第5スタジオは礼拝堂 第31章「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:ついに帰化を決断し、丸瀬利能に

 マルチェリーノたちは、1948年12月25日に「セントポール放送協会」の申請書を提出した。翌1949年は、5月から6月にかけてフランシスコ・ザビエルの「聖腕」の来日。そして、この年の10月には聖パウロ修道会が福岡に修道院と出版社の開設を果たしている。後は、放送局の設立という目的を果たせるかどうかだ。建物としての「聖パウロ会館」および放送媒体としての「セントポール・ラジオセンター」の建設や準備も順調に進んでいた。そして翌1950年(昭和25年) 6月1日には電波三法(さんぽう)が施行され、電波庁は電波監理委員会となる。電波三法とは、電波利用に関する柱となる3つの重要な法律で、ひとつは「電波法」ひとつは「放送法」そしてもうひとつは「電波監理委員会設置法」だ。

 電波監理委員会は、通信や放送の監督を司る総理府(現在の内閣府)の外局で、日本の主権回復まで設置されGHQ(連合国最高司令官総司令部)が睨みを効かせていた。そのGHQのトップは言うまでも無く、ダグラス・マッカーサーだ。マッカーサーは熱心なプロテスタント。彼はプロテスタント、カトリックに関係なく、とにかく戦後の日本でキリスト教が根付くことを願ってやまなかった。1948年には、ややごり押しとも言えるやり方で、CIE(GHQの民間情報教育局)までもが発行に反対した日本語版の「カトリック・ダイジェスト」の出版も認めさせるなどしている。「日本版カトリック・ダイジェスト」は、小峰書店が版元となって1948年に第一号が刊行され、1953年まで発行が続いた。初代編集長は上智大学教授を務めていたドイツ人のヘルツォーク神父(後に帰化して星井巌)で、2代目編集長は若き日の遠藤周作だった。「沈黙」などの作者である遠藤周作がカトリック信者であったことは有名な話だが、残念ながらこの「カトリック・ダイジェスト」は遠藤が編集長に就任してほどなく廃刊の憂き目にあう。ところで、マッカーサーは、GHQの司令官として日本に君臨していた時代に多くの宣教師を来日させ、1000万冊の日本語版聖書を配るなど「日本のキリスト教化」に血道をあげたのだが、実は大きな成果は得られなかった。逆にそうした事に予算を使いすぎているとして、連邦議会で批判されるなどもしたという。従順に見える日本人だが、お仕着せには強く反発する。そのことが良かれと思っても、そう一筋縄ではいかない。マルチェリーノもまた文化放送開局後に現場の猛烈な反発に頭を悩まされることになる。

 さて話を戻すと、電波三法は成立したものの、思わぬ壁がマルチェリーノの前に立ちはだかった。それは放送法第5条第1項というもので、そこには、次のいずれかに該当する者には、無線局の免許を与えないと書いてあった。 一 日本の国籍を有しない人 二 外国政府又はその代表者 三 外国の法人又は団体 四 法人又は団体であつて、前三号に掲げる者がその代表者であるもの又はこれらの者がその役員の三分の一以上若しくは議決権の三分の一以上を占めるものとある。つまり、文化放送設立のためにもっとも汗をかいてきたマルチェリーノが、外国人であるという理由で理事に加わることすら許されないというのだ。外資規制という言葉を聞いたことのある方は多いと思う。日本法人の持ち株比率などの問題もあって説明がややこしいのだが、要は放送局の番組作りや報道姿勢が外国勢力によって歪められることの無いように、日本の放送事業者における外資比率は2割未満と定められているのだ。そのことは、ルパート・マードック率いるニューズ・コーポレーションが1996年にテレビ朝日株を大量取得した際に大きな話題となった(後に計画は頓挫)。日本では外交資本による株比率が2割を超えてはいけない。株がダメなら当然、人間もダメだ。外国人は日本の放送局のトップに立つことはできないと放送法で定められていて、この法律は現在も続いている。日本で長く暮らしてきた聖パウロ修道会のイタリア人たちも例外ではない。そこでマルチェリーノは、国籍資格をクリアするために、日本に帰化することを決意した。帰化した後の日本名は「丸瀬利能」。読んで字のごとくマルチェリーノからの転用なので、そのまま「まるせ・りの」と呼んでしまいそうだが、正確には「まるせ・としたか」だ。イタリア・トリノの少年時代、6歳で日露戦争の挿絵を眺めた日から43年。そして神戸港に降り立ち、念願の日本の土を踏んでからも17年。ついにパウロ・マルチェリーノは、日本人となった。その時、マルチェリーノは49歳。

 国籍を変えてまでも放送局を作るために設立されたセントポール放送協会だが、「母体がカトリックの修道会」「トップはイタリア人」という異色の背景を持つことで、常に放送法や電波法に神経を使うこととなった。中でも、財界や既存の新聞社をバックにし、放送局設立レースでも先行していたラジオ東京(現TBS)とはかなり趣が違っていた。ルールの解釈をひとつ間違えると、大枚を投じて建設中の聖パウロ会館も社団法人としてのセントポール放送協会も海の水屑と消えてしまう。したがって法律と向き合い、かつ電波監理委員会と向き合う仕事は、主に元外務参事官の木内良胤(前外務参事官)が引き受けることになった。役人との交渉は元役人が請け負うに限る。一方、上智大学教授の小林珍雄(よしお)は編成面の準備に、さらに技術面では足立正雄に専心した。

 文化放送設立へ向けたこの時代の経緯については、聖パウロ女子修道会・仙台修道院の長谷川昌子シスターが丁寧に記録している。ちょうど半世紀前の1972年、当時上智大学新聞学科の大学院に在学していた長谷川シスターは(当時はまだシスターではない)、文化放送設立の記録を調べて修士論文として残した。なぜ長谷川シスターが、文化放送をテーマとして選んだのかと言えば、それは「誰も日本におけるカトリック・メディアについて調べているものがいなかったから」だ。少し歴史の勉強になってしまうが、カトリックは、「第2バチカン公会議」の後、大きく変身していた。

第2バチカン公会議とは、1962年から65年に開かれたカトリックのトップ会議で、当時のローマ教皇ヨハネ23世の時代に始まり、パウロ6世に受け継がれたのだが、内容は簡単に言えば「カトリックの現代化」だ。それまでのカトリックは、世の中の流れとは別の時間軸で信仰を深めていた。世俗と距離を取ることこそが美徳であったと言えるのだが、20世紀も真ん中を過ぎ、いよいよ時代としっかり向き合い、現代に即したカトリックとして生まれ変わる必要があった。そのためにはバチカンの姿勢変革も必要で、そのことを4年かけて徹底的に話し合ったのが「第2バチカン公会議」だった。考えてみれば、そう言った意味では、早くから映画や放送など新しいメディアに目を向けて、積極的に世の中と関わってきた聖パウロ修道会、聖パウロ女子修道会はカトリックの中にあっても異色の存在だったとも言える。そう言ったマルチェリーノたちの発想のユニークさや行動の大胆さが、学生だった長谷川さんの心を捉えた。1972年時点で、すでに文化放送開局から20年の月日を経ていたが、70年も経ってしまった今とは全く違う。まだマルチェリーノや澤田節蔵といった多くの「生き証人」が存命中であったので貴重な証言を集めることができた。長谷川シスターがまとめた修士論文は、今となっては、聖パウロ修道会にとっても文化放送にとっても得難い記録なのだ。そんな長谷川シスターの論文とにらめっこしながら、文化放送設立までの経緯を追ってゆくと、まずは聖パウロ修道会の会憲(それぞれの会の法律:会則のようなもの)が重要なカギだったことがわかる。男子修道会の会憲2条には、「聖パウロ修道会は大衆伝達のため、メディア~人類の進歩による発明品をもって」と書かれてある。メディアの活用が聖パウロ修道会にとっての使徒職で、この会憲に書かれている通り、人類の発明品であるラジオというメディアをマルチェリーノ改め丸瀬利能は何としてでも手にいれたかった。

 電波三法施行と前後して「社団法人セントポール放送協会創立事務所」は創立概要を発表した。そこには「協会は、東京を始め、漸次国内主要都市に設置する放送局を通じ、正義人道を基礎とした健全な民主主義思想の普及徹底を図り、万人ひとしく待望する真に明朗な住み良き社会の建設に貢献せんとするものであります。この高邁なるわれわれの計画こそは、そのままキリスト教の精神でもあり、また宗教、宗派、階級、党派を超越した全人類の理想でもなければなりません」とある。「正義」「人道」「民主主義」「社会建設」まさに高邁な理想を掲げていて、今読むと少し気恥ずかしくなるが、戦後の新世界建設に向かって皆が懸命に歩みを続けている時代だ。この文言に、カトリック関係者は大いに喜んだという。そしてすでにカトリック関係者からは、物心両名に渡って少なからぬ援助も寄せられていた。

次回に続く

 

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