第5スタジオは礼拝堂 第20章「本格的な空襲が始まる」

第5スタジオは礼拝堂 第20章「本格的な空襲が始まる」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20章「本格的な空襲が始まる」

1944年11月1日、マルチェリーノたちが昼食を取っていると、突然サイレンのけたたましいうなり音が四谷の街に轟いた。当時はまだ空襲警報は頻繁にはなかった。東京への空襲は、1942年の4月から始まったが、その後、約1年半、空襲はなかったので、時折、上空をB29が飛来してゆくことはあっても、偵察飛行に過ぎないと思っていた。だから、この日も、マルチェリーノたちは、恐怖よりも好奇心から、四谷の修道院の中庭に5人で飛び出して空を眺めた。言ってみればB29の見物のようなもので、それは近所に住む日本人たちも同じだった。地上からは高射砲が激しく発砲しているが、届く距離はせいぜい5000メートル、しかしB29はそれより遥か上空の1万メートル付近を飛んで行くので、いくら撃っても当たらない。そんな風に、飛行機雲と高射砲の、白い煙と黒い雲が混ざりあって青い空をかき消していた。空襲警報は街中で流れるだけでなく、NHKの放送でも周知されていた。ラジオを聴いていると、最初に大きなブザー音が流れ、そのあと「東京都、警戒警報!」とアナウンスされる。その日、アナウンサーは、「B29爆撃機が偵察中」と繰り返し読み上げていた。空襲ではなく、あくまでも偵察というわけだ。身構えることもなく、。「久しぶりの空襲警報だね」などと言いながら、マルチェリーノも近隣の日本人たちと顔を見合わせて、ただ上空を見上げていた。まもなく高射砲も止み、空に浮かぶ豆粒のようなB29の姿も消えた。そして最後に警戒警報の解除を告げるサイレンが鳴ると終了だ。B29を見物していた人たちも、三々五々と引き上げていった。しかし、この日の空襲警報は、東京への本格的な無差別攻撃の始まりを告げるプロローグだったことを、東京に暮らす市民たちはまもなく知ることとなる。日本は油断していた。

日本本土への爆撃

3週間あまり経った1124日、北マリアナ諸島を飛び立ったアメリカ軍のB29部隊は、突如、東京都北多摩郡武蔵野町(現在の武蔵野市)の中島飛行機武蔵製作所を集中爆撃した。その約半年前に「サイパンの戦い」「マリアナ沖海戦」で日本は敗れている。勝ったアメリカ軍はサイパン島を陥落させ、日本を爆撃するための基地を築いていた。マリアナ諸島から東京は、B29の航続距離範囲内だ。爆撃してそのまま基地に戻ってくる「無差別攻撃のピストン往復」が可能になると、アメリカ軍はついに日本本土への爆撃を開始した。ゼロ戦のエンジンなどを製造していた武蔵製作所は最初に狙われ、終戦直前の194588日まで計9回爆撃されている。工場内の機械類などはアメリカ製が多い。アメリカはしたたかだ。彼らは、かつて機材搬入の際、中島飛行機の工場内部の地図も作成していた。その後、度重なる偵察飛行も繰り返し、どこを狙えば効果的かもほぼ把握していた。アメリカは、地図を片手に思うがままの空爆を繰り返し、日本はさらに戦力を失ってゆく。爆撃目標となったのは、主に、中島飛行機のような軍事関係の工場だった。王子も軍都と呼ばれた町だ。聖パウロ修道会が礎を築いた王子の町も激しい空爆のターゲットとなった。

余談になるが、東京府と東京市は、この前年の1943年に廃止され、代わって19437月1日に「東京都」が設置された。現在では、「首都だから東京都なのだろう」と簡単に捉えてしまうが、実際は違う。制定された「東京都制」という法律には、「帝都たる東京に真の国家的性格に適応する体制を整備確立すること」と書かれていた。つまり、東京府、東京市が東京都になったのは、太平洋戦争、第二次世界大戦における「戦時法制」が敷かれたためなのだ。引き締めなければ戦争に負けるという焦りが、「東京都」を生んだとも言える。

アメリカ空軍図書館蔵(横浜市公式ホームページから)

武蔵製作所への爆撃を皮切りに、東京は終戦の815日まで、106回の激しい空襲にさらされた。1944年のクリスマス近くのある日、1トン爆弾が王子教区の神学校の近くに投下され大きな穴を空けた。新年の1945年を迎えると、一般の民家が狙われるようになる。2月には防空壕の中に逃げようとした2人の神学生が、猛烈な爆風で首を吹き飛ばされて亡くなったという痛ましい報告が届いた。空襲のターゲットは、軍事工場など公けの建物から、無辜の一般市民たちが暮らす住宅地へと拡大してゆく。空襲の頻度は増し、一度に飛来する爆撃機の数も目に見えて増えていった。空襲警報のサイレンは深夜に鳴り響くことが多いので、修道会のメンバーも睡眠不足の毎日を過ごすことになる。こうなると、外出もままならなくなってきた。空襲も怖いが、それにも増して怖いのが、外国人に向けられる周囲の視線だ。マルチェリーノたちは、街を歩いているだけで、敵意に満ちたまなざしが向けられていると感じるようになった。その頃になると「俺は味方のイタリア人だよ」とも言えなくなっていた。イタリアにおいても、すでにムッソリーニ率いるナチスの傀儡、サロ共和国軍の劣勢は明らかだった。攻める連合国側のパルチザンも暴走し、サロ共和国支持者への暴力や無差別テロを繰り返すなど、イタリアも荒れていた。そして日伊の蜜月関係もとうに終わっていた。元々打算の結婚のようなものだ。

危険回避のための身分証発行

そのような窮屈な暮らしの中でも、マルチェリーノたち3人は、愛宕山のNHKに通う生活を続けていた。とてもじゃないが、安全とは言えなくなってきたので、当局から、マルチェリーノたちに対して、特別な身分証明証が発行された。さらに上着につけるバッジも配られた。そのバッジをつけていれば敵ではないということなので、ひとまず安心だが、路地裏などを歩けば何が起きるかわからない。当局からは、決して寄り道せずに通勤しなければ安全は保障できないと言い渡された。そうしているうちにも敗戦の色が濃厚になり、物不足の日々が続く。印刷工場の紙が無いので、出版もできなくなっていた。町の人たちの監視の目も苦痛だった。

寒い冬を迎えても、暖房器具も無ければ燃料も無い。ある日、中国から来日し、生活物資や食料を集める役で活躍していたテスティ神父の元気が無いことにマルチェリーノは気づいた。見るとテスティの手が野球のグローブのように腫れあがっている。栄養も不足する毎日の中で、重度の霜焼けにかかっていたのだ。テスティは中国に戻りたいと希望したが、本来戦時中にそれはかなわぬことだった。しかし偶然にも王子教会の信徒の中に憲兵隊の軍曹がいた。しかも赴任地の満州に戻るところだという。腫れた手を包帯で巻いた姿でテスティは信徒である軍曹に付き添われて、南京に戻っていった。その後、マルチェリーノたちに降りかかる災難を思えば、テスティは良いタイミングで日本を去ったとも言える。直後の310日には、アメリが軍が東京大空襲(下町大空襲)を行い、江東区、台東区、墨田区などを中心に、下町が灰燼に帰した。死者の数は10万人を超え、墨田川や荒川などが死体で埋め尽くされ、下町は地獄絵図となる。息をつく間もなく、あくる4月の13日と15日にも大規模空襲が続いたが、幸か不幸か、4月の2回の爆撃は四谷の修道院のわずか数メートルのところに焼夷弾が落ち、奇跡的に延焼を免れた。周囲の日本家屋は焼け落ち、焼野原にぽつんと残る寂しい姿をさらすこととなる。それにしても、焼夷弾ほど恐ろしいものは無い。木造家屋に火がつくと、風に乗ってたちまち燃え広がる。とにかく周囲は全て燃えてしまい、これで、もう空襲は無いだろうと考えていた時に、525日の山手大空襲の日がやってきた。

次回に続く

 

 

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