第5スタジオは礼拝堂 第47章「内紛は続くよ、どこまでも」

第5スタジオは礼拝堂 第47章「内紛は続くよ、どこまでも」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:「局舎建設と人材集めの日々」

第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」

第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」

第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」

第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」

第41章:「開局前夜祭」

第42章:「四谷見附の交差点が最大の関所」

第43章:「格が違うと言われて燃えた男」

第44章:「S盤アワーの青い鳥は近くにいた」

第45章:「疲れ果て、足でQを振る」

第46章:「片道切符で大阪に向かう」

第47章:内紛は続くよ、どこまでも

平和相合銀行問題を端緒に、文化放送協会の財務状況が非常に厳しいことが世間に知れ渡ることとなり、経営者内部ではマルチェリーノら聖パウロ修道会側と徳川宗敬(むねよし)会長ら一般経営陣の対立があらわになった。現場も指揮系統が2つある状態になり混乱もする。開局した年の7月には労働組合も結成され労使対立も深まっていた。

この問題を調べた長谷川昌子シスターの上智大学学士論文によれば、平和相銀問題で対応に苦慮した五泉忍常務理事が1954年の2月に辞任すると、5月に控える役員改選を睨んで対立もさらに表面化。会社創立時の功労者である岩本正敏も営業部長から外れ、理事や評議員も変更となった。顧問には戦前から軍部批判を続けてきた政治家で日本宗教連盟理事長の安藤正純らとともに、石坂泰三、渋沢敬三の2人が入った。石坂は当時東京芝浦電気(東芝)の社長で、人員整理に大ナタを振るい会社再建に成功したばかり。NHKの大河ドラマでクローズアップされた渋沢栄一の孫の渋沢敬三は当時57歳。終戦後、幣原喜重郎内閣に大蔵大臣として入閣し国債など国家債務の整理にあたった。その後、GHQによる財閥解体と公職追放の憂き目にあっていたが、追放が解除されてからは経済団体連合会の相談役に就任し、前年の1953年に国際電信電話(KDD)の社長に就任したばかりだった。財界の大物2人が加わったことで、文化放送協会はマルチェリーノの会社創立の思いからさらに遠のき、商業放送の側面が一層強くなっていった。機構改革も行われ、局長から課長まで大規模な人事異動も行われたが、事態は好転しない。組合とはベースアップに関する話し合いが続けられていたが、経営陣の混乱収拾を最優先にするため、会社側から組合側に回答延期を申し入れた。4月には、徳川会長をはじめ木内常務、利光理事らへの退陣案も出される事態に至り、一連の動きを受けて中間管理職である「局長」「部長」「課長」らによるQR会も結成されると、彼らは徳川会長派の理事への支持を決議した。いよいよ持って生臭い動きになってきた。この年の7月には財界が注力してスタートするニッポン放送の開局も控えていてラジオ業界の競争も一層熾烈になることが予想された。まさに内憂外患と言うしかない状況の中、現場にも経営や管理職の動揺が伝わってきたが、現場スタッフにはそれらを吹き飛ばすエネルギーがあった。

「S盤アワー」「素人ジャズのど自慢」などの人気番組に加えて、1953年には現在も続く「録音風物詩」が放送を開始。1955年には初期の人気ラジオ番組の代名詞とも言える「ユア・ヒット・パレード」が始まった。この番組も「S盤アワー」の成功を受けて日本ビクターの小藤プロデューサーが制作を依頼された。ただし提供主にはジュジュ化粧品など各社が入り、ビクターはスポンサーではない。つまり小藤はビクターに籍を置きながら放送の世界で新たにプロデューサー業の世界を広げつつあったのだ。

ユア・ヒット・パレードの人気

ユア・ヒット・パレードは、ビクターの曲をかけると言う縛りも無く、S盤アワーと違いネット局も持たなかった。そして制作チーフは文化放送の社員である大塚三仁(みつひと)ディレクターが担当することになった。編集の名手と呼ばれた大塚が、片手の指先でテープを挟んで斜めにパチンとハサミを入れスプライシングテープを貼りつけると、あっと言う間に音楽がきれいにフェイドアウトしてゆく。そんな魔術師のような大塚の、制作者としての本領がフルに発揮されることになった。一方、小藤はS盤アワーのように番組収録に立ち会うことも無く、ひたすら映画会社とのタイアップの段取りに邁進した。番組は、毎週月曜日の午後9時から放送の1時間番組で、前半はリスナーのリクエストによるベスト20の発表。中盤はレコード会社から発売される新曲の中から推薦曲をセレクトする「今週のミュージックガイド」、後半は新作映画を紹介する「今週のスクリーンガイド」の3部構成だった。この3つ目のコーナーが鍵で、映画の試写会とリスナーの試写会への招待がセットになっていた。一つのラジオ番組のために試写会を開くという発想は当時の映画会社には無く、またしても小藤は「門前払い」同様の冷たい対応に気落ちしたが、小藤の「顔」で、何とか協力する映画会社も現れ番組をスタートすることができた。人気番組として認知されてからは、「ユア・ヒット・パレード」に紹介されると映画がヒットするということを配給会社が理解し、立場は逆転。映画会社が費用を持つ前提で試写会開催の依頼が殺到する。第1部のリクエスト葉書のコーナーも、番組の性格上、映画音楽が主流となり、中でも1955年10月から78週に渡って「エデンの東」のテーマが1位の座についた。このことで、「文化放送はエデンの東の配給会社からお金をもらっているのでは」という噂も立ったという。しかし、実際はその逆で、「また1位になってしまったので、ズルをしたと思われる」と心配するスタッフをよそに、大塚は淡々と葉書の集計通りに「エデンの東」をかけた。

第629回の台本 女性アナは田中マリ子アナから遠藤杏子アナに変わっている。

ちなみに「ユア・ヒット・パレード」のパーソナリティーは、アナウンサーたちの中から社内オーディションで選ばれた。女性は明るい声と都会的な語り口が売りの1期生、田中マリ子アナウンサーが抜擢された。井上ひさし著「モッキンポッド師の後始末」の中で、憧れのアナウンサー「蘭子さん」として描かれた田中アナだ。男性は切れの良さよりも温かみや土臭さを感じさせるしゃべりにポイントを置いて入社2年目の茂木幹弘(もてぎみきひろ)アナウンサーが選ばれた。茂木と田中のコンビは、小藤も大塚も希望した通りの人選となった。

葉書を選ぶ茂木アナ(左)と田中アナ(右)

経営が迷走する中でも、現場スタッフが「貧すれば鈍」になることはなく、人気番組を生み出していた。とは言え財政的には厳しい状況が続く。そう言った苦境の中、公共放送というよりもより商業放送の色合いを強めていた。

 1955年5月25日(水) 国会の逓信委員会で、文化放送が議題となる。逓信委員長が自ら質問を重ねた。逓信委員長は後にFM東京(FM東海)を設立する日本社会党の松前重義(まつまえしげよし)議員だ。答弁には郵政事務官で電波監理局長の長谷慎一、松田竹千代郵政大臣が立った。

松前委員長「(文化放送は)真善美の実現というようなことを事業目的にうたっておるのです。特に宗教的な教育的な内容の放送をやるのだというようなことで、あれが許されておるように私どもは理解しておる。ただ一般の民間放送と同じような、大衆に迎合するような放送によって事業の運営をやってもかまわないというようなことで、あれが許可をされたものではないと大体私どもは見ておるのですが、いかがですか」

長谷政府委員「お答え申し上げます。セントポール修道会の帯付によりまして日本文化放送協会ができておりますけれども、最初からいわゆる宗教放送を積極的にやるというような考え方ではなしに、放送法あるいは電波法の精神から申しまして一党一派に偏しないという考え方で、むしろほかの見聞放送はいろいろな形で宗教番組というものをやっておったわけでありますが、日本文化放送の放送内容におきましては、今申し上げましたような趣旨から意識的にと申し上げてもいいかと思いますが、宗教番組関係は避けております。(中略)財団法人の日本文化放送協会でも、その運営はどこまでも広告収入によらざるを得ないのであります。従ってスポンサーによる番組も編成をし、放送しなければならぬ事情にございますので、結果的には一般の会社の形態による民間放送と、あまり違わない形になってきておるわけであります。特に一般の経済情勢が安定である場合はまた別でありましょうが、過去三年の間には相当起伏もございましたし、運営そのものかどこまでも広告収入によっていかざるを得ないために、一般放送と比べてあまり差がないではないかというような見方もあるように思われますが、考え方としては先ほど申し上げたように、特徴を出そうという努力を続けてきておられることは私ども認めておる次第であります」

松前「私が質問しておるのと、あなたの答えとは、だいぶ違うのであります。というのは、財団法人日本文化放送協会に対して認可されたその目的並びに精神というものはどうであるかということでありまして、現在の日本文化放送協会の内容がいいとか悪いとかいう批判をしておるようなつもりはないのであります。(中略)その認可の精神について伺いたい。なぜ財団法人に認可したのであるか、その目的がなければ株式会社に対しても同じように、やはり当時認可したのであるか、この問題について伺いたいと思うのです」  

長谷「実は当時の電波監理委員会としては、この日本文化放送協会に対する認可は、満場一致ではございません。投票の結果、四対三の多数決で認可をされました。従いまして、多数決でこれを認可をすべしということで結論を律られたのでありますが、もう一つが会社形態であるから、日本文化放送協会という違った形のものでもよろしいじゃないか、こういうようなことから結論としては多数決できめられた記録になっております。(中略)法令的には会社でなければならぬとか、あるいは財団法人でなければならぬということはありませんし、その間に差をつけるということが法令及び基準上からは何ら出てこないわけであります。結果的に申し上げますと、その目的が非常に日本の文化向上のためにプラスになるであろうから、こういうものにも免許を与えた方がいいではないか、こういうことから結論として認可された、こういうふうに御了承願いたいと思います 」

松前「(前略)どういう精神で認可されたのかということだけを伺っておるのであります。」  

長谷「特殊の使命を果させるために、財団法人に免許を与えたとは私ども考えておりません」 

松前「(前略)ある目的を達成せしめようという意図も何にもなく、ただ電波を出して適当に商売していけばよろしい、こういう気持で認可されたのでありますか」  

長谷「いろいろたくさん競願等があります場合に、その目的なりその出願の内容の確実性なり、そういう点を考えまして、よりよいものに与えることは当然であり(中略)初めからそういうことをさせようというように政府が積極的に考えて、そういうものからふるいをかけてあるものにさせたり、あるいはその申請の計画をそういうふうに向けて認可をするということは、従来までもされておりませんし、法令上そういうことは期待されていないというふうに現在は考えております」  

松前「最近の民間放送の実情を受信機を通じて聞いてみますと、国民の最も低いレベル、いわゆる低い感情に訴えようというような、日本の文化的な向上だけでなくて、むしろ低い感情に訴えて、言いかえると多少堕落した傾向が見えるような節が見えると思うのです。こういう現状にあるときに、いたずらに商売の目的だけを基準として、何でも健全に商売をやって、もうけていけばいいのだというような考え方で、全く方針なく認可をなさるのであるかどうか、この点を伺いたいと思います」 

ここで松田郵政大臣が登場する 

松田国務大臣「もとより放送の事業は、社会一般に及ぼすところの影響がきわめて至大でございまして、その社会の文化の程度を低下させるような卑猥なものをやるべきでないということは当然であろうと思うのであります。さりながら一面民間の放送協会等におきましては、その財源といたすところは民間の広告源による以外に道はないのでありまして、そこに困難な点があるのでありまするけれども、しかしながら一般の社会の文化水準を維持するとともに、なおその上を行くだけの考え方を持って、こうした事業には関係当局はやっていかなければならぬ。従って主管庁といたしましても、その監督する面において、そうしたことに対して注意を喚起しておるような次第であります」 

松前「抽象的な御答弁でまことに不満でありますけれども、私はこういうことを聞いておるのです。そういうふうなだんだん水の低きに流れるような方向に向っておるところの日本の放送の現状というものに対して、何らか特殊な使命を持った放送というものがなければならないという感じが私どもはするのです。であるならば、そういう放送に対して、その特殊な使命を持ったものの一つとして、ただいまの日本文化放送のようなものを考えるような、いわゆる文化向上に対する具体的な意図を持っての監督を政府としてはやっておられるかどうか、また今後の許認可をやられるかどうか、この点を伺いたいと思います」  

松田「ただいまお示しのございましたように、特に日本文化放送につきましては、当初の目的、すなわち委員長のおっしゃいました真善美というような高いところから社会に向って、その文化の向上を促すというようなところにめどを置いて認可されたものと思います。しかしながら今日の現状は、やや当初の目的を逸脱しているのではないかというお話でございますが、さような点もあるかに承知しておりまするので、きわめて近い将来にこうしたことをすべて是正して、そうして本来の目的を達成するように進めていかせたいという考えで指示を与えておる次第でございます」  

松前「大臣の御答弁は私の質問に多少誤解があります。それは運営が当初の目的を逸脱しているということを私は言っておるわけではないのです。だんだん低きに流れやすい日本の放送界のプログラムの現状を見ても、一つくらいは当初の目的、ただいま大臣の御説明の当初の目的のようなものを、あくまでも助長していく必要があるのではなかろうかという意味についての御所見を承わりたい」 

松田「お説まことにごもっともでありまして、そういう方針をもって進んで参りたいと思います」  

国会でこのように文化放送が議論の対象になったことに驚く。教育者でもある松前委員長は、民間放送であったとしても「安きに流れず、高邁な精神で日本文化の向上に努める局が、ひとつくらいあって良いのではないか」ということを繰り返し聞いている。一方、官僚や政府側は、砕いて言えば「そんなことを言っても霞を食っては生きていけないじゃないか」ということを言いたいようだ。同じ「放送協会」と付いていても、受信料が基盤となっているNHKと事情は全く違う。結局のところ民放は民放なのだ。時代も変わり財団法人である事の意味はもはや見出せなくなっていた。当初は、極力避けていた演芸や流行歌も「テイチクアワー」をきっかけに今では普通に流れるようになり、歌謡曲番組はいずれも人気番組となっていた。いずれにせよ、財団法人でありながら経営のためには商業性も追求せざるを得ないという矛盾を抱えたまま走ることに限界が近づきつつあったのは間違いない。文化放送の問題が国会で議論されるに至り、いよいよ財界や政界が会社再建に動き始めた。

先ほども書いたが、答弁で質問を続けた逓信委員長の松前重義氏は東海大学の創立者だ。この答弁の5年後に、東海大学はFM東海という学内の通信教育向けの実験局を開設する。教育を主眼とする「真面目な放送」に松前は関心を持っていて、くだんの質問に至ったのだろう。余談になるが、そのFM東海も、郵政省との間に軋轢が起き、国からの免許更新拒否にあい違法無線状態になる。そしてFM東海側は国を告発するなど泥沼化する。丸く収めるために1970年、FM東海は大学の手を離れて株式会社組織となり、民間放送の株式会社、FM東京(TFM)として再出発する(東海大学は最大株主となる)。マルチェリーノと松前重義が重なって見える。パイオニアはいつも軋轢の中で苦労すると言えるのかもしれないし、ましてマルチェリーノや松前のように放送というものに理想を強く持てば持つほど、現実の壁にぶつかってしまうという意味でも似た部分を感じる。

マルチェリーノが衝撃の声明書を発表する

文化放送の内紛は続いたが、ついに大きな動きを見せる。聖パウロ修道会派と徳川会長派がどちらも引けない膠着状況が続いたが、ここでマルチェリーノ持ち前の決断力が火を噴いたのだ。

役員改選を翌月に控えた1954年4月27日、マルチェリーノは、理事の改選に関する第一回の声明書を発表した。それは徳川会長派にとっても驚くべきものだった。

「日本文化放送協会の現理事の任期満了に当たって、評議員会は寄付行為に基づいてその改選を行うことになっていますが、内外の動きに鑑み、設立者として声明を発表する必要があると思います。経済面において、今までの理事者、特に常務理事の方々は充分の経験を持っていないことは明らかであります。従って安心して協会の経営をそのまま委ねることは出来ません。事業の発展、またそれに伴う従業員の生活安定を憂慮して、ぜひとも経営について熟練した方に常務を任せて貰わねばなりませんと固く信じております。又、思想面においてNCB(文化放送の略)は報道機関であるから、いろいろな左右極端な思想の勢力にー利権と絡まして狙われている状態であります。前記のことは決して一宗一派と思われるカトリック思想を意味することではなく、唯自然法の純粋な意味に過ぎないと茲(ここ)に断言します。 設立者  丸瀬利能」

一見、わがままな人物に見えるマルチェリーノだが、ここぞと言うときには抜群の公平性とバランス感覚、決断力を見せる。その真骨頂とも言える声明だった。マルチェリーノは、日本人に帰化する際にも、社屋や土地を全て文化放送に供与する時にも、信じられない胆力と決断の早さを見せて周囲を驚かせたが、今回のこの声明はその究極だったと言える。この声明に籠められた意味は、「経営者たちは全員で会社を潔く去ろう。そして次のランナーに会社再建を託そう」と言うメッセージだ。それはもちろん自らも身を引くことを意味する。マルチェリーノは、最後に自身の肩書を「設立者」と記し、強いプライドを示した。思えば1934年に来日して以来、紆余曲折ばかりだったが、念願の放送局開局の夢を成し遂げた。しかしその心血を注いだ文化放との別れが近づいていた。複雑な思いをこの「創立者」という3文字にこめたのではないかと思う。まさしくマルチェリーノこそが文化放送の創立者だった。

この声明に他の経営者たちは狼狽を隠せなかった。勝つか負けるかという思いで戦いを続けていた人たちは「ごちゃごちゃ言わずに一緒にやめよう」という創立者の働きかけに焦りも覚え、その後も抵抗を見せるのだった。

次回に続く

1955年1月のカレンダーポスター 

上記ポスターを見ると当時のデザインがいかに秀逸かがよくわかるし、経営の迷走を傍目にひたすら良い放送を目指していた現場の思いが透けて見えてくる。

次回へ続く

 

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