「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第6章 帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

 

 日曜の夕刻に神戸を離れたマルチェリーノとベルテロは、国鉄特急つばめの寝台車に揺られ、東京駅に到着した。いよいよ旅の最終地に着くという緊張と興奮で、熟睡はできなかった。寝ぼけ眼で駅のホームに降り立った2人だが、頬に冬の冷たい風を受けた瞬間、目が覚めた。ところで1934年12月10日は、月曜日。日本の首都が一週間の始まりを迎えるもっとも慌ただしい朝に、帝都の玄関口にたどり着いたというわけだ。12月の東京は想像を超える寒さで、体の芯まで冷える。マルチェリーノとベルテロは、コートの襟を立てると、競走するように真白い息を吐きだしてみた。冬の乾いた埃っぽい駅のホームを歩いていると、至るところで暖房器具に使う灯油の臭いがする。都会の空気はムンバイでもシンガポールでも香港でも吸ってきたが、東京のそれは少し違う気がした。他の町では強い香辛料の香りがしたが、東京は独特の酸っぱい香りがする。それがお酢の香りだと知るのは、マルチェリーノたちが東京で暮らすようになってしばらくしてからのことだ。「ついに東京に来たのだ。」マルチェリーノたちは、高ぶる気持ちを抑えつつ、荷物をいくつも抱えて階段を降りてコンコースに向かった。

戦前の東京駅(写真は東京都立中央図書館所蔵)

朝の東京駅は、おびただしい数の乗り換え客でごった返していた。ムンバイでは湯気が立つような熱気を感じたし、香港や上海では皆が喧嘩をしているのかと思うほど大声で元気よく歩いていた。日本でも神戸では皆が笑顔で会話していたので、日本人はおとなしいという先入観が少し覆った。しかし、東京の人たちは奇妙なほど無口な気がした。ただし、それは忙しい朝の時間だからかもしれないとマルチェリーノは思い直した。考えてみれば、神戸も昨日は日曜日だ。だから、皆、根気強く見知らぬ外国人の道案内をしてくれたのだろう。そう考えながらも、たった半日しかいなかった神戸を故郷のように改めて懐かしく感じた。人が大勢溢れていても、ひんやりした空気が漂う東京駅の構内は、不思議な静謐さが支配していた。暗色の外套でグレーの背広を包んだ勤め人たちや、黒のコート姿で黒髪を左右にゴムで結んだ女学生たちが、うつむきながら神妙な顔つきで、一刻一秒を争うように早足で歩いている。ところが、まるで軍隊の行進のように整然として歩いているので、不思議に肩と肩がぶつかることが無い。ローマで道を歩いていると、至るところで人同士がぶつかりそうになる。陽気に「Scusi ( スクーズィ )!」「 失礼!」と言い合う声が聞こえてくるのだが、そういうことが全く無い。まるで精巧な機械仕掛けの人形のようにも見える。パラレルワールドに迷いこんだような浮遊感の中で、2人はただひたすら歩いた。

  ところで、マルチェリーノたちが来日した1934年は中国における抗日運動の高まりが沸点に達していた年だった。1920代後半から日本人への襲撃事件や関東軍による張作霖爆殺事件など日中間に不穏な空気が流れていたが、1931年に柳条湖事件を事件をきっかけにして満州事変が勃発。マルチェリーノたちが来日して以降は、日本人水兵射殺事件、邦人巡査射殺事件といったテロ事件が多発する。共産党は国民党との戦いに敗れ北部の延安まで敗走(長征)していたが、この抗日運動の高まりが、2年後の1936年に国共合作(共産党と国民党の協力)を生んでゆく。ドイツではヒンデンブルク大統領が死去し、国民投票によりヒトラーの「総統」という地位が承認された。そして、マルチェリーノたちが来日した翌月には、山本五十六とリッベントロップが会談を行い、いよいよ日本とドイツの接近が始まってゆく。1935年にイギリスで開かれた第二次ロンドン海軍軍縮会議の場に日本代表の姿は無い。日本は英米仏と対立し、すでにワシントン海軍軍縮条約の破棄を通告。1936年にはイタリアとともに軍縮会議を正式に脱退し、戦艦大和など巨艦の建造に前のめりになってゆく。国内でも、1925年の治安維持法成立以降、国民への取り締まりが強まっていたが、この1934年に、聖パウロ修道会の使徒職である出版に関しても「安寧秩序妨害への取り締まり強化」を旨とする改正出版法が施行。文部省には思想局が設立され、学校などの教育機関や社会団体で、社会主義や民主主義が広まらないよう厳しい思想チェックが始まった。

一方で、明るいニュースとしては、1月には日比谷に東京宝塚劇場が開場。3月には日本で初の国立公園が指定されている(瀬戸内海、雲仙、霧島)。4月には渋谷に忠犬ハチ公の像がお目見えし、6月には築地本願寺が完成。11月にはベーブ・ルースらメジャーリーグの選抜チームが来日し、巨人や阪神など日本のプロ野球チームが生まれるきっかけとなった。前年の12月24日のクリスマスイブの日には、有楽町駅前に日劇(日本劇場)が会館しているので、マルチェリーノたちは東京に到着する手前で、まだ若々しい日本の新たなショービジネスの聖地の姿を見ているはずだ。

チャップリンの名作「街の灯」は、1934年1月13日に、オープンしたばかりの日劇で特別上映された。料金は席によって5円から1円。ちなみに、活弁士を務めたのは徳川夢声山野一郎だったという。写真は、戦前の「大東京名所百景写真帖」から 国立国会図書館所蔵

東京駅に話題を戻そう。この年の3月に、清国のラストエンペラーこと愛新覚羅溥儀が、満州国執政から皇帝の座についているのだが、その溥儀は、マルチェリーノたち到着の5ヶ月後、翌1935年4月6日に東京駅に降り立っている。溥儀は、東京駅で昭和天皇の直接の出迎えを受けている。辛亥革命により清国の皇帝から退位させられて23年、関東軍や大日本帝国に担ぎ上げられる形で、満州国の皇帝として返り咲いた溥儀を、日本の天皇が前例の無い「出迎え」で歓迎した。逆に言えば、天皇が皇帝を迎えるにふさわしい風格を備えた東京駅だからこそ成立した演出だったとも言える。レンガと鉄筋で積み上げられた3階建ての赤い駅舎は1914年に完成。両翼330メートルの堂々とした姿で、南北両端には壮麗なドーム状の屋根を冠した駅舎があり、正面に皇居を臨むという帝都の玄関にふさわしいステージだった。戦災で消失し、一度その姿を変えたものの、2012年に復復元工事が完了している。今では再び往時の姿を見ることができるが、周囲に高層ビルが無かった時代には、今とは比較にならないほどの威容を誇ったであろう。全体の配置を考えたドイツ人の技術者は、和風の建築を提案したと言う。しかし、日本側が強く洋風建築を望み、辰野金吾らが駅舎を設計した。アムステルダム駅を模したともロンドン中央駅を模したとも言われているが、欧米列強に追いつき追い越せの精神を具現化したという意味では、東京駅はまさに国家の象徴だった。

実はこの東京駅が、戦前もっとも多くの見物客を集めたのは満州国皇帝ではなく、先程紹介したイギリス生まれの映画監督だ。それはマルチェリーノたちが降り立つ2年前の出来事で、駅前には、20世紀最大の喜劇王・チャールズ・チャップリンをひと目見たさに4万人の人が押し寄せたという。人情喜劇とも言うべきチャップリンの映画は、日本でも大人気だった。興味深いことに、溥儀だけでなくチャップリンも、東京駅を後にすると最初に皇居に向かっている。東京駅からそのまま皇居に直行するというのが、海外の来賓客のみならず、国内の観光客にとっても決まったコースであり礼儀、礼節だったのだろう。

ちなみにチャップリンが、この初来日の際にあやうく命を落とすところだったというのは有名な話だ。チャップリンは、海軍将校らによる軍事クーデーター、五・一五事件のターゲットになっていた。五・一五事件では犬養毅首相らが暗殺されているが、チャップリンは犬養首相との晩さん会を断って相撲見物に出かけたことで九死に一生を得ている。驚くべきことに、当のチャップリンは、そのような騒動が起きても急いで離日することなく、翌月まで日本旅行を堪能している。日本を大いに気に入ったからだと言われているが、命を狙われそうになった国でそのまま楽しく旅行を続けたというエピソードに、チャップリンという人物の持つ底知れぬ胆力を感じる。その強さと全体主義を嫌う反骨精神は、1940年、ヒットラーを強烈に風刺した「独裁者」という映画で結実するが、日独伊三国同盟を結んでいた日本では上映されることは無かった(戦後の1960年にようやく公開され大ヒットしている)。

日本は危険な国だった。この東京駅でも、時の宰相が政治テロで2度襲われている。マルチェリーノ来日の5年前には、豪胆な髭と性格からライオン宰相と呼ばれ親しまれた浜口雄幸首相がホームで銃撃され、その怪我が元で帰らぬ人となった。さらに遡って1921年には平民宰相・原敬首相が、大阪に向かうため丸の内南口から改札を通ろうとしたところを短刀で刺され、暗殺された。2人の悲運の宰相の遭難現場を示すプレートは、今も丸の内南口と第4ホームの中央階段に設置されている。

マルチェリーノたちが来日した時点で、日本はすでに国際的に孤立を深め、いつでも政治テロが起きうる国だった。そのような中でも、チャップリンは1936年3月に2度目の来日を果たしているのが頼もしい。ちなみに1932年も1936年も、いずれも神戸港に到着して神戸から東京まで鉄路で向かうというルートを使った。つまりマルチェリーノたちと同じ行程だ。映画監督の旅行と聖職者の布教では勝手は違うかもしれないが、チャップリンもマルチェリーノも、同じように神戸港の潮風を胸いっぱい吸って、当時超特急と呼ばれた「つばめ」に乗って同じ東京駅に降り立った。車窓から同じ風景を眺めてうきうきしたかも知れないと想像するだけで楽しくなる。

そのように日本人とチャップリンは相思相愛だったわけだが、チャップリンが2度目の来日をした1936年の11月には日独防共協定が締結され、皮肉にも日本はチャップリンが最も忌み嫌ったナチスドイツと歩みを一にしてゆくことになる。余談になるが、チャップリンは、1961年に3度目の来日を果たしているものの、戦後発展をめざましく続ける東京の、すっかり変わってしまった景色に落胆の色を隠さなかったと言う。

戦前の東京中央郵便局(写真は東京都立中央図書館所蔵)

再びマルチェリーノたちが東京駅に到着した場面に話を戻そう。2人は駅舎の内側から赤いレンガや丸いドーム型の屋根を眺めながめつつ、荷物を抱えて歩き続けた。すでに八重洲口もできていたが、向かったのは丸の内北口だ。当時丸の内側は南口が乗車口、北口が降車口と分けて使用されていた。ちなみに正面の中央玄関は皇室専用だった。南口の正面にはすでに東京中央郵便局の真新しい局舎が完成し、現在の駅前に近い風景が出来つつあった。英語表示を見逃さないように気を付けて、2人はひたすらコンコースを歩く。しかし、その間も数百、いや数千もの人たちが、間断なく到着する列車から吐き出されて、階段を駆け降りてくるのだ。ベルテロは後にこの時のことを「押し寄せる人の波で遭難するような気がした。」と書いている。2人の脳裏に上海に向かうコンテ・ヴェルテ号が、嵐の中で浮き輪のように揺さぶられ、甲板に波が押し寄せた瞬間が蘇った。

「これが東京というところか」とマルチェリーノはため息混じりにつぶやいた。大勢の人が自分たちに突進してくるような勢いに2人は気圧されたが、先述したように誰も自分たちの体にかすりもしない。混とんとしているはずなのに、見えないルールや無言の調和が存在している。「やはりこの国の人たちはマナーがしっかりしているのだな。」神戸で感じた感激を少しだけ思い出した。ベルテロはあることに気がついた。最初はみなが一様にグレーのスーツや、黒の学生服を着ていると思っていたが、良く眺めてみると、真っ赤なワンピース姿の女性や、脛に脚絆を巻いた労働者、背広を崩して着こなしている洒落た若者も混じっている。1934年は元号で言えば昭和9年にあたる。戦争の気配が忍び寄り、徐々に窮屈な時代になりつつあったが、この都会では大正デモクラシーと呼ばれた時代の自由な空気を吸った人たちが、過ぎ去った思い出を、服装で懸命に邂逅しようとしていた。

 改札を出て、ようやく丸の内北口にたどり着くと、そこには体を預けるのにはちょうど良い大きな円柱があった。2人はゆっくりと荷物を置くと、円柱に背中を預けた。神戸駅では頻繁に耳にした慣れぬ日本語が、この東京駅ではあまり聞こえてこない。耳に響くのは不協和音のような無数の靴の音だけ。マルチェリーノはこの旅で初めて「孤独」というものを感じ、「異邦人」という言葉を意識した。ベルテロの横顔を眺めて安心を求めようとしたが、なぜか、来てはいけない場所に来てしまったのではないだろうかという思いが募ってくる。そんな不安を、マルチェリーノは「自分はこの見知らぬ土地に神によって遣わされたのだ」という使命感を呼び起こして払拭しようと努めた。そう念じると、不思議と力が蘇ってきた。

2人は円柱の前に立ち、サレジオ会の神父を待った。上海で歓迎してくれたフランス人宣教師のスッポ神父が、東京のサレジオ修道会に「聖パウロ会のイタリア人神父2人が、12月10日に東京駅に着くので面倒を見てやって欲しい」と電話をしてくれているはずだ。思えば、サレジオ会には、チマッティ神父に日本の話を聞かされた9年前から始まって、今回の長旅の途中も何度もお世話になった。今回もカソック姿の神父が、モーセの十戒のごとく、人の波を真っ二つに割って颯爽と現れるシーンを想像してみたが、どうやら救世主は到着が遅れているようでなかなか姿を見せてくれない。思い起こせば、ひと月前、ブリンディジの港で、コンテ・ヴェルデ号を何時間も待った時は楽しかった。4人でこれからのことを語りながら、潮風を受けつつ気分良く船を待ったが、この極東の騒々しい駅の片隅で待つのは10分が1時間のように感じられた。さらに憎らしいことに、持病を持つ胃がしくしくし始めた。マルチェリーノはもう一度自分に言い聞かせた。「私は神にこの場所に遣わされたのだ。」

 すると、ようやく救世主は現れた。

神戸の街で、低く黒い日本の屋根瓦の波の中に教会の尖塔が頭一つ突き出ていた景色を思い出す。小柄で黒髪の日本人たちの群衆の中で、頭3つ分くらい突き出たような背の高いカソック姿の外国人の姿が見え、徐々にこちらに近づいてくる。それは、サレジオ会のピアチェンツァ神父だった。その動く尖塔は、人波をすり抜けるように手際よく向かってきた。マルチェリーノとベルテロは、姿勢をただして手を振った。救世主は、もう気がついているよと言わんばかりに笑顔を見せながら、さらに早足になって、どんどんこちらに近づいてきた。

 

次回に続く

 

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// 2022.04.28追加