第5スタジオは礼拝堂 第42章「四谷見附の交差点が最大の関所」

第5スタジオは礼拝堂 第42章「四谷見附の交差点が最大の関所」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:「局舎建設と人材集めの日々」

第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」

第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」

第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」

第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」

第41章:「開局前夜祭」

第42章:四谷見附の交差点が最大の関所

1952年(昭和27年)の3月31日(月)、午前5時30分。財団法人日本文化放送協会は本放送を開始。文化放送が正式にスタートした。マルチェリーノの悲願はカトリック放送局と言う本来の願いから大幅な譲歩を経て、ようやくかなうこととなった。

人気のあった田中マリ子アナウンサー

最初の番組は「皆さんお早う」というトーク番組。6時35分からは研究社提供の「中学英語」。講師役は英文学者で当時東京教育大学(現在の筑波大学)の文学部長だった福原麟太郎氏が務めた。7時30分になるとラジオ幼稚園「くりまちゃんのお片づけ」が始まった。幼児向けの短い番組で、今で言えばフジテレビの「ポンキッキーズ」のようなものか。7時40分からはブリヂストンタイヤが提供する「天気予報」や聴取者からの葉書を読む番組「私たちの生活から」など短い番組がいくつか放送された。9時30分からは、味の素提供の「楽しい献立」で、第1回のテーマは「御飯の炊き方とおすし御飯の合せ方」だった。

お昼前の11時30分からは産業経済新聞提供の「株式相場」が放送された。「真・善・美」の社是から考えれば株式番組は少し異色にも思えるが、東京証券取引所が1949年にスタートし株式市場が活況を呈していたので注目の番組であった。11時半の前場が引ける時間に合わせて兜町からの生中継で最新情報をお届けした。14時からのシンフォニーアワーはクラシックをお送りする番組。第5スタジオで事前に収録したクラシックの曲を放送した。初日はベートーベンの「エグモント序曲」をお届けした。ゲーテの戯曲を題材とした名曲で、処刑前夜のエグモントの夢に彼女が幻のように現れるシーンが胸に染み入る演奏だった。16時15分からは医療情報をお送りする「療養の時間」で、この日のテーマは「結核療養の話」。当時の結核は亡国病と呼ばれ1950年まで日本の死亡原因の第一位だった。文化放送開局前年の1951年に結核予防法が制定されたばかりで、結核に関する情報は国民の最大関心事のひとつであった。

夕刻になると、17時30分からは劇団銀河座による「十五少年漂流記」の第1回が放送された。つまりこの「十五少年漂流記」が文化放送にとって最初に放送されたラジオドラマということになる。18時35分からは蛇の目ミシン提供の「七つの人生」。18時40分からは森永製菓提供の「スポーツニュース」と続く。そして20時からは高島屋提供の「バースデー・コンサート」だ。「シンフォニーアワー」と違って、夜にリラックスして聴けるジャズやタンゴ、マンボと言った音楽が放送された。初回は人気タンゴ歌手の藤原嵐子(らんこ)さん擁するタンゴ楽団オルケスタティピカ東京が出演している。20時30分から日本電建(現在の大東建託のルーツのひとつ)が提供する「当世浮世床」が始まった。演芸もの番組だ。初回は落語家の林家正蔵師匠(後の林家彦六)とコメディアンの伴淳三郎さんが出演している。当時の社内規定では歌謡曲や浪曲はご法度だった。しかし、なぜか落語やお笑いは放送しても良かった。 そして21時からは筝曲と朗読によるラジオドラマ(朗読劇)の「源氏物語」の第一話が放送された。目玉番組であった。そして22時からは旺文社提供のご存知「大学受験ラジオ講座」がスタートした。私より上の世代はこの略して「ラ講」で受験勉強をした方が多いのではないだろうか。その後43年間の長きに渡って続いた文化放送の代名詞のような番組も、開局初日にスタートしていたのだ。それは旺文社を創立した赤尾好夫氏が文化放送開局時から深く関わっていたことを意味する。英単語集の「赤尾の豆炭単」で知られた赤尾氏だ。そのようにしてスタッフは停波しないようハラハラしながら一日局舎に張り付き見守ったが、大きなトラブルも無く、23時30分に初日の放送は終了した。

この日の「バースデー・コンサート」の写真。藤沢嵐子とオルケスタティピカ東京は戦後を代表する実力派の歌手とタンゴバンドだった。この翌年には本場のアルゼンチン公演も実現させている。ちなみに上智大学の学生時代に文化放送でアルバイトをしていた劇作家の井上ひさしさんは、自伝的な小説、講談社刊の「モッキンポッド師の後始末」の中で憧れのアナウンサーとして「われらの蘭子さん」という名前を使いひとりの女性アナウンサーを紹介している。その蘭子さんとは前出の田中マリ子アナウンサーだったと言われているのだが、小説の中の蘭子という名前は藤沢蘭子から拝借したのではないかと勝手に想像する。もうひとつ付け加えるとこのバースデー・コンサートは晴れてディレクターに転じた伊藤満さんが担当した思い出深い番組でもあるという。

開局当時の上空からの空撮写真。右下に文化放送、左下には四谷第一小学校(現在の四谷小学校)がある。そして右上の遠方に国会議事堂が見える。

淡々とした開局初日

開局初日のタイムテーブルを見てまず驚くのは、この日から開局しましたという特番のようなものがなく淡々と番組が始まっていることだ。やはり教育、教養番組の占める率が高いが、今とさほど変わらない音楽番組やスポーツニュース、天気予報、株式市況なども放送されていたことがわかる。いわゆるニュースも読んでいたが、ニュースショーのようなものではなく、あくまでもアナウンサーによるストレートニュース。当時はまだニュースに自分の意見を挟むというような発想自体が無かったのではないか。文化放送が全国で初めてラジオによる全国ネットニュースの「ニュースパレード」をスタートさせるのはこの7年後の1959年のこと。ラジオは主に娯楽装置もしくは電気仕掛けの教科書だった。

その日どう暮生き抜くか考えることで精いっぱいだった時代を抜け出て、人々が娯楽や教養を楽しむゆとりが生まれ始めていた。そのタイミングで民放ラジオが登場した。ラジオドラマにおいては、子供向けの「十五少年漂流記」、大人向けの「源氏物語」いずれもよく練られた作品だった。「源氏物語」は宮城道雄による演奏をバックに新劇女優の山本安英(やすえ)が朗読している。時折、風の音などの効果音も入り、シンプルだが重厚で迫力のある番組で、放送から半世紀後の2002年にCDボックス化されたため現在でも聴くことができる。ちなみに山本安英は日本の演劇界の最重要人物のひとりで、築地小劇場の第一期メンバーであり、1949年に発表された木下順二の有名な「夕鶴」は山本のために書き下ろされたものだ。油の乗り切った朗読家の山本と日本が世界に誇る筝曲家・宮城道雄のコラボは歴史的文化遺産と呼んで良いものだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

宮城道雄さん。開局時から定時番組も担当。「源氏物語」の作曲も担当し初期の文化放送は大変お世話になったひとり。

演芸番組の「当世浮世床」も興味深い。噺家の正蔵師匠はまだしも伴淳三郎さんのような破天荒ギャグが売りもののコメディアンが、文化放送開局初日から登場していたことに少し驚く。歌謡曲はご法度のお堅い財団法人だったが、演芸番組はちゃっかり放送していたのが面白い。伴淳さんは前の年に、高田浩吉主演の時代劇に出演した際に発した「アジャパー」というセリフが大うけし、一躍お茶の間の人気者になっていた。文化放送の開局スタッフにもこの人気者にあやかりたいという思いが強かったのではないだろうか。このようにクラシックや教育番組などの固い番組と、演芸やラジオドラマのようなやや柔らかい番組が混在しながら文化放送はスタートした。

アスピラントたちも配属される

聖パウロ女子修道会から派遣されたアスピラントたちも開局前から各職場に配属されていた。放送という「使徒職」への思いを抱いての新生活だったが、固い事務職から汗まみれになる制作現場まで配属先の幅は広かった。大瀧玲子シスターは予定通り編成局文芸部に配属される。

大瀧「私は有坂愛彦先生の家来にしてもらい(笑)、文芸部という部署に所属されました。文芸部の隣に音楽部があり、有坂先生は隣の音楽部の部長で、大きい部屋の真ん中にいつも座っていました。修道会のメンバーと一般社員は同じ職場でまぜこぜに座り連携して働きました。私の隣の席の人は子供向けの番組を作っていて、その番組のお手伝いをする事もありましたよ」

クラシックの評論家として今も名を残す有坂愛彦(よしひこ)氏は、音楽部長として文化放送に入社していた。NHKからやってきた開襟シャツのおじさんディレクターと修道院から出勤してきた黒衣の若いアスピラントが曲選びで侃々諤々議論しているのを、穏やかな笑顔で見つめている高名な音楽評論家というまるで映画のワンシーンのような景色。当時の社内の写真を探しているがなかなか見つからない。

そんな不思議な職場で、大瀧シスターは「私たちの生活から」という15分の生放送番組を任されることになった。 「私たちの生活から」は朝の生放送番組で、午前9時5分から始まる。したがって大瀧シスターは乃木坂の女子修道院を文化放送に向けて出発するアスピラントたちの中でも最も早い組で、8時ごろには搬送用のジープに詰め込まれて出発しなければならなかった。しかし大瀧シスターたちには、文化放送に出社する前に本来のシスターやアスピラントとしての務めがあった。修道院と文化放送の二刀流の生活の始まりでもあった。

大瀧「朝はだいたい5時半に起床していました。そして6時からお祈りをします。そこにマルチェリーノ神父がいらしてミサを行うこともありました。そのあと『共同の祈り』があります。さらに30分のメディテーション(瞑想)を行ってから、7時半に朝食の時間を迎えるのです。朝食を摂ると8時には出かける準備です。早く文化放送に到着しなければならない人は、最初のジープに乗らないと遅刻してしまいます。私は朝の番組担当なので早出組でした」

大瀧シスターたち「早出組」は、食事を終えると大慌てで送迎の車に乗り込む。その車は元々聖パウロ修道会のもので、進駐軍の払下げであった可能性が高い。当時を知る人たちは「ジープ」だったと記憶しているのだが、正確には1948年型のフォードだ。48年から製造販売されたフォードのFシリーズと言われる車だと思われる。フルサイズのピックアップトラック型で頑丈。アスピラントの送迎から役員の送迎、出演者の送迎から取材にいたるまで実に過酷に使われた。そしてその車と思われる写真が見つかった!

なかなか貫禄のある車で、このフォード車にアスピラントたちがぎゅうぎゅう詰めに詰め込まれる。もちろんその時代に道路交通法が無かったわけではないが、当時の東京は、ヘルメットをしている人もまだ少なかった。道に目をやればスーパーカブに3人のりも普通。交通法規を逸脱したようなおんぼろ車が、真っ黒な排気ガスを吐き出しながら走るのが日常の光景だったのだ。終戦から6年余り、まだまだカオスな時代の東京だった。フォードは乃木坂の修道院を出発すると、すぐに赤坂通りに入る。道幅の狭い三分坂や薬研坂を黒い煙を吐きながら車体を揺らして駆け抜けてゆく。狭い坂道を抜けると右折して青山通りに入るが、赤坂見附の手前で左折し弾正坂へ。またしても狭い坂を上りきったあたりで右手に上智大学が見えてくる。今ではビルの谷間に隠れる聖イグナチオ教会だが当時は遠くからもその美しい建物がはっきりと確認できた。そしていよいよ四谷見附の交差点に入ってくる。国電(今のJR)四ツ谷駅が見附の橋の下を走るのは現在も変わらないが、営団(現在のメトロ)の四ツ谷駅はまだ無かった。丸ノ内線が開業するのはそれから7年後の1959年のことだ。当時の国電の駅舎は木造の小ぶりなもので「都会の中の田舎」を感じさせた。

右手の麹町方向からは都電11系統の路面電車が新宿通りを月島から新宿方面に向かってのんびり走ってくる。今とは違って車幅が狭く頭上には電線が張り巡らされた新宿通りだ。今よりもずっとごちゃごちゃしていた新宿通りを走ってくる路面電車の姿を見ると四谷に着いたなと実感できた。カーエアコンも無い時代、ぎゅうぎゅうに詰めこまれたフォードからもうすぐ解放されるのだ。弾正坂と交差する新宿通りを7年前の1945年5月24日に東京大空襲(山手空襲)が襲った。燃える若葉修道院を脱出したパガニーニやキエザたちが火の粉をかぶりながら懸命に逃げこんだ場所が四谷見附であり、一時避難をした場所が上智大学だった。この四谷見附は1952年の開局当時はまだ占領軍の警察であるMP(Military police)や日本の警察官が見張り番のように立っていて、フォード君にとっては最大の関所だった。その理由は、定員をはるかに超えるアスピラントでぎゅうぎゅう詰めだったから。車内点検をされるとひとたまりもない。MPや警官の姿が見えると運転手役の男性が、おもむろに叫ぶ「全員、伏せ!!!」その号令にあわせて黒衣のアスピラントたちは一斉に頭を低くして身を隠した。フォードはスピードを少し落として交差点に近づき、目的地まで残り500メートルの最終コーナーをよたよたと左折する。MPや警官が厳しいまなざしを送った。車の行き先が文化放送だということは彼らは百も承知。目を凝らすとアスピラントの黒い頭の部分だけがいくつも水平線を低くして漂っている。定員オーバーであることは警察にもMPにも完全にばれていた。彼らは一瞬渋い表情を見せて手を拡げ車を止める。しばし静寂が流れるが、ニヤッと笑うと車の背中をポンポンと叩いた。「またか、仕方ないね」と警官はつぶやいた。「今回も見逃してあげるから急いでいきなさい」という合図だ。 無事に新宿通りに入ると、若いアスピラントたちはいたずらに成功したように顔を見合わせて「今日も危なかったわね」と笑いあった。ちょっとした冒険劇が終わり、四谷二丁目の交差点の角を曲がると文化放送会館の堂々たる局舎が見えてくる。時刻は8時半30分すぎ。フォードは黒衣のアスピラントたちを一斉に吐き出すと、踵を返して次の出社組を乗せるために再び乃木坂の女子修道院に戻っていった。

1953年の写真。局舎の正面に「文化放送」ではなく「文化放送協会」と書かれてあることが確認できる。

大瀧シスターにとっては、到着してから約30分後には生放送が待ち構えているので、ちょっと窮屈な時間割だが、一番便が8時出発なのだから仕方がない。

大瀧「私は、前の日に準備をして帰るので、放送当日は大丈夫です。慌てることなどはありませんでしたよ。ただし、会社に到着すると、まずは同僚たちの机の上にある鉛筆を、鉛筆削りでがらがらと削らければいけなかったんです。ある人の机の上には鉛筆が20本あるのに、こちらには1本も無いというようなことがありました」

大瀧シスター(当時はアスピラント)は、鉛筆をまとめて削り終えると、ひとり数本ずつにわけて机の上に均等に並べた。若手の義務でもあり、大瀧シスターにとっては出社してから行う一種の儀式でもある。鉛筆削りを終えると、大瀧シスターは台本や葉書を抱えて3階にあった文芸部から2階の生放送スタジオに降りていった。

「私たちの生活から」という番組は、月曜から金曜までの毎朝20分間の生放送番組だった。リスナーからの作文の投書を読む番組で、女性アナウンサーは荒巻富美江アナと田中マリ子アナ、男性アナは本田義夫アナが主な出演者(読み手)だ。男性からの投書は男性アナが、女性からの投書は女性の荒巻さんか田中さんが読むことになっていた。当時はワープロもないので、原稿用紙に鉛筆や万年筆を使って手書きをする作業が続くのだが、大瀧シスターにとってはこの番組制作が、その後の人生におおいに役立ったのだという。

大瀧「私は、その後ずいぶんイタリア語を日本語に訳する翻訳作業に携わりましたが、「耳で聴く」文章を文化放送で習ったことが役立ちました。耳で聴いて書く文章が一番わかりやすいんです。文化放送を離れてからの私の仕事は、聖パウロ会の創立者であるアルべリオーネ様の文章を訳すことが中心でしたが、私の文章を読みやすいといってくれることが多かったのです。『耳で聴く』と思って台本を書く仕事をずっとさせて頂いたことは私にとって良い教育だったと思います。私にとっては、翻訳の仕事をするためのすごい準備になったのだと思います。本当にありがたい体験だったと思います」

大瀧シスターは、スタジオに5分前に入る。「私たちの生活から」の前の時間帯はニュースの時間だった。ニュース担当は本田義夫アナウンサーだったが、一度本田アナの電車が遅れて、ニュースの時間に間に合わなかったことがあったという。同僚が叫んだ。「大瀧さん!本田さんが来ないから、急いで代わりのアナウンサーを読んで来てくれ!」大瀧シスターも放送前の準備中であったが、社内の緊張した空気に「私も忙しい」と言える空気ではなかった。大瀧シスターは黒衣をひらめかせながら懸命にアナウンス部に向かって走った。「本田さんがまだ来ないんです!誰か代わりにニュースを読んで頂けますか?」「よし分かった。今行く」もしこの時、代わりのアナウンサーがいなければどうなっていたのだろうか? 無事にニュースは代役のアナウンサーが務めた。「神様、ありがとうございます」大瀧シスターは心の中で感謝を伝えた。

次回に続く

 

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