第5スタジオは礼拝堂 第18章「裏口から入って来た警察署長」

第5スタジオは礼拝堂 第18章「裏口から入って来た警察署長」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:裏口から入って来た警察署長

アイゼンハワー将軍が、イタリア側の承諾なしに無条件降伏を発表したのが1943年の9月8日。しかしその2日後に、ローマは電光石火のごとく進撃してきたドイツ軍に占領されてしまった。ドイツ軍は、9月12日にムッソリーニを救出すると、9月23日にはドイツの傀儡政権「イタリア社会共和国」を樹立して、ムッソリーニを「統領」という地位に据える。この傀儡国家はイタリア北部のサロに暫定首都をおいたので、通称サロ共和国と呼ばれた。

サロ共和国は、日本の「満州国」や世界を震撼させた親ロシア派の「ドネツク自治共和国」と同様、国際社会から認知された国ではない。サロ共和国は、バチカンが認めなかっただけではなく、ナチスの言いなりと思われていたフランスのヴィシー政権や、ファシズム路線でムッソリーニと歩調をあわせていたスペインのフランコ将軍ですら承認を拒否した。しかし世界で唯一、日本だけが即座に「サロ共和国」を承認し、ベネチアに大使館を設置する。「サロ共和国」の存在を認めたことで、何と日本にとって、イタリアは「敵国」からあっという間に「味方」に転じた。マルチェリーノ達の立場も再び劇的に変わった。

王子警察署の森署長は、マルチェリーノたちに高圧的な憲兵隊の例の軍曹が、修道院の応接間にいるのを、見張り係の警官から聞いていた。

署長は、軍曹から死角になる裏口の導線を抜け、修道院の中にそっと潜り込んできた。驚いたマルチェリーノに署長は口に指をあてると手招きをした。「パウロ神父。どこか、ひっそり話せる場所はあるかね?」息をひそめながら、署長はパガニーニたちを集めるよう頼んだ。軍曹に気取られぬよう注意しながら、5人のメンバーは聖堂の奥に集合した。聖堂の中は声が響くことに気がつくと、署長は祭壇を背にして、さらに声をひそめて話しはじめた。

「皆さんは数分後には自由になりますから、安心してください。私もこの報告をお伝えできることを喜んでますよ。あなた方を実に気の毒だと思ってましたから。私がいくら皆さんを自由にしてあげたいと思っても、警察署長の立場でそれを決めるわけにはいきませんでしたからね。その辺りの事はご理解ください。いずれにせよ、みなさんにはたいへんご迷惑をおかけしました。ただし考えようによってはですね、お互いをよく知り合う機会が持てたと思います。今後、もし何か面倒なことが起きたら、どんな小さなことでもいいですから、遠慮なく私の所に来てください。うまく解決できるよう最善を尽くしますからね」

この2週間の窮屈な日々を思えば、森署長の変節ぶりは流石に調子が良すぎるのではないかとも思えた。しかしこの間、警官たちがマルチェリーノたちに接するフレンドリーな態度を見ていると、おそらくは署長が、丁寧に扱うよう指示を出していたことも容易に想像できた。マルチェリーノは5人を代表して、署長に礼を言った。「署長さん、ありがとうございます。我々も嬉しいです。」

声を抑えてマルチェリーノたちにひとしきり告げた後、森署長は再びキョロキョロと周りを窺うようにしながら、玄関に戻っっていった。すると、今度は芝居がかった声で「王子警察署だ!ドアを開けなさい!」と声を張り上げ、再び堂々と修道院の中に入って来た。最初にひっそりと入ってきたのは、「軟禁」を解除を通告する時間が午後3時だと指定されていたからだ。署長は一刻も早くマルチェリーノたちに事態が好転したことを伝えたかったのだろう。

意地の悪い陸軍憲兵隊の軍曹の前で、署長は声をさらに張った。「よく聞きなさい!ムッソリーニ閣下が建国されたイタリア社会主義共和国を、わが国は承認した。したがってお前たちは今から自由の身となる。ただしこれからも怪しい動きがあった場合は、取り締まりの対象になるから、心して暮らすようにしなさい。以上!」マルチェリーノやベルテロ、再び自由の身になった。門前で待っていた警備隊を引き連れて森署長はあっという間に意気揚々と引き揚げていった。軍曹は、まるで苦虫を嚙み潰したような顔をして、座ったまま署長の発表を聞いていた。その間、署長と軍曹が目を合わせることはなかった。警察が帰った後も、軍曹は修道院から出ていこうとしなかったが、ようやくあきらめたようだ。帰り際にマルチェリーノ達に捨て台詞を吐いた。「また来るからな」 マルチェリーノは笑顔で答えた。「神はいつでもあなたを歓迎しますよ」 幸か不幸か、その軍曹がマルチェリーノたちの前に姿を見せることは2度と無かった。軍曹が去っていくのを見送ってから、見張り役の警官も、やれやれようやく終わったよという表情で足取り軽く去って行った。思えば、大日本帝国という国家権力の中にあって、森署長や王子署の署員たちは、不思議なほど人間的な連中だった。

ムッソリーニかバドリオかの「踏み絵」

翌月の1943年10月13日、イタリアのバドリオ政権は日独伊三国同盟を破棄して、正式に連合国の一員となり、ドイツに宣戦布告した。イタリア国軍も分断され、およそ半数の兵士はムッソリーニの呼びかけに応じて「サロ共和国」に加わった。イタリアは北部の「サロ共和国(ナチス側)」と南部の「イタリア王国(連合国側)」の南北に分断される。さらに「どちらの政権も認めない」という戦力もいて、3つの勢力が対立し、 内戦の性格を帯びていく。混とんとした状況の中で、日本に暮らすイタリア人たちもまた「敵」か「味方」かで、ふるいにかけられてゆく。

日本政府は、あくる1943年10月5日、「大本営連絡会議」を開き「伊国に封スル処置調整ノ件(イタリアに対する処置調整の件)」を決定 する。サロ共和国(ムッソリーニのファシスト政権=ナチスの傀儡)を支持しないイタリア人を全て敵国人とみなすというものだった。簡単に言えば「ムッソリーニ側につくか?バドリオ側につくか?」ということ。つまり「踏み絵」だ。その対象は公館職員などにとどまらず、民間の在日イタリア人にも及び、ファシスト政権への忠誠を誓う「宣誓署名」をも義務づけるという不条理極まりないものだった。ムッソリーニ政権を支持しないと答えたイタリア公館の職員とその家族42名は東京の抑留所に、民間イタリア人19名は名古屋の抑留所に送られてしまう。

抑留された61人の中でもっともその名がよく知られる人物が、写真家であり登山家でもあった人類学者のフォスコ・マライーニだ。当時、京都大学のイタリア語を教えていたが、サロ共和国への忠誠を断り名古屋の抑留所に送られた。フォスコの伝記 石戸谷滋著「フォスコの愛した日本(風媒舎刊)」には次のような記述がある。「大使館の関係者をはじめ、東京にいたイタリア人たちは、市内のカトリック教会に集められ、厳粛な申請式に臨んだ。イタリア人一人一人が壇上に立ち、自分がムッソリーニにつくかバドリオにつくかを聖書に手をおいて宣言したのである」

1943年10月の「外事月報」には、抑留されたイタリア人61名全員の氏名が掲載されているが、マルチェリーノたちの名前は無い。ムッソリーニを支持したのかしなかったのか、記録は残されていない。どのうように答えたのか?そのヒントは調布のサレジオ神学院にあるかもしれない。サレジオ神学院のコンプリ神父は、マルチェリーノたちが来日するきっかけを作ったチマッティ神父の薫陶を受けた人物だ。そのコンプリ神父に聞いた。「神父たちはどう答えたのですか?」コンプリ神父が教えてくれた。「おそらくこう答えたはずだ。『どちらの味方でもありません。私は日本の味方です』と。」

一方、抑留所に送られたフォスコらは過酷な生活を送ることとなった。フォスコは、待遇改善を訴えて、抗議の意思を示すため自らの左手の小指を切り落とした。

「イタリア人たちは、皆すさまじいほど痩せ衰えてしまった。4人の外国人だけが外部からの差し入れのおかげである程度の体力を保っていた。3人がそれぞれの妻から、宣教師が同僚から受ける食料は、魚とか乾パンとか油などのささやかなものだったが、飢餓との極限の闘いの中では大きな助けになったのである」~石戸谷滋著「フォスコの愛した日本」(風煤舎)から

過酷な状況におかれたフォスコたちと違い、マルチェリーノたちは、形の上では元の生活を続けることができた。王子警察署と同様に、日本の当局もマルチェリーノたち聖職者には、一目置いていたとも言える。しかし日本の敗色が濃厚になるにつれ、修道会への風当たりもまた強くなっていった。そして、マルチェリーノにもまた厳しい展開が待ち構えていた。

コンテ・ヴェルデ号の運命

『コンテ・ヴェルデ』の絵ハガキ (ロイドサバウド社)

ここからは少し余談になるのだが、マルチェリーノたちがイタリア南東部のブリンティジから、上海を目指して出航した旅客船コンテ・ヴェルデ号に触れてみたい(第3章参照)。歴史のあやとは面白いものだと思う。この船もまたマルチェリーノたちと同様に戦争の数奇な運命に巻き込まれた、と言うよりも第二次大戦の歴史そのものと言って良い。ちなみに、マルチェリーノたちから遅れること4年、1938年に先述のフォスコ・マライーニがアイヌの研究のため日本に向かったのも、このコンテ・ヴェルデ号だった。その後、この船は1938年から1940年にかけてナチス・ドイツを追われたユダヤ人難民1万7千人を上海まで運んでいる。杉原千畝の命のパスポートと同様、枢軸国側にあったイタリアの船がユダヤ人たちを救っていた。日本にもイタリアにも、人の道が残っていたことに感銘を深くする。しかし、その後、ムッソリーニ率いるファシスト政権が第二次大戦に参戦したことにより、難民輸送は中止に追い込まれる。そして、真珠湾攻撃から半年後の1942年5月には、日本とアメリカの抑留者の交換船へと変身した。その後、さらに劇的な運命がコンテ・ヴェルデ号を待ち構えていた。1943年9月8日にバドリオ政権が降伏すると、その3日後にコンテ・ヴェルデ号を含むイタリアの船17隻が「自沈」してしまったのだ。なぜ自ら船を沈めたのかと言えば、この17隻は、いずれも日本の占領海域にいたので、日本軍に接収されてしまう可能性が高かったからだ。コンテ・ヴェルデ号の乗組員たちは全員が日本軍に拘留され、工場での強制労働など過酷な毎日を送ることになる。しかも、その後、連合国側の空襲などにより多くの乗組員が命を落とした。その中には、上海に向かう甲板の上でマルチェリーノたちの礼拝に出席したり、雑談したり歌ったり踊ったりした甲板員たちもいたはずだ。そして、コンテ・ヴェルデ号の運命はこの自沈では尽きなかった。何と日本軍は横転した船を曳きあげて、修理の上、輸送船へと改造することに成功したのだ。しかし、結局、1945年5月8日、舞鶴港で沈没する。B-29の爆撃を受けたからだとも、機雷に触れてしまったからだとも言われている。それは、マルチェリーノたちが東京大空襲(山手大空襲)で焼け出される2週間余り前のことだった。

次回に続く

 

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