「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第12章 紙の町で、神の教えを広めることに

「第5スタジオは礼拝堂~文化放送 開局物語」第12章 紙の町で、神の教えを広めることに

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

    マルチェリーノとベルテロは、すぐに王子における活動拠点を探し始めた。大森の家は、生活をし日本語を学ぶための場所だったので、小さい家で十分だった。しかし、これからは信者を集めて集会を行い、ミサも行わねばならない。つまり教会としての活動のためには大きな建物が必要だった。2人は王子区一帯の地域を歩いて回った。前回書いたように、王子は日光街道沿いに江戸時代から発達した町で、様々な人たちが暮らしている。都心に出勤する背広族もいれば、逆に王子地区の大きな製紙工場に出勤してくる労働者たちもいる。省線電車(後の国鉄)の王子駅は毎朝・毎夕、通勤客や通学客で混雑していた。町の中心には大きな製紙工場があり、東京全体で数百万部の新聞用の紙を供給していた。ちなみに戦前の新聞業界は、朝日新聞と毎日新聞が勢力を分けあっていた。朝日は「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」、毎日も「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」と、東京と大阪でそれぞれ題字なども違っていたが、ともに全国展開に成功していた(今、最大発行部数を誇る読売新聞は、戦前はまだ東京ローカル紙として、部数を伸ばしている最中だった)。日本人はただ読書好きであるだけでなく「新聞好き」でもある。この「紙の街」王子に暮らすことが決まってから、2人はそのことをより強く実感するようになった。来日から1年半近くが過ぎ、「神」という字だけでなく、「紙」という字も書けるようになっていた。日本の老若男女が活字文化の中にいて、そのための紙を供給しているのが、王子だ。出版を使途職とする聖パウロ修道会にとって、この上ない絶好の場所だった。

マルチェリーノたちは、王子地区の高台の場所に新居を定めた。王子駅まで歩いて行ける距離だが、最寄りの駅は下十条駅だ(駅は戦後、東十条駅と名前を変える)。この新居は、聖パウロ修道会の日本における発祥の地となった。マルチェリーノが、後日談として語っているエピソードがある。王子の借家(後に下十条教会になる)に下見に行くと、大家である母親と娘が待っていた。家を借りる話もとんとん拍子に進み、母親にマルチェリーノは大変気に入られた。どうやら、母親は自分の娘をマルチェリーノに嫁がせようと考えていたらしい。マルチェリーノは苦笑いで固辞した。「ごめんなさい、私はカトリックの神父なので、結婚はしないのです」

こうして、後に文化放送ゆかりの地となる四谷に移るまでの約9年間、王子が聖パウロ会の本拠地となった。その記念すべき日は、1936年6月19日、金曜日。「イエスのみ心の祝日」の日だ。「み心の祝日」とは、「キリストの聖体の祝日」に続く金曜日に祝う祭日で、17世紀にフランスで聖マルガリタ・マリア・アラコックが、神から啓示を受けたことから始まったとされる。19世紀半ばに、教皇ピオ9世が祝祭日として制定した。

木造の建物には「天主公教会」の看板が掲げられた。当時はまだカトリック教会のことを、天主公教会と呼んでいたのだ。教会開設の式典には、シャンボン大司教をはじめ、大森教会のコルニエ神父やアウリッチ駐日イタリア大使の姿もあった。マルチェリーノは、来日して以来、お世話になった人たちが、この晴れがましい日に来てくれたことを喜び、それぞれに対して丁重に感謝を伝えて回った。しかし、そこには最も喜びを分かち合いたいピアチェンツァ神父の姿は無かった。ピアンチェンツァ神父が腹膜炎で突如この世を去ってからちょうど1年が経っていた。不安でいっぱいの2人を東京駅まで迎えに来てくれたのも、慣れない国でしばらく面倒をみてくれたのも、日本の習慣についても色々と教えてくれたのも、ピアチェンツァ神父だ。そしてシャンボン大司教に帰国を命じられた時にも助けてくれたことで、いま自分たちはここにいる。あの慈愛に満ちた人が、40代半ばの若さで帰天されるとは考えてもしなかった。惜別と感謝の思いを込めて、マルチェリーノはつぶやいた。「あなたのおかげで、今日ここに王子教会を開くことができました。」

王子の教会兼自宅は、テラスもある大きな建物だった。2階の部屋のひとつをマルチェリーノとベルテロの書斎にした。2階の残りの部屋は、修道会の会員のための部屋にして、1階に小聖堂を設置した。祭壇と、信者たちのいる大広間は開閉式の扉で仕切られ、ミサの時にはこの扉を開く。大広間の西側にある小さな日本庭園は、すぐに信者が連れてくる子供たちの運動場に姿を変えた。そして陽気なマルチェリーノは、あっという間に子どもたちの人気者になった。子どもと一緒に無邪気に走り回る姿は地元の話題となり、興味もあって教会を訪れる人の数は日を追うごとに増えていった。次にマルチェリーノは、幼稚園経営を思い立った。開園許可を取る前に、幼稚園施設の建設を始めるなど文化放送設立時に感じさせた猪突猛進の片鱗を、この時すでに見せている。近所の幼稚園を回り、先生のリクルートも始め、あっという間に女性の教諭を集めることにも成功したのだ。出版と児童教育を柱に、聖パウロ修道会の使徒職活動は順調にスタートした。

王子は「紙の町」であるとともに、同じ王子区の赤羽から移転した陸軍の第一造兵廠十条工場、第二兵廠王子工場なども立ち並んでいた。製鉄所なども多く、別名は「軍都・王子」だった。しかし、このことで、太平洋戦争中の東京大空襲(1945年5月の山手大空襲)では、アメリカ軍による集中的な攻撃対象になってしまう。

様々な顔を持つ王子は「紙の町」「軍の町」になる前は「神社」の町でもあった。

江戸時代の王子稲荷 東京都中央図書館所蔵(昇斎一景の筆 蔦屋吉蔵出版)

落語で知られる「王子稲荷」。王子の名前の起源となった神仏習合の若一王子の神託を祈る「王子神社(王子と言う地名の由来となった)」。そして「七社神社」は、前回触れたあの渋沢栄一が氏子だ。渋沢は、王子の飛鳥山に別荘を構えていた。神社だけではなく、大きなお寺も数多くあったが、教会だけが無かった。その真空地帯に乗り込んだのが、マルチェリーノとベルテロだったというわけだ。当時の王子地区の人口は約30万人、そのうちカトリック人口は約120人程度。彼らは日曜日になると、ミサのために遠い町まで省電や路面電車(王子電車、現在の都電荒川線)に乗って通っていた。そのような状況だったので、念願の司祭が地元にやってきたと聞いて喜んだのは言うまでも無い。人々はマルチェリーノたちが創った教会を、親しみを込めて「下十条教会」と呼んだ。ミサに通う人たちの数も順調に増え、6年後には信徒(会員)の数が数倍になった。陽気なイタリア人神父がいると聞いて、遠くから王子まで足を運んでくれる人も増えた。いつでもどこでも誰とでも話ができるのがマルチェリーノの特技だ。日曜日のミサが終わると、祭壇の開閉式の扉が閉じられる。すると信徒席側のスペースは、瞬く間にパーティー会場に変身する。信者たちは、お茶を飲んだり、ケーキを食べたり、持参した弁当を食べたりしながら、マルチェリーノやベルテロと、神の話で花を咲かせた。とても楽しい日曜日の過ごし方だ。マルチェリーノたちにとっても充実した日々だった。

しかし、そのような平和な教会の中とは裏腹に、日本国内の空気は変わつつあった。近代史に残る事件が発生したのだ。その政変は、マルチェリーノたちがシャンボン大司教の「試験」に合格し、教会設立の準備をしていたころに起きた。青年将校らが起こしたクーデター未遂事件、「二・二六事件」だ。

1936年2月26日、陸軍の青年将校たちが、約1,500名の兵を率いて大規模なクーデターを起こす。この事件で、だるま宰相と呼ばれた高橋是清や斎藤実(まこと)の総理大臣経験者2人を含む4人が暗殺され、警察官5人も殺された。大日本帝国が、国際競争力をつける中、貧富の差はますます拡大し、都会は失業者で溢れ、農村では生活苦から娘の身売りも横行した。しかし、政府は適切な対策を取れず、政財官界では汚職事件が多発する。財閥は憎悪の対象となり、政治家には不信感が募る中、人々は軍部に「国を変えること」を期待するようになっていった。一方、軍の内部でも、「統制派」と「皇道派」が激しく対立し、内ゲバが起きた。殺人事件にまで発展し、結果的に皇道派が勝利すると、その将校たちが、天皇を中心とした新たな国家を築こうと政治テロを起こしたのが「二・二六事件」だ。

しかし、この試みは失敗する。腹心とも言うべき斉藤実(元総理、当時内大臣)らを殺された昭和天皇は激怒し、鎮圧を指示した。そして将校たちは逆族となる。事件から3日後の朝に、NHKが放送した「兵に告ぐ」という勧告アナウンスは今も良く知られている。

「兵に告ぐ。敕命が發せられたのである。既に天皇陛下の御命令が發せられたのである。お前達は上官の命令を正しいものと信じて絶對服從をして、誠心誠意活動して來たのであろうが、此上お前達が飽くまでも抵抗したならば、それは敕命に反抗することとなり逆賊とならなければならぬ。正しいことをしてゐると信じてゐたのに、それが間違って居ったと知ったならば、徒らに今迄の行がゝりや、義理上からいつまでも反抗的態度をとって天皇陛下にそむき奉り、逆賊としての汚名を永久に受ける樣なことがあってはならぬ。今からでも決して遲くはないから直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復歸する樣にせよ。そうしたら今迄の罪も許されるのである。お前達の父兄は勿論のこと、国民全体もそれを祈ってゐるのである。速かに現在の位置を棄てゝ歸って來い。香椎中將」

香椎中將は戒厳司令官だ。東京市は戒厳令下に置かれた。結果的には、「今までの罪」は一切許されなかった。事件を主謀した青年将校ら19名は、逮捕され死刑となる。それからは、今まで以上に軍部の独走が目立ちはじめ、リベラル系の学者らが一斉に検挙されるなど、日本全体を不穏な空気が包み込んでいった。海の向こうドイツではヒトラーが絶対的な権力を掌握。この年(1936年)の11月に日本はドイツと日独防共協定を締結する。あくる1937年は、7月に日中戦争が勃発する。11月には、マルチェリーノたちの母国、イタリアも防共協定に加盟し、日独伊防共協定が結ばれた。日独伊の三国同盟がその姿を明確に現した瞬間だ。それは第二次世界大戦の足音が聞こえ始めたことを意味している。

そのような暗い世相の中にあっても、聖パウロ修道会の日本支部は順調に活動を続けた。出版工場が多く立ち並ぶ王子の町の風景は、マルチェリーノに刺激をもたらした。日本は教育も浸透していて、読書家も多い。有楽町や銀座を歩き新聞社や書店を眺めながら、マルチェリーノたちも印刷工場の設立を決意。まず2人は最初のイタリア語のリーフレット「日本における聖パウロ会」を作り、母国イタリアの本部をはじめ各方面に送った。リーフレットの中でも、マルチェリーノは日本で出版という使徒職に携わることの意味を強調している。「なぜなら、世界のどの国にも、日本人ほどよく読む国民はないからです。」その後も、児童書の翻訳本の出版など精力的な活動をつづけた。

王子(下十条)生活の最初の半年はあっと言う間に過ぎた。あくる1937年1月には、3人目の仲間グイド・パガニーニ神父がインド経由で来日する。パガニーニは当初、インドに赴任したが、日本支部が大変忙しいという事情を受けて、日本の土地を踏んだ。快活で陽気なマルチェリーノと対照的に、物静かで穏やかな紳士だった。音からでは無く、漢字から日本語を学ぶという離れ業も見せた。思えば、プロローグにも書いた通り、このパガニーニ神父は、私(鈴木)が入社した当時は、まだ文化放送の監査役を務めていた。戦前、戦中から戦後。昭和から平成へと長く日本の歴史も修道会の歴史も文化放送の歴史も見てきた人物だ。その後、1938年になると、念願の印刷所を王子教会の敷地内に完成する。本格的に使徒職である出版に注力するために、印刷技術のプロであるトラポリーニ修道士が1月に来日し、続いて9月にポアノ神父が来日した。翌年にはキエザ神父も来日し、仲間は6人となった。出版の拠点は「誠光社」と名付けられた。聖パウロ修道会の日本支部は、「教会法」上も正規の修道院として認められ、出版を使った使徒職としての活動を本格的にスタートすることになる。

次回に続く

 

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// 2022.04.28追加