第5スタジオは礼拝堂 第45章「疲れ果て、足でQを振る」

第5スタジオは礼拝堂 第45章「疲れ果て、足でQを振る」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:「局舎建設と人材集めの日々」

第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」

第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」

第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」

第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」

第41章:「開局前夜祭」

第42章:「四谷見附の交差点が最大の関所」

第43章:「格が違うと言われて燃えた男」

第44章:「S盤アワーの青い鳥は近くにいた」

第45章:疲れ果て、足でQを振る

それは1952年4月2日、午後9時29分のことだった。「S盤アワー」の放送開始まで後1分と迫り、文化放送第2スタジオは異様な空気に包まれていた。緊張を隠し余裕の表情を作っていた小藤だが、隣に目をやるとパーソナリティの帆足まり子がすっかり身を固くしていた。それを見て小藤も顔のこわばりを隠せなくなってきた。立ち会いで来社した日本ビクター宣伝課の武田に至っては顔面蒼白になり、ひたすら手元の腕時計ばかりを見つめている。小藤はすっかり唾が乾いてしまい、ひたすら咳払いを続けていた。ふと「ズブの素人」のはずだった文化放送のディレクターとミキサーの2人を見ると、彼らは落ち着いた表情で、緊張する小藤や帆足ら日本ビクターのメンバーをニヤニヤしながら眺めていた。そして編集担当の大塚三仁、通称マロさんが小藤に声をかけた。「小藤さん、生放送じゃないんだから大丈夫だよ」

その通りだ。これから放送が始まる「S盤アワー」は生放送ではない。録音番組で、第1回放送は何度も何度もリハーサルを繰り返し、納得がいくまで何度も録り直して完成した産物だった。最初の収録だから無理もないのだが、放送経験が全く無かった帆足まり子は緊張のあまり収録で何どもトチってしまった。だが、そのトチリも編集担当のマロさんが職人芸を見せ、息継ぎの間(ま)も自然に聞こえるように絶妙に編集し消し去っていた。そうやって完成した第1回放送のテープをさらにスタッフ全員が何度も確認して、ようやく1952年4月2日を迎えたのだ。

S盤アワー放送初日

つまり放送当日はテープレコーダーのリールにかけたテープがくるくる回るのを、目で確認するために集合しただけ。とちりたくてもとちりようもないのだが、それでも小藤の不安は消えなかった。「何か不測の事態が起きるのではないか?」と考えているうちに「きっと何かトラブルが起きるに違いない」という確信に変わってしまう。「暴漢が乱入してテープが盗まれたらどうしよう」「スタジオが突然火を噴いて放送が停止するのではないか」悪い考えしか浮かんでこない。第2スタジオのドアをおもむろに締め直しながら、小藤はスタジオの外に首を伸ばして廊下の空気を吸ってみた。今でも放送が始まる瞬間は不安だが、70年前の不安要因は別のところにもあった。伊藤満ディレクターの証言でも触れたが、当時は電力状態が極めて不安定で、サイクルが一定していなかったのだ。テープスピードが途中で変わることもあった。したがって喋りや曲が微妙に遅くなったり早くなったりする可能性は決してゼロではなかった。

実際、S盤アワーの収録中にもテープ回転のスピードが途中で変わってしまい、頭から録り直しになるというようなこともあったと言う。この放送初日は電力計が正常値を示していたので小藤は安堵し、まだまだ新建材の香りが残る第2スタジオの天井をもう一度見上げて、ふうとため息をついた。スタジオの時計に目をやると、放送開始10秒前になっている。小藤は国民学校の運動会の徒競走で順番が回ってきたときの緊張感を思い出しながら「さあ、皆さん行きますよ」と少し震える声で指示を出した。「はい」と一言、ディレクターの細倉勝が答えた。そして細倉は9時45分を1秒か2秒回った瞬間にテープレコーダーのボタンをガチャリと押した。

小藤武門氏(左)と帆足まり子氏(右)

最初に「ワン!ワン!ワンワンワンワンワン!ワンワンワン!ワン!」蓄音機に耳を傾けるおなじみのビクターの犬、ニッパ君が吼える声が10回鳴り響いた。「S盤アワー!!」エコーのかかった帆足まり子の伸びやかなソプラノでタイトルコールが響き渡る。そしてタイトルコールにぶつけるようにテーマ曲が始まった。パンチの効いたペレス・プラード楽団の「エル・マンボ」だ。小藤の全身を電流が走り、首筋からあぶら汗が流れ出た。「皆様、こんばんは!ご機嫌いかがでいらっしゃいますか?犬のマークでおなじみの日本ビクターが、毎週水曜日にお送りするS盤アワーの時間が参りました。今晩は、その第1回目でございます!」

少し舌足らずにも聴こえるしゃべり方は、鍛えられたアナウンサーの話し方とは明らかに違う。しかしアナウンス教育を受けたものには無い、自然さを感じた。新鮮さや親しみが感じられる声でもあった。この24年後に文化放送の深夜帯に「ミスDJリクエストパレード」という現役の女子大生をパーソナリティに起用した番組が誕生する。この番組は女子大生ブームに乗って人気番組となり、2年後にはフジテレビで「オールナイトフジ」という番組に発展してゆく。オールナイトニッポンのタイトルとミスDJのコンセプトを生かした、ある意味フジサンケイグループにふさわしい番組だったと言えるかも知れない。とは言えキャピキャピと言う当時の流行りの言葉がピッタリだった明るく溌剌としたミスDJたちと帆足は違った。もちろん時代も違うのだが帆足は年齢こそ大学生と変わらなかったが、すでに社会人として働いていて20歳と思えない大人の雰囲気を持っていた。とは言え、素人の新鮮さを生かした原点の番組が文化放送開局3日目に登場していたことを思えば、小藤の狙いは実に斬新だったと言うしかない。

そして番組の魅力は帆足まり子の声だけではなかった。イントロを生かした曲紹介や間奏でも工夫が凝らした。その曲が誕生したストーリーを入れ込んだり、曲終わりの音の余韻を生かした帆足のトーク、そして次の曲へ移る際のつなぎ方など随所に人一倍の工夫をした。戦前からのNHKのラジオ放送の曲紹介は例えばこういう感じだ。「それではここで霧島昇さんの胸の振り子をお聴きください。どうぞ!」つまり曲紹介と曲は完全にセパレートしていたわけだが、S盤アワーは曲もトークも一体となって全体の流れを作るというコンセプトだった。時にはトークを主にして音楽を従にすることでメロディーを光らせると言う高等テクニックにも挑戦した。もちろん無から有が突然生まれたわけではなく、帆足も小藤も文化放送スタッフもアメリカのDJのやり方を研究し尽くしていたのだ。

「S盤アワー」初回の放送に場面を戻そう。スタジオの中の椅子に座って、小藤はひたすらガラスの外の副調整室で回り続けるオープンリールのテープを睨み続けていた。小藤の心配とは裏腹に帆足の軽快なしゃべりは続く。帆足の曲紹介が終わると記念すべき番組がお届けする最初の曲が流れた。それはダイナ・ショアの「スイート・ヴァイオレット」だ。♪Sweet violets Sweeter than all the rose~(全てのバラよりも甘いスミレ) この曲はイントロが無くいきなり歌が始まるので、今までの曲紹介の形と変わらないわけだが、帆足の元気いっぱいの曲紹介とダイナ・ショアの透き通る明るい声が絶妙なブレンドを感じさせた。小藤は隣で所在なさげに座っている帆足の横顔を眺めて、自分の狙いに狂いは無かったことを改めて確信した。

帆足も小藤も、放送前は笑顔を見せていた大塚も細倉も15分間緊張がおさまらなかった。途中でテープがレコーダーに引っかかって止まってしまったらどうしよう。途中でふとそう言った余計な心配が湧き上がってくるともう止まらない。心臓をドキドキさせたまま15分間は過ぎた。第1回の放送は大成功だったと小藤は確信する中、エンディング曲、ラルフ・フラナガン楽団の「唄う風」はフェイドアウトしていった。コマーシャルが流れると帆足も大塚も安堵の表情を浮かべ同時に大きな音で拍手を始めた。その拍手は収まらず、自分たちが時代の幕を開けたのだと言う熱い思いがもう一度込み上げてきた。

その後、文化放送はS盤アワーを意識した洋楽系の番組が続々と誕生することになるのだが、決してS盤アワーだけが突出していたわけではなく、文化放送は開局当時から洋楽全般に力を入れていた。文化放送のOBOGたちに話を聞くと、外部制作である「S盤アワー」や「ユアヒットパレード」だけが今も名前を遺していることに対する不満のようなものをを感じることもある。

人気番組は他にも

当時人気となった番組は「S盤アワー」の他にも数多くあった。例えばスタート時からの番組としては、土曜の夜に放送していた「素人ジャズのど自慢」という番組が大人気を博していた。番組タイトルは戦後すぐに始まったNHKの人気番組「素人のど自慢」をもじっている。当時のラジオ番組はS盤アワーの後にL盤アワー、P盤アワーが他局で始まったように、タイトルも内容も面白ければどんどん真似ようというおおらかな時代だった。ただし、NHKの素人のど自慢が演歌や浪曲など和モノが多かったのに対して、「素人ジャズのど自慢」はハイカラな洋楽の歌を歌うのが特徴で、イタリア人たちが作ったラジオ局にふさわしいものだったと言える。

「素人ジャズのど自慢」の放送風景

司会はサバサバとしたしゃべりが売りの丹下キヨ子。当時丹下は女優としても歌手としても司会者としても人気の絶頂期で、この1957年の暮れには第2回NHK紅白歌合戦の司会者も務めている。こう言った大物タレントを起用して番組も人気となったのに、なぜかS盤アワーばかりがもてはやされるのは面白くないという思いを持っていたプロデューサーもいたかも知れない。ただし制作現場はどちらかと言えば他番組を気にすると言うよりも自分の作りたい番組を夢中になって作っていたという感じだった。この番組の審査員は日系アメリカ人で著名なジャズミュージシャンのティーブ釜萢。かまやつひろしの父親だ。ジャズと言っても出場者全員がナットキングコールやエラ・フィッツジェラルドなどの本格的なジャズナンバーを歌うわけではなく、幅広く洋楽系ならOKという感じだった。ビング・クロスビーやドリス・デイを拙い英語で一所懸命に歌う人たちの熱唱は思いのほか共感を呼ぶ。この「素人ジャズのど自慢」に出場した「素人」の中には、様々な番組で「のど自慢荒らし」と呼ばれていたデビュー前の永井清人もいた。のちのフランク永井だ。ジャズ歌手を目指していたフランク永井は流行歌手になってからも発声方法はやはりジャズボーカルそのものだった。

ところで出場する人たちがどこでこういったジャズを始めとする洋楽ナンバーを覚えたのかと言えば、やはりFENだ。当時の文化放送はFENの影響を多分に受けていたし、歌謡曲中心のラジオ東京とは違う路線を目指さないと生き残る道は無かったとも言える。もちろんこのように開局当初は歌謡曲厳禁だった文化放送も世の中の趨勢には抗うことはできない。そもそも現場のディレクターたちは流行歌もお茶の間に届けたかったのだ。後にテイチクレコードの買い切りで「テイチクアワー」という番組が外部制作(テイチの制作)でスタートするのだが、その際に、自社のレコードということでテイチクの歌謡曲をかけることになった。自社のレコードを紹介するためにスポンサーになってくれているわけなので、歌謡曲だけはダメというのはかなり無理がある。このようにしてある意味なし崩し的に歌謡曲が解禁されていくこととなった。現場の人間としてはスポンサーが希望しているからという印籠を掲げて歌謡曲をかけることができるようになったので内心は万々歳という思いだったのだ。

このようにしてクラシックから洋楽、邦楽まで幅広くラジオの電波に乗って音楽が東京の空を駆け巡った。ちなみにこれら音楽番組は有坂愛彦(ありさかよしひこ)部長が指揮を執る音楽部の担当だった。有坂は音楽評論家として有名な人物だが、ディレクターを経て音楽評論家になったのではない。音楽評論家だった有坂を文化放送が音楽の専門家としてヘッドハンティングしたのだ。

伊藤満も念願かなってディレクター、プロデューサーへの転身を果たし、演出部に身を置いた。そして俳優座の所属だった大山のぶ代や三木鶏郎グループの中核メンバーだった河井坊茶らが出演するラジオドラマ「家族はクリーンです」などを担当することとなった。 

ところで当時の文化放送は、スタジオは5つもあったのに録音機が4台しかなかった。しかも放送の送り出し用に録音機を2台使うので、残りは2台しかない。その2台を収録用に回し使いすることになるので、番組間で奪い合いになる。しかも収録スタジオに録音機をその都度運ぶことになるので、それもひと苦労だった。もちろんそれは開局当時の話で、徐々に録音機を買い足して機材が無いというストレスからは解消されていったが、とにかく大変な毎日だった。

伊藤「効果音を出す機械などは全くなかった。 ドラマを作る際には雨の音を出すのに渋皮や小豆を買いに行ったんだ。 小豆を買いすぎて余ってしまい、みんなでお汁粉を作って食べたこともあるよ(笑)」 

効果音は開局2年後の1954年に後にラジオ界の伝説になる効果音の職人、玉井和雄が入社して生涯に約6万もの効果音を制作してゆくのだが、開局当時は玉井の入社前でそれぞれの制作者が手作りで効果音を作っていた。伊藤はNHKでラジオドラマに出演していたことがあったのでその時の経験を生かした。

伊藤「ペンでトントンと机をたたいて時計の針の音を創ったりもしたね。 こんな失敗もあった。作曲家の黛敏郎さんの番組で、エコーを響かせるためにトイレにマイクを置いて収録して、収録が終わって聴きなおしたらずっと水の漏れる音が入っちゃっていた。 テストと本番では効果音の出し方も違う。生放送の中で効果音として出す波音はしゃべり手のタイミングにも合わせ出すのでとても難しいがやりがいもあった。今はCDに入っている効果音を再生するだけだけど生音として出すのとは全然違うんだ。 とにかく毎日徹夜続きの収録でくたびれ果てていたよ。ふらふらのまま寝転がって作業したのは良いが、起き上がる気にもなれないほど疲れていた。仕方がないので、そのままバイオリニストに、足でQを出したこともあった。もうめちゃくちゃだったな(苦笑)そう言えば、船の汽笛の音が必要になったので同僚とデンスケを担いで伊豆大島行きの船に乗ったこともあった。出港した後に『伊豆大島直行だよ』という声がして蒼くなった。だって自分たちは横浜で下船するつもりだったから。でもちゃんと船員さんに横浜にも泊まりますよと言われて安堵したな。 あの時は焦った。あの日は夜になって横浜から電車に乗って四谷に戻ったんだけど、駅で降りたら、夜中にちょうどお祭りをやっていて皆がふんどし姿で『わっしょい、わっしょい』と神輿を担いでいるんだ。『これは、良いね!』となった。効果音として使えるじゃないかと。急きょ神輿の音を録ろうとなって、早速デンスケのテープを巻いて夢中になって収録した。会社に戻らねばならないことも忘れて夢中になって録った。会社に戻るのがさらに遅れるから、『遅くなります』と会社に電話をしたら、報道部が激怒してると言うんだ。デンスケを使うために予約していたのに俺たちが戻ってこないので使えなかったんだよね。まだデンスケも高価なもので局にも数が少なかったんだよ。」 

伊藤は、邦楽番組も担当することになった。邦楽と言っても当時はまだ文化放送において禁止令が出ていた歌謡曲ではない。長唄や清元、小唄などだ。落語番組も多かった。「お好み演芸会」「ラジオ寄席」「落語討論会」などいろいろあった。有楽町にある現在はニッポン放送が入居している蚕糸会館には、有楽町ヴィデオホールという場所があり、伊藤はそこで様々な番組を収録した。中でも人気があったのが「落語討論会」だ。

伊藤「当時流行していた曲を流して、客に歌詞の中から題材を3つ選んでもらうんだ。その題材を噺家に託して、三段落ちオチで3人の噺家につないでもらうの。噺家たちは紅白のチームに分かれて戦うんだけど、話題が現代から突然大昔に飛んだりするのよ。すると敵チームから「話が飛びすぎだ、おかしい」などと文句が出て揉めるという楽しい番組だった」

伊藤氏と貴重な「落語討論会」で使用したのれん

伊藤は3代目プロデューサーとしてこの番組を担当したのだが、創意工夫に溢れた番組だった。日本テレビで「笑点」がスタートするのは1965年なのでそれよりずっと前の話だ。当時のラジオにとってしゃべりだけで場を沸かすことのできる噺家(落語家)は欠かすことのできないスター出演者たちだった。ラジオにおいてその伝統は今も受け継がれているが、当時は噺家の争奪戦もすごかった。そして当時の落語界で最大のスターだった古今亭志ん生や三遊亭円生らの大物が、ある日、ライバルのラジオ東京に専属契約で押さえられてしまう。そこで文化放送も柳亭痴楽や古今亭今輔、三笑亭可楽、桂文治らと専属契約もを結んだで対抗した。タレントとして爆発的な人気となった初代林家三平も1954年に文化放送で「浪曲学校」という番組の司会を務めて以降、「朝からどうもすいません」「歌謡大行進」など付き合いが深かった。私がかつて台東区根岸にある根岸三平堂にお邪魔した時に、先代三平が大事に保管していた文化放送と書かれた台本の数々が大事にディスプレイされていて感動したことがある。文化放送には一冊も残っていないのに、スターだった三平師匠はずっと大事にしてくれていたのだ。

ある日、新人のディレクターがわけもわからず、三代目三遊亭金馬師匠の噺の下げの部分をカットして放送してしまった。金馬さんが怒ったのも当然だ。名人の噺の下げをカットするという前代未聞の不始末だった。今のは録音番組に関しての話だが、生放送も苦労は多かった。フロアディレクターは生中継が終わる時間の3分前、30秒前、10秒前にランプの付くボタンを押して噺家に終わりを知らせたのだが、伊藤がある日少し心配になって早めに3分前のボタンを押した。しかし放送後、金馬がすれ違い際にひとこと言った。「今日の3分前は早かったな」 伊藤の作戦は名人金馬にばれていた。

名人は自分の芸にこだわる。怪談物を得意とし、「お化けの貞山」の異名を取った講談師の七代目一龍齋貞山は、収録が終わり編集も無事に終了した頃に、必ず奥方を連れて文化放送にやって来た。毎回「検聴」が始まるのだ。「すまんが、ここは落としてくれるかな」「ここはアタシのえーが長すぎるよ。もうちょっと短くしてくださいな」 貞山はひとしきりチェックを入れた後、「どうぞよろしく」と言い残して帰っていく。その背中を見送った後、再び徹夜の編集が始まるのだ。

伊藤も、大塚と同様、編集に自信があった。希望して演出部に移ったという思いもあって、どのような無理難題にも期待に応えようと頑張った。しかしその伊藤もさすがに音をあげる無理難題を押し付けられたこともある。教養部の女性ディレクターが困った顔をして伊藤のところにやってきた。「伊藤くん、お願いがあるんだけど」「どうしました?」「さっき料理番組を収録したんだけど、出演者が砂糖と塩を言い間違えちゃったのよ。だから直してくれない?」「先輩すみませんが、長いものを短くはできるが言葉の交換はできませんよ」その後、そのディレクターがどうしたのか記憶に定かではない。

アナウンサーの失敗談はせいぜい「言い間違えてごめんなさい」のレベルだが、伊藤らディレクターの失敗は放送事故につながるもので心労も多かった。

 伊藤「お御堂(礼拝堂)のあった第5スタで歌舞伎十八番の一つの「勧進帳」を生放送したときの話だけど、あまりの素晴らしさに聴き入っていたら、どんどん演出の時間が伸びていってしまったんだよ。 一番の聴かせどころにかかった時に時計を見たら、なんと時間が押しているんだ。つまりこのままでは演目の途中で放送が切れる。しかもハイライトのところでだよ。 かといって、歌舞伎役者に急いでくれというわけにもいかない。 俺は上にある副調整室に向かって、焦って指を2本立てた。「2分間、次の番組を押させてくれ」というわけだ。懸命に頼んだよ。夜の9時50分が迫っていた。50分からはニュース番組が始まる時間だったんだ。大至急連絡してもらいニュースの始まる時間を、2分間押させてもらった。そんなわけで泣きの涙で何とか全部おさまったんだけど、本当に冷や汗をかいた思い出だね」

今では全てコンピューター制御されているので、万が一急にこのような事態に陥ったとしたらもう対処する術はない。自動的にバッサリと放送が切られるだけだ。「融通」という甘美な言葉が生きていた時代だった。伊藤は後に、名プロデューサーとして知られた永井愛子の下で義太夫の「芸阿呆」という番組を制作し、芸術祭を受賞する。厳しい実力派のプロデューサーだった。そしてこの番組の脚本担当が後に直木賞を受賞したアンツルこと安藤鶴夫だった。すでに落語会の主宰や評論ですでに芸の世界で知られた存在だった安藤も、また情熱的で厳しい人物だったが、甘いもの好きで、文化放送に来る際には、しょっちゅうたい焼きの「わかば」に寄った。そして新聞に「四谷のたい焼き『わかば』はしっぽまであんこが入って良心的なたい焼きだ」と紹介した。この一文がきっかけとなり、「わかば」は人気のたい焼き店になったと言われている。後に安藤は伊藤に「俺はしっぽまで入っているので良心的だとは書いたけど、うまいとは一言も言ってない」と語っていた。もちろん皮肉屋の安藤流のほめ言葉だ。「わかば」のたい焼きがおいしいことに誰も異論は無い。私にとっても四谷の思い出は「わかば」のたい焼きの香りと結びついている。

 「芸阿呆」打合せ中の貴重な写真 手前から時計回りに、義太夫三味線の竹沢弥七さん、永井愛子プロデューサー、ひとりおいて伊藤満氏、義太夫節太夫の竹本綱大夫さん、右端が安藤鶴夫さん

前にも書いたが、開局当時の自主規制コードについては今から振り返ると不明な点が多い。大衆芸能は放送しないと決めていたが、浪曲や浪花節はダメでも落語や講談は良かった。歌謡曲はダメでも洋楽(欧米の歌謡曲?)は良かった。もちろん最初の理念は、経営危機という困難にすぐに直面することで現実路線への軌道修正を余儀なくされる。文化の向上と、経営の安定の両立。民間放送としては本当に難しい時代が続いた。

次回に続く

 

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