第5スタジオは礼拝堂 14章「ベルテロ、ニューヨークに向かう」

第5スタジオは礼拝堂 14章「ベルテロ、ニューヨークに向かう」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベルテロ、ニューヨークへ向かう」
 1939年以降、欧米や中国などによる日本への経済制裁「ABCD包囲網」が強化され、日本国内の物資不足とともに聖パウロ修道会の経営も日々厳しくなってきた。世相が暗い影を落とし始めると、近所の目を気にして教会を訪れる人の数も減る。このままでは立ち行かない。切羽詰まった状況で、修道会を維持する募金を募るために、修道会のメンバー6人を代表して、ベルテロがアメリカに渡ることとなった。ベルテロは、1940年6月29日(土)に日本の貨客船「龍田丸」に乗って横浜港を出発した。この龍田丸は優美な佇まいから、浅間丸や秩父丸とともに「太平洋の女王」を呼ばれた船だ。しかし当時から日本海軍は、この女王たち3隻を、戦時には航空母艦に改造することを考えていたという。実際、龍田丸は2年後の1942年には軍に徴庸され、兵員輸送や日英の外交官交換船などとして使われることとなる。そして1943年の2月に、伊豆七島、御蔵島沖でアメリカの潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。乗組員198名、乗船員1283名全員が死亡するという悲しい最後を迎える。もちろんベルテロがアメリカに渡ったのは、太平洋戦争開戦の1年半前。世相は緊迫の色を深めていたが、この船の暗い未来までもは想像できなかった。
横浜からサンフランシスコまで15日間の船旅の末、ゴールデンブリッジが見えて来た。ベルテロは、1940年6月13日にサンフランシスコ港に到着すると、その足でサンフランシスコ市内のノースビーチ地区にあるサレジオ修道会に向かった。橋を渡ると隣町のオークランドだ。そして市内の最北部に位置するノースビーチには、イタリア人街が広がっていた。ベルテロはまるで故郷に帰ってきたような気持ちで、サンフランシスコ名物の坂を、足取り軽く上ったり下ったりしながら、サレジオ会が運営する「使徒聖ペテロ・聖パウロ教会」を目指した。英語の発音では、「聖ピーター&ポール教会」ということになる。余談になるが、このように英語に置き換えてみると、伝説のフォークグループ「ピーター、ポール&マリー」は、まさにキリストに関わる聖人、聖女の名前なのだと妙に納得する。
実はこの聖ピーター&ポール教会は、1954年にマリリン・モンローとジョー・ディマジオが結婚式を挙げた教会だ。ニューヨーク・ヤンキースの走攻守揃ったスター選手としても今も語り継がれるディマジオは、サンフランシスコ郊外のマーティネズという町で生まれている。イタリア系アメリカ人でカトリック教徒のディマジオにとって、この聖ピーター&ポール教会はとても大切な存在だった。1999年に亡くなった時にも、彼の葬儀はこの教会で行われている。
サンフランシスコからニューヨークへ
伝統ある聖ペテロ・聖パウロ教会(聖ピーター&ポール教会)で、ベルテロはサレジオ会のコスタンツォ神父に数日間、お世話になった。アメリカにおける宣教事情などを教えてもらった後、いよいよ最終目的地に向けて出発する。それは東海岸のニューヨークだ。列車で4日かけてサンフランシスコからニューヨークまで向かうアメリカ横断の旅。ネバダ、ユタ、コロラド、カンザスと言った中西部の雄大な景色にベルテロは圧倒された。そのスケール感は日本に来る際に立ち寄ったアフリカ、アジアの国々や日本の風景とも違い、「豊かさ」を感じた。途中のシカゴでも都会の喧噪に驚いたが、ニューヨークの摩天楼はその数倍の迫力でベルテロを迎えてくれた。ニューヨークはイタリア系移民の多い町だ。19世紀から20世紀にかけてヨーロッパから渡米した移民たちの中でも、イタリア系はアイルランド系、ユダヤ系、東欧系と並んで生活苦にあえいだ人が多い。いわゆるWASPと呼ばれるイギリス系の人たちは、主に大規模農場主を夢見て内地に向かった。しかしアメリカまでの船賃を捻出するのがやっとと言う状態で夢の国にたどり着いた多くのマイノリティの移民たちは、着の身着のままで、ニューヨークの片隅の貧しい地域に留まる人が多かった。
マンハッタンからスタテン島へ向かう名物のフェリー ベルテロもおそらく船で島に向かったであろう
ニューヨークは、「マンハッタン」「ブルックリン、」「クィーンズ」と「スタテンアイランド(島)」の4つで構成されている。その中で、スタテン島は、人口約45万人とニューヨークでもっとも小さい区だ。そして現在も、人口の半数近くがイタリア系住民で占められている「イタリア人の町」だ。それはカトリックの町であることも意味する。聖パウロ修道会は、このスタテン島に、東京・王子と同様、土地を手に入れて、修道院を建設し、そして印刷工場の経営を始めていた。すでに神学生も多くいた。ベルテロが訪れたのは、彼らが都会のニューヨークで清貧とも言える生活を送りながらようやく生活や宣教のための基盤を整えた頃であった。それにしても、やはり身内がいるのは心強い。ニューヨークで、ベルテロはニューヨークの聖パウロ修道院ヴォッラノ神父の協力を受けて、英語の勉強に取り組み始める。日本語との格闘を始めて6年で、母国語のように操れるようになった。今度は新たな言葉、英語との戦いだ。宣教とはまず現地の言葉と向き合うことから始まる。

このようにベルテロはニューヨークに無事落ち着いたのだが、先述したように、それは太平洋戦争開戦の1年半前のことだった。聖職者であるとは言え、イタリアのパスポートを持つベルテロの立場は決して良いものとは言えなかったようだ。それは、ただイタリア人であるということでは無く、「憎き日本の味方であるイタリア人」というという意味合いが強かった。アメリカにおける日本人バッシングは1924年の排日移民法成立以降、さらに激しくなっていた。憎き日本の友、イタリアのパスポートを持っていることで、ベルテロは寄付集めにも苦労することになる。そこでベルテロはアメリカ国籍を取得することを決心した。結果として、ベルテロがアメリカ国籍の取得することができたのは、5年後、つまり第二次大戦終戦終結の直前であった。

ベルテロ、アメリカでの奮闘生活が始まる

そのような苦しい状況の中でも、ベルテロは日本で鍛えた持ち前の粘り強さで、アメリカ社会に馴染み、寄付を募る活動に奮闘する。ベルテロが頼りにしたのは、やはりイタリア系社会のグループだった。東洋の異教者の国、日本とは違い、アメリカでは人のネットワークも順調に広がってゆく。日曜日になると、ニューヨーク北部・ブロンクスの教会に足を運び司牧活動(教会で司祭が信徒を指導すること)を手伝った。ブロンクスも労働者の多い町で、ピアチェンツァ神父に声をかけてもらい通った三河島に似ていると感じた。この司牧活動は報酬にもなった。そしてこのニューヨークでベルテロは3ヶ月間、貴重な経験をしている。ベルテロは、カトリック系のラジオ番組に出演する機会を得た。それはW・O・Vという放送局のイタリア語放送で、ニューヨークで収録をしデトロイトに送られて放送されていた。北米や南米では、戦前からこうしたラジオを通じた宣教というものが行われていた。のちに文化放送設立に向けて動き始めた際に、ベルテロは自身の経験談をマルチェリーノたちに熱く語ったのではないかと想像する。
しかし、そのような新生活に再び影が差す。1941年11月、アメリカは日本に対して、中国やインドシナからの撤退、日独伊三国同盟の破棄などを要求する提案「ハル・ノート」を突きつける。これを最後通牒と受け取った日本は、12月1日、御前会議で米英との開戦を決めた。日本は、太平洋での戦いを優位に進めるため、アメリカ太平洋艦隊の中心基地となっていた真珠湾への奇襲を計画。6隻の航空母艦を中心とした、日本海軍の機動部隊が総攻撃を行った。私(鈴木)が取材した故原田要さんと言う男性は、この真珠湾攻撃のパイロットだった。17歳で海軍に入隊。1936年にパイロットとなり、真珠湾攻撃に哨戒部隊として参加した。突撃の覚悟を固めていた原田さんだったが、ベテランパイロットで下士官でもあったため、空母を守れという指示が下った。不本意ながら攻撃部隊ではなく守り固めに回ることとなったのだ。真珠湾攻撃は大成功に終わる。しかし攻撃部隊からの報告を聞いた原田さんには、この攻撃が成功とは思えなかった。その理由を原田さんは「もっとも攻撃して欲しかった空母がいなかったとの報告を受けたから」と生前語ってくれた。戦艦アリゾナなどが撃沈され米軍側に約2400名の死者を出す惨劇となり、米国内での日本への憎悪が高まったことは誰もが知る史実だが、空母の被害が出なかったことにより、実は米海軍戦力が大きく低下することはなかった。太平洋は、空母による力の差が勝敗を分けた。ベルテロが乗船した龍田丸を、日本海軍が空母に改造したがっていた理由も良く理解できる。
太平洋戦争が始まり、イタリアもまたアメリカに宣戦布告をした。同じ枢軸国側でも、多くが強制収容所に入れられた日系人と違い、ドイツ系やイタリア系が直接迫害を受けることは少なかった。とは言え全く無かったわけではなく、戦時中、敵対分子であるとの嫌疑をかけられたイタリア系アメリカ人3200人が逮捕され、320人が強制収容所に送られている。アメリカ国内では、イタリア民族主義も高まりを見せ、北米ファシスト協会も結成さた。一方、「イタリアンマフィア」はイタリア本国でファシスト政権の弾圧を受けていたので、ルーズベルト政権、そして連合国側に協力姿勢を見せるなど、複雑な人間関係が生まれていた。それは濃いイタリア人社会が形成されていたスタテン島の中も例外ではなかったであろう。ベルテロの宣教の旅は、その向かう先々で後ろを追いかけるように戦争の足音が忍び寄るのだ。それは、日本に留まったマルチェリーノたちにとっても例外ではなかった。

 

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