【アナコラム】太田英明「『吉田照美のやる気MANMAN!』のこと」
文化放送メールマガジン(毎週金曜日配信)にて連載中の「アナウンサーコラム」。週替わりで文化放送アナウンサーがコラムを担当しています。この記事では全文をご紹介!
▼10月9日配信号 担当
太田英明アナウンサー
はい、どうも、いつも大変お世話になっております。文化放送の太田英明です。今回は、「吉田照美のやる気MANMAN!」について、書こうかと思います。
「吉田照美のやる気MANMAN!」は、1987年4月6日から、2007年3月30日まで放送されていた、平日午後のワイド番組です。およそ20年間の放送期間中、およそ10年間は、聴取率トップを走っていたので、正にお化け番組だったといえるでしょう。
パーソナリティーは、自由奔放な喋りの吉田照美さんと、ちょっぴりセクシーで、ちょっぴりおバカ、甘えた声ながらも、実はとても知的な喋りをする小俣雅子さんのお二人です。
番組の最大の売りは、照美さんと小俣さんの、まるで夫婦漫才のようなフリートークの掛け合いでした。
もちろん、人気コーナーもいくつもありました。そのうちの一つが、2時の冒頭の中継コーナー、お助けマンのコーナーです。スタジオの吉田照美さんから発せられる無理難題の指令に、中継レポーターのお助けマンが、必死になって応えていくというもの。電波少年よりも先に、電波少年より、過激、過酷なネタをやっていました。メンバーは、月曜日が寺島尚正アナウンサー、火曜日がかわのをとやさん、水曜日がなべやかんちゃん、木曜日が沼尾ひろ子アナウンサー、そして、金曜日が私、太田英明、という不動のラインナップでした。
エピソードを1つご紹介しましょう。その日の私のネタは、隠しマイクを仕込み、上野公園に行き、ゲイになり切って、次から次へと男性に声を掛ける、というもの。今では、とてもできないネタです。私は指示に従い、「ねぇ、お兄さん、これから私と遊ばない?」と言って、次から次へと男性に声を掛けて行きました。もちろん、誰も相手にしてくれません。そうこうしているうちに、中継も終わりにさせないといけない時間が近づいてきました。
すると、中継のディレクターから、「あの男性に行ってみろ。」との指示が出ました。指さされた男性に対して、私は指示通りに近づていき、「ねぇ、お兄さん、これから私と遊ばない?」と声を掛けました。すると、その男性は、「いいよ。」との、まさかのお答え。私は、大いに焦り、うろたえました。全くの想定外のリアクションだったからです。その男性は更に、「この近くに、私たちの隠れ家があるから、そこに行かないか?」と誘ってきます。中継終了の時間も迫っていたため、私は必死になって言い訳を考え、その男性の申し出を断りました。するとその男性は、「じゃあ、今度、ここに連絡して。」と一枚のメモを私に手渡します。そのメモには、「吉田照美のやる気MANMAN!」と書かれていました。
その直後、スタジオの吉田照美さんと小俣雅子さんから、「やーい、やーい、騙された。その男性は、番組が仕込んだ人だったんだよ。」との声が。私は、半ばパニックに陥っており、入社2年目と経験も浅かったので、なんとその場で、泣き出してしまったのです。「ひどい、ひどい、ひどすぎる。こんな番組、辞めてやる。」と。もっとも、その後、直ぐに冷静さを取り戻し、「やっぱり、番組、続けさせて下さい。」と懇願しましたが、こうして、散々な目に遭ったこの日の中継は終わったのです。
中継終了後、中継スタッフは、「騙して悪かった。」と、私に謝罪してくれ、上野の有名な鰻屋さんで、鰻をご馳走してくれました。局に戻ると、私は、「やるMAN!」のプロデューサーに呼ばれました。私は、労いの言葉でも掛けてくれるのかな、と淡い期待をもって出向いたのですが、待っていたのは、プロデューサーからの厳しい叱責の言葉でした。「なんであんなところで泣くんだ。あそこで泣いたりしたら、リスナーがエンターテインメントとして楽しめなくなってしまう。お前はマザコンだから、あんなことになるんだ!」私は大いに落ち込みましたし、自分の甘さを知り、放送の厳しさを再認識させられたのでした。
しかし、「やるMAN!」の凄いのは、ここからです。私はその後、「泣く」をキーワードにしたネタを、幾つもやらされました。例えば、「泣きながらお買い物」八百屋さんで、野菜を買うたびに、その野菜にまつわる悲しいエピソードを語り、泣き出すというもの。例えば、「泣きながらパレード」新宿大通りを、トラックの荷台に乗って、泣きながらパレードするというもの。いやはや、「やるMAN!」は、実にしたたかで、強い番組でした。
「吉田照美のやる気MANMAN!」に関しては、まだいくらでもネタがありますので、また機会を改めて、書き記したいと思います。