「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第10章 大森での新生活がスタートした

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章「 大森での新生活がスタートした」

東京・荒川区にあるサレジオ会の三河島教会で、日本での生活をスタートさせたマルチェリーノとベルテロであったが、シャンボン大司教の命によって、教会を出て自立生活をのスタートを余儀なくされた。不安の中で探し当てた新居は、大森区内の小奇麗な庭付き一軒家だった。現在の大森は、大森区は1935年1月。まだ東京市に編入され誕生したばかりだったが、町としては明治以降早くから開けた場所であった。国鉄の駅が周囲に先駆けて誕生し、東京初の海水浴場もあり、旅館も立ち並び、花街でも賑わった。関東大震災後には、馬込に尾崎士郎や萩原朔太郎、芥川龍之介ら作家が集い、そこは「馬込文士村」と呼ばれた。一方、マルチェリーノたちが越した当時は、1931年に開業した羽田空港から戦闘機を飛ばすための、軍需工場も増え始めていた。

ピアチェンツァ神父らサレジオ会のメンバーとの、ひと月に渡る三河島生活は楽しいことばかりだった。新天地での生活を助けてくれた彼らは、2人にとって親兄弟も同然の存在になっていたため、別れの辛さもひとしおだ。新生活がいよいよ始まるのだが、残る所持金は数百リラしかない。持ち物も多くはない。イタリアから運んできたカバンやトランク、そして忘れてはならない聖務日課(聖職者用の祈りの本)だった。ベルテロは、トランクの中にエジプトで買った白いカソックが入っていることを確認し、ふたをそっと閉じた。炎天下の船からエジプトやパレスチナを眺めたのはわずか2か月前だが、まるで大昔のことのように感じられた。出発の準備を終えると、2人は三河島教会の小聖堂で最後の祈りを捧げた。ピアチェンツァ神父に挨拶に行くと、すぐにタクシーを呼んでくれた。

読者の中には、お金が無いのに荒川区から現在の大田区までタクシーに乗るとは贅沢ではないかと思われる方もいるのではないだろうか。ちなみに当時のタクシーは「円タク」と呼んでいた。どこまで行っても、料金が一律1円のタクシー、略して円タク。今でも、都内を走る都営バスはどこまで乗っても同じ料金だが、バスの場合は、多くの客が乗り降りするが、タクシーの場合はそうはいかないので、今から思えばずいぶんざっくりしたシステムにも思える。ただし、このわかりやすいシステムは客には好評で、大阪で始まった「円タク」システムは、1926年に東京でも採用されていた。当時の1円の貨幣価値は、今に換算すると2千円から3千円。ちなみに1935年時点の記録では、清酒1.8ℓが1円89銭。コーヒーは1杯15銭で、うな重が1杯60銭。一方、大相撲の観戦はやや高く3円50銭もした。相撲観戦を一度我慢すれば、うな重が6杯食することができる計算になるが、テレビの無い時代に、力士の取組を生で観戦できるということは相当の贅沢だったのだろう。要はモノによって、今と比べて高いものも安いものもあるので単純比較はできないという話。公務員の初任給が70円だったので、1円=現在の2500円で計算してみると、17万5千円。なるほど、ちょうどいい塩梅だ。それでもやはり、お金も無いのに2千5百円も払うのかと考えてしまうが、実際は値切り放題だった。頑張れば70銭になり、50銭になり、30銭にもなる。おそらく、どこまで乗るかによって匙加減を決める自由価格だったのだろう。乗客の中には、非常に遠い所まで乗ろうとする人もいたかも知れないが、今と違って乗車拒否もあったというから「こんな時間からそんな遠いところにゃ、行けねえよ。ごめんなすって」ということだったのかもしれない。1937年には距離制メーター制が採用されているので、東京における円タクの歴史は11年間だった。

マルチェリーノは覚えたばかりの日本語で、タクシー運転手にこう告げた。「オオモリクノ、オオモリサンヤマデ、オネガイシマス」 タクシーは、南に向かう。皇居を右手に見ながら、大門で増上寺を眺めた。「ここは、たしか東京駅から三河島に向かう際に通った道だ」そんなことを考える余裕も生まれていた。円タクに揺られること、約1時間。大森区大森山谷の新居に到着した。車を降りると少し潮の香りがして、海が近いことに気づいた。

大森での新生活もすぐに財布が底をつく

1935年1月、大森で新生活は始まった。予想通り、数百リラの持参金は3週間で早くも底をついた。しかし、印刷、出発など聖パウロ会にとっての使徒職活動は一切許されていない。つまり仕事は無い。もちろん近所には日本人の知り合いもいない。家賃は月に30円。日本語の家庭教師に払う月謝が30円。あわせて月末に60リラの固定出費が待っている。霞を食べて生きてゆくことはできないので、パンやパスタを近所の食料品店で買うのだが、こちらもの支払いが約30円。これら食材は「つけ」で買っていたので、月末にまとめて支払い時期が来る。合計で90円(210リラ)。手元にはほとんどお金が無いが、これ以上、サレジオ会に迷惑はかけたくない。お金の心配で、胃潰瘍が再発し、マルチェリーノの体調も思わしくは無かった。マルチェリーノは、ベルテロに頼んだ。「ロレンツォ神父、申し訳ないが、今度イタリア大使館にお金の相談に行ってきてくれないか」ベルテロは緊張した。来日以来、一人で外出もしたことが無かったからだ。マルチェリーノの行動力に頼って、後ろを付いてきただけ。しかし、マルチェリーノの容態を見ると、自分が頑張るしかないとわかる。そう言えば、途中立ち寄ったエジプトのポートサイドという町で、小舟に乗り市街に出て、4人の白いカソックを1人分の値段で買って帰ってきたのは自分だ。あの時の武勇伝を思い出すと、少し勇気がわいた。「わかりました、パウロ神父。近いうちにイタリア大使館に交渉に行きます」

と答えたものの、ベルテロは、自分たちの窮状を訴えるために最も効果的な方法は何かと頭を悩ませた。そもそもがバチカンの推薦をもらわずに来てしまったという負い目もある。一方、いかなる理由があれ、大使館は自国民を守ってくれるはずなので、何か仕事を紹介してくれるのではないかという淡い期待も抱いた。とにかく何か行動を起こさねばならない。訴えるべきことを、メモに箇条書きにして並べ、にらめっこをした。「もし門前払いとなったら、どうやって生活すれば良いのだろう。」不安を打ち消すように、カソックを夢中で洗濯して、翌日のイタリア大使館出撃に備えた。「今夜は早く床につこう」とつぶやいた。

夕方になって、突然、玄関の扉がカラカラと横に開く音がしたと思うと。明瞭なイタリア語が家中に響いた。「ブオナセーラ・チェ・クァルクーノ?(こんばんは、どなたかいらっしゃいますか?)」聴いたことの無い声だ。「まさか、強制送還なのか」2人は一瞬、息を飲んだが、玄関に立っていたのは、仕立ての良い軍服を着た男だった。「コンバンワ。私はイタリア大使館付き武官のスカリーゼと申します」聞けば、スカリーゼ大佐は、イタリア人仲間から2人の窮状を聞いて駆けつけてくれたのだった。その後、スカリーゼ大佐とアウリッチ駐日イタリア大使の2人は、マルチェリーノたちへの資金援助を申し出てくれた。その言葉に甘えて、最初に買ったのは自転車だ。1台5円する自転車を2台。この自転車はこれから何年も渡って、八面六臂の活躍をすることになる。2人は息抜きも兼ね、真新しい自転車にまたがり近所を走った。東京市に編入されてからは、大森にもどんどん新しい建物が建ち始めていた。発展しつつある町の空気を感じながら、2人はひたすら自転車を漕いだ。

一方、自宅では、ひたすら日本語との格闘の日々が続き、学習時間は、1日7~8時間に及んだ。とにかく日本語を片言でも話せるようにならないと説教もできない。全ての宣教活動は、まずこの不思議な異国の言葉を覚えることから始まるのだ。日本語は、単語の並びも、発音も、イタリア語からもっとも遠く感じた。しかし不思議なもので、買い物に出かけると、言葉は通じないのに、お互いの言う事が案外通じる事も多かった。イタリア人も日本人も笑顔が似合う民族だ。日本人の場合は、少しはにかんだ表情を作るが、それもまた。シャイな南イタリア人の素朴さに似ている気もした。

日々の生活に慣れてくると、俄然自転車が活躍し始める。マルチェリーノはベルテロに、月に一度は、東京にある、ありとあらゆる外国の大使館を自転車で回るよう頼んだ。西欧社会においては、神父の活動への援助はとても大事なものだ。ましてや、聖職者が生活に苦しんでいると聞いては、黙ってはいられない。自転車に乗って現れた若い神父に対して、各国の大使館は大なり小なりの支援をすることを約束してくれた。その中には、全国的な飢饉のあとに、スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れていたソ連も含まれていた。キリスト教徒としての思いは、ロシア正教会であれ、カトリックであれ、垣根を超える。ちなみに日本におけるロシア正教会と言えば、東京・神田にあるニコライ堂が有名だ。1891年に竣工したニコライ堂は、日本に正教を伝道したニコライ大主教に由来するが、ニコライは日露戦争の最中も日本を離れず、日本人信者に日本の勝利を祈るよう語ったという。こう言った宗教と政治の関係は非常に難しいものだが、それが戦争になると尚更複雑になる。マルチェリーノたちも、第二次世界大戦においては、否応なく宗教と政治の渦に巻き込まれてゆくことになる。

「支援」の話に戻そう。こう言った売り込みの甲斐があって、ベルテロは各大使館から、「毎月の寄付」の約束を取り付けた。月末になるとベルテロは自転車にまたがって、港区三田の旧松方正義邸跡に建てられたばかりのイタリア大使館をはじめ、赤坂のアメリカ大使館、半蔵門のイギリス大使館、現在の国会図書館の場所にあったドイツ大使館などを「集金」のため回る。これによって、家賃代、家庭教師代、そして食事代が確保できた。もう飢え死にする心配は無い。三田のイタリア大使館まで、約10キロのまずまず至便な場所にあったことも幸いし、イタリア大使館との連絡が密になった。そのことで、イタリア大使館からマルチェリーノに対し「大使館員の子供たちにラテン語を教える家庭教師をしないか」という、願ってもない仕事が持ち掛けられた。陽気で社交的なマルチェリーノにはうってつけの仕事だった。日本語の家庭教師代をねん出するために、マルチェリーノはイタリア語の家庭教師をすることになったというわけだ。そしてベルテロにも、三河島教会のピアチェンツァ神父から救いの手が差しのべられた。それは、三河島教会でミサを捧げる仕事で、毎日2円の報酬がもらえると言う。ベルテロは喜んで引き受けた。お金になるだけでなく、大好きな三河島教会の人たちと毎日顔を合わせることができるからだ。結果的に、ベルテロにとっては、実にきつい毎日が始まってしまった。大森から三河島までは、距離にして20キロ以上ある。ベルテロは、まだ外が暗いうちに起床し、路面電車やバスよりも早いスピードで自転車を漕ぎ続け、汗だくで三河島に向かう。そしてミサを終えると、自転車にまたがり再び20キロ以上の距離を漕いで、大森の自宅にトンボ帰りするのだ。理由は、朝の8時から日本語の授業が始まるからである。日本語の授業は8時から始まり9時半まで続く。このような過酷な生活を1年半続けた努力の甲斐あって、徐々にマルチェリーノたちの日本語は通じるようになってきた。さすがに説教内容はローマ字で準備したが、「神」「教え」などのポピュラーな漢字も使えるようになってきた。誤った日本語の使い方にも気づくようになり、徐々に応用が利くようになってきた。2人はまるで子供のような吸収力で日本語を覚えていったのだ。

恩人のピアチェンツァが天国へ

この大森での生活は、約2年間続く事になる。充実はしていたが、神の教えを深めながら、生活と学業を両立させる生活は過酷でもあった。さらに、マルチェリーノたちが来日してから約半年後、考えもしなかった不幸な事態が起きる。それは日本での生活を助けてくれた最大の恩人、三河島カトリック教会のピアチェンツァ神父が突然帰天したのだ。帰天とはカトリックの言葉で、信者が亡くなり天に帰ることを言う。腹膜炎だったと聞かされた。その前年に少し体調を崩してはいたものの、深刻な病状では無かったはずのピアチェンツァ神父との突然の別れは、マルチェリーノたちにとって衝撃的な出来事だった。ピアチェンツァ神父は、マルチェリーノが日本に来るきっかけを作ったチマッティ神父の、まさに右腕と言うべき存在だった。チマッティ神父とともに日本の土を踏み、東京における活動の基礎を作ったのもピアチェンツァ神父だった。チマッティ神父は大いに落胆した。ピアチェンツァ神父の葬儀の際の写真がサレジオ神学院に残されている。

 写真はサレジオ神学院提供 十字架の左隣に、長いあごひげのチマッティ神父の姿が確認できる

前回登場したサレジオ神学院のコンプリ神父が、葬儀に出席したであろうマルチェリーノやベルテロの姿が映っていないかどうか何枚も残されている写真を念入りに調べてくれたが、見つけることはできなかった。そう言えば、ベルテロの文章には、ピアチェンツァ神父への感謝が何度も綴られているのだが、なぜか亡くなった時の記述が無い。2人にとって恩人の帰天は、とても受け止められるものではなかったのかと私は勝手に想像する。そして、そのうちマルチェリーノ自身も、胃潰瘍が悪化した。数か月の間、外には出られずに、自宅でミサを捧げる生活となってしまう。ベルテロも、マルチェリーノを見守るため、三河島に行くのを止めて、約1キロ離れた近くのカトリック大森教会に通う事にした。

 ベルテロが通ったカトリック大森教会(サレジオ神学院提供) この美しい建物は、後に1945年5月の山手大空襲でB29爆撃機の焼夷弾攻撃を受け焼け落ちた。

 

次回に続く

 

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