「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第11章 初めての信徒

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章「初めての信徒」

 懸命の訴えが実り、シャンボン東京大司教から日本に残ることを許されたマルチェリーノとベルテロは、大森で日本生活をスタートさせた。食事など身の回りの世話は、三河島教会のピアチェンツァ神父の紹介でサレジオ会信徒の「はまさん」と言う女性が引き受けてくれた。そして大森の地で、マルチェリーノたちを見守ってくれたのはカトリック大森教会の主任司祭であり、パリ外国宣教会のコルニエ神父だった。シャンボン大司教が本籍を置くパリ外国宣教会は、日本など東アジアにおいて、明治以降のカトリック教会の再建を担ってきた「地域のリーダー」だ。そのお膝元での新生活は、日本残留へ向けての一種のテストを兼ねていたと言える。

「はまさん」の妹が、偶然マルチェリーノたちの近所に住んでいた。夫を亡くした後、10代前半の2人の子供を育てていたのだが、この女性は、後にマルチェリーノが初めて洗礼を施すことになる桑島カツさんであった。カツさんの長男の啓吉君(啓ちゃん)は当時12歳。桑島啓吉氏は、後に文化放送の監査役を務めることになる。桑島親子は、姉の手伝いでマルチェリーノたちが生活する借家に出入りするようになった。着物姿のカツさんがゆっくりと日本語でしゃべると、マルチェリーノたちは日伊辞書を開きながら、懸命に話を理解しようとする。ジェスチャーも交えながら、毎日そういったことを繰り返してゆくうちに、少しずつ会話がスムーズになってきた。日本語の家庭教師だけでは語学の上達にも限界があるが、この桑島親子との日常会話が2人の学習を大きく補強してくれた。さらに日本の小学校の教科書を読み込むことも忘れなかった。とにかく、日本語が話せるようにならないと、イタリアへの帰国を命じられてしまう可能性が高いのだ。2人は必死だった。啓ちゃんは背の高い聡明な中学生で、いつも母親のカツさんとともに学生服姿でマルチェリーノたちの家にやってくる。ある日のこと。マルチェリーノたちが、いつもと逆に桑島家を訪ねてみることにしたのだが、その時に、信じられない光景を目にした。家の中で、何と啓ちゃんが膝を折って、畳の上に姿勢正しく座っていたのだ。イタリアでは見たことが無い「正座」という座り方だと言う。マルチェリーノは、啓ちゃんの足を触ってみた。「痛くないのか?」「全然痛くないよ」マルチェリーノとベルテロは、この不思議な座り方を見よう見まねで真似てみたが、すぐに転んでしまう。転ぶ2人の姿を見て、桑島親子は大笑いした。

桑島親子の助けも借りて、マルチェリーノとベルテロは、日本語を聞き取ってはローマ字で表記するという地道な日本語訓練を続けた。漢字というこの不思議な形の文字に、人の姿や動物の姿など様々な意味が込められていることも少しずつ分かってきた。学習意欲が旺盛な2人は、真綿に水を吸収するように日々日本語を自分の中に取り入れていく。啓吉君(啓ちゃん)は、毎日のようにマルチェリーノとベルテロのところに遊びにやって来た。ただし、彼に入信したいというような意識は毛頭なかった。そもそも、池上本門寺のおひざ元の大森に暮らす桑島家は、日蓮宗を信仰している。陽気なイタリア人の家に遊びに行くことが、ただただ楽しみなだけだったが、毎日2人と話をするうちにキリストの教理に触れる回数も増えてゆく。それは母親のカツさんにとっても同じことだった。ある日のこと、マルチェリーノは、「カツさんと啓ちゃん、カトリックの道を志す気はないか」と恐る恐る尋ねてみた。すると、カツさんと啓ちゃんはすでに心の準備ができていた。2人は入信を快諾した。こうして桑島親子は、マルチェリーノとベルテロにとって、初の日本人の教え子になった。宣教のため日本にやって来た2人にとって、これは望外の喜びだった。

そして入信に向けての勉強が始まった。桑島親子の教科書は、カトリックの「公教要理」と言うものだ。公教要理とは、キリストの教えを要約して簡単にまとめたもので、問答形式になっていることが多い。マルチェリーノたちはイタリア語版を、桑島親子は日本語版を手にして、お互いが日伊辞書とにらめってしながら講義を進めた。カツさんの先生はマルチェリーノ、啓ちゃんの先生はベルテロが担当した。言葉の疎通が難しく、最初は、1日、2〜3ページしか進まなかったが、慣れてくると、そのペースはどんどん早まっていく。桑島親子は2人からキリスト教を学び、マルチェリーノたちは桑島親子との会話で日本語を学んでいった。マルチェリーノがカツさんに「洗礼」を授ける日が来た。洗礼とは、キリスト教に入信するための最初の儀式である。カトリックにおいては「秘跡」とも言う。カツさんの洗礼名は「パウラ」。後に啓ちゃんも洗礼を受けて「ルカ」。洗礼は、桑島親子にとってはもちろんのこと、マルチェリーノたちにとっても思い出深いものとなった。

ところで、マルチェリーノたちは、地域に馴染むため、地元の夏祭りや秋祭りにも積極的に参加した。大森は池上本門寺のある池上地区にほど近い。本門寺は日蓮宗の寺で、先述したように桑島親子も元々は日蓮宗だ。地元の人たちにとって、池上本門寺の守護者である日蓮聖人はとても親しみ深く、とても尊敬に値する存在だった。

現在の池上本門寺 力道山の墓があることでも知られている

1935年の10月、本門寺で最も重要な行事「お会式(おえしき)」の日を迎えた。一般的に、お会式とは宗派を問わず宗祖の命日にあわせて行われるお祭りだが、特に日蓮宗を指すことが多い。日蓮聖人の命日は、1282年10月13日。沿道の家々は皆提灯を吊り下げ、大森、池上地域が日蓮聖人一色の独特の空気に包まれる。10月12日の夜に行われる万灯練り行列には、今でも全国から30万人の参拝者が本門寺を訪れるが、戦前は今以上に参拝者の心の高ぶりが強かった。マルチェリーノは、池上本門寺の美しい屋根を眺めながら、精神の高揚の極みに至る参拝者たちの様子を興奮気味に眺めた。何万人もの大行列が続く、そして人々は大声で「日蓮! 日蓮!」と声を上げながら本門寺を目指して、無我夢中で坂を上っていくのだ。マルチェリーノもベルテロも、カトリック信者のメンバーとともに、汗をかきながら本門寺を目指した。「まるでカーニバルのようだ」と感じた。境内に着くと、何千人もの人々が踊りながら、やはり「日蓮、日蓮!」と声をあげていた。来日しておよそ10ヵ月。マルチェリーノは、日本人はずっとおとなしい人たちだと思っていた。ところが池上本門寺で出会った人々の、忘我の境地とも言うべき熱い光景を目の当たりにして、日本人には熱狂的な側面があることにも気がついた。そして、日本人の持つ宗教の存在の大きさを仏教から学ぶことにもなった。

来日以来、本当に色々なことがあった。日本の人々やカトリック関係者、外国の大使館関係者など様々な人たちと触れ合ってきた。東京の町を自転車で駆け回り、祭りを始め様々な習俗も経験した。生活苦にも苦しんだが、人々の温かさにも触れた。そして日本語と言う難解な言葉もようやく克服しつつあった。そして来日から一年が経った1936年の年の初めに、マルチェリーノとベルテロはシャンボン東京大司教に呼び出されて、文京区にあるカトリック関口教会にある大司教館に向かった。関口教会は、東京カテドラル聖マリア大聖堂で知られる。

聖カテドラル教会の往時を偲ばせるジョセフィーヌの鐘(文京区観光協会のホームページから)。現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂は、東京大空襲で焼失後、1964年に丹下健三の設計で再建されたもの

2人の真面目さや奮闘ぶりは、同じパリ外国宣教会の大森教会・コルニエ神父からすでにシャンボン大司教に伝わっていた。呼ばれたという事は、つまりコルニエ神父の推薦を受けて、シャンボン大司教の最終面接に挑むということを意味していた。何の試験かと言えば、「日本語力」のテストである。日本語を学ぶことは、日本の文化を理解し、日本の人たちに溶け込むことを意味する。その努力を怠っては、布教活動も使徒職活動もできない。もちろん2人には、テストだとは知らされていない。2人を招き入れたシャンボン大司教は、おもむろに日本語で「日本の生活には慣れましたか?」と聞いた。「はい、すっかり慣れました」「日本の食事は口に合いますか?」「最初はパンが中心でしたが、魚や米も最近はおいしく食べる事ができるようになりました」「最近どこに行ったのでですか?」「近所にある池上本門寺の祭りに、仲間たちと行きました。大変な盛り上がりでした」英語でもフランス語でもイタリア語でも無く、日本語で質問されたのだ。その意図はすぐにマルチェリーノとベルテロにも理解できた。2人は、一語一語嚙みしめるようにして答え続けた。まだ体調が万全ではないマルチェリーノは、時折許しを得て椅子に座るなどもした。

日本語の問答が終わった。シャンボン大司教は、窓の外を少し見つめた後、マルチェリーノとベルテロの方を向いて、それぞれをゆっくり見据えた。「正直なことを言えば、私は、あなた方が教会を任され、信徒を指導するにはまだ少し早いと思っている。」2人は固唾を呑んだ。シャンボン大司教は言葉を続けた。「ただし、日本語と言うこの心地よい響きの言葉を、これからも勉強し続けると約束するのなら、あなた方に小教区を任せよう。」大司教に笑みが浮かんでいた。マルチェリーノとベルテロは、あっけに取られた表情でお互いの顔を見つめた。そして、ゆるむ口元を抑えながら、シャボン大司教の方を向き直った。「大司教様!ありがとうございます。もちろん約束します!」どうやら試験に合格したようだ。マルチェリーノは、シャンボン大司教の「まだ早い」と言う言葉の裏に「今まで良く頑張った」という優しさを感じた。大司教は、再び表情を引き締めて言葉を続けた。「わかりました。では、あなたたちには、カトリック教会がまだ存在していない、王子区で宣教する許可を与えます。」王子という単語には聞き覚えがあった。1ヵ月暮らした三河島の日暮里駅から3つ目の駅だ(当時はまだ西日暮里駅は無かった)。マルチェリーノは、ひときわ大きい声で答えた。「王子ですね、承知しました!」 シャンボン大司教は「では、また状況を報告してください。体には留意して、良き使徒職としての活動を行いなさい」

2人は、軽い足取りで大司教館の玄関に向かった。そして大司教館を出るやいなや、マルチェリーノは、「自分はイタリア人なのだ」と日本中にアピールするように、両手を大きく広げて叫んだ。「聖パウロ、万歳!」池上本門寺で「日蓮!」と叫ぶ人々の姿が、ガラスの扉に映る自分の姿と重なった。日蓮宗の信徒たちのあの時の気持ちが、今はっきりと分かった。そして、彼らに負けない声を出そうともう一度叫んだ「聖パウロ、万歳!」 「ロレンツォ神父!今日は私たちの堅信の日だぞ。私たちは活動の場を得たのだ!」マルチェリーノは何度もベルテロの肩を揺さぶった。ベルテロも、周囲を気にしながら、少し照れくさそうに小さな声を出してみた。「聖パウロ、万歳!」

シャンボン大司教が、小教区としての活動を命じた王子区。当時マルチェリーノたちが暮らしていた大森からは、省線で約一時間かかった。現在のJR、戦後は国鉄と呼ばれるまでは、鉄道省の管理下にあったため「省線」と呼ばれていた。現在の東京・北区を構成するのは、戦前の王子区(北部)と滝野川区(南部)だ。王子は江戸時代から日光街道で都心と直結し、王子稲荷や将軍吉宗が愛した飛鳥山などがあって、江戸郊外の風情溢れる町だった。江戸落語の「王子の狐」でも知られる。すでに都内各地には、カトリックの礼拝施設が整っていたが、東京北部の要所であるはずの王子には、まだ教会がひとつも無かった。このため約30世帯の信徒たちは、遠い教会まで足を運ばねばならなかった。シャンボン大司教は、その「空白地帯」を、イタリアから来た若い神父2人に委ねたのだ。そして、実は王子は、出版による使徒職を目的とする聖パウロ修道会にとっても、願ったりかなったりの場所だった。明治の世に入りすぐ、王寺駅の東側には日本で最初の洋紙の製紙工場、旧王子製紙が誕生した。隣接して国立印刷局も作られ、それに伴って、周囲にも続々と印刷工場ができていった。王子は、旧王子製紙を中心に印刷工場が立ち並ぶ東京一の「印刷の町」だった。余談になるが、この旧王子製紙を1873年に作ったのは、あの渋沢栄一だ。孫の渋沢敬三が、その約20年後、聖パウロ修道会が経営から身を引いた後の文化放送の会長に就任する。そして旧王子製紙などとともに現在の日本製紙のルーツとなる国策パルプ社長の水野成夫が文化放送の社長になる。広い東京で、狭い範囲の中で見えない糸が時間を超えて絡まっているように思えて仕方がない。

話を戻そう。マルチェリーノとベルテロにようやく活動の許可が下りたのは、2人がイタリアに帰国を命じられてから1年、恩人のピアチェンツァ神父の帰天から約半年後のこと、だった。日本語の習得が最も大きな課題だったが、胃潰瘍で健康状態も良くないというマルチェリーノの窮状を伝え聞いたシャンポン大司教がついに心を動かされたとも伝えられる。バチカンの許可ももらわずにやってきた無謀なイタリア人2人が、シャンボン大司教の試験に合格した。そしてマルチェリーノも、ようやく健康を取り戻す。ずっと寝たままだったのがうそのように元気になり、子猫とじゃれあい、畳の上で軽業まで披露した。ベルテロは後に、このように記している。「大森が日本における聖パウロ修道会のベツレヘムであったとすれば、王子は日本における私たちのナザレだ」。イエス・キリストは、ベツレヘムで生まれナザレで育った。マルチェリーノとベルテロは、赤子のように無垢だった大森生活を終えて、布教という名の使命に向かって、いよいよ王子の地で自分の足で踏みだすことになる。

次回に続く

 

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// 2022.04.28追加