第5スタジオは礼拝堂 第26章「四谷は瓦礫の山の中」

第5スタジオは礼拝堂 第26章「四谷は瓦礫の山の中」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章「四谷は瓦礫の山の中」

今回は、かつて文化放送が社屋を構えていた新宿区四谷界隈の紹介をしてみよう。文化放送のあった場所は正式な町名は「若葉」と言う。前回も触れたが「忍者」服部半蔵ゆかりの地。そこに、カソックに身をつつんだイタリア人の神父たちがやってきた。それが聖パウロ修道会の日本管区修道院で、後にその隣に突如として誕生したラジオ局が文化放送というわけだ。都心の真ん中であるにも関わらず、どこか田舎の風情を残すのどかな住宅地、若葉一丁目の狭いエリアがいろいろと賑やかになってゆくのはもう少しあとの話。さて若葉から南側に位置する信濃町方向を目指して坂を下ってゆくと、江戸時代には小さな下屋敷が立ち並んでいたエリアに入る。今も下屋敷特有のくねくね折り曲がった細い道がはりめぐらされているが、この入り組んだ道が敵からの攻撃や侵入を防ぐのに役立ったのだという。その場所に服部半蔵一族が控えていたというのも面白い。一方、皇居方面の東に向かって5分ほど歩くと、JRと地下鉄の四ツ谷駅に到着するのだが、駅のある四谷見附の交差点に面して聖パウロ修道会ゆかりの中央出版社(現在のサンパウロ書店)がある。そして四谷の駅を超えるとイエズス会創設の上智大学の姿が見える。瀟洒でかつ堂々とした姿だ。右に折れて少し歩くと迎賓館や学習院の初等科などが有るハイソな地域も広がる。

一方で、新宿通りの北側の商店街、四谷しんみち通りは学生からサラリーマンまで老若男女で今も賑わっているし、四谷三丁目駅方向まで足を延ばせば、花街として知られた荒木町がある。今も外苑東通りから一歩入ると古い石畳の路地が現れてタイムトリップ気分にさせてくれるのが荒木町だ。今も少し残る「策(むち)の池」という谷地があり、徳川家の馬のむちを洗った池なのだそうだ。関東大震災で他地域の花街が壊滅的な状況になり、大きな被害の無かった荒木町に、芸妓も客も集まってきた。だから四谷は、戦前は新宿をしのぐ賑わいを見せる町になったのだ。杉大門通りや車力門通りなど通りの名も往時を偲ばせてくれるし、入り組んだ段差のある石畳は今も健在だ。日本家屋をリノベーションしたレストランなどもあって歩くと楽しい街で、十二分に周囲とは違う「情緒」と言う名の空気が密閉されている。空襲前にはマルチェリーノたちも料亭が所狭しと立ち並ぶ石畳を散策したであろう。しかし、この荒木町も、パガニーニらが火に追われた東京大空襲(1945年5月の山手空襲)で焼夷弾を浴びて、一夜にして灰塵と帰してしまった。

初めて見る四谷はがれきの山だった

1946年6月、ベルテロは6年ぶりにアメリカから戻った。横浜港からマルチェリーノやキエザらととともにタクシーに乗ったのだが、旅の疲れも忘れて、車窓からガレキの山となった横浜や川崎や東京の町の様子を瞬きもせず眺めていた。賑やかだったころの荒木町界隈を歩いたこともないベルテロにとって、初めて見る四谷はただ瓦礫の山が積まれた荒れ野で、新宿通りも道とは言えないほどのデコボコ道だった。崩れたコンクリート片のようなものを慎重に避けながら木炭タクシーはゆっくりと進んでゆく。沿道には戦争帰りの元兵隊たちが自由の効かない体を横たえて施しを待っていた。戦前はたいそう立派であったであろうビルの跡にはあばら家が並んでいる。マルチェリーノによると、これでもバラックが立つことで相当復旧してきたのだという。「もうすぐ着くよ」と言うと、一帯を指さしてマルチェリーノは教えてくれた。「このあたりは荒木町という賑やかな花柳街だった。華やかな街だったがご覧の通り、何も無い」 途中の新宿界隈も、惨状はすさまじかった。こちらでは、石ころの上にテントのようなものを敷いて生活する人たちがいるかと思えば、あちらでは、おそらくは親を亡くしたであろう子供たちが群れをなして何かを焼いて食べていた。窓を開けると、低いうめき声が至る所から聴こえてくる。ベルテロは、その光景をこのような一言で書き記している。 「私は今までの人生で、このような哀れな光景を目にしたことがなかった。」

ベルテロは仲間とともに四谷に移転した聖パウロ修道会に到着した。自分の知っている懐かしい王子の修道院ではなく、どこか他人の居場所のようにも感じるが、紛れもなくここが聖パウロ修道会だ。修道会は、2年前の1944年に空襲が激しくなってきたタイミングで、王子の小教区と別れを告げて、こちらに移転していた。マルチェリーノは言葉を続けた。「この四谷の修道院は、元々は実に立派な建物だったんだよ。もっともっと多くの信者を集めて順調に活動を続けるはずだったのに、アメリカ軍が空襲を仕掛けてきた。軍人もいない町なのに。焼夷弾が建物に落ちて燃え始めると、どうすることもできなかった。皆、逃げる事しかできなかったんだ」

着いたよと言われて、タクシーを降りたベルテロの目の前には、一本の煙突とセメントの壁一枚しか無かった。ただそのコンクリートの塊の上に、少し気恥ずかしそうに立つ2階建ての粗末な小屋だけが目に留まった。この掘っ立て小屋が修道院なのだと言う。ベルテロは息を飲んだ。日本がもっとも窮乏状態におかれた6年間、ベルテロは世界に君臨する繁栄の町ニューヨークで暮らしていたのだ。その落差たるや言葉も出なかった。「零年」に置かれた日本で、ベルテロが前向きな気持ちを持つには2,3日の時間が必要だった。あばら家に上がると、少しだが食料や毛布などがある。聞けばキエザやボアノが、進駐軍の兵士たちと親しくなり、缶詰や毛布などを手に入れることができたのだと言う。進駐軍には、イタリア系のみならずアイルランド系、ポーランド系などカトリック信者の兵士も多かった。

四谷修道院の再建に向けて

このように生活物資もギリギリの状態ではあったが、マルチェリーノは立ち止まることなく、戦後の修道会の立て直しに邁進していた。マルチェリーノの頭の中にはそのことしかなかった。自身の胃潰瘍の状態も思わしくなかったが、胃の痛みを忘れるほどマルチェリーノはやらねばならないことに向かって、ただひたすらに動き続けていた。前にも触れたが、終戦から2週間余りで、出版活動を再開し、2ヵ月あまりで数冊の本を出版している。カトリック新聞の発行も託された。同時にバラックの施設では、修道会の会員が中に入ることもできないので、もう少ししっかりした木造の修道院を再建する工事も進めていた。アメリカ帰りのベルテロが、コネクションを生かして進駐軍の将校に話をつけ、資材をスムーズに調達することに成功した。日本軍の兵舎が取り壊されると聞くと交渉し、その資材を持ち帰るということを繰り返す毎日の中で、奥行2階建ての建物が徐々に修道院らしい姿を見せ始めた。建物の中には聖堂も居住スペースも、志願者たちの学習室もある。奥行20メートルのしっかりした建物だった。

 再建の進む聖パウロ修道会(写真はベルテロ著「日本と韓国の聖パウロ修道会最初の宣教師たち」より)

しかしある日、思いがけないことが起きる。ローマの聖パウロ修道会本部にいるアルベリオーネ神父から、マルチェリーノに対し「イタリアにいったん帰国せよ」との連絡が入ったのだ。健康状態が良くないこともアルベリオーネ神父に伝わっていて、修道会は日本支部をベルテロとパガニーニの2人に委ねる判断をした。マルチェリーノも、この要請を受けるしかなく、療養と資金援助の要請活動を兼ねて12年ぶりにイタリアに帰国する。骨休めも兼ねて帰国したはずのマルチェリーノだったが、これまでの心身の疲労に加えて旅の疲れが一気に出てしまい、持病の胃潰瘍が再び悪化。日々状態は深刻化し、医師が手術しても助かるかどうかわからないと告げたほどの病状に陥ってしまった。当時、マルチェリーノは遺言まで残している。それは「私が死んだら、私の心臓は日本の土に埋めて下さい」というものだ。松尾芭蕉の一句「旅に病んで夢は枯野を駆け巡る」という言葉が浮かぶ。ローマで病に伏している間も、マルチェリーノの心は日本にあった。

次回に続く

 

 

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