「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第5章 ひと月の旅の末、ついに神戸に着く

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章「1か月の旅の末、ついに神戸に着く」

  マルチェリーノとベルテロは、上海からアラミス号に乗って神戸港に到着した。船中で親しくなったパリ外国宣教会の宣教師たちと別れると、巨大なクレーンが船から荷物を降ろすのを待つ。荷降ろしの作業を眺めながら、ベルテロはつぶやいた。「とうとうわが家に着いたのだ。」 エジプトやインドや香港は、どこも魅力的だったが、あくまでも立ち寄った場所にすぎないので、良い記憶も嫌な思い出も置いてゆく事ができる。しかしこの日本ではそうはいかない。自分たちがこれから暮らす「第2の故郷」になるところだ。

現在の神戸港

荷物を持つと、一種の覚悟のようなものを胸に、港を離れて神戸の街に歩み出た。当時の神戸は、海運業の中心地で、金属産業の会社も立ち並ぶ日本の要だった。1923年に発生し、10万人を超える死者を出した関東大震災の影響で、東京や横浜にあった多くの会社が大阪や神戸に移転し、それに伴い人も西に移動していた。その多くが一時避難ではあったが、家電メーカーのシャープのように、そのまま在阪企業となった会社も少なくない。現代以上に、日本における大阪や神戸の役割は大きかったと言える。そんな賑わいの中にあった神戸だが、一方で穏やかな地方の港町の風情も残っていた。

戦前の絵葉書で描かれた神戸の街

2人は神戸をたいそう気に入った。潮風が心地良く、旧居留地に行けば自分たちの故郷にもありそうな洋館を多く見かけることができる。上海にも外国人向け住宅が多く立ち並んでいたが、上海と神戸は趣きが随分違っていた。神戸には、上海のような都会特有の危険な香りがしない。行き交う人たちの様子もじっくりと観察してみたが、皆明るく親切に思えた。そして多くの人たちが「着物」と言う名のボタンの付いていないガウンのような服を着ていることに驚いた。彼らは道端で知人に出会うと必ず立ち止まり、お互いに頭を下げて笑顔で挨拶し始める。噂には聞いていたがそんな光景を目の当たりにして、本当なのだと実感した。言葉はさっぱりわからないが、相手への敬いがあることは、動作や表情ではっきりわかる。広場や大通りの緑もまばゆく牧歌的だ。通りを歩くと塀や電信柱に貼られたポスターも色鮮やかで、思いのほかカラフルな国だなという印象も持った。街並みも清潔で歩いていてもすこぶる気持ちが良い。マルチェリーノたちは、イタリアで「神戸は、日本では東洋のヴェニスと呼ばれているらしい」と教えられていたが、正直、運河が張り巡らされた水の都ヴェニスに似ているとは思えなかった。しかし、別の魅力があるようには感じた。海のそばに街があり、街並みの向こうにはなだらかな山々が横たわる重層な景色は、マルチェリーノたちに安心感を与えてくれた。港を歩く水平たちも、勇ましさよりも軽やかさを感じさせる自分と背格好の近い小柄な人たちばかりだった。マルチェリーノはますます神戸を、そして日本を好きになった。

どのような場所であったとしても、布教に命を賭ける覚悟はできていた2人であったが、穏やかな人や街の様子を眺めて安堵を覚えずにはいられなかった。それまで政情が不安な国を旅してきただけに尚更のことであった。そして2人は、どの町に着いても最初にしてきたことを、神戸でもした。それはカトリックの教会を探すことだ。カトリックは世界中にネットワークがあり、神父としてそこに行けば、歓待してくれる。スマートフォンのアプリで地図検索はできない時代だが、教会を見つけることはそれほど難しくなかった。今のように高層ビルが立ち並ぶ時代ではない。少し高台に上って街全体を見渡せば、日本家屋の黒い屋根が連なる中で、背の高い教会の鐘楼を見つけるのは容易だった。

 

冬の神戸の並木路を歩きながら、怒りっぽいが感激屋でもあるマルチェリーノは、ひたすら感動し続けていた。道を尋ねるたびに、言葉が分からなくても身振り手振りで懸命に教えてくれる日本人の姿が、たまらなく立派な行為に思えたのだ。マルチェリーノは眼鏡の奥で喜びの表情を作った。「ベルテロさん!この国は本当に世界でも独特な、すばらしい国だよ。私たち粗野なヨーロッパ人は大いに見習う必要がある」。マルチェリーノはいつもの大声ではなく、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。街を歩いていても楽しくて仕方がない。神戸の街にずっと留まりたくなった。セイロンの首都コロンボでも同じような感情を覚えたのだが、神戸はそれを上回るものだった。しかし2人の使命は、日本の首都である東京にたどり着き、そこを拠点に全国に布教活動を広げてゆくことだ。まずは東京を目指さねばならない。

 

フランス人宣教師のもとで体を休めたマルチェリーノとベルテロは、夕方、神戸駅に向かい、東京に向かう列車を探した。今では神戸の中心は三ノ宮駅界隈だが、当時は港に近い神戸駅周辺が街の中心部だった。神戸駅の駅舎はマルチェリーノたちが列車に乗り込む4年前の1930年に完成したばかりの近代的な建物。そんなこともあってか、幸いなことに、駅内の様々な表示には漢字のほかにローマ字も併記されていたので、簡単に東京行きの列車を探すことができた。切符を買うと、後ろ髪をひかれる思いで2人は列車に乗り込んだ。当時、東京と神戸を結ぶ最速の列車は、駅舎と同じく1930年に運行を開始したばかりの国鉄特急「つばめ」だった。それでも、神戸から東京までは東海道線で8時間はかかる。「つばめ」は駅のホームを離れ始めた。わずか半日の滞在だが、まるで故郷を離れるような思いで薄暮の町を眺めていると列車が動き出した。薄明りの中、駅のホームに立つ人はみんなニコニコしていて、やはり親切そうに見えた。 

現在のJR神戸駅 当時の駅舎が現存。近代遺産に登録されている

東京に向かうことにはなったものの、頼るあては無かった。そこで上海の修道院が、2人が日本に向かうことを、東京のサレジオ会に事前に連絡をしてくれていた。とは言え、お金も無いまま向かっても大丈夫なのだろうか。急に不安な思いがこみ上げてきたので、マルチェリーノは改めて鞄の中を覗いてみた。アルベリオーネ神父の推薦状と、カトリック・アルバ教区長の同意書が入っている。教区長は1914年に、聖パウロ修道会を認可してくれた恩人で人望の厚い人物だった。しかし、聖パウロ修道会の使徒活動を認可するというバチカンの書類は結局準備せずに出発してしまった。さすがのマルチェリーノも、徐々に不安な思いが増してきたが、そこは生来の楽天家。考えた末に改めて思い直すことにした。「きっと何とかなる。」 

それにしても、寝台特急にカソック姿の2人のイタリア人が乗り込んできたのだから、その姿を見て、同じ列車に乗った日本人乗客たちもさぞや驚いたであろう。ベルテロは詳細な手記を残しているが、マルチェリーノはあまり文章では書き残していない。1974年に訪日し、信者やシスターたちに当時の思い出を振り返る講演会を行った記録が「パウロ家族の日本修道院開設」という口述記として記録されているが、その中に東京に向かう夜行列車の思い出をマルチェリーノが語っている。

「夜行に乗りました。夜行で行くときに、わたしの前におばあちゃんが座っていたんです。ただねえ、足が見えないんですよね。こういう風に座っててね。足が・・・」

どうやら、マルチェリーノたちの前に座った高齢の女性は、列車の座席に正座をしていたようだ。

つばめは、大阪、京都、そして名古屋、静岡と走り続ける。余談になるが、江戸時代にヒットした十返舎一九の滑稽本、「東海道中膝栗毛」のルートは逆だ。弥次さんと喜多さんの名コンビは、江戸を出発して、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都、大坂へと向かっている。一方、イタリアからやってきた2人の弥次喜多道中は、東京へ列車で登ってゆく旅となった。しかし夜行列車なので、外の景色はほとんど見えない。マルチェリーノは深夜、そろそろ富士山が見えるかも知れないと車窓を眺めてみたが、漆黒の闇が広がっているだけ。そのうち旅の疲れから眠ってしまった。マルチェリーノとベルテロは車内で一夜を過ごし、ついに12月10日の朝、日本の首都、帝都・東京に到着する。そこは、一か月におよぶ大旅行のゴール地点であるとともに、マルチェリーノたちが宣教師として、夢の一歩を記すスタート地点でもあった。

次回へ続く

 

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// 2022.04.28追加