第5スタジオは礼拝堂 第25章「横浜港で驚きの再会」

第5スタジオは礼拝堂 第25章「横浜港で驚きの再会」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

6年前アメリカに渡ったベルテロが、1946年6月27日木曜日、ゼネラル・メイジス号で横浜港に帰って来た。町が近づけば近づくほど廃墟が目の前に迫り、ベルテロの心は憂鬱になる。悪い夢を見ているようだったが、横浜のシンボル、ホテル・ニューグランドだけは、星条旗を掲げ白く美しい外壁を誇らしげに見せていた。横浜という街もまた日本の近代史そのものだ。1923年に関東大震災が起き、一帯は壊滅な状態に。国内最大かつ最高級ホテルだった外国資本のグランドホテルも火災と倒壊で灰塵と帰した(再建もかなわず廃業)。その4年後に横浜復興のけん引役として開業したのが、外国人向け高級ホテルのニューグランドだ。しかし、そんな横浜のシンボルは占領軍が戦後ただちに接収し、将校たちの宿舎として使用していた。アメリカでの生活にすっかり溶け込んで戻って来たベルテロであったが、やはりアメリカに首根っこをつかまれている日本の景色は物悲しく映った。

現在の横浜港

ちなみにこの横浜港は、太平洋戦争前に杉原千畝が発給した「命のビザ」によって日本に逃れた多くのユダヤ人難民が、アメリカに向け旅立った場所だ。山下ふ頭に浮かぶ日本郵船氷川丸は、横浜からシアトルに向かう旅客船だった。この氷川丸は世界の喜劇王チャールズ・チャップリンが愛した船でもある。船旅が嫌いだったチャップリンだが、この氷川丸は別だった。大野裕之氏著「チャップリンとヒトラー」は、チャップリンとヒトラーの相似性と違和性を整理して鮮やかに描いた名作だ。イギリスもアメリカもナチスの凶暴性に鈍感だった時代に、チャップリンはヒトラーの正体を見破っていた。1940年公開の映画「独裁者」では、ユダヤ人の床屋とヒトラーを思わせるトメニア国の独裁者ヒンケルの2役を演じ、ファシズムを徹底的に風刺している。

当時の日本はドイツと日独防共協定を結んでいる。そのような中でも、外交官の杉原千畝や根井三郎、ヘブライ学者の小辻節三と言った日本人たちが、政府の思惑に逆らったり、時に権力を巧みに利用しながらユダヤ人たちの救出に尽力した。日本と縁の深いチャップリンは、全く違う形でナチスの危険性を世界に知らしめる大きな功績を遺した。チャップリンによる物まね(揶揄)が浸透した結果、ヒトラーが演説すると笑いが起きるようになったという痛快なエピソードもある。アメリカでこの映画が公開されたのは、1940年9月27日のこと。ユダヤ系アメリカ人たちは、「独裁者」を観てヨーロッパにおけるユダヤ人の状況に絶望感を深くすると同時に、チャップリンの勇気ある姿勢に感動した。我々はチャップリンのことをユダヤ系であると誤解しがちだが、彼はユダヤ系ではなく生粋のイングランド人だ。あなたはユダヤ人ですか?という質問を受けた際に、「私は世界市民だ」と答えたため憶測を生んだのだが、彼は「自分はユダヤ人ではない」と言わないことで差別を否定したのだ。風刺や笑いこそが暴力や恫喝を超える力を発揮するのだと82年も前に証明して見せたチャップリンのすごさを、ロシアによるウクライナ侵攻を目の当たりにした今、改めて強く感じる。

「独裁者」は賛否も含めてアメリカ中で話題となり、大ヒットした。ベルテロもまたチャップリンの映画をニューヨークで観ていたのはないだろうか。「独裁者」の全米公開の半月あまり後に日独伊三国同盟が締結された。チャップリンファンが多い日本ではあったが、当然ながら時局柄、上映は許されなかった。同じく同盟を組んでいたマルチェリーノたちの母国イタリアでも同様に「独裁者」の上映はできなかった。日本では、主権回復後の1960年にようやく上映され、大ヒットしている。そのチャップリンが宿泊したのも、先述のホテル・ニューグランドだ。ベーブ・ルースも宿泊した名門ホテルで、実はマッカーサーも、戦争が始まる前に新婚旅行の帰路でニューグランドに宿泊した。戦局が優位になって以降、この素晴らしいホテルを戦後十二分に使おうと考えていたであろう。

なぜお互いに気づかなかったのか

話を元に戻そう。ベルテロを乗せたゼネラル・メイジス号は横浜港のふ頭に接岸するとゆっくりと錨を降ろした。長いタラップがかけられ、大きな荷物を抱えた占領軍の兵士や、日本でひと旗上げようとするビジネスマンたちがゆっくりと階段を降り始めた。ベルテロの複雑な思いは最高潮に達していた。日本の惨状を自分の目で確認した衝撃とようやくマルチェリーノらと6年ぶりに再会できる喜びがない交ぜとなっていた。揺れる船の手すりにつかまり桟橋を眺めた。外国人たちの姿が目立つが、そのほとんどは軍服を着ているか、仕立ての良いスーツを着ている。カソック姿の人もいるにはいたが、それはマルチェリーノではなかった。

ベルテロははやる心を抑えながら、ゆっくりとタラップを降りて、人込みの中で仲間たちを探したものの見当たらない。何かの事情で急に来られなくなったのか、それとも彼らに何か不幸な事でも起きたのか?ベルテロの不安は高まる。気恥ずかしい思いも忘れて、ベルテロはたまらず声を張り上げた。「パウロ神父!どこですか!」すると、少し離れたところにいた外国人3人が振り向いてベルテロの顔を見つめた。しかし、一瞬、ベルテロは躊躇した。というのも、自分の仲間たちとは似ても似つかぬほど痩せていたからだ。迎えに来たマルチェリーノたちとベルテロは、お互いの顔が全くわからなくなっていた。食糧不足、官憲の弾圧など戦争で大変な思いをしたマルチェリーノたちは別人のように痩せおとろえ、ベルテロが気づかないほど容貌が変わっていたのだ。一方、アメリカで暮らしていたベルテロは渡米前よりも健康そうに太っていたので、マルチェリーノたちも、目の前にいる血色も恰幅も良い男性が、ベルテロとは気付かなかったのだ。ベルテロは後に「日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち」の中で、この時のことを回想している。

「彼らの姿形が戦争による窮乏生活によって、まったく見分けのつかないほどひどいものに変わっていたために、もっと近づいて彼らの名前を呼ぶまで、迎えに来ていた彼らを識別することができなかった。迎えに来ていた人たち(ボアノ神父、パウロ神父、ミケーレ修道士)は私の声が分からなかった。私は彼らの顔色が青白く、ひどくやつれて痩せているのを見てショックを受けた。私はと言えば、アメリカで過ごしていた間、神の恵みによって何の苦難にも遭わず、そればかりかむしろ肉体的には良い暮らしをし、容貌全体がアメリカへの渡航前の痩せた姿ではなくなっていた。これが私が繰り返し彼らに呼びかけていたのに、兄弟会員たちが私をすぐに認めることのできなかった理由であった。」

ようやくベルテロであることに気付いたボアノとミケーレは、喜びの声を上げてベルテロに抱きついた。6年という歳月が、皆の生活、人生を大きく変えていた。日本やドイツとともに戦火の火を点ける側に回ってしまったイタリアと言う国も、また大きな打撃を受けていた。3人はいつしか涙を流しながら抱き合った。その様子を少し離れて見つめていたのがマルチェリーノだった。マルチェリーノは、数メートル離れたところで腕を組んで立ち、3人が抱き合うのを静かに笑みを浮かべて眺めていた。しばらく経ってマルチェリーノはゆっくりとベルテロに近づくと、いつものひょうひょうとした調子で、語り掛けた。「ところで、あなたは本当にロレンツォさんなのかい?」その言い方は、本気のようでもあり、冗談めかしているようでもあった。ベルテロは少し真顔になって答えた。「何を言ってるんですか、パウロ神父! もちろんですよ、本当に私です。本物の私ですよ」「そう言われてみれば声は確かにそうだが、姿が違うなあ」「安心してくださいよ。パウロ神父!本当に私ですから」「そうかなあ。ではもっと顔をよく見せてみなさい」マルチェリーノの表情はすでにほころんでいた。2人は固く抱き合った。思えば2人で日本の地を踏んでから22年もの月日が流れていた。この間、起きたことが走馬灯のように蘇る。いろいろなことがあったが、こうして2人元気に、日本で再会できたのだ、それで十分ではないか。言葉は必要ではなかった。しばらくして、マルチェリーノがようやく口を開いた。「ロレンツォ神父! 君も私も、そしてみんなも腹が減ったな。まずは腹ごしらえといこうじゃないか。今日からまた忙しくなるぞ。」

ベルテロ神父(「日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師」より)

木炭タクシーで東京へ

さっそく4人でタクシーに乗り込んだ。22年前、来日して東京駅からタクシーに乗った時には、サレジオ会のピアチェンツァ神父の案内で、たじろぎながら乗りこんだタクシーも今は手慣れたものだ。戦後すぐには、ハイヤーやタクシーはとても贅沢なものだったので、戦後1年近く経ち聖パウロ修道会の財政状況もかなり改善していたことがこのエピソードひとつとってもわかる。どのようなタイプのタクシーに乗ったのだろうか?想像するしかないのだが、当時のタクシーは、ほとんどが戦前からのフォードや今はなきオールズモビルなどだが、ドイツ製のフォルクスワーゲンのタイプ1(いわゆるビートル)だった可能性もある。ビートルは当時主力のタクシーだった。そしてどうやらこのタクシーは木炭で走っていた。戦争が始まると石油、ガソリンの類は一切使えない。真珠湾攻撃目前の1941年9月11日からは、バスやタクシーに関して、木炭などの代用燃料車にのみ営業許可がでることになった。戦争が終わってもエネルギー不足は深刻で、ガソリン車を改造したいわゆる「木炭自動車」が活躍していたのだ。ベルテロは次の様に書き残している。

「どこもかしこも深刻な貧困が支配していた。燃料については言わずもがなで、タクシーはガソリンではなく、木材を焚いて動いていた。時速にして二十~三十キロの間であった。時々車はストップし、そのたびに運転手は車を降りて、もう何キロか走れるように木材を釜に入れて運転していた。こうして一、二回止まってから、やっと私たちは目的地に着くことができた」

横浜港から東京都心までは30キロあまり。赤信号無視の神風タクシーが登場するのは昭和30年代の話で、当時はまだのんびり走っていた。首都高速道路開通の18年前の話で、時速2,30キロとなれば相当時間がかかったに違いない。さて横浜から東京までの車窓の風景は、ベルテロの目にどのように映ったのだろうか?途中、京浜工業地帯の中を通ったとすれば、ベルテロには忘れられない光景になったであろう。京浜工業地帯は東京大空襲、横浜大空襲、さらには川崎大空襲でまさに壊滅状態になった。そしてアメリカ軍によって多くが接収されている(今も接収状態にあるところが各地にある)。

時間をかけて、何度もストップを繰り返しながら、タクシーは、ようやくかつて文化放送の社屋が建ち、現在も聖パウロ修道会が日本管区を構える若葉町に到着した。若葉とは、いかにも戦後名付けられたかのような町名だが、戦争中の1943年に改名され、この地域は四谷区の仲町二丁目及び仲町三丁目、南伊賀町から若葉1丁目となっている。この中で、南伊賀町に注目してみよう。伊賀いう言葉から連想されるのは「伊賀忍者」だ。伊賀忍者の代表格は、服部半蔵。そう言えば、皇居の真向かいは、東京FMがある半蔵門だ。1635年(寛永12年)に、現在の半蔵門にあった服部半蔵率いる伊賀組が、現在の若葉に移住を命じられた。実は服部半蔵という名前は、ひとりの個人を指すのではなく、代々「服部半蔵」を名乗っているので、服部家ではなく「服部半蔵家」とするのが正確かも知れない。半蔵門から四谷に引っ越したのは、四代目の服部半蔵正重(まさしげ)。その服部半蔵家の代地として給された場所が、四谷伊賀町だ。この服部半蔵正重の正体は、実は松尾芭蕉とその弟子の曾良ではないかという伝説がある。もちろん真偽のほどは、何もわからないが、想像だけでもたくましくしてみると楽しい。さて、この四谷伊賀町、江戸末期に四谷大通り(現在の新宿通り)を境に、北側が「北伊賀町」南側が「南伊賀町」となった。さらに戦時中にその一帯が、若葉一丁目になるのだが、旧文化放送と隣接する聖パウロ修道会の脇の坂を下ると西念寺という寺があり、その中に代々の服部半蔵の墓がある。忍者ゆかりの地で、マルチェリーノはいよいよ八面六臂に飛び回り、まるで忍術を使うがごとくカトリック放送局開局を目指して動き始めた。

次回に続く

 

 

 

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