第5スタジオは礼拝堂 第30章「映画封切りデーの勘違いが運命を変えた」

第5スタジオは礼拝堂 第30章「映画封切りデーの勘違いが運命を変えた」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが運命を変えた」

 フランシスコ・ザビエルの聖腕が日本全国を巡ったのは、1949年の5月29日(日)から6月12日(木)まで。この年、四ツ谷駅前に聖パウロ修道会の出版物販売の拠点となる中央出版界(現在のサンパウロ書店)の建物が完成した。そして聖パウロ修道会にとってハイライトと言うべき聖パウロ会館の定礎式も聖腕の来日期間中に行われた。これからお話するのは、ウソのような本当の話。実はこの定礎式の日に、運命としか言いようのない出来事が国鉄(後のJR)中央線の電車内で起きていた。このエピソードを語ってくれたのは、聖パウロ女子修道会平塚修道院の大瀧玲子シスターだ。大瀧シスターは、90歳を超えてなお元気いっぱいの人気者だ。

道に迷った外国人を助けたら

大瀧「私は杉並区阿佐ヶ谷の生まれ育ちです。ですが、聖パウロ女子修道院が地元阿佐ヶ谷にあることも知りませんでした。当時は、学校を卒業して、看護系の雑誌を輸入し日本語に翻訳する会社に勤めていました。その日は休日で、友人と映画を観に行く約束をしたので新宿まで出かけたのです。しかし、その友人が映画の公開日を勘違いしていました。映画がまだ封切りされていなかったのです!そこで友人と「ちゃんと確認してくれないとダメじゃない」とドンパチやりました(笑)。映画が公開されていないので、仕方なく私は友人と別れて杉並の自宅に帰ることにしました。すると下りの中央線の中で、外国人のシスターたちが乗っていることに気づいたのです。彼女たちは、車内の案内板や窓の外を眺めて不安そうな顔をしていて、困っている様子でした。私は学校がミッションスクール(光塩女子高校)だったので、シスターの存在は珍しくありません。そして学校を卒業した後も英語を習い翻訳の仕事もしていたので、英会話には自信がありました。シスターたちがあまりにきょろきょろしているので、私は中野駅に停車した時に「ここは中野駅よ」と英語で教えてあげたのです。すると彼女たちも英語で返してきました。これが聖パウロ会との最初の出会いです。彼女たちは、自分たちは修道会の人間で、修道院に帰るために阿佐ヶ谷という駅で降りたいのだと訴えてきました。そこで「2つ先の駅が阿佐ヶ谷よ」と説明しました。後からわかったことですが、実はその日が聖パウロ会館の定礎式の日でした。そのアメリカ人のシスターたちは、定礎式の現場で何か大事なものが足りないことがわかったため「至急持ってきてくれ」と頼まれて、四谷駅まで届けに行った帰りに、どの駅で降りれば良いのかわからなくなり迷ってしまっていたそうです。そこに偶然私が声をかけたというわけです。この時の会話がきっかけで、私は彼女たちと知り合いになり、自宅近くに女子修道院があることも知りました。考えてみれば、あの日もし聖パウロ会館の定礎式が無かったら、友人が映画の公開日を間違えていなかったら、自分はシスターたちと出会っていないのです。その縁が、本当に面白い」

定礎式とは、土台になる礎石を定めることで、建築の開始を告げる重要な儀式だ。定礎式には、マクドネル・ニューヨーク副司教が出席していたので、シスターたちはマクドネル副司教のアシスタントだったのかも知れない。定礎式の詳しい期日は残されていないが、大瀧シスターが休日だったことを考えると、6月5日の日曜日が濃厚なのではないだろうか。

ザビエル来日400年祭にあわせて、聖イグナチオ教会もサンパウロ書店も完成。カトリック信者にとっては、戦後4年目のこの年が重要な分岐点だったことが理解できる。聖パウロ会館の定礎式によって、いよいよ文化放送の土台作りもスタートした。そして、その定礎式の日に、たまたま出かけて、新宿から電車に乗ったのが大瀧さんだった。この出会いが縁となり、大瀧シスターは翌1950年に聖パウロ女子修道会に入会した。そしてその1年後に、大瀧シスターはディレクターとして文化放送創立メンバーとして参加するという数奇な運命を辿ることになるのだ。ちなみに大瀧シスターが入会してすぐに、聖パウロ女子修道会の本部は杉並から現在の乃木坂に移転している。マルチェリーノは、女子修道院が阿佐ヶ谷にあった時代から時間を見つけては足を運んでいたが、乃木坂に移ったことで、四谷からより近くなったことにより、ほぼ毎朝ミサに訪れた。自分が来られない時には、キエザ神父が代理としてやってきた。迎える女子会員たちは、修道会で正規の養成を受けていない段階の若い会員が多かった。男性の場合は、小神学校から始まって大学院まで勉強を続ける人が多いため、ラジオ局の設立に参加してしまうと、その教育課程を中断することになってしまう。一方、女子修道会は日本で支部を作りまだ1年も経っておらず会員たちも若かったため本格的な教育課程に入っていなかった。そこで、ラジオ局創立に派遣される候補として、若いアスピラントたちに白羽の矢が立ったのだ。アスピラントとは、シスターになる前の修練中の人で、志願者と呼ばれた。大瀧シスターも当時はまだアスピラントで、いつか時期を見てシスターになるための教育課程に入らねばならないのだが、それまでの一時的、放送局で修業を積むことになったというわけだ。一見、無茶な話に聞こえるが、実はそうでもない。それは、聖パウロ会自体がメディアを使徒職としているからで、かつては出版が中心だったが、それが映画になり、今度は放送になるだけというおおらかな受け止めがあったようだ。大瀧シスターはこう語った。

大瀧「私にとって放送の仕事に携わることは意外ではありませんでした。というのも、私たち聖パウロ会の布教活動は出版を行うことが活動の中心ですが、私に関して言えば、阿佐ヶ谷の修道院に入って間もなくの頃、日本での活動をローマに報告するための映画を作れと命じられたのです。1948年の女子修道会の創立から1年程度が経ったところで、今までどのようなことしてきたかを、映像を使ってローマの聖パウロ会の本部に対し行いたいという趣旨でした。そこで、今でいうところのショートフィルムのようなものを作り始めたのです。イタリア語では、コント・メトラージュと言います。映画制作はどのように行えば良いのか相談に行った先は、進駐軍の中にある文化関係のことを担当する部署でした。彼らはニュース班で、日本人のカメラマンを何人か雇って、ニュース映像撮影のために戦場に出張したりしていたようです。おそらく朝鮮戦争でしょうか。彼らは、我々が助けてあげるから映画を作ってみなさいと言ってくれました。」

映画の次は放送だ

つまり大瀧シスターは修道会に入った後、他の会員のような出版ではなく、いきなり映画に携わったということになる。一度、撮影したフィルムが、現像液の間違いで全てパーになったこともあった。しかしそう言った失敗を乗り越えて、本部に活動するためのショートフィルムはついに完成を見た。映画のタイトルは「エステレオリエンテ」。イタリア語で「極東」という意味だ。

大瀧「映画の次は今度は放送だという気持ちでした、なので、いきなり放送の仕事をやれと言われてもショックでありませんでしたよ。私たち修道会の活動は、コミュニケーションメディアを使うのだということを初めから言われていましたから。当時、ブラジルなどではすでに放送局を持っていたと思います。けれども、イタリアの神父様でブラジルのラジオを立ち上げた方から、「政府の気に入らないことを放送すると電波の権利を奪われてしまうので、嫌だけれども黙らなくてはならないことあるのがジレンマだ」と言う本音を聞いていました。ですから放送局の設立は難しいということは覚悟していました。それでもラジオ局を開設することは「良いことだな」と思っていました。」

 ハード(建物)もソフト(人員)も揃い始めた。問題は、外国人であるマルチェリーノに放送局設立の許可が下りるか否かだった。

次回に続く

 

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