第5スタジオは礼拝堂 第41章「開局前夜祭」

第5スタジオは礼拝堂 第41章「開局前夜祭」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:「局舎建設と人材集めの日々」

第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」

第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」

第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」

第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」

第41章:開局前夜祭
1952年3月30日(日)、文化放送(正式名:日本文化放送協会)は開局の日を迎えた。正確には開局一日前の「前夜祭の日」を迎えた。場所は東京の日比谷公会堂。戦前、戦中、戦後の東京の歴史を見つめてきた文化の殿堂で、文化放送の開局にふさわしい場所だった。日比谷公園全体が歴史の主役だ。恩賜公園ではなく市民の公園して誕生し、関東大震災の際には市民の避難所となった。戦時中は陸軍の高射砲が設置され、B29を撃ち落とすために大イチョウの枝を切った跡が今でもわずかに確認できる。

レストラン日比谷松本楼の前のイチョウの木

日比谷松本楼の社長の故小坂哲瑯さんに生前お話を伺ったことがある。松本楼で生まれ育った小坂さんは日比谷公園の究極の定点観測者だった。ちなみに松本楼は敗戦後GHQが接収したのだが、その時松本楼の経営者だった小坂さんの父は思いもよらない作戦を考えた。それは自身が松本楼の従業員としてGHQに雇われるということだった。そんなわけで小坂一家は引き続き松本楼に住むことを許された。そして小坂少年は毎朝アメリカ兵によるパスポートチェックを受け「アメリカ」である自宅を出て、「外界(=日本)」にある学校に向かう生活を送ることとなった。授業を終えて帰ってくるともう一度パスポートを提示して松本楼に入る。朝起きたら日比谷公園の一角が一晩でソフトボール球場に変身していたこともあったという。日比谷公園は、太平洋戦争を挟んで日本の移ろい、東京の移ろいを象徴するような場所であり続けた。

日比谷公会堂に話を戻そう。公会堂は同じ棟内の市政会館とともに1929年に安田財閥によって寄贈された歴史的な建造物だ。戦後各地にコンサートホールが誕生するまでは、日本を代表するコンサートホールでもあった。そして約2千人を収容するこの殿堂を満員にして行われた開局前夜祭こそが、文化放送にとって聴取者への自己紹介の場となった。市政会館に本社を構えていた同盟通信社は、戦後GHQの命によって共同通信と時事通信の2つの通信社に分割されたのだが、1952年当時は両社ともまだ市政会館に本社を置いていた。日比谷界隈は新聞各社も近く、メディアや音楽など様々な文化・情報の集積地だったのだ。なお、そのような場所で行われた華やかな開局前夜祭の音声の一部が保存されていた。この記念すべき日を開局時のスタッフはどのように迎えたのだろうか?

現在の日比谷公会堂(耐震性の問題から2016年以降使用されていないが外観は建設当時の姿を残している)

生放送が中断?

放送指揮室所属の伊藤満ディレクターは、日比谷公会堂から送られてくる生放送の音を受けるという重大な仕事を担当した。

伊藤 本社のマスターにいて音を受けたんだよ。 ところが放送中、突然アナウンサーが黙り込んでしまったんだ。焦ったね。 放送の音は順調に来ているのにアナウンサーがなぜか黙ってしまったんだ。 美人で有名な田中マリ子アナウンサーだったはずだよ。 すると袖からNHK出身の岩橋健正(けんせい)アナウンサーが突然マイクを持って現れた。 そして『申し訳ございません。こういうことがあることを教えておりませんでした』と謝ってるんだ。」

「こういうこと」とは何か?それは、会場内の停電だったと伊藤さんは語ってくれた。

伊藤「放送の回線は生きているのに、日比谷公会堂の建物が電力不足で突然停電してしまったんだよ。つまりアナウンサーは何が起きたかわからず驚いて声が出なくなったというわけ。 田中さんはまだ新人だったからね」

この日の開局前夜祭には後に伊藤さんの妻となる敬子さんが偶然観客として足を運んでいた。ところが敬子さんは、「そんなことがあったかしら」と記憶にないのだ。敬子さん曰く「停電なんてしたかしら? あたしは、その時友達と日比谷公会堂にいたんだけど、記憶にないわ」 停電したのか、しなかったのか? 当日の記録では見つからなかった。ただし当時の電力事情を考えると十分考えられる事態ではある。

私にもこんな経験がある。2004年9月15日。それは広島市民球場(マツダスタジアムではない)で行われていた広島巨人戦の実況中継中のことだった。私はその中継音声を、伊藤満さんのように文化放送のスタジオで受けていたのだが、突然「カラーン」という鈍い金属音とともに放送が寸断したのだ。音声だけだと一体何が起きたかわからないので、とりあえずテレビをつけてみた。すると、広島市民球場の照明がほとんど消えて薄暗くなっているのだが、暗い中でもなんとか野球が続いていた。ちなみに広島市民球場は、バッターボックスの真後ろ(グラウンドレベル)にラジオの放送席があるので、テレビ中継ではアンパイアの後ろで実況席がずっと映っているのだ。目を凝らして画面を見つめると、何と知人の地元局アナウンサーが、マイクではなく電話の受話器を握りしめて実況を続けていた。後からわかったことだが、その日の広島は猛暑に見舞われ、放送席もスタンドも控室もエアコンをフルに稼働をさせていたところ、ブレーカーが上がってしまったのだという。今でも家庭ではエアコンと電子レンジを同時に使った瞬間ブレーカーがあがることは時折あると思うが、それが野球場で起きたので驚いた。TBSの人気番組「8時だよ、全員集合」でも生放送の冒頭に停電が起きてお茶の間を驚かせたことがあったのは有名な話だが、70年以上前ともなればそのようなことは十分起きえたと思う。真相がいまだに藪の中であるというのも面白いし、そのうち資料も出てくるかもしれない。いずれにせよ、放送を送り出す側も聴く側も東京で2番目の民間放送のスタートは、一大イベントであり特にスタッフ側は緊張もしていたに違いない。

そのような緊張状態の中で、比較的ゆとりを持ってこの日を迎えていたのは、NHK高知放送局時代に放送現場のキャリアを積んでいた原和男アナウンサーだった

原「日比谷公会堂の開局前夜祭の放送では、みな緊張していましたね。 でも僕はそれまでの経験があったから、 司会役のアナウンサーに『会場では大勢の顔を見てしゃべれよ』とアドバイスしました。 すると、『大勢の顔を見てと言われても、あがっちゃってるから、何が何だかわからないです』と言うから、僕は『 やり方は簡単だよ。人の頭がいっぱい見えるけど、みんな畑のかぼちゃだと思えと言いました(笑)。 徐々に慣れてきたら会場の人たちの顔も見えてくる。そしたら会場の人に自分から話しかけなさい』とね。 あの日は、『いざというときの経験談』を皆で話し合う場所になっちゃっいましたね。」

そして大瀧シスターは、伊藤ディレクターと同様、四谷の本社にいた。

大瀧「今でも開局の前日のことはよく覚えていますよ。私は本局にいろというお達しをうけて、局で待機していたんです。すると、夜になって私のところに(常務理事の)小林珍雄(よしお)先生がいらした。『おいおい、大瀧君』とお呼びになるから『はい、何ですか?』と尋ねると『ちょっと、ついてこい』と言うんです。仕方がないので、私は『はい、わかりました』と言って付いていきました。すると小林先生は、これから2人で局舎の周りを一回りすると言うんですよ。なぜかと聞くと『誰かに邪魔される可能性があるからな』と何だかややこしいことを言ってるのよ(笑)。私は『先生と一緒だったら怖くないわ』と思って付いていったのに、先生は歩きながら『こういう時は、男がひとりで歩くのは怖いんだ』と言い出す始末。さすがに『この人、何言っているのかしら?』と思いました(笑)。もちろん、私は別に怖いとは思っていませんでしたよ。」

開局前夜祭のパンフレット

開局前夜祭が始まる

かくして緊張の中、開局前夜祭が始まった。会場は午後6時、開始は6時30分だった。今と違って周囲の照明はずっと暗かっただろう。開局前夜祭コンサートに関する音声の一部が保存されていたので再生してみると、オーケストラの演奏がフェイドアウトし、緊張気味のアナウンサーの声が聴こえてきた瞬間だった。

アナ「満場のお客様を酔わせて、オープニングコンサートは華やかに続けられておりますが、このあたりで日比谷公会堂からお別れ致したいと存じます。管弦楽は近衛管弦楽団、指揮・近衛秀麿さん。ピアノ・原千恵子さん。なお、この番組はスタイルブックでおなじみの日本織物出版社の提供でございます。 NCB 日本文化放送協会~」

演奏者として2人の名前が紹介された。ひとりは近衛秀麿氏、もうひとりは原千恵子氏だ。指揮者の近衛秀麿は、名前からわかる通り戦後自殺した近衛文麿元総理の異母弟。近衛は日本のオーケストラの父とも言える存在で、日本がまだ戦争を続けていた1945年4月、ドイツの敗戦に伴いライプチヒでアメリカ軍に抑留された。その後、帰国し、東宝交響楽団(東響)の指揮者などを務めたが、その東響を去った後、知り合いの楽員を集めて結成したのが近衛管弦楽団(近響)をだった。結成まもない「近響」にとってもこの開局前夜祭は晴れ舞台だったに違いない。文化放送と同様、近響も希望に燃えていた。しかし、後に文化放送とは日本フィルハーモニーの専属契約化問題で対立する残念な展開を迎えてしまうのだが、この開局前夜祭では力をあわせて頑張った。

そしてもうひとり、原千恵子氏も日本を代表するピアニスト。反田恭平さんが2位に入ったことで話題になったショパン音楽コンクールに、戦前日本人として初めて出場したのが原で、当時の夫は飯倉にあるイタリアンレストラン・キャンティの創業者で戦後の国際文化交流に大きな足跡を残した川添浩史氏だった。原は後に離婚してイタリアに渡り、チェロの巨匠ガスパール・カサドと結婚した。日本よりも欧米で高い知名度を誇るピアニストだ。ちなみに、彼女の子息である音楽プロデューサーの川添象郎氏が、今年の1月3日、文化放送「象のRadio」という番組に出演した。荒井由実やYMOを世に送り出した際のエピソードを語ってくれ好評を博したのだが、その川添氏の母と文化放送は、今から遡ること70年以上前に縁があったのだ。晴れの門出に近衛や原を演者として選んだこと自体が、非常にセンスの良い人選だったことが70年以上経った今よく分かる。ちなみにもうひとつ。最後にアナウンサーが「NCB」と発しているが、このNCBは日本文化放送(Nippon Cultural Broadcasting Company)の略。文化放送は後にコールサインのJOQRから取って、聴取者の皆さんにQR という愛称で呼ばれるようになるが、開局当時はNCBと呼ばれていた。正確には本当の略称は現在もNCBなのだが、誰もNCBとは言わないし、呼ばない(苦笑)。

この開局前夜祭に先立ち、文化放送を代表してあいさつしたのが、東京外国語大学の初代学長から文化放送の初代会長に転じた澤田節蔵だった。澤田はマイクに向かってやや緊張気味に挨拶した。

アナ「ではここで、日本文化放送協会澤田会長が皆様にご挨拶いたします。」

澤田「東京における民間放送として先にラジオ東京の誕生がありましたが、わが日本文化放送もいよいよ今晩開始することになりました。昨年4月仮免許を得て以来、極力準備に励み、今回いよいよ本免許を得、本日をみるに至った次第であります。この間、電波当局はもとより民間放送連盟、NHK、その他兆余の皆様から多大のご援助を頂き、誠にありがたく存じておる次第ですが、これに対し、ここに衷心より感謝いたします。会館の建設、その他設備万端につきましては、関係者一同懸命の努力を傾け、最善を尽くして参りましたが、放送機械は主に米国より新たに買い入れたものでありまして、音質その他については、おそらく皆さんに喜んで頂けるのではないかと存じております。番組も務めて清純、健全なるものを選び、楽しみのうちにも日本戦後の道義と文化の向上に資することを期しております。その出来栄えにつきましては、今後の実績に徴し、皆さまがたのご批判を仰ぎ漸次改善してゆくつもりでおります。つつましやかなご家庭で、ご一家うち揃ってお聴き頂き、大人にも子供にも楽しくしかも有益で進んで人生の荒波を打ち破っていく意気を沸き立たせることができるようにと念願しております。特に文化教養方面には格別の注意を払い、幼稚園より大学に至るまでの学生・生徒諸君のご勉学のお相手もすれば、主婦方の家政、育児における知識をも豊かにし、またその他の一般の方々に対しては我が国でいまなお不十分と言われております成人教育の方面にも心がけ、良識あり責任感に富んだ健全なる人物の輩出におよばずながら何ぶんの貢献をいたしたいと存じております。なお日本文化放送は、海外諸団体との関係もありますので、できるだけこの点をも生かし、あるいは外国放送局との音楽その他の交歓と国際文化の交流にもお役に立ちたいと思っております。要するに、日本文化放送は、以上の意図を生かし、我が国一般の教養文化向上のため、ご奉公致したいつもりでおりますが何ぶんにも、放送の事となる実に困難な事業でありまして微力なる我々として果たしてこの大任を全うし得るか、いさかさ危惧の念にかられております。つきましては関係当局をはじめ兆余の皆様には我々の微意を良とせられ十分ご鞭撻ご支援くださるよう、切にお願い申し上げます。」

澤田会長の挨拶に続いて、放送関係者の挨拶が放送された(おそらく事前録音)。最初のメッセージは、文化放送協会に放送免許を与えた電波監理委員会委員長の網島剛だった。電波監理委員会は、1950年にGHQの肝いりで、「放送の独立性」を保つために設置された合議制の独立行政委員会だ。網島は文化放送の開局を認めるか否かの採決では反対する側に回っていた。この日はどのような気持ちで迎えたのだろうかと想像する。実は、電波監理委員会にとっては、この文化放送への祝辞などが最後の仕事になってしまった。文化放送開局の約1か月後に、サンフランシスコ講和条約が発効し日本の主権が回復すると、放送や通信を管理下に置きたい吉田茂内閣が動き始め、7月には早々に廃止となった。電波行政は郵政省に統合され、政治や行政に管理されることになる。ちなみに網島委員長の挨拶は、「文化」という単語を頻繁に繰り返している。利益を追い求めず、ただひたすらに、戦後復興の途上にある日本国民の文化向上のために頑張って欲しいというエールだったと思う。

網島「特に貴協会は、我が国の政治経済文化の中心地たる東京に、我が国の民間放送局として唯一の財団法人として発足せられるのでありまして。その設立目的から致しましても公益を目的とするものでありますから、他の民間放送局とはおのずから相違のあるところで有りまして、一般聴取者の貴協会に寄せられていれる期待もまた大なるものがあると信ずるのであります。常に明るい文化的な香りの高い番組を編集されまして、清純優雅な中にも興味豊かな放送内容により、日本文化の向上発展ならびに国民生活の浄化を喫しておられる貴協会の発足に対しまして、聴取者をはじめてとし各方面から寄せられております絶大なる期待と要望とに沿うように格別のご尽力あらんことを衷心より念願致しますとともに放送を通じて公共の福祉を増進し、文化国家の建設と発展とに貢献せられることを希望いたしまして、私のお祝いの言葉と致します。」

続いて日本放送協会会長、古垣哲郎のメッセージが流れた。文化放送へのエールと先輩としてのプライドがないまぜとなった興味深い挨拶だ。「民放が続々と誕生する有様」「放送の異常な発展」などややきわどい表現も使っている。戦前は朝日新聞の特派員としてならし、海外通の論説委員として活躍した古垣は戦後NHK入りした筋金入りのジャーナリストである一方、経営者としては民放の参入に強く反対したと言われ、GHQの指示で、労働組合の弾圧やレッド・パージも行った人物だ。そういった理由からNHKを離れ民放の開局にあわせてTBSや文化放送に移ったスタッフも多かったと言う。そんな威圧的な古垣だったが「民主主義」や「反戦」という言葉には強いこだわりがあったようだ。この日の挨拶を聴くと、平和や文化を訴求しようとしていた文化放送に対して、どこかしら親近感を持っていたのではという気もする挨拶だ。

古垣「本日、日本文化放送が、めでたく放送をお始めになりますことを、心よりお喜び申し上げます。この喜びはひとり日本文化放送のためばかりではなく、同じく放送事業に携わる同業の一員であり、しかも我が国における放送界の草分けを承って参りましたわれわれNHKとして真に感慨深いものがあるのであります。今から28年前、NHKが我が国で初めてひとりで放送を開始致しました当時、まだ海のものとも山のものともわからぬ事業として、その将来を危ぶまれながらわずかに5千人くらいの聴取者を相手に放送を始めましたのが、今日では全国1千万の聴取家庭を擁して、世界でも有数のラジオ国家となり、更にこれを基礎と致しまして、我々公共企業体の他に営利事業としての放送会社が次々に誕生する有様で、日本のラジオ界は冨に、賑やかさを加えて参ったのであります。そして、今日ここに意義ある日本文化放送の誕生をみたのであります。ですから私どもの喜びの心持ちは、我が国放送のこの異常な発展と、それを物語るように新しく生まれ出でた同胞に対する歓迎であり、祝福であり、一緒に手を取り合い助け合いながら我が国の放送に邁進しようという楽しい期待でもあります。将来の歴史家は20世紀の前半の最も顕著な発明として、ラジオと原子爆弾とをあげるでありましょう。しかもこの2つの歴史的な発明は、20世紀の前半において不幸にして戦争の道具としての大きな役割を受け持ったのであります願わくば、この2つとも、特に私どもが携わっておりますこのラジオが、20世紀の後半においては、戦争のためにではなく世界の平和のために、人類の進歩と幸福のために他の比類のない働きを表しますように、お互いに協力して参ろうではありませんか!」

 最後に流れたのは、民間放送連盟初代会長の足立正のメッセージだった。ラジオ東京(TBS)の初代社長に就任していた足立は、戦中、戦後と王子製紙の社長を務めた経験を持つ。聖パウロ修道会の王子教会が焼夷弾の雨を浴びたのは、水力発電事業も行っていた基幹企業の王子製紙を米軍が狙ったことも影響しているので皮肉な関係でもあった。のちに文化放送の経営者となる水野成夫は戦後、この王子製紙のライバルである国策パルプ(現日本製紙)の社長から文化放送に移るので、これも不思議な縁だ。いずれにせよライバル会社のトップの足立であったが、文化放送の設立趣旨をもっとも良く理解し、エールを送ってくれたことが挨拶から理解できる。

足立「そもそも民間放送の開始は我が国電波界における一大革命でありまして、これにより、従来NHK一本の単調なわが放送界はにわかに活気を帯び、ラジオが真に民衆のものと成りましたことは、誠にご同慶に堪えないことでございます。今日までに、免許または予備免許を受けて、民間放送の仲間入りを致したものは実に18社の多きに及んでおります。私どもは民間放送と申しておりますが、いわば商業放送と呼ばれる性質のものであります。ただし放送の内容は、一般的に公共の福祉増進を目的とするものであって、ただ経営の基礎がコマーシャルベース、すなわち商業的であるということに過ぎないものであります換言すれば広告放送は、手段であって目的は公共性を内容とするものであります。民間放送のこの目的性をもっとも端的に表明しているものは、今日、放送を開始せられた文化放送協会でありまして、その名称に、特に「文化」の文字を表しておられる点、株式会社の形態をとらず財団法人である点も、この辺に理由が存するものと推察する次第であります文化放送協会はその寄付行為の経緯に鑑みても宗教的、教育的色彩の濃いものであります。そもそも民主主義の根底を為すものはヒューマニズムの思想であり、いやしくも我が国における放送目的が、民主主義的文化の高揚にあると致しますならば、このヒューマニズムの思想を的確に把握し、もって政治・経済・教育の全般に渡って、これを民主主義の正しき軌道にのせることが肝要でありますこの意味において、宗教的、教育的背景を持つ文化放送JOQRの我が国文化の上に果たす役割がいかに「重」且つ「大」であるかは、いまさら私の長調(多言)を擁しないところであります。財団法人である日本文化放送協会が、コマーシャルベースによってその維持発展を図られるということは、「理想は高遠」に、「手段は現実」に即する懸命なるやり方であると言わなければなりません。その放送内容においても、必ず文化的香りの高いものであることを期待してやみません。」

開局前日の挨拶やコンサートは無事終わった。

日比谷公会堂の階段。来場客も関係者も胸をワクワクさせて上っていったのだろう。

もうひとつ余談を付け加えると、大瀧シスターの回想に登場した理事の小林珍雄(よしお)氏は「カトリック大辞典」の編纂委員ととして知られる昭和期を代表するキリスト経済学者。上智大学の教授から文化放送の常務理事となり、その後編成局長も務めた。修道会から来たメンバーやNHKのOB、劇団出身者などは、いわゆる「業界の現場」の人たちだ。彼らは放送に携わるノウハウをある程度は持っていたと言えるが、現場をまとめる管理職たちに、そういった放送スキルを持つ人間は少なかった。彼ら他所からきた経営陣とマルチェリーノら修道会の創業者グループ、さらに放送現場のメンバーの3者による軋轢は開局当初から表面化していたため、経験も無いまま放送界に入り、すぐに人間関係の板挟みとなってしまった管理職たちは気苦労も多かったと思う。この小林常務理事も開局から1年後の1953年4月には早々に辞任し、上智大学に戻っていった。編成局長と理事を兼ねていた小林氏が会社を去ったことは文化放送からカトリックの色彩が後退したと言える事件だったと言える。なお小林氏は後に上智大学経済学部長をつとめ、上智学院の理事となっている。このように早くも様々な波乱の種を抱えながらも、1952年3月31日(月)に日本文化放送協会は本放送を開始したのであった。

次回に続く

 

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