第5スタジオは礼拝堂 第27章「民間放送局を作っても良い」

第5スタジオは礼拝堂 第27章「民間放送局を作っても良い」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章「民間放送局を作っても良い」

胃潰瘍が悪化し、ローマで命の危機にあったマルチェリーノであったが、幸いなことに手術は無事に成功した。体もある程度回復したということで、当然のごとく再び日本に向かいたいとアルベリオーネ神父に申し出た。過酷な戦時中の空襲や拘置生活に耐え抜いたマルチェリーノにとって、イタリアで養生しているこの時間ももったいなく思えてきたのだ。せっかちなマルチェリーノの性格は、周りの神父たちも十二分に理解していた。とにかくただでは転ばないのがマルチェリーノ流。小康を得たマルチェリーノは、日本語に翻訳した聖書2万部ととともに再び日本に向かうことになった。

突風の悲劇が襲う

しかし、マルチェリーノ不在の間に、またしても不幸な出来事が修道院を襲っていた。建築中の修道院と印刷所が、こともあろうに突風で全壊してしまったのだ。猛烈な風が屋根を飛ばし柱をなぎ倒し、建設中の建物を一瞬にしてガレキの山に変えた。しかも、この修道院の全壊事故により、建設現場の隣の家で暮らしていたマルチェリーノの日本における一番弟子の桑島カツが帰らぬ人となってしまったのだ。最初に暮らした大森時代から、カツさんと息子の啓吉くん、娘の絹ちゃん、彼ら桑島親子にこれまでどれだけ助けられてきたのかと思うと、胸の詰まる思いだった。カツのいない日本に帰ることで彼女がいないことを実感するのかと思うとマルチェリーノにとってこれほど辛いことはなかった。しかし、再起に向けた動きを止めることは絶対にできない。それがカツへの感謝を示すことでもあるからだ。この倒壊事故では、建設中の建物の中にいたミケーレ修道士も大けがを負った。このように次から次へと様々な苦難が続いたが、修道院建設は頓挫することなく再び動き始めた。それに伴って入会者も増えた。使徒職である出版活動も順調だった。ここまで起きた様々な苦しいこと、悲しいことを吹っ切るためにも歩みを止めるわけにはいかなかった。そして、マルチェエリーノの有り余るほどの「やる気の導火線」に、決定的とも言える火を点ける驚きのニュースが飛び込んできたのだ。それは1948年の夏だった。

  1947年ごろの東京・四谷見附(国立国会図書館所蔵写真)

戦争が終わって丸3年が経っていた。日本の統治という意味においては変わらず占領軍GHQのダグラス・マッカーサーが君臨していたが、日本の政治はめまぐるしい動きを続けていた。前年、日本国憲法施行後初の内閣としてスタートを切った社会党の片山哲を首班とする連立内閣は、片山の高潔な人柄もあって国民の大きな期待を集めた。しかし、不慣れな政権運営の中で次第に「グズ哲」と呼ばれるなど民心が離れてゆく。混迷を極めた挙句、片山内閣は8か月の短命内閣に終わった。代わって1948年3月に、社会党と連立を組んでいた民主党(現在の自民党の母体のひとつ)の芦田均が首相の座につく。戦後日本の基礎を作る様々な法律の制定に取り組んだが、昭電疑獄事件で躓いた。これは大手化学工業会社、昭和電工が政府の高官や政府系金融機関の幹部に対し行った大規模な贈収賄事件で、後のロッキード事件やリクルート事件などで「政治と金」の問題が浮上するたびに、今も引き合いに出されるので、その名前は聞いたことがある人は多いのではないか。事件は、大物高官や政治家らが逮捕され、GHQの幹部までもが失脚する大疑獄事件に発展する。結局、芦田内閣は倒れ、吉田茂による第一次政権が誕生した。

 では、この1948年はどのような時代だったのか振り返ってみる。1月には、有名な「帝銀事件」が起きている。現在のみずほ銀行や三井住友銀行のルーツにあたる帝国銀行の椎名町支店に、厚生省の技官を装った男が現れ、近所で集団赤痢が発生したと偽って予防薬と称する青酸化合物を飲ませて12人を毒殺、現金と小切手を奪った強盗殺人事件だ。この事件では、画家の平沢貞道氏が逮捕され、死刑判決を受けたが、獄中で死ぬまで無罪を主張し続けた。私(鈴木敏)が、若いころに出演していた「梶原しげるの本気でDONNDON」という番組の木曜コメンテーターであった遠藤誠弁護士が、平沢死刑囚の無罪を勝ち取るためにまさに死ぬまで闘い続けていた。遠藤弁護士から多くの話を聞き著作も頂くなどしたことが実に思い出深いが、1948年(昭和23年)はその帝銀事件に象徴される混とんとした時代であったと言える。全国各地で労働争議も相次いだ。そして、この年の11月に、いわゆる東京裁判が終結する。死刑判決7名、無期禁固16名、有期禁固2名、免訴3名、翌月死刑が執行された。これに先立ち、九州大学生体解剖事件の裁判も終結し、5名が絞首刑となった。作家の太宰治が玉川上水で愛人と入水自殺をしたのは、この年の6月だ。入水自殺の前後に、代表作の「人間失格」「グッドバイ」が発表されている。

明るいニュースも探しておこう。9歳の天才少女、美空ひばりがデビューした。フジヤマのトビウオと呼ばれた古橋広之進選手が、800メートル自由形で9分46秒6の世界新記録を出した。プロ野球は、ライバルの南海ホークスと読売ジャイアンツがデッドヒートを演じ、山本一人や別所昭の活躍で南海ホークスが制している。別所投手は後に文化放送の解説者として長年に渡ってご活躍頂いた関係で、私(鈴木)も新人アナウンサーの頃、良く出張のお供をした。出張先のホテルのレストランで、朝、モーニングセットをご一緒するのが習慣。朝から野球談議を伺った後に「じゃあ、今晩また野球場で会おうな。よろしく」と言ってさっさと部屋に戻ってゆく。説教などは絶対にしない。実に屈託が無く、私のような目下にもいつも優しい人であった。その別所投手が南海の大エースとして活躍し優勝したのが1948年のことだが、その年に暮れに別所投手と南海球団が契約交渉で決裂。巨人による「別所引き抜き事件」が起きて、それがセ・リーグとパ・リーグの2リーグ分裂騒動へと発展してゆくのだ。翌年の巨人への移籍を契機に、別所さんは名前を別所昭から別所毅彦に改名する。

では後に文化放送も深く関わることとなる大相撲はどうだろう。この年までは年2場所制だった(翌年から3場所制になる)。まず5月場所を制したのは、当時大関だった東富士(あずまふじ) だ。後にプロレス入りすることになる東富士は10勝1敗で五月場所を制したのだが、唯一敗れた相手が、何と当時東前頭だった力道山。10月場所は、綱取り場所となった東冨士との優勝決定戦を制した関脇の増井山大志郎が初優勝を果たしている。歌手デビューも果たした元大関増井山の父親で、後に三保ヶ関親方として横綱・北の湖を育てた。

この年のヒット曲(流行歌)としては、淡谷のり子の「嘆きのブルース」、灰田勝彦の「東京の屋根の下」などが知られるが、当時から、そして現在に至るまで圧倒的な存在感を誇っているのが、笠置シヅ子が歌った「東京ブギウギ」であろう。れっきとした1948年1月に発売された曲だが、資料によっては前年(1947年)の歌とされることもある。と言うのも、実は最初にこの曲が披露されたのが、1947年9月の梅田劇場なのだ。10月に日劇の舞台の挿入歌となり、映画「春の饗宴」の劇中歌となった。そして満を持してレコード発売されたのが1948年というわけだ。今も知られる笠置シヅ子のダイナミックな踊りや歌唱は戦後に始まったわけではない。派手なパフォーマンス(まさにパフォーマンス)や長いまつげは、戦前から警察の厳しい監視の対象となっていた。あまりに飛び回るのでマイクから離れて歌うことを禁止されていた時期もある。窮屈な時代でも自分のスタイルを変えることなく、戦後も活躍を続けていた時に「東京ブギウギ」を作曲した服部良一と知り合う。2人とも東京ではなく大阪の出身である点が興味深い(笠置は香川県生まれの大阪育ち、服部は生まれも育ちも大阪の人)。ちなみに作詞をした鈴木勝は、ハーフということが関係しているのかどうかわからないが、歌詞自体にも日本離れしたスケールを感じる。彼も京都の生まれだ。ちなみに笠置は1947年の5月に最愛の恋人であった、吉本興業トップの吉本せいの次男、吉本穎右(よしもとえいすけ)を結核で失っている。悲しみの中で、穎右との間の一粒種を抱えて生きてゆくことを決意した笠置に送られた曲が「東京ブギウギ」だ。レコーディングには米軍関係者たちも見学に訪れ、大歓声の中で行われたと言う。この笠置シズ子もまた、マルチェリーノたち同様、東京大空襲で家を失っている。不撓不屈の精神で辿り着き、日本中を席巻したこの曲をマルチェリーノも何度も聴いたに違いない。1945年の最大のヒットは、並木路子の「リンゴの唄」であったが、その3年後に登場した大胆で陽気な「東京ブギウギ」のメロディを聴くと、いよいよ日本が再起動を始めたことを強く感じる。そのような時代の空気の変化をマルチェリーノも感じていたに違いない1948年の夏、マルチェリーノたちに吉報が寄せられた。それは、民間放送局開設へ向けた動きだった。

長谷川昌子シスターの貴重な学士論文

ここからは、しばらく聖パウロ女子修道会・仙台修道院の長谷川昌子シスターがまとめた学士論文に依拠する。長谷川シスターは、上智大学の大学院生だった1972年に、聖パウロ修道会、女子修道会の先輩たちが文化放送で奮闘した記録を調査し、当事者たちへの取材も行って、修士論文としてまとめた人物だ。マルチェリーノをはじめ当時を知る関係者のほとんどが他界してしまった今となっては、実に貴重な記録だ。では、なぜこのような資料が文化放送本社に残されていないのか?その理由は追ってご紹介してゆく。長谷川シスターによると、マルチェリーノが、「民間放送局の設置が許可されるらしい」という情報を聞いたのは、どうやら懇意にしていたGHQの将校からだったようだ。ベルテロ神父の帰国以降、ララ物資などの調達においても便宜をはかってもらうことが多々あった。もちろん同じキリスト教徒として、また外国人同士ということもあり、GHQとの付き合いが深かったことは容易に想像がつく。とは言え、実はGHQは元々民間放送局の設置には消極的だったのだ。彼らは「情報」というものの重要性を痛感していたので、日本の左傾化を危惧する流れの中で、急進的な放送局の出現を危惧していた。公共放送のNHKは自分たちの考え通りに動いてくれるが、民放となるとそうはいかないだろうという懸念を強く持っていた。しかし、彼らには別の心配があった。平たく表現すると次のようなことだ。「NHKは戦前、戦中は大日本帝国に忠実な放送を行った。しかし戦後は一転して我々GHQの言う通りの放送をしてくれている。逆に考えると、いつか日本が主権を回復して自分たちいなくなった時に、共産主義勢力が力をつけたとしたら、今度は共産主義の宣伝放送局になるのではないか」日本の民主主義、資本主義を持続してゆくためには、民放を設立してNHKと民放の「2元体制」を作っておくことが一番良いのではないか。そういった考えに基づいて、GHQは、「放送はNHKが独占する」という戦前から続いてきた形を放棄することを決定した。それが1947年の10月のことだ。

 GHQとマッカーサーの使用車(国立国会図書館所蔵モージャー氏撮影写真資料)

1948年夏にもたらされた、この「民放設立が許可されるらしい」という情報を受けて、マルチェリーノは早速、放送局の設立を真剣に考え始めた。聖パウロ修道会の憲法と言える「聖パウロ会・会憲」の第260条には「本会は、できるところでは自己の放送局を有することができる」という規定がある。この規定を穴が開くほどに見つめながら、マルチェリーノはつぶやいた。「よし、日本にカトリックの放送局を作るぞ」

次回に続く

 

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