「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第8章 今すぐイタリアに帰りなさい

「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第8章 今すぐイタリアに帰りなさい

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章「今すぐイタリアに帰りなさい」

三河島での日本生活が始まった。

マルチェリーノたちが最初にしなければならない大仕事は、シャンボン東京大司教への訪問だった。ジャン・アレキシス・シャンボン大司教は、日本におけるカトリックの最高責任者だ。1875年に、フランス中部のクレルモンで生まれ、地元の神学校で学び、パリ外国宣協会(パリ・ミッション)の司祭として来日。第一次世界大戦に招集された後、再び来日し、1927年にローマ教皇ピウス11世によって東京大司教に任命された。マルチェリーノたちも、日本に到着した報告と挨拶のために、練馬区関町東の東京公教大神学校(のちの東京カトリック神学院、現在の日本カトリック神学院東京キャンパス)まで向かった。

しかし、シャンボン大司教は、マルチェリーノとベルテロを怪訝な表情で眺めると、ひとこと言った。

「君たちは、一体どこから来たのかね?」

「はい、イタリアから来ました」

「誰が君たちを日本に呼んだのかね?」

「そのようなことはわかりません。我々の修道会の創立者であるアルベリオーネ様に日本に行けと言われたので来たのです」勝気なマルチェリーノは負けていない。

「とにかく、一度イタリアに戻りなさい」

「どうしてですか?」

「誰も君たちを呼んでないし、そもそも使徒活動を認めるというバチカンの書類が無いではないか」

重職にあるシャンボン大司教のひとことは重い。誰が考えても、萎縮して引き下がるしかない状況だが、気丈なマルチェリーノは食い下がった。

「いえ、それはできません」

「どうしてかね?」

「帰りたくとも、お金が無いのです」

すぐに帰国せよと命じたシャンボン大司教だったが、お金が無くて帰るに帰れないと一歩も引かないマルチェリーノの態度にあきれ果て、しばらく様子を見ることにした。とは言え、お金も家も無いのは言い訳ではなく事実。窮状の中、マルチェリーノとベルテロに救いの手を差し伸べたのは、今回もまたサレジオ会とピアチェンツァ神父であった。結局、マルチェリーノたちは、上京してから3か月に渡り、三河島教会で「ご厄介」になることとなった。

サレジオ会三河島協会に居候

「帰りなさい」というシャンボン大司教の突き放すような言葉の裏には、2つの事情があったと推測できる。ひとつは、先述したように「バチカンに話を通さずに、無断に来てしまったから」。これを認めてしまうと示しがつかないというわけだ。もうひとつは「出版というメディアを使った活動」そのものが、伝統的なカトリックの使徒職のイメージとあまりにもかけ離れていたからと考えられる。「使徒」という単語を聞くと、アニメファンにとっては「新世紀エヴァンゲリオン」の印象が強いが、本来はキリスト教の用語。全ての信徒がイエス・キリストから任命され、派遣された使徒でもあるという考えに基づいて、布教や社会奉仕と言った活動を行うという意味だ。伝統的には、学校教育や慈善活動、説教などのキリスト教のイメージに則った「真面目な活動」を指すわけだが、そこに「新聞、出版、映画を使って布教を行います」「バチカンの許可は取っていません」という新人類?Z世代?的な若者2人が突然現れたわけで、日本の教区の重鎮たちの戸惑いは想像に難くない。対応ひとつ誤れば、組織の内部に亀裂を生じさせる恐れすらあった。

そのような中でも、2人を歓待してくれたのは教皇使節のマレラ大司教だった。教皇使節は現在の駐日バチカン大使にあたる要職だ。温かい対応はありがたいものだったが、マレラ大司教も、聖パウロ修道会が若者2人を正式な手続きを踏まずに日本に寄こしたことについては不快な思いを隠さず、使徒職を認めるとは言ってくれなかった。ベルテロはマレラ大司教の言葉を記憶している。

「確かにアルベリオーネ神父は聖なる方であろう。しかし、日本においてローマ・カトリック教会を代表しているのは私たちであり、アルベリオーネ神父と言えども、我々に従わなければならないのだ」

のちに枢機卿にも選ばれるマレラ大司教の毅然とした言葉。普通は身震いすらしてしまうが、マルチェリーノは決してあきらめない。この後もシャンボン大司教に、使徒職を認めるようひたすら粘り強く訴え続けた。

 私は、マルチェリーノたちの恩人ともいうべきサレジオ会について詳しく知りたくなり、東京・調布にあるサレジオ神学院に足を運んだ。そして日本のサレジオ会の生き字引と言える、来日して67年のガエタノ・コンプリ神父にお話を伺った。

コンプリ神父は御年92歳! 1955年から日本で暮らしてきた。日本語を流暢に操る若々しく陽気な神父だ。サレジオ学院の校長や日向学院の理事長などを務めてきた。キリストの聖骸布の日本における第一人者でもある。

コンプリ神父によると、当時、日本におけるカトリックの活動は、ほぼ全面的にシャンボン大司教が所属するフランスのパリ外国宣教会(パリ・ミッション)が担っていたという。しかし、国際情勢が不安定になる中、バチカンはひとつの大きな不安を抱えていた。それは、もし今後、日本とフランスの関係が悪化した場合、日本におけるカトリックの活動に大きな支障になるのではないかと考えたのだ。日本は信長、秀吉の時代からキリシタンを弾圧してきたと言う歴史もあり、その不安はむべなるかなであった。そこでローマ・カトリックは、フランス以外の様々な国から宣教師を招き、使徒活動、布教活動を託そうと考えた。現代でいうところの「リスク回避」だ。そこで、フランスではなくイタリアに本部を置くサレジオ会が、ローマ教皇の要請により日本に向かう事となったというわけだ。第1章で触れたとおり、サレジオ会の日本における活動のリーダーは、宣教師であり、植物学者であり、作曲家であり、教育者であったヴィンチェンツォ・チマッティ神父。そう、日本に向かうためにアルバの聖パウロ会に本を買いに訪れ、マルチェリーノが来日するきっかけを作ったあのチマッティ神父だ。

東京・調布のサレジオ神学院には、チマッティ資料館がある。

ちなみにサレジオ会が、当初シャンボン大司教(パリ外国宣教会)から与えられた布教の地は、宮崎や大分などの九州地方だった。中世から活動を開始したイエズス会の使徒職はいわゆる高等教育(上智大学や南山大学など)だが、サレジオ会は庶民への教育担当。中でも貧しい人たちへの読み書きなどに心血を注いでいた。チマッティ神父らは1926年の来日以来、ずっと九州で活動を続けてきたが、彼らに対して、シャンボン大司教から東京でも活動して欲しいという要請が届いたのは1933年のこと。それは、労働者の子どもたちが多く暮らす東京の下町の三河島と言う所で、彼らに読み書きを教えて欲しいという要望だった。既存の土地や建物を譲り受ける形で、サレジオ会は三河島で活動を開始する。ちなみに当時、三河島教会周辺に教会はなく、下町では浅草、本所がもっとも近い教会であったため、地元の需要も高かった。最初の活動は、日曜礼拝と子供たちの日曜学校だったが、わずか1年のうちに300人の子供たちが日曜学校に通うようになる。サレジオ会に、当時の写真が保存されている。

三河島の子供たちの笑顔が眩しい。ただし、これから10年も経たないうちに訪れてしまう太平洋戦争が、彼らにどれほどの不幸をもたらしたのかと想像してしまうと胸が痛い。※写真はサレジオ会提供

助けてくれたチマッティ神父

今とは違い、当時の信者の多くが決して豊かでは無かったので、寄付も多くは集まらず、修道会の運営も決して楽ではなかった。コンプリ神父いわく、チマッティ神父はいつもお金の心配をせざるをえない厳しい生活を送っていたそうだ。そのように自分たちも決して余裕があったわけではなかったが、お金に困ったマルチェリーノたちを助けた。と言うよりも、自分たちが苦労していたからこそ、困っている若い神父たちを見過ごすことは決してしなかったという表現が正しいかも知れない。全ての生きとし生けるものに関心を寄せ、芸術や科学への好奇心を絶やさなかったチマッティ神父は、少し宮沢賢治を連想させる存在だ。森羅万象、花鳥風月全てに通じた博覧強記のチマッティ神父は、ロマン溢れるクリエイターであると同時に、笑顔を絶やさぬ情(なさけ)の人であった。

日本に来る前から教育者でもあったチマッティにはイタリアに残された生徒たちからの手紙が途切れることがなかった。チマッティ神父もまた、教え子たちに必ず国際郵便で返事を出し続けたという。そしてチマッティ神父からの手紙を受け取った愛弟子たちは、尊敬する師から届いた手紙を決して捨てることなく大事に保管していた。そのため、イタリアではチマッティ神父から届いた手紙が今でも6400通以上現存されていて、チマッティ研究の貴重な資料となっている。コンプリ神父が2011年に翻訳した「チマッティ神父」(ドン・ボスコ社)には「本人が書かなかった自叙伝」という粋な副題がついている。本人は自伝を残さなかったが、1万点を超える書簡や資料によって、チマッティ神父の生き方、考え方が今に伝えられている。ちなみに、日本初のオペラを書いたのも実はこのチマッティ神父だ。タイトルは「細川ガラシャ」。明智光秀の娘として生れ、壮絶な最期を遂げたことで知られる悲運のキリシタン。「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」有名な辞世の句に、チマッティ神父がどのようなメロディを添えたのか聴いてみたい。

向かって左から2番目の長いあごひげの人物がチマッティ神父。真ん中の十字架をかけているのがシャンボン大司教、右から2番目の背の高い人物がピアチェンツァ神父。

 マルチェリーノたちが来日した当時、すでにサレジオ会は悲願の東京進出を果たしていたが、チマッティ神父自身はまだ九州にいた(その後、上京する)。三河島教会には3人の神父が先遣隊として派遣されたが、その中のリーダーだったのがピアチェンツァ神父だ。ピアチェンツァ神父は、イタリア時代からチマッティ神父の右腕として活躍し、1926年にチマッティ神父とともに来日したオリジナルメンバー。日本におけるサレジオ会の基礎を作った功労者は、三河島教会での新たな活動に粉骨砕身する中、マルチェリーノやベルテロを出迎えるために、合間を縫って東京駅に駆けつけたのだろう。しかし、東京生活における最初の恩人ともいうべきピアチェンツァ神父が、東京駅で会ったその日からわずか半年後に帰らぬ人となる。

次回に続く。

 

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