ハンセン病の語り部・森元美代治氏が残した功績、変えた歴史

ハンセン病の語り部・森元美代治氏が残した功績、変えた歴史

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ニュースキャスターの長野智子がパーソナリティを務める「長野智子アップデート」(文化放送・月曜日15時~17時、火~金曜日15時~17時35分)、8月20日の放送にノンフィクション作家の常井健一が出演した。今月16日に亡くなった、ハンセン病の当事者として歴史を伝え続けた森元美代治氏について、30年近い交流の経験をもとに語った。

鈴木敏夫(文化放送解説委員)「ハンセン病の当事者として長年にわたって差別や隔離の歴史を語り続けた森元美代治さんが今月16日、88歳でお亡くなりになりました。1938年鹿児島県喜界島生まれ、中学3年生のときにハンセン病と診断されています」

長野智子「常井さんは30年近く交流を突続けてきた、ということで。森元美代治さんとどのようなご関係だったのでしょうか?」

常井健一「出会ったのは1998年で、向こうは還暦を迎えたばかり、私は大学1年生でした。たまたま授業で講演を聴いて、それから東村山市にある多摩全生園に通うようになったんです。といっても研究や取材やボランティアをしに行ったわけではありません。ただおしゃべりをしに通っていたんですね。夫婦で私の実家に泊まりにきてくれることもありました」

長野「そうでしたか」

常井「私の結婚式では主賓としてスピーチをしていただきました。そのとき森元さんは、こう話していたんですね。『ハンセン病の人間は自分の家族からも冠婚葬祭に呼ばれない。だから本当にうれしい』と祝福してくれて。私にとっては親戚のおじさんのような存在でした。その88年を振り返ってみると、日本のハンセン病を代表する語り部であって、カミングアウトの先駆者だったんですね」

長野「皆さん、カミングアウトができなかったという時代に森元さんが口を開かれた」

常井「30年前です。1996年、森元さんはジャーナリストが聴き取るかたちで闘病記を出版して実名を公表しました。しかも妻の美恵子さんと夫婦そろって顔も出したと。これは当時としてはきわめて異例のことでした。ハンセン病には長い長い差別の歴史がありまして。間違った『移りやすい』『遺伝しやすい』という認識から、国は患者を強制的に隔離して。戦後に特効薬が広まったんですが、政治の不作為によって1996年まで『らい予防法』が残っていました」

長野「うん」

常井「自分がハンセン病だと知られたら、故郷の家族や親戚まで差別を受けるかもしれない、と恐れるんです。だから本名を捨てて別名で暮らしていたんですね。森元さんは14歳でハンセン病と診断されて。生まれ育った島から追い出されて奄美大島にある国立療養所に隔離されました。7人きょうだいのうち、病気にかかったのは1人だけだったんですね。森元さんの存在は地域からも家族からもいなかったことにされました」

長野「はい」

常井「森元さんのカミングアウトは親族の間で、かなりの物議をかもしたんですね。一方で森元さんの本を読んだ黒柳徹子さんから連絡が入って。テレビ朝日の『徹子の部屋』に夫婦で出演することになりました。これも96年のことです。それから森元さんには講演依頼が相次いで、夫婦そろって国内外を旅するようになりました。すると続いてカミングアウトする当時者も出てきた。たとえば長野さんが取材された平沢保治さん」

長野「はい」

常井「その闘病記も翌97年に出版されています。98年には有名な国賠訴訟が熊本で始まって。全国的な裁判闘争に発展しました。そこでは森元さんも東京原告団の事務局長として最前線に立って。2001年5月には熊本地裁の全面勝訴、ということで、いわゆる人間回復への道筋がつけられました。1人で勝ち取ったわけではないんですが、森元さんだからこそ担えた役割があったんですね。カメラの前に立てる。新聞記者に対して、自分の言葉で説明できる。テレビでも堂々と顔が出せる、ということです」

放送ではこのあとも、森元氏の功績について常井が語った。詳しくはradikoのタイムフリー機能で確認してほしい。

「長野智子アップデート」は毎週月曜午後3時~5時、火曜~金曜午後3時~5時35分、文化放送(FM91.6MHz、AM1134kHz、radiko)で放送中。radikoのタイムフリー機能では、1週間後まで聴取できます。

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