戦後80年のいま振り返る、政治家・河野洋平の「三度の挫折」
ニュースキャスターの長野智子がパーソナリティを務める「長野智子アップデート」(文化放送・月曜日15時~17時、火~金曜日15時~17時35分)、6月25日の放送にノンフィクション作家の常井健一が出演した。「政治家・河野洋平の三度の挫折」というテーマで、元・自民党総裁の河野洋平氏の歩みを振り返った。
鈴木敏夫(文化放送解説委員)「今月8日、戦後のハト派政治を牽引したといえる元・自民党総裁の河野洋平さんがお亡くなりになりました。偲ぶ会が自民党と河野家の合同で、8月5日に開かれます。実行委員長を務めるのが高市早苗総裁、ということです」
長野智子「偲ぶ会、8月5日なんですね」
常井健一「翌日の広島原爆の日から終戦の日にかけては毎年、政治家が『反省』と『教訓』という言葉を繰り返す10日間で。よく『8月ジャーナリズム』とも呼ばれます。今年はその文脈に乗せて、河野洋平とはなんだったのか、ということを振り返る。そうすることは、いまの政治を問い直す、1つのきっかけになると思うんですね」
長野「高市首相が実行委員長、と」
常井「党葬も兼ねているのでそうなるんです。高市早苗と河野洋平、一見すると思想的には対極です。でもおもしろいことがあって。1993年に高市さんが初当選したときの自民党総裁は河野洋平さんだったんです。高市さんは当時、無所属で。直接の関係はなかったはず。でも河野さんと細川護熙さんが争った首班指名選挙では、河野さんに投票したんです」
長野「そうなんですか」
常井「ところがわずか8ヶ月後にポスト細川を決める首班指名制度があって。今度は河野さんではなく、羽田孜さんに入れている。羽田さんと小沢一郎さんがつくった新進党に合流していく。野党の立場から、村山内閣の河野外交と激しく対峙して、その直後に自民党に移る。慰安婦問題をめぐる河野談話を批判する急先鋒になる。当選同期の安倍晋三さんと意気投合していった、と。政治家・高市早苗の歩みというのは反・河野でもあったわけです」
長野「それでも最初に首班指名で河野さんに投票していたんですね。さて今回のコラム(特集)のタイトル『河野洋平の三度の挫折』。どういう意味でしょうか?」
常井「戦後80年の現在、右傾化が進んでいるという評価があるとして。そうなった背景に、ハト派の河野洋平が三度も大きな挫折をした、ということが含まれています。一度目は新自由クラブという新党の挫折。二度目は自民党総裁でありながら総理になれなかった、という挫折。三度目は息子の河野太郎さんが総裁選で三度も負け続けたことです。これらをたどると、かつては永田町の隅っこで暮らしていた傍流のタカ派が、なぜいま国政の中心に躍り出たか。じつによく見えるんですね」
長野「一度目の挫折について、お願いします」
常井「1985年前後ですね。河野洋平さんは2世のプリンス政治家で、初当選直後から、将来の総理候補と目されていました。しかし1976年、39歳の若さで自民党を飛び出して。新自由クラブという新党をつくります。この背景には田中金権政治に対する、世の中の反発があったんですね。自民党内では青蘭会という、反・田中のタカ派集団が立ち上がります」
鈴木「石原慎太郎さんやハマコー(浜田幸一)さんたちがいました」
常井「中川一郎さんたちも。対する河野さんはハト派の立場から『きれいな保守』というスローガンを掲げて新党をつくった、と。これがブームを巻き起こした。ところが新自由クラブは83年の総選挙で頭打ちになって。ギリギリ過半数の中曽根政権と連立を組んだ。古巣の自民党を助けたんですね。河野さん自身は初入閣を果たしますが、10年続いた新自由クラブをあっさり壊して。86年に自民党に戻った。私はここが、戦後政治の分岐点だったと思います」
番組ではなぜそこが分岐点だったのか、また二度目、三度目の挫折についても常井が解説した。詳しくはradikoのタイムフリー機能で確認してほしい。
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