第22章 第5スタジオは礼拝堂「修道院も印刷所も出版社も」

第22章 第5スタジオは礼拝堂「修道院も印刷所も出版社も」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章 「修道院も印刷所も出版社も」

 松明のように燃える修道院の姿を最後まで残って見つめていたのは、神父のポアノと修道士のミケーレの2人であった。しばし茫然としていたキエザだが、気を取り直すと、布団や米をリヤカーに乗せて避難することにした。すでに四谷小学校の木造校舎は炭の山になっていた。2人が目指したのは四谷見附方向だ。ひとまず表通りの新宿通りを目指して北に向かう。今では片側3車線の大通りの新宿通りだが、当時は今よりもずっと道幅が狭くのんびりと路面電車が走っていた。その都電(路面電車)の四谷二丁目駅を目指し、炎の熱風を頬に受けながら歩いていると、真夏のように汗だくになる。熱風とともに流れてくる煙が口に入り、ひたすら息が苦しい。もっと辛いのは雨の様に横殴りで吹きつける火の粉だ。目に飛び込んでくるのを、懸命に手で振り払いながら、2人は夢中で火煙の中を進んだ。途中、バチンバチンという燃えた板が割けるような激しい音が、至るところから聞こえ、心臓がきゅっとなる。「私たちは四ツ谷駅までたどり着くことができると思うかい?」喘ぎながらポアノはミケーレに声をかけてみたが、燃える音や何かが崩れ落ちる音、人の叫び声にかき消されて、その声は全く聞こえない。ミケーレは、耳を指さし「聞こえないよ」とジェスチャーをした。

まだ100メートルも進んでいないのに、もうへとへとだ。炭の山になった四谷小学校の横を通り抜け、ようやく電車通りに出ると右に曲がった。四谷見附や麹町の方角だ。路肩を見遣ると、数人の兵隊がたくさんの小波板(なまこいた)の陰にしゃがみこんでいた。キエザの脳裏に迷いが浮かぶ。「本当にこちらに歩いて行っても大丈夫なのだろうか?」多くの人たちが、西の新宿方面ではなく東の麹町方向を目指して歩いていたが、以前色々な人からこんな話を聞いていたからだ。「空襲では、皆と同じ方向に逃げると、結局袋小路に追い込まれたところに火が回り、全員が焼け死ぬらしいぞ」

ポアノは「皆と同じ報告に行くよりも、逆に西に向かって逃げるべきではないのか?」そう考え始めた時、前方に東を目指して歩く信徒の安藤君や賄いのおばさん、さらにはパガニーニの姿が視界に入ってきた。中央出版社も上智大学も印刷所も、ゆかりの深い建物は全て東の方角にあるので、こちらに向かうのは当たり前と言えば当たり前のことだとポアノも思い起こした。そこでポアノとミケーレは足を速めて、パガニーニら前方のグループに追いついたのだが、2人に気付いたパガニーニは苦渋の色を浮かべてつぶやいた。「印刷工場も火事らしいぞ」 ポアノは当然だろうと思った。これだけ、一面火の海になり、「家」である修道院も焼け落ちたのだ。印刷工場だけが無事だとは、考えたくても到底考えられなかった。  

普段はゆっくり歩いても数分で着く四谷見附。障害物や火の粉を避けながら歩くと、いつもの数倍の時間がかかったが、何とか四谷見附の交差点に着いた。四谷見附交差点は、空襲のわずか8年後に、聖パウロ修道会のアスピラント(修道女見習い)達を乗せたアメリカ製のジープが、文化放送に向かう思い出深いルートになる。四谷見附は、ー今も四ツ谷駅の隣に石垣と松の木が残る。江戸城の守りを固めるために、1636年、初代長州藩主の毛利秀就(もうりひでなり)が築いたものだ。濠を築いたのは、「真田丸」の真田信之、伊達政宗ら。真田濠と呼ばれたが今は上智大学のグラウンドとなっている。甲州方面からの守り固めの要衝だった四谷見附も、空からの攻撃には為すすべが無かった。疲れたポアノやパガニーニたちは、崩れた見附の石垣のそばで、地面に横になった。煙を沢山吸って喉が痛いので水筒を出したが中は空っぽだった。そんな意気消沈する中でも、冷静沈着なパガニーニは、全員の安否を確認し始めた。そして、皆が無事であることを確認して、安堵の表情を浮かべると、もう一度地面に座り込んだ。周囲は、あたり一面燃えていたが、キエザとミケーレは、気合を込めて大声を出すと、再び立ち上がってリヤカーを引いた。目指すは麹町の印刷工場だ。すぐにまたB29の編隊が見えたので、リヤカーを一度路上におき空襲をしのぎ、再びリヤカーを引き始めた瞬間、ミケーレの頭の上で焼夷弾が爆発した。まさに危機一髪だった。倒れたミケーレは不死鳥のように再び立ち上がって歩き始めたが、よく見るとリヤカーの上にかぶせた布団に焼夷弾の火が燃え移っている。キエザたちが、あわてて燃える布団を引きはがし、壁の向こうに投げ捨てた。気づくのが遅れていたら、ミケーレの命は無かったかもしれない。

空が夕焼けのように染まる

四谷から北に位置する市ヶ谷は、ひときわ激しく燃えていた。開戦のあった1941年12月に、都心の三宅坂からこの市ヶ谷に、陸軍の参謀本部や教育総監部、さらに陸軍の航空総監部が移転していた。そんな陸軍の大本営が狙われないはずが無い。ちなみに、この市ヶ谷の大本営は、現在の防衛省だ。市谷駐屯地は、1970年、三島由紀夫割腹事件の現場となったが、会社が駐屯地から近かった文化放送の記者がいち早く駆け付け、三島最期の演説を唯一全て収録することに成功する。火を消したミケーレたちが逆方向を見遣ると、やはり空が夕焼けのように染まっていた。新宿だと思ったが、それは渋谷の東横百貨店(現在の東急東横店)が焼け落ちてゆく姿だった。

燃える東横百貨店(現東急東横店)

 印刷工場が焼けてしまったので、これ以上向かっても意味が無いし、何より危険だ。このまま四谷見附に留まって一晩過ごすべきなのか?それとも比較的燃えていない新宿方面に戻るべきなのか?迷っていた時に再びサイレンが鳴ったが、それは空襲警報解除の知らせだった。近くの都電・四谷見附駅に路面電車の姿が見えたので、キエザたちは電車に向かって走って乗ってみた。ところが、どこに向かえば良いのか検討がつかない。車内では疲れ果てた人たちがうずくまったり、寝ていたりした。小さな声で話す2人組の姿もあったが、会話の内容までは聴こえない。キエザも「日本の軍隊は何をやってるんだ」と声に出しかけて、口をつぐんだ。目の前で居眠りをしている男が、私服の警官や非番の憲兵かも知れない。今は誰も信用はできないのだ。

ひとまず、空襲警報は解除されたので、路面電車はすぐに降りて、若葉の修道院に引き返してみた。そこに残っていたのは、少しの壁と少しの煙突、そして半分になってしまった倉庫だけだ。この倉庫が無ければ、どこに修道院が建っていたか判別もできない。それほどに一面の焼野原で、隣の四谷小学校も跡形も無く消えていた。もう何も無い。

上智大学に避難

そうこうしているうちに、朝日が差し込み始めた。疲れた足を引きずってミケーレは中央出版社(現在も四谷駅前にあるサンパウロ書店)に出かけていった。日差しが強くなってきた。時計の針は7時半を指していたが、そこに女性信徒のひとりが現れ、神父や修道士らの顔を見て安心すると、たばこや握り飯をくれた。握り飯を食べるとポアノに力が蘇ってきたので、ミケーレたちを追って中央出版社に向かった。建物は壁も崩れ落ちて悲惨な姿となっていたが、一階の部屋は何とか原型を留めていた。外からどんどん煙が入ってくる。この煙を防がないと紙がダメになるので、パガニーニは窓を懸命に泥で塞いで、煙から紙を守ろうとしていた。一方、ポアノも再び修道院「跡」に戻ると、そこにマルチェリーノが現れた。マルチェリーノは、胃潰瘍の状態が思わしくなく病院に入院していたのだが、抜け出て四谷にやってきたのだ。もっともショックを受けているはずのマルチェリーノであったが、焼け跡を一瞥すると気丈に、「避難所を探してくるよ」と言い残して出かけていった。するとすぐに戻って来て、「今、交渉してきたよ。上智大学にしばらく寝泊りさせてもらうようにしたからね」と言った。ピンチに強いのが、マルチェリーノの最大の長所だ。この逞しさは、その数年後に文化放送設立に向けて最大限発揮されることになる。マルチェリーノら数人は上智大学に向かったが、目を傷めていたミケーレは中央出版社に留まることになった。キエザは信徒に家に避難しているようだった。パガニーニや信徒たち6人が上智大学で体を休めたのを確認すると、マルチェリーノは颯爽と入院生活に戻っていった。

こうして、聖パウロ修道会の悪夢のような2日間は終わった。上智も一時の仮住まいなので、神父や修道士は、空襲に遭わなかった他の修道院にしばらく寓居せざるを得ない。それでも命が助かって良かったと思うしかない。パガニーニが一言「これはディアスポラ(離散)ですね」とつぶやいた。ちなみに、この山の手空襲の2週間余り前に、ナチスドイツが降伏している。ドイツの降伏は今も「零時(れいじ)」と表現され、ここから戦後ドイツの歴史が始まるのだが、日本は「零時」を迎えるまで、まだ3か月近い孤独な闘いが続くことになる。結果として広島や長崎に原爆が投下された。そのような中、鈴木貫太郎総理は天皇と阿吽の呼吸で、何とか終戦に向かう準備を続けていた。そして、日本は8月15日を迎える。

次回へ続く

 

 

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