるキリシタンの中心地であることは、マルチェリーノもベルテロも良く知っている。フランシスコ・ザビエルが福音を伝えた信徒たちの子孫が、禁教令が出された江戸時代にも隠れキリシタンとしてカトリックを受け継ぎ、今も信仰を続けている土地だ。命の危険を顧みず教えを守り続けてきた彼らの存在は尊いものであった。2人は長崎の姿を目に焼き付けた。それはアメリカ軍によって長崎にプルトニウム型原爆が投下される11年前のことである。

いよいよ博多湾が近づいてきた。玄海島や志賀島…島の緑が目にまぶしい。第二次大戦後、多くの引揚者が、福岡を目指して帰還船に乗ったというが、それぞれが福岡の島々が見えたときの感動を文章や言葉にしている。それは2人のイタリア人にとっても同じことであった。ベルテロは、それから15年後、福岡の地に聖パウロ修道会志願院を設立することになる。戦国時代から多くのキリシタン大名を生んだ九州は、日本における特別な場所だ。よりダイナミックに活動を展開していくことを考え、長崎ではなく九州最大の都会である福岡を選んだのだが、最初に受けた福岡の印象もまた、ベルテロの気持ちを後押ししたのではないだろうか。

アラミス号は関門海峡からいよいよ瀬戸内海に入る。香港から上海に向かう台湾海峡や東シナ海で荒波に苦しんだことを思えば、瀬戸内海はまさに天国だった。波も無く鏡のようになめらかな水面が日光できらきら光る…。静かな内海は、2人の心を和ませた。周防大島や江田島、呉、そして直島や小豆島を眺めながら、アラミス号船はマルチェリーノたちの目的地、神戸に到着した。イタリアを出発してちょうど1か月。神戸の港が見えた瞬間、マルチェリーノは「着いた、着いた!とうとう日本に着いた!」と叫び続けていたとベルテロは後に述懐している。それは、ノートの裏側に書かれた、ロシアをやっつける日本兵の絵に感動してから26年後、1934年12月9日の午後だった。

次回に続く

 

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