第5スタジオは礼拝堂 第28章「社団法人セントポール放送協会」

第5スタジオは礼拝堂 第28章「社団法人セントポール放送協会」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章「社団法人セントポール教会」

1947年9月、カトリックの放送局設立という大きな夢に向かってスタートを切ったマルチェリーノ。とは言っても、どうすれば放送局なるものを作ることができるのかは、皆目見当がつかなかった。それも仕方がない。日本国憲法が施行されたのは、わずか約1年4か月前のことで、憲法も法律も皆が勉強中の段階だったとも言える。そこで、マルチェリーノは放送局設立を目指すにはその道のプロに相談するしかないと考え、放送局設立へ向けての「下調べ」を寺師文二に依頼した。寺師は戦前戦中、中国で放送業務に従事していた人物だ。

少しだけ中国と放送の話に脱線させよう。1937年に日中戦争が起こると、天津に駐屯していた関東軍は現地のラジオ局を強制的に停波させ、満州電信電話株式会社(以降、満州電電)に新しい放送局を運営させることにした。満洲電電は、1933年8月31日に設立された電信や電話業務を担ってきた国策会社だが、関東軍はラジオの放送業務もこの満州電電に担わせることにした。そしてナチスの巧妙なやり方から、映画やラジオと言ったマスメディアが国民に向けたプロパガンダにいかに有効かということを、日本政府もよく分かっていたので、表向きは日本と満州の合弁という形を取り、放送を含む電気通信事業を満州電電に独占的に経営させることにしたのだ。満洲電電は北京にも大電力の放送局を新設し、NHKが運営にあたることになった。

中国大陸で諜報活動に従事していた岩本正敏

当時、多くの日本人が満州で放送という新しいメディアに従事していたが、その中には、後に文化放送の設立に参画する岩本正敏もいた。1910年生まれの岩本は、早稲田大学を卒業後、1938年にNHKに入局したが、入局当初から中国大陸に渡りたいという希望を持っていたと言う。島国から大陸に渡り、外の世界を見てみたいと願う気持ちは多くの人が持っていて、当時は「旅行満州」などという雑誌も発行されていた。身近な外国、今で言えばハワイに行くような気分だろうか。しかし岩本の仕事はそのような牧歌的なものではなかった。NHKから北京華北広播電台に出向すると、山西省の奥地に送られていわゆる謀略活動に従事することになったのだ。岩本は、このことを1996年6月発行の「月刊民放」のインタビューの中で触れている。仕事の中身について詳細は語っていないものの、次のような証言を残している。

「前線へ前線へと踏み込みました。43(昭18)年当時、函谷関の近くの運城という、塩の池があることで有名な所に3年ほどいましたが、日本軍が入ったあとで、中国人の死体累々という異様な状況でした。また夏になると、さそりの大群が発生し、手洗いの壁が見えないほどいるのです。そっとしておけば害にならないのですが、靴の中に入ってくるのがいて、靴を履くとき2度刺され、大変な目に遭いました。45(昭20)年、終戦を迎え、北京の郊外に放送関係の日本人が20人くらい集められ、強制労働につかされました。その間、仲間が2人殺されました。2年ほどそこにいて引き揚げてきたのです。」(月刊民放1996年6月号より)

淡々と記者の質問に答えているが、その体験の過酷さには戦慄を覚える。岩本のこのすさまじい体験を「月刊民放」が聞き取ってくれていたのでこうして紹介できるのだが、文化放送には全く記録が残されていない。ちなみに、私(鈴木)の入社試験の最終面接者が、当時会長だった岩本だった。威厳と言うか風格と言うかそういうものを感じさせる人だなと思ったのを覚えている。その時に短いやり取りをしただけで、入社後、直接話す機会も無かった。文化放送を作った後、日本教育テレビ(現テレビ朝日)の創設にも参画した生きる放送史とも言える岩本のような人物にもっと様々な話を聞けたのではないかと強く思う。ところで、岩本のように大陸で放送業務に従事したNHK局員には、後に文化放送で番組を担当することになる俳優の森繁久彌もいた(当時はアナウンサー)。まさに多士済々の人たちが、大陸に夢を持って渡っていた時代だ。満州は、終戦時には日本人の人口が170万人近くまで膨らんでいたと言う。それが一夜にしてソ連や中国に追われる運命となるのだから、戦争がいかに人々を不幸に陥れるものかと痛感する。満州電電もまた、戦後はソ連や中国に接収されて閉鎖に追い込まれるという悲しい運命を辿る。

民放局設立の夢はかなうのか

話を戻そう。寺師は早速、ラジオ局設立の可能性を探るべく動き始めた。「ラジオ局を作りたい!」と念願したのは当然ながらマルチェリーノたちだけではない。新時代を迎えた日本の各地で、放送局設立へ向けた動きが同時に始まっていた。前回も触れたが、当初はGHQは決して良い顔をしなかった。正確には、難色を示したのはマッカーサーではなく、GHQ内の民間情報教育局(CIE)初代局長だったダイク准将だったと言われている。ダイクは後にアメリカに帰国し、現在のアメリカ4大ネットワークのひとつNBCの重役になった人物だ。そのようにGHQ、CIEの態度が一転軟化して、民放設立に向けて積極的な姿勢を取り始めると、日本政府の態度も変わる。通信や郵便などを監督する逓信院が1946年7月1日に逓信省に昇格され、さらに大きな権限を有することで放送局設立向けての体制も強化された。ちなみに逓信省は、後に郵政省と名を改め現在の総務省のルーツとなる。聖パウロ修道会への民放局設立許可の話がGHQからもたらされたという経緯もあり、マルチェリーノたちは、逓信省に足を運ぶよりも先にGHQに陳情に行った方が早いと考えた。そこで、マルチェリーノは、キエザ神父、寺師文二、さらには後に文化放送の技術部長に就任することになる足立正雄の3人を連れて、CIEの中に設けられたラジオセクションに足を運ぶと、自分たちは放送局を作りたいと懸命に意思表明を行った。ちなみに聖パウロ女子修道会の長谷川シスターは、世界では南米やアメリカ、イタリアなどですでにカトリック放送局が設立されていたことが、マルチェリーノの頭の中にあったのではないかと推測する。つまり突飛な発想ではなく、先例がすでにあったので、案外カトリック放送局の姿をイメージし易かったかもしれない。とは言え、欧米で違って日本はキリスト教徒が主流を占める国ではないので、そう簡単な話ではなかった。ちなみにCIEへの陳情で名前が初めて登場した足立正雄は、「日本文化放送の設備概要」と言った現存する多くの文化放送開局時の古い技術資料で名前を確認することができる創成期の功労者だ。マルチェリーノたちも大変だったと思うが、足立も技術の責任者として、一から放送局のシステムを作っていったわけでその労力は大変なものであったろう。

動き始めたマルチェリーノたちにとって、最も重要なポイントは「トップを誰にするか」だった。マルチェリーノは自分がトップに立ちたいわけではなく、悲願の放送局を作ることだけが目的なので、そのための近道にはどうすれば良いかということだけをひたすら考え、多くの人たちの助言も仰いだ。とにかく「大向こう受け」することが、カトリック放送局実現に向けて不可欠の要素だ。人望も教養も忍耐もある人物でないと、ラジオ局立ち上げの「冠」は務まらない。そこで白羽の矢が立ったのが、外交官の澤田節蔵だった。澤田は、1884年に鳥取県の旧家の長男として生れた。東京帝国大学を経て外務省に入ると、とんとん拍子に出世。パリに本部を置いた国際連盟の日本事務局長や常駐代表を務めるなど日本外交の顔となる。日本は国際連盟の常任理事国であったが、1931年に満州問題に関するリットン調査団報告書を不服として、時の松岡洋右外務大臣が電撃的に脱退する。議場を颯爽と後にして国連を脱退した松岡の行動は国内で喝采を浴びたが、それによる国際的な孤立が日本にどのような結末をもたらしたかについては論を待たない。澤田は、その時、国際連盟を脱退することに強く反対したと言われている。その後、ブラジルの大使となり、日伯(ブラジル)交流にも力を尽くした。そして平和主義者でリアリストの澤田が、第二次世界大戦末期に鈴木貫太郎内閣の顧問になる。鈴木首相の狙いは、英米通の澤田の知恵も借りて戦争終結を目指すことだったとみられ、ソ連への仲介依頼は意味が無いと主張したが、その主張は実らなかった。結局、ソ連は、終戦後に日本の領土に侵攻して、国後島や択捉島などを奪取。現在も不法占拠を続けているわけで、外交に関して澤田の大局的な視点は常に的を射ていた。こうした澤田の横顔は、アメリカ側も高く評価していたため戦犯になることも無かった。戦後は文部省の中央審議会で、GHQ教育情報局とのパイプ役となる運営委員長に就任。さらには東京外国語大学の初代学長にも就任した。外交官の澤田廉三、実業家の澤田退蔵とともに世間では「澤田三兄弟」と呼ばれる有名人で、クリスチャン(プロテスタント)でもある。GHQおよび逓信省を意識した「看板」にするには申し分のない人物であった。その澤田を発起人代表にして、ついにマルチェリーノたちは、逓信省の電波局に「社団法人セントポール放送協会」の申請をする。東京に1kw局、さらにいくつかの地方にも1kw局を開設するという計画であった。名称の「セントポール」は、英語の発音で「聖パウロ」を意味する。つまりカトリックの聖パウロ放送局だ。放送局開設申請に辿り着いたこの記念すべき日は、1948年の12月25日土曜日だった。まだ焼け跡が残る週末の東京の街。再建の進むあらゆる教会で賛美歌の調べが響いていた。

次回に続く

 

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