第5スタジオは礼拝堂 第29章「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第5スタジオは礼拝堂 第29章「ザビエルの聖腕がやってきた!」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

 

第29章:ザビエルの聖腕がやってきた!

1949年(昭和24年) 2月、マルチェリーノたちは放送局設立準備のため「セントポール放送協会事務局」の一室を、四谷・若葉にある聖パウロ修道会の建物の中に置いた。設立準備委員には、マルチェリーノのほか、田中耕太郎や犬養健(たける)ら「名士たち」が名を連ねた。田中耕太郎は、第一次吉田茂内閣で文部大臣を務め、教育基本法の制定に力を尽くした人物。内村鑑三の門下生というカトリック教徒でもあり、当時は参議院議員を務めていた。犬養健は五・一五事件で凶弾に倒れた犬養毅元総理の三男で、当時は公職追放が解かれ、民主党(現在の自民党のルーツ)の総裁を務めていた。彼もまたクリスチャンで、縁戚の武者小路実篤らの影響で戦前から作家活動も行っていたという異色の政治家であった。タレントの安藤和津さんの父親であると言った方が分かりやすいかもしれない。マルチェリーノにとっては、キリスト教徒で且つ政界に身を置きながら文化芸術にも長じた彼らは、放送局設立の準備委員として申し分のない面々だった。犬養たちには、政府やGHQへの働きかけも期待したのだが、政治力を使って訴えることはマナー違反で、結局のところ周囲の反発を買うことにもなりかねない。したがって彼らはあくまでも聖パウロ修道会の「名刺代わり」のような存在だったと考えられる。

澤田学長がセントポールの名刺代わりに

そのような思惑もあって設立委員のトップには、政治家ではなく、しかし「名士」であり、教養豊かな人物を選ぶ必要があった。そこで白羽の矢が立ったのが、東京外国語大学の学長でクリスチャンでもあった澤田節蔵だったというわけだ。澤田は発起人代表という大役を引き受けることになった。一方、現場で細かい実務にあたることになったのは、事務局長の寺師文二と事務長の岩本正敏だった。2人はNHKの職員として中国大陸で放送業務にあたった経験を持つ「放送現場のプロ」だ。ただし、2人の役割は違っていて、寺師は主として放送法をとにらめっこしつつ、政治や行政の窓口となるいわゆる編成担当。一方で、岩本は民間放送局としてスポンサーを見つけるなど、営業や財務面の業務担当だった。いずれも一から体裁を整えねばならないのだから、想像を超える重責だったであろう。

彼らのほか、多くの賛同者が設立委員に名を連ねてくれた。木内良胤(きうちよしたね)は、聖パウロ修道会発祥の地であるイタリアの在日大使館で参事官を務めた経験のある元外交官。フランスや中国、満州、スイス、チェコスロバキアなどでも勤務し、まさに「世界」を見てきた人物で、約2年前に退官していた。そして上智大学教授の小林珍雄(よしお)。小林は20代後半に洗礼を受けてカトリック教徒になった学者で、上智と文化放送のつなぎ役だった。後に文化放送を離れて上智学院の理事となり、晩年には「カトリック大辞典」の編集委員も務めている。彼らの協力もあって、まずは順調に局舎の建築計画も進んでいった。今から思えば、国の認可が下りるかどうかも分からないうちに具体的に動き始めることは無謀だとも思えるが、そこまでしても「放送局を作りたい」という本気度を世間にも当局にも示す必要があったとも言える。と言うのも強力なライバルが数多くいたからだ。

ザビエルの聖腕が日本に来る

ところで1949年(昭和24年)はカトリック教徒にとって深く記憶に刻まれる重要な年だった。というのも、この年、フランシスコ・ザビエルの来日400年祭が各地で盛大に行われたからである。カトリックに詳しくない人も、フランシスコ・ザビエルの名前は教科書で勉強しているはずだ。ザビエルはキリスト教の聖人の一人であり,日本にキリスト教を伝来させたあまりにも有名な人物。そのザビエルが来日したのが1549年で、その400年後にあたる1949年の記念すべき年にローマからすごいものがやってきた。それはザビエルの「聖腕」だ。「聖椀」と聞いて、十字架や使った小鉢のような象徴的なものかと想像してしまうが、そうではない。読んで字の如く、まさに本物のザビエルの片腕が日本に来たのだ。カトリック信者にとっては常識だが、知らない人間が聞くと驚いてしまう。聖腕は「奇跡の右腕」と呼ばれている。ザビエルは、1552年に日本を離れて、中国へ向けて布教のため旅立ったのだが、上川島という広東省の沖合にある島に着いたものの、そこで留め置かれてしまい中国本土への入境は認められなかった。懸命の交渉も空しく入境は難航し、約3か月後に、心身とも疲れ果てたザビエルは肺炎にかかり亡くなってしまった。失意の中、信者たちはザビエルの遺体をインドのゴアに運んだのだが、その際に防腐措置として棺に石灰を入れた。このことによって、ザビエルの亡骸はミイラとなった。ザビエルの死後50年を過ぎた時に、当時のイエズス会総長の命によって、右腕が切り落とされたのだが、鮮血がほとばしったと言い伝えられている。ミイラ化したことによって、良い状態で保たれていたということのようだ。ザビエルの亡骸は、それに接した人たちが苦しみから解放されると言われている有難いもので、今はかつてイエズス会の本拠地があったイタリアローマのジェズ教会の「聖フランシスコ・ザビエル礼拝堂」に保管されている。この聖腕は、それから50年後の1999年、ザビエル来日450年の際にも再度来日し、箱に入れられた状態で展示されたので記憶している人もいるかもしれない。しかし1949年の熱狂ぶりは想像を超えるものだった。

聖腕の「来日」にあわせてローマ教皇の特使としてオーストラリア・シドニーの大司教、ギルロイ枢機卿が巡礼団の団長として派遣。スペインからは33名の使節団が聖腕とともに来日したのをはじめ、アメリカ、フィリピン、インドなど世界20か国からの使節団が集まる世界的な行事となったのだ。聖腕と巡礼団は、長崎の浦上天主堂廃墟前でのミサを皮切りに,鹿児島、平戸、博多、山口、京都、長崎、奈良、広島、名古屋、大阪など全国各地を1949年の5月29日から6月12日まで15日間かけて巡った(ちなみに浦上天主堂が再建されたのは1959年のこと)。まだ占領軍以外の欧米人を見た事も無いような時代。軍服ではなく聖職者の姿をした巡礼団が聖腕とともに全国を巡ったことは日本人の目には異国情緒溢れる行事だったに違いない。この巡礼は日本の戦後初の国際的イベントとなった。ミサは西宮球場でも行われたのだが、それも言わば野外コンサートのようなもの。まさに日本中がザビエルブームに沸いたのだ。聖腕を乗せた列車が通り過ぎる駅のホームでは、日本各地で信者が大勢集まり祈った。そんなザビエルの右腕のお里帰りの旅は2週間の行程を終えようとしていた。聖腕巡回の仕上げのミサが行われたのは東京の神宮外苑。そのミサが行われた後、聖腕は四谷にある上智大学に隣接する聖イグナチオ教会にやってきた。ザビエルが日本で念願したのは大学の設立で、それが具現化したのが上智大学だ。そして聖イグナチオ教会は、聖腕による祝福にあわせて建設が進み、わずか2か月前に完成したばかりだった。

 戦時中の弾圧と空襲による修道院の焼失という悪夢のような日々からわずか4年しか経っていないにも関わらず、無事に修道会の活動は再開し、盟友のベルテロも帰国。念願の放送局設立に向けての歩みも進んで、聖人ザビエルの聖腕は完成したばかりの聖イグナチオ教会にやってきた。悪いことの後には必ず良いことがあると、マルチェリーノはしみじみと感じた。そして、その思いが最高潮に達したのが、文化放送会館の定礎式だった(当時は聖パウロ会館と呼んでいた)。巡礼団と聖腕の来日にあわせて行われた定礎式には、ギルロイ枢機卿の代理であるマクドネル・ニューヨーク福司教が出席してくれた。定礎式が行われると、いよいよ工事が始まる。多くの援助や協力を得て建設が始まった。建物は完成したが、免許は下りませんでしたは許されない。とにかく前に進むしかない。マルチェリーノは武者震いした。

次回へ続く

 

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