第5スタジオは礼拝堂 第46章「片道切符で大阪に向かう」

第5スタジオは礼拝堂 第46章「片道切符で大阪に向かう」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:「局舎建設と人材集めの日々」

第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」

第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」

第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」

第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」

第41章:「開局前夜祭」

第42章:「四谷見附の交差点が最大の関所」

第43章:「格が違うと言われて燃えた男」

第44章:「S盤アワーの青い鳥は近くにいた」

第45章:「疲れ果て、足でQを振る」

第46章:片道切符で大阪に向かう

文化放送は、1952年(昭和27年)3月31日(月)に開局し、4月2日(水)からは「S盤アワー」もスタートした。順調なスタートを切ったと言いたいところだが、かなり無理に無理を重ねた末の開局であったことは間違いない。しかも株式会社である他局と違い、唯一財団法人としてのスタートという足かせもあった。夢も希望も抱いてスタートを切ってはみたものの、霞を食べて生きてゆくわけにもいかないのも世の常。給料は安いし、スポンサーからのお金も入ってこない。社員たちの生活も決して楽ではなかった。ラジオ東京に比べて経営の規模も電波の出力も違う。夜になると「大学受験ラジオ講座」が始まる。受験生はみなラジオにダイヤルを合わせるのだが、逆に言えば受験生以外は誰も聴かない。つまり聴取率が下がってしまう時間帯になる。一般番組も然り。レコード時代の本格的な到来前で、毎回生バンドを入れると、当然だがその都度お金がかかってしまう。外部スタッフも安いギャラで協力してくれることが多かったし、社員たちの給料も遅配となることもあった。

そんな懐の寂しい新米局に、天下のNHKを辞して給与額の確認もせずに飛び込んできた原和男アナウンサー。NHKの上司に辞表を出した際に言われた「訳の分からないところに入って後々どうするんだ」という言葉を何度も思い起こす日々が続いた。

原は、1953年の3月に朝日放送の大相撲春場所の中継に協力するために、ひとりで大阪に出張することになった。相撲中継がやりたくて文化放送に入ったのだ。原は胸踊らせた。ちなみに当時のスポーツ中継を担当する報道課の責任者、大倉は原アナを呼んでこのように伝えた。

「原君、20日間大阪に出張に行ってもらうよ。ただし相撲中継は儲かっている番組じゃないから、君一人で向かってもらう。奥さんに手伝ってもらい急いで準備してくれ。あ、それからな。出張の費用は経理でもらってくれ」

原アナは言われた通り経理に向かったのだが、渡された封筒の中身を確認するとお札の数がずいぶんと少ない。原は尋ねた。

「あの~、私は20日間大阪に出張するんですよね? どう数えても2泊3日分のお金しか入ってないんですが、何かの間違いですか?」経理の女性は、悪びれる風でもなく、むしろ少し怒り気味に答えた。「原さん、あなた何を言ってるのよ?そんなこと言われたって、こちらだってなけなしの金を出してるのよ! 約束手形を切ってあげたいけど、現金にするには時間がかかるのよ。だから持っていっても使えないの、わかった?」 原は狐につままれたような気分になった。「そんなこと言われたって、3日分のお金で3週間暮らせるはずがないでしょ! 一体どうすればいいんですか?」「そんなこと私に聞かれたってわからないわよ。そういう話は大倉さんと直接相談してちょうだい。いいわね!」「わかりましたよ。ちなみに電車の切符はあるんですか」「行きの東海道線の切符はあるわ。帰りの分は無いわよ」 経理担当者はさらりと答えた。「じゃあ僕は大阪に行ったきりですか?」「ったく、しつこいわね! さっきから言ってるじゃない。あたしは経理なんだからそんなこと聞かれてもさっぱりわからないのよ。とにかく大倉さんに確認して頂だい!」 忙しいので、話はここまでよと言わんばかりに話を打ち切って、経理担当の女性は黒の腕カバーを引きあげながら、自分の机にそそくさと戻っていった。まるで漫才のようなやりとりだが当の原アナにとってはまさに一大事だ。「俺は今夢を見ているのだろうか?いや、これは現実だ。大阪への片道切符だけ渡されて、一体どうなってしまうのだろか?」 原は思い立ったように階段を駆け下りると、大倉がいる一階の報道課を目指して走った。「大倉さん!今、経理に行ったら3日分の日当と片道切符しかもらえなかったよ。これでどうやって20日間も出張するんですか?」大倉は待ち構えていたかのように、余裕の笑顔を取り繕って原の肩を叩いた。「原君、心配するな。君がいたNHKと違ってうちは商業放送なんだ。商業放送というものはだな、スポンサーがつけば金が入ってくる。つまり金が入ったらすぐに大阪に送金できるという算段だ。ところがまだスポンサーがつかないからお金は無い。渡したくても俺にもどうしょうがない。ただしそれだけあれば、とにかく大阪には行けるだろ?だから君は心配せずに大阪に向かってくれ」「これでどうやって心配せずに行けるんですか。僕は飢え死にしますよ!」「うーん、それを言われてもなあ。まあ、そのあたりの難しい話は朝日放送さんと相談してくれよ。よろしく」 原はただただ茫然とするしかなかった。とは言っても大阪場所は3日後に迫っている。このあまりにも不条理な状況をひとまず胸に収めて、原は自宅に戻ると出張にゆくことを妻に告げた。

原は翌日朝に大阪行きの東海道線「特急つばめ」に乗りこんだ。東海道線が全線電化されたのはこれから3年後の1956年のことで、まだ先頭車両は蒸気機関車であった。来日したマルチェリーノとベルテロが不安な思いで東京駅に降り立ったのは1934年のこと。あれから22年が経ち、空襲を受けた屋根も背が低くはなったものの綺麗になり、東京駅は首都の玄関口として再び賑わいを見せていた。駅のホームから、原も22年前のマルチェリーノのように、少ないお金と心細い思いを抱えながら大阪行きの東海道線に乗った。長くけたたましいベルの音ともに、汽車はホームを滑り出た。東京を出ると横浜、沼津、浜松、名古屋、岐阜、米原、京都と止まりながら汽車は大阪に向かう。約8時間かけて「つばめ」は大阪駅に到着した。

ABCの福田課長に助けられて

実況中継中の原アナウンサー、相撲中継のエースとして活躍した。

沈む気持ちと重い足を引きずりながら、原は大阪・中之島の朝日会館の中に入っていた朝日放送本社に向かった。朝日放送もスポーツ中継を担当していたのは報道課で、相談に向かった先は朝日放送報道課の福田保朝(やすとも)課長だった。

「福田さん、実は帰りの旅費も無ければ、日当も3日分しかないんですよ」「原君、それは大変やね。ところで宿はどうしたんや?」「こちらに来る前に電通さんに相談したら、安く提供してくれる宿がありそうなので何とかなりそうです。宿代も後払いで大丈夫そうなので。朝飯も食わしてもらいます」「そうか、それは良かったなあ。そやけど、朝飯だけやったら夜までもたんやろ。昼も夜もしっかり食わんと、ええ放送はできんわな。よっしゃわかった。そしたらうちの食堂を使うてんか」 そう言うと、福田は原を連れて朝日新聞社と共用の館内の食堂に連れて行ってくれた。文化放送の地下にある食堂は、町の食堂のような小ぶりでかわいいものだったが、朝日放送の食堂は広くてずいぶんと立派だった。「うちと違ってずいぶん大きい場所ですね」「そうかな。まあ、新聞さんと共用やからな。原君、とりあえず俺が20日分の食券を買うてあげるわ」「ええ!本当ですか。それはありがたいです。でもお代金をいつお支払いできるか..」「大丈夫や。いつでもかまへん。それよりも文化放送のエースの君がええ放送をしてくれることが一番大事やからな」そう言って、福田は食堂の窓口で束になった食券を購入すると原に手渡した。

人間は苦しいときに触れた人情を忘れない。朝日放送の福田課長は当時40歳。関西大学を卒業し朝日新聞に入社。文化放送よりも4か月早い1951年11月に開局した朝日放送の開局時からのメンバーだった。のちに1983年に遅咲きの社長となる。余談だが、在京局でもっとも早かったラジオ東京(現TBS)は1951年のクリスマスに開局しているが、在阪局の朝日放送はそれより1か月半早い。

各局の準備の速さがスタート順に反映されたため、開局順としては、一番が名古屋の中部日本放送、続いて大阪の新日本放送(現毎日放送)、3番目に同じ大阪の朝日放送が開局だった。つまり大阪ですでに2局が開局した時点で、首都である東京には何と民間放送局がまだ1局も無かったことになる。朝日放送も、当初は「大阪には1局」と言われ新日本放送とひとつの椅子を競っていた(最終的に2局が認められる)。少し先輩の局として朝日放送は文化放送の事情も理解し、その苦労もよくわかっていたのであろう。福田氏は、お金の無い文化放送から心細い思いでやってきた原を、馬鹿にするでも呆れるでもなく、ただ気遣ってくれた。

このように、温情で宿と食事は確保できたのでひと安心した原だった。毎日、淀屋橋駅のそばにあった宿で寝起きして、そこから歩いて4、5分の朝日会館の中の食堂に通う。昼食をとると交通費を浮かすために買った御堂筋線の回数券で難波駅に向かい、下車して大阪府立体育館に通った。放送が終わると、時には御堂筋を散歩がてら30分近くをかけて歩いて帰ることもあった。関取衆とも親しく話せるようになり、それはそれで充実した毎日だった。とは言え一向に東京からお金が送られてくる気配はない。

原「当時は長距離の電話料金が高かったから電話も掛けられないのです。朝日放送さんの電話を借りて大倉さんにお金の催促の電話をするんだけど、毎回『もうすぐ現金が入るから、待て』と言うんですよ。 しかし、2日待っても3日待っても金は入ってこない。 そこで春場所が始まって8日目か9日目にもう一度怒りの電話をしました。 『このままだと春場所の取材をやめて東京に帰ります。そして文化放送も辞めます』とね。 すると電話の向こうでさすがの大倉さんも焦ったみたいで、『おいおい、原君!そこまで早まるなよ。わかったよ、何とかするから』それでようやく残りの日当と帰りの東海道線の切符が送られてきたんです。宿代も清算することができました」

原はなんとか春場所の放送を終えて、帰京することになった。

帰りの日に原は福田にもう一度頭を下げた。「福田さん、本当にお世話になりました」「原君、お疲れさん。またよろしくな」当時は、会社が違ってもお互いスタートを切ったばかりの新米放送人同士の連帯感があった。もちろん社内でも苦労を分かち合う戦友として心のネットワークがつながっていた。原はあの日から数十年経った今でも振り返る。「僕だけじゃないと思う。みんな生活にはいっぱいいっぱいでした。中にはラジオ東京に移っていった人もいた。だけど文化放送の中で心をひとつにしてやれたのは、社内の空気が良かったからだと思いますよ」

のちに日本テレビに移籍し、アナウンス部長として徳光和夫氏や福留功男氏をアナウンサーとして採用することになる原アナは、放送というものは人間性が欠かせないのだという思いを貧しい文化放送時代に身につけたのかもしれない。

眠れないとスタジオの上階から神父が下りてくる

四谷の局舎は1階から4階までが放送局だった。逆に言えば5階と6階は放送局ではない。何だったかと言えば、マルチェリーノ神父やパガニーニ神父たちの「住まい」だった。文化放送社内では深夜も収録や編集作業が続くので、夜通し騒々しい。その音に悩まされ、神父たちが眠れないと訴えにくることもあった。ガウンを羽織ったマルチェリーノが階段を下りてゆく。編集中のディレクターたちが振り返るとそこには怒ったような困ったような顔で、小柄なイタリア人の神父が立っているのだ。「ミナサン、ソロソロ仕事はオワリニシテクダサイ。ワタシタチガネムレナイヨ」このようなコメディ映画もびっくりの光景が繰り広げられていた。笑うに笑えない、でもやはり笑ってしまう人間ドラマが四谷の教会のような局舎(教会兼局舎?)で繰り広げられていた。

作家、劇作家の井上ひさしは、宮城県の仙台一高を卒業後に上京。代々木上原にあったラ・サール修道院の宿舎に暮らしながら、上智大学に通学することとなった。バイト先は上智の目と鼻の先にある中央出版社(現サンパウロ書店)と文化放送で、生活のすべてがカトリックの中で回っていた。井上は1953年に上智に入学したが、一度辞めて療養所に勤めたり医学部を志し挫折したりと紆余曲折を繰り返した挙句、上智に復学していた。バイト先の文化放送で屑籠に捨てられたラジオドラマの台本を拾っては寮に持ち帰って熟読し、それが彼の脚本の参考書となっていった。井上は自伝的なコメディ小説「モッキンポット師の後始末」の中で、この時代のことをいきいきと活写している。

小説「モッキンポット師の後始末」は、主人公の「ぼく」が、仙台の孤児院で高校までを過ごした後に上京し、東京・四谷の「S大学文学部仏文科」で学びながら、四谷二丁目の「B放送」の裏にある「聖パウロ学生寮」で暮らし始めるという物語だ。まさに井上ひさし自身を投影している。S大学はもちろん上智(ソフィア)、B放送ももちろん文化放送、学生寮は正確には文化放送の裏ではなく代々木上原にあったが、聖パウロという名前そのものが聖パウロ修道会をそのまま指している。モッキンポット師も上智大学の実在のフラン人教師がモデルだ。小説の中で、モッキンポッド師は、主人公がストリップ小屋だった浅草のフランス座で働き始めたときにコメディフランセーズ(フランス国立劇場)と勘違いして喜んでくれるシーンがあるのだが、井上も在学中からフランス座で働いていた。もちろん小説にはかなりのフィクションというかデフォルメが加えられているので一種のファンタジーではあるが、それでも当時の「空気感」がよく伝わる小説だと思う。

寮の二階のぼくらの部屋からは、B放送の内部が手にとるようによく見えた。とりわけぼくらの興味を惹いたのは、アナウンス部室で、そこでは上等の生地で上等に仕立てたスーツを上品に着こなした男性アナウンサーたちや、服地も仕立ても着こなしも洗練された女性アナウンサーたちが、読書をしたり、お喋りに打ち興じたり、店屋もので食事をとったり、居眠りをしたり、こっそり給料袋の中身を数えたりしていた。それらのアナウンサーの中に「われらの蘭子さん」がいた。(講談社刊「モッキンポット師の後始末」より)

「われらの蘭子さん」とは、文化放送第一期生で当時人気のあった田中マリ子アナウンサーだったと言われている。田中アナはのちに「ユアヒットパレード」とういう音楽リクエスト番組も担当し、一世を風靡した。ところで、今の小説の中で気になるのは「上等の生地でできたスーツ」だ。アナウンサーたちは少ない給料の中で、なぜ上等なスーツを上品に着こなすことができたのだろう。ひょっとすると原アナウンサーのこの話にヒントが隠されているかもしれない。

原「聖パウロ修道会の建物のすぐ後ろにあったので、おそらく修道会の関連施設だったと思いますが、アメリカの中古衣料の販売会をやっていたのです。僕らはそれをものすごく楽しみにしていました。僕は日本人では大きい方だけど、それでも袖が長すぎてこんなに出ちゃう。それを買って帰って、今度は仕立て直しで袖などを詰めるんですよ。それを着て出社すると『原さん、似合うねえ』と言われたものです(笑)僕は『あたりまえだよ。僕が似合うというよりも、アメリカ人の着てるものは、さすがに中古でも立派なんだよ』と答えました。そうやって、みな中古のアメリカ製の服を買ったんですよ」

当時はまだ各所にPXがあった。PXとは、進駐軍や軍属とその家族専用の売店のことで、進駐軍が接収した百貨店などが売り場になっていた。銀座の服部時計店(現在の和光)などはその代表例だ。そしてそういった「PXもの」が日本人にも流れてくることがあったが、聖パウロ修道会のアメリカとの結びつきを考えると、「PX流れ」ではなく「アメリカ直輸入の中古品」だったと考えるのが自然だ。事実、マルチェリーノたちも戦後こうしたアメリカの中古衣料販売で文化放送局舎の建築費用を賄っている。貧しいながらも洋楽の番組を量産し、みなが洋物の中古衣料を着込んでいた初期の文化放送はハイカラな放送局だったとも言える。中には一般社員と結婚することになり黒衣を脱いで還俗したアスピラントもいた。彼女はその後も文化放送に在職し、黒衣を脱いだ翌日には口紅をさして現れ皆を驚かせた。貧しくもおおらか、アトホームな現場の空気を感じる。いい話ではないか。

一方、赤字の帳簿とにらめっこを続ける経営陣に、悠長なことを言っている余裕はなかった。会社創立のメンバーとして初代会長を務め、開局の挨拶も行った澤田節蔵(さわだせつぞう)は、開局して3か月に満たない6月12日に会長を辞任する。辞任理由は、東京外国語大学の学長としての仕事の多忙さであった。そしてマルチェリーノもまた監事の職から辞任することになった。澤田会長と違い、マルチェリーノについては現場の反発がすごかったのだ。マルチェリーノへの反発は、ついには労働組合の結成へとつながってゆく。代わって会長には徳川宗敬が、監事にはグイド・パガニーニが就任した。1972年、仙台修道院の長谷川シスター(当時は上智大学の学生)の学士論文制作のために開局当時に関わった関係者に聞き取り調査を行った。

長谷川「私はかつて会長だった澤田節蔵さんや常務だった小林珍雄(こばやしよしお)さんらに話を聞いたのですが、皆さん当時を思い出して『本当に大変だった』とおっしゃっていました。『マルチェリーノさんが可哀そうだった』とおっしゃることもありました」

会議でも修道会側と一般経営側が経営方針をめぐって対立した。マルチェリーノが激しい口調で訴えすぎて、さらに話がこじれることもあったようだ。マルチェリーノは来日して以降20年近く、まさに不撓不屈の精神で戦ってきたが、そのマルチェリーノをしても経験値の無い放送局を経営するということは想像を超える厳しさだったようだ。どちらの言い分が正しいかという話ではないところに面倒さがある。正義の敵は悪ではなく、相手の正義なのだ。

開局7か月後の1952年10月28日には「娯楽番組取扱細則」を作成し、世の中の反響を呼んでいる。これは一言で言えば、「自主規制」と言うもので、当時は歌謡曲が非常に盛んであったが、その中には低俗で卑猥なものも多い。さらには下ネタの多い寄席や演芸番組も同じだとして、そういった曲や噺は放送しないようにするというものだった。「真・善・美の理想を追求し、健全な社会道徳を涵養することを指導理念にしている」わけなので、当然の措置とも言えるが、この「娯楽番組取扱細則」は、1954年6月に「放送禁止歌謡曲一覧表」に進化。ついには1955年7月に日本民間放送連盟のバックアップにより、在京3社が「要注意歌謡曲一覧表」を作成、民放界全体に浸透してゆく。いずれにせよ、自己規制を強めることになったという意味では、個人的には決して良くは無かったと思う。ただし現代の目線で見れば、歌謡曲や廓話程度で?と思うが、その時代に身をおいてみないと理解はしづらい。それから十数年後、ビートルズが来日した際に、不良の集まるビートルズのコンサートには絶対行くなと中学や高校で指導があったというが、それと似たような話で、とにかく1950年代初頭には真剣な議論そのものだったのは事実だ。

マルチェリーノにしてみれば「財団法人として認められたのだから、国民の福祉や文化の向上のために放送を行うのは当然ではないか 」という筋を通したい思いは強かった。カトリック放送開局の夢をあきらめ土地も財産も文化放送に提供したのだ、ここまで譲歩してきたのだから少しは自分の思いを反映してくれという意地もある。制作費も無駄に使うのではなくもっと効率の良い放送を行い、上手にやりくりするべきではないのかという当然とも言える指摘をした。一方、日本人経営陣にしてみれば、放送出力も放送コードもラジオ東京に比べて不利な条件の中で戦うのはこれ以上無理だ。放送の仕事は理想だけではだめで、もっと一般大衆に訴えるものでないと会社は成長しない。現実を見て欲しいし、もっと柔軟な頭で考えて欲しいという思いがあったであろう。

経営方針の違いは異文化の衝突でもあった。裏表がなく正直にものを言いすぎるイタリア人のマルチェリーノの言葉は、曖昧な物言いを是とする日本人経営陣には刺激が強すぎた。温厚なパガニーニが間に入ってとりなすこともあったと言う。11月2日には、労働組合の第一回臨時大会が開かれ、闘争態勢に入った。部長会も設立された。表面的には組合と会社の間に入って穏便に労働争議を納めるためのものに見えたが、実際には会社と結託してマルチェリーノを経営から追い出す算段をする組織であった。会社経営の厳しさと社内対立の難しさという二重苦の中で、元々胃が丈夫ではないマルチェリーノの体調は再び悪化し始めていた。ついにマルチェリーノは常務理事から身を引き、五泉忍が変わって就任した。これで常務体制は木内、小林、五泉の3人が担当することになる。重要事項について、常務理事会の議論を経て会長が最終的に判断することとなった。12月6日には、聖パウロ修道会とともに文化放送の経営に参画したラジオ東都と東京ラジオセンターが郵政省電波監理局長宛てに陳情書を提出する事態となる。要は、この内紛が収まらないので、当局に介入して欲しいということを意味していた。

マルチェリーノは ある日、制作現場のメンバーに自分のアイデアをぶつけた。それはアナウンサー数名だけで一日の放送のすべてを回せというものだった。1人目のアナウンサーが朝から昼まで喋る、次が昼から夕方まで喋る、その次が夕方から夜中までというように時間交代制にしてシンプルな番組作りに徹すれば制作費は抑えられるというものだ。このアイデアに対して、原ら現場の面々は無理難題だと反発して、猛烈な抵抗に出た。結局このアイデアは実現しなかったが、あれから数十年を経て原は考えることもあるという。

原「局舎の中を全て掌握していたマルチェリーノが、責任者として適任だったことは間違いない。数人のアナウンサーだけで放送を回すと言うアイデアも、文化放送の経営が厳しいからこそ、苦肉の策で考えたのだろうと思います。彼は放送の常識というものにとらわれない人で、古い常識に縛られなかったのはある面で素晴らしいと思う。これが良いと思ったことは躊躇せずぽんぽんとやらせる決断の早い人でした。破天荒で何を言い出すかわからないタイプだけれども、一理あるなということも多々ありましたよ。 ただし、自分はこれで間違いないという自信がある一方で、現場で汗を流した経験がないため現実を知らないこととのギャップがあったのも事実。 そしてその考えを理解してもらうには、敵が多すぎたのでしょう。ある意味でとても無責任で、ただしある意味で非常に責任を感じているからこそ、アナウンサーだけで回せというような非常識とも思える命令も出してきたのだと思います。諸刃の剣でした」

マルチェリーノは、猪突猛進の人だ。そのパワーで逆境をはねのけてきたが、この経営問題に関しては、そのエネルギーがうまく歯車とかみ合わなかった。

原「アナを減らせと言われたときに、マルチェリーノさんとも徹底的に話しましたが、 彼に対して、『なんだ』というような反感は不思議なほど湧きませんでした。彼の熱意もよく感じました。ただし、マルチェリーノさんが実際の放送現場を体験してから経営に関わっていたらもっと良かったのにとは思います。現場で働いている立場からすれば、社団法人が株式会社に変われば、もっといい経営になって、我々ももっといい仕事ができるのにとずっと思っていたのも確かです」

マルチェリーノはローマの本部から派遣されて日本にいる身なので、体調を悪くしてまで荒波の中を泳ぐ必要は無かったはずだ。大滝玲子シスターは、当時のマルチェリーノの心境を、「布教のために日本に来たものとして、送られた所に踏みとどまらない限り、その場所のためには何もできない」と覚悟をしていたのではと想像する。大瀧シスターにとって忘られないエピソードがある。

大瀧「私は当時、小さな手術で聖母病院に入院したのです。ある日、とつぜんマルチェリーノ神父が現れて、椅子を逆にして座ると『ところで、体調はどうかね?』と聞きました。私は、逆に『神父様こそ何のために、ここにいらっしゃるんですか?』と聞きました。すると、マルチェリーノ神父はひとこと『逃げてんのさ』とおっしゃったのです。まだ若かった私には『何から逃げているのですか』と聞く勇気はありませんでした。

大瀧シスターは、このエピソードは文化放送の経営問題ではなく、布教方法の考えの相違が原因だったのではないかと考えている。カトリックも多くの宗派がある。その中で、出版や放送といった新しいメディアを使徒職とすることは反発もあったのではないかと。ただしカトリックを取り巻く状況も変わりつつあった。

長く社会問題とは距離を置いてきた、というよりもマスメディアを含む近代思想と対決してきたとも言えるカトリック教会が、ヨハネ23世、パウロ6世と続く教皇の時代に、「時代への適応」を課題として会議を幾度も開き、戦争、平和、冨、貧困といった問題に向き合う劇的な変化を遂げた。これを第二バチカン公会議と呼ぶが、それは1962年から1965年のことだ。思えばこの第二バチカン公会議よりずっと前の時代に、聖パウロ修道会が出版や放送をやろうという開明的な発想で世界に足を延ばしていったことは驚くべきことだ。極東の国で過酷な戦時中も日本を離れず、戦後も攻めの姿勢を貫いてきたマルチェリーノが「逃げたくなった」のは何からなのだろうか?その答えは今となってはわからない。

年があけて1953年1月1日から放送時間が30分間延長され、放送終了時間が午前0時となった。2月27日には、放送局の再免許申請書を郵政大臣に提出している。3月13日には、カトリック信者でもあり日本人経営者の中では数少ないマルチェリーノの理解者でもあった小林珍雄常務理事が編成局長を辞任し翌月には常務理事も辞め利光常務理事に代わった。4月9日には大きな人事異動が行われ、文化放送からカトリック的な色彩が大きく後退した。さらに5月になると、郵政省が「標準放送用周波数割当の方針」を決定する。その発表の中には文化放送にとって驚くべき事項が含まれていた。それは東京で3番目となる民間放送、ニッポン放送の開局であった。民放の生き残り競争はさらに熾烈になることが予想されるばかりではなく、郵政省から、新局に文化放送の持つ周波数1310キロヘルツを割り当てるので、1130キロヘルツに引っ越すように指定されたのだ。この周波数変更にあたっては、塚田十一郎郵政大臣から、いわゆる塚田試案なるものが示された。それはニッポン放送(当時は日本放送)に1310キロヘルツを与えることと、文化放送には50kw増力許可する条件として、国際宗教放送を包含させるというものだった。国際宗教放送とは何かと言えば、民放開設競争の際に名乗りを上げていた仏教関係の有力者、安藤正純の会社だった。安藤はジャーナリストの出身で、日本文化放送協会の賛同者として力になってくれた人物、当時は国務大臣を務めていた。しかしいくら何でも、今さら仏教とキリスト教の合併はあまりにも無茶だ。しかし塚田大臣の試案は50kwへの増力と、国際宗教放送との一本化がバーター条件になることを示唆していた。合併により経営を立て直してより大きな放送局を目指してはどうかということだったが、文化放送理事会は反対した。しかし、当局からの働きかけは執拗に続く。せっかく開局したのにまたしても「合併せよ」との圧力にさらされる中、木内や利光らの「会長派」は、国際宗教放送を吸収することもやむなしとの結論を出した。しかしマルチェリーノや五泉らの「カトリック派」は、言うまでも無いことだが仏教との合併には反対。さらに対立が先鋭化していった。結局どうなったかと言うと決議によって会長派が勝ち、国際宗教放送を受け入れることになったのだが、肝心の国際宗教放送側が条件に難色を示して固辞することとなった。

こういったもめごとが起きるのは、全て「経営が苦しい」からだ。文化放送の経営においては金銭問題は避けて通れない。中でも衝撃を与えたのは、1953年に平和相互銀行との間で起きた問題だった。 1953年11月26、日本文化放送協会は平和相互銀行から約4000万円の融資を受けていたのだが、その平和相銀が貸金金利の早急な利上げの意向を示し、11月26日には4日後の11月30日までに4000万円を全額返済せよと迫ってきたのだ。平和相銀は、様々な会社を吸収してコンツェルンを形成する一方、「闇の紳士の貯金箱」という異名をとるほどに、資金の流れが不透明な銀行でもあった。最終的には1986年の平和相銀事件をきっかけに当時の住友銀行に吸収されるのだが、その30年以上前にこのようなトラブルがあったのだ。

単純比較はできないが、4000万円は現在の貨幣価値では数億円から10億円近くに達する金額だ。開局間もなくいキャッシュフローの乏しい赤字経営の会社が、突然10億円返せと言われてしまい、当時の財務担当の五泉常務は途方に暮れてしまい、木内良胤(きうちよしたね)常務がこの危機を引き継ぐことになった。木内は銀行につなぎ融資を頼み、何とか息をつなぐことに成功する。長谷川シスターが50年前にまとめた資料によると、特別に融資の手を差し伸べてくれたのは、当時の三菱銀行、富士銀行、東京銀行の3行とローマ教皇使節とある。ローマ教皇使節とはバチカンの在外公館で、現在の駐日本国ローマ法王庁大使館だ。つまり文化放送の窮地を救ったのはローマ教皇庁だったことになる。これは文化放送社内でもほとんど知られていなかった事実で、バチカンが手を差し伸べるということは銀行に対する信用保証のような意味あいもあったであろう。もうひとつ言えば、三菱銀行も融資に協力しているが、外交官出身の木内常務の祖父は三菱を作った岩崎弥太郎だった。いずれにせよこのようにして会社の首はつながった。

この平和相銀問題をきっかけに大きな動きが生まれた。まず財団法人文化放送協会の経理が悪化していることが白日の下にさらされてしまった。それまでは、色々贅沢な番組を作っているが何とかなるだろうという体質だった。それが大きく変わり、経営者側の責任問題もあいまって修道会側と徳川宗敬(むねよし)会長派との対立も激しくなっていった。徳川会長は水戸徳川家の流れをくむ人物で、最後の将軍徳川慶喜は大叔父にあたる。大名とキリシタンの「協力と対立」。教会のような局舎の中で、まるで戦国時代の絵巻物のような話が展開されてゆくのだった。

次回に続く

 

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