第5スタジオは礼拝堂 第15章「印刷の責任者に」

第5スタジオは礼拝堂 第15章「印刷の責任者に」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷所の責任者に」

資金難の現状を打破するために、ベルテロは横浜港からアメリカに旅立った。残されたマルチェリーノたちは、ベルテロの帰国を待ちつつも、印刷という使徒職活動の手を休めることなく、走り続ける。聖パウロ修道会が設立した印刷所の名前は「誠光社(せいこうしゃ)」と名付けられた(現在同名の書店や会社などがあるが別物)。初めは小教区内で配るためのリーフレット「王子教会の声」などを作リ始めたが、そのうち市販本の発行に精力的に取り組むようになる。聖パウロ修道会日本支部のリーダーはマルチェリーノだが、印刷技術に関するプロはトラポニーニ、そして印刷の責任者は主にパガニーニだった。本は主に児童向けの日本語向け翻訳本で、当時の出版物には「面白くてためになる話」、「名もなき島」、「ハンス物語」などがある。ハンス物語は現在も古書として比較的流通していて、私も手に入れることができた。

右から左に流れるタイトルが時代を感じさせる

 

表紙でわかる通り冒険活劇で、悪者も大勢出てくる。戦闘シーンもあり、もちろん友情もありのハッピーエンドもの。神の教えとは直接関係が無いのが、おおらかで微笑ましい。原作はマリア・デ・アルタヴィッラ氏とあるが、彼女が何者なのか横顔はまだ調査中だ。そして訳はパガニーニと小奈晴夫氏が担当している。小奈氏は、「神奈川文学風土記」など神奈川に根ざした作品の多い著述家で、島崎藤村の「島村忌」を大磯で始めたのも小奈氏だ。

パガニーニの天賦の才は

小奈氏と共同で翻訳にあたったパガニーニは、ひと言で言えば「語学の天才」であった。マルチェリーノやベルテロは、耳にした日本語をローマ字で書き取るという地道な訓練から始め、懸命に日本語と格闘しすることで、異人たちの不可解な言語を習得していったのだが、パガニーニは違った。いきなり仮名や漢字の習得から入っていったのだ。パガニーニは、おとなしい性格で口数は少ない。マルチェリーノのように、物おじせずに人の中に飛び込んで日本人と会話するタイプではなかったため、発音は流暢では無かった。しかし、一つの漢字の意味と発音を理解すると、その字をじっと見つめ続けることで、真綿に吸収するように記憶することができるという特技があった。文法も然り。後から来日したパガニーニだが、この特殊能力を駆使し、来日から一年で、日本語の扱いにおいては、先輩格のマルチェリーノたちを抜き去り、いつしか会の出版の大黒柱として活躍するようになったのだ。当時の印刷は、日本の職人たちが活字を拾って組版を作ると言う地道な作業を繰り返していたわけだが、その組字をチェックして、漢字の誤字脱字点検から文章の校正までイタリア人であるパガニーニが担当していたというのだから驚くしかない。本物の特殊能力であった。

裏表紙を読むと、初版は1939年となっている。ちなみに私が手にしたものは、戦後の1948年とあり、第3刷として発行されたものだ。終戦直後は、このように戦前に出版した自信作の再版が再開の端緒だったようだ。ところで、出版社名が誠光社ではなく「中央出版社」(現在のサンパウロ)に変わっている。なぜ「誠光社」が「中央出版社」という名前に変わったのか説明しておこう。かつてカトリック東京教区委員会の管理下に「カトリック中央出版部」という組織があった。英語では「カトリック・プレスセンター」となる。聖パウロ修道会は「マスコミ宣教」、つまり出版が使徒職だ。マルチェリーノは是が非でもその仕事を請け負いたく、社交的な性格を生かして、中央出版部の部長である田口司教らとすぐに親しくなった。以前のマルチェリーノであれば、イタリア流に声高にアピールしたであろう。しかし、そのようなことをしても決して日本人の心情には訴えないことを日本暮らしの中で学んでいたので、時間をかけて出版実績を積み、ゆっくりと人間関係も培っていった。マルチェリーノは忙しい教会の仕事の傍ら、時間を見つけては「カトリック・プレスセンター」に通い、顔馴染みを増やしていった。そのうち、中央出版部から出版を手伝ってくれというような仕事の依頼も増えてきた。それらの仕事は、決して儲かる仕事ではないものの、誠実さや丁寧さ、そして出版への情熱を証明するために、引き受けた。そのようにして、マルチェリーノは田口司教の厚い信頼を得ることになる。権力者におもねるのではなく、出版や印刷の実力を地道にアピールし続けたことが結果的に良かった。田口司教は、出版責任者として任せるのは、この陽気なイタリア人しかいないのではないか考えるようになっていた。

カトリックプレスセンターを任されて

日本のカトリックの責任者たちが集う「全教区長会議」が開催された。会議では経営の厳しい「カトリック・プレスセンター」を今後どうするかと言うことも議題にあがった。ちなみにシャンボン東京大司教は、1937年、東京大司教区が新設した横浜司教区の初代教区長に自ら就任。その後継として第6代の東京大司教に就任していたのは、土井辰雄神父であった。土井神父は日本人初の東京大司教として、第二次大戦中の困難な時代も組織を守り続け、1960年には日本人初の枢機卿に選ばれることになる。まさに日本のカトリック史に残る人物だ。その土井大司教がマルチェリーノを呼んた。「マルチェリーノ神父、会議ではあなたにこれからのカトリックプレスセンターを任せてみてはどうかと言う意見が出ました。どう思いますか?」。マルチェリーノは答えた。「ありがとうございます。我々聖パウロ修道会には、プレスセンターのすべての責任を引き受けさせて頂きます!」 少し複雑そうな表情を浮かべて土井大司教が言葉を続けた。「マルチェリーノ神父もご存知だと思うが、プレスセンターはすでに借金で首が回らないので、引き受けると大変になりますよ。それでも良いのですか?」マルチェリーノは土井大司教のその答えも予測していた。そして笑顔で決意を述べた。「大司教様! その覚悟はできてございます。ただし条件が1つだけあります。我々は自分たちが最善だと思うやり方で進めたいと思います。どうかそれを認めた上で、応援してください。もちろん勝手に決めたりはしません。大司教様のご指導の下で動きます」 それを聞いて大司教は満足そうな表情で答えた「わかりました、マルチェリーノさん。あなたにお任せしましょう。もちろん、私はあなたたちの味方ですよ。」

このように、マルチェリーノの奮闘によって、聖パウロ修道会は、日本のカトリックにおける印刷の責任者になるという重要な仕事を獲得することに成功した。映画に例えるならば、交渉上手なマルチェリーノは敏腕プロデューサー。職人技に長けたパガニーニは天才肌の監督ということになるのだろうか?余談だが、そのマルチェリーノの人並外れた手腕が、戦後、日本における民放ラジオ局開設に結実してゆく。一方で、その剛腕ぶりが文化放送社内で軋轢を生む火種にもなってしまうのだが…

このカトリック・プレスセンターの仕事獲得は、聖パウロ修道会の日本支部にとっては、ようやくローマの本部、そして創立者アルベリオーネ神父に胸を張って報告できるものであった。もちろん赤字部門を引き継いだわけなので、運営は楽ではない。気苦労も増えたが、使徒職とは苦労を伴ってこそ実り豊かなものになる。そのような中、新たな話がさらに舞い込んできた。朝鮮に赴任して活動しているヨーロッパ人の宣教師が、王子教会を訪ね、そして相談事を持ちかけてきたのだ。「我々は、朝鮮において、朝鮮語による教会報を月間で発行したいと思っております。その仕事をあなたたちにお任せしたいのです」 マルチェリーノは、笑顔を押し殺して答えた。「ありがとうございます。ただし、ご返事するまで、1日だけお待ちいただけますでしょうか?」 「分りました。では明日まで返事を待ちましょう」 宣教師が去った後、マルチェリーノはタクシーに飛び乗った。目指すは土井大司教のところだ。「大司教様!お願いがございます」 マルチェリーノさん、どうしました?」 「今日、私のところに、一人の宣教師が来ました。彼は朝鮮語で月刊誌を印刷したいので、我々の力を借りたいと話しています」 「分かりました。その許可を与えましょう」 「ありがとうございます!」 マルチェリーノはせっかちな性分だ。かつてなら、頼まれるとその場で引き受けると即答していたであろう。しかし、日本での生活で様々な失敗も経験することで、組織のルールや順序を理解して動くことの大事さを学び、成熟した司祭に成長していた。今回の話は、今まで教会単位での活動に過ぎなかった出版事業を、本格的に日本や朝鮮全体における宣教という舞台に飛躍させる事を意味していた。これこそがイタリアを離れ、はるばる日本までやってきた目的であり目標であったので、マルチェリーノの喜びようは、報告を受けたベルテロを驚かせるほどのものだった。このカトリック系の出版社だが、太平洋戦争中の1943年に、政府の命令により、各出版社が統合されることになったことで、中央出版社と名前を変えることになる。通信社や鉄道各社も同じ運命をたどったが、カトリックの出版においても同じだった。その責任者は聖パウロ修道会とマルチェリーノであった。

 

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