第5スタジオは礼拝堂 第35章「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第5スタジオは礼拝堂 第35章「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

目次

  1. この記事の番組情報

第35章:放送局認可へ、徹夜会議が開かれる

それは文化放送誕生の瞬間だったと言える。電波監理委員会は東京と大阪に各2局、全国では計16局の民間放送申請者に予備免許を与えることになった。電波監理委員会は、電波行政をつかさどる、政府から独立した行政委員会。現在の原子力規制委員会のような存在に近いかも知れない。政治の影響を受けずに公平、公正に判断するという合議制の有識者の集まりだったわけが、後にGHQが去って日本が主権を回復すると、郵政省に吸収され独立制は失われていった。だが当時は放送局開設の判断を委ねられていて、メンバーは7人。委員長は元逓信事務次官(官僚のトップ)の冨安謙次で、副委員長が元電波監理長官の綱島毅。委員は法務府第一部長の岡咲恕一、元東京都電気試験所所長の瀬川昌邦、元満鉄欧州出張所所長の坂本直道、東北大学工学部教授の抜山平一、元満州国駐在公使の上村伸一の5名。この計7名の委員が一人一票を持ち、民放設立の鍵を握っていた。余談だが、瀬川委員は喜劇の名手と呼ばれた映画監督・瀬川昌治の父親だ。

そして運命の日がやってきた。

東京地区では、ほぼ内定のラジオ東京に加えて、残るもう1局を、財団法人・日本文化放送協会と文化放送株式会社の「2つの文化放送」が争っていた。7人の意見は簡単にまとまらない。意見は平行線をたどり、ついに1951年(昭和26年) 4月20日(金)の夜に電波監理員会のメンバーが集合した。戦争が終わって5年余りが経ち、日本の主権回復も近づきある時代だった。民放局を日本で初めて設立するという重責を担った委員たちの重圧は計り知れないものがあった。この日の話し合いも予想通り紛糾し、時計の針は深夜0時を回る。日付が変わったても決着はつかない。と言うより最初から着くはずがなかった。それは1951年4月20日(金)から21日にかけてのことだ。この深夜に開かれた電波監理委員会の第51回委員会で、ついに新局認可を多数決によって決めることになった。「2つの文化放送が仲良く話し合って、ひとつの会社にまとまってくれれば何の問題も無かったのに」と委員たちは内心で思っていたものの、それは場当たり的な対処療法でしかなく、政略結婚をしてもいずれうまくいかないだろうことはマルチェリーノはもちろん、GHQやCCSも懸念をしていたし、電波監理委員たちも分かっていたはずだ。とうとう最後には、財団法人日本文化放送協会の設立を認めるかどうかを採決することとなった。この財団法人として認めることは即ち放送局の設立を認めることを意味する。

評決の瞬間を迎える

そして評決が行われた。ふたを開けてみると、日本文化放送協会を放送局として認めることに賛成した委員は4人、反対した委員は2人、留保した委員が1人だった。つまり、留保した一人を含めても4対3で日本文化放送協会の財団法人設立は許可され、同時に「標準放送を行う無線局」として終着点である放送の予備免許も与えられたのである。サッカーに例えれば、延長でも結果出ず、「PK戦」が行われたようなものだ。PK戦の結果、文化放送協会は4対3という、まさに薄氷を踏む戦いを制して誕生が認められた。この時、ひとりが思い直して反対に回り、賛成3反対3留保1という形になっていたらどのような結末を迎えたであろうか。反対と留保の内訳はわからないが、文化放送協会に賛成しなかった3人は、冨安委員長、綱島副委員長、そして坂本委員だった。これはなかなかショックな話で、委員長や副委員長など委員会の責任者たちが決して文化放送協会やマルチェリーノらを歓迎していなかったことが透けて見えてくる。そして票数が並んだ場合は、委員長判断で、放送局認可が先送りされていた可能性も高い。一方で、岡咲委員、瀬川委員、抜山委員、上村委員の4名。瀬川、抜山など現場主義のエンジニアたちが賛成に回ったのこともなかなか興味深い。繰り返すが、この中の一人が、もし考えを変えていたら、文化放送は今この世にいなかったかもしれないと考えると感慨深い。「セイヤング」も「ミスDJ」も「てるてるワイド」も「大竹まことゴールデンラジオ」も生まれていないのだ。それだけではなく、後に文化放送社長となった水野成夫を中心に作られたフジテレビの誕生劇も無かったかも知れない。「たられば」の話にはなるが、この徹夜会議が、放送の未来を左右したと考えて良いだろう。

とにかく紆余曲折を経てマルチェリーノは放送局開設認可というゴールに辿り着いたが、当初願ったカトリック放送局の設立という夢は大きな譲歩を強いられたのも、また事実だった。苦労して手に入れた土地も、竣工に近づきある局舎も手放すことになったのだ。日本行きを命じられた時や日本での使徒活動が認められた時など、節目節目で人目もはばからず喜びを爆発させてきた陽気なマルチェリーノだが、文化放送協会の予備免許が付与された日の記録や証言はあまり残っていない。マルチェリーノは、難産で産み落とした文化放送協会という新たな命の誕生をどのような気持ちで迎えたのだろうか、今さらながら知りたい気がする。しかし、マルチェリーノが喜びや失望に浸る時間は無かった。あらゆるものを犠牲にし魂を吹き込んできた文化放送協会を、放送局にするためのスタートはこれからだ。マルチェリーノはネジを巻きなおして、放送開始の日に向かって歩き始めた。

創設メンバーたち(左から4人目がマルチェリーノ)

マルチェリーノは監査役に

「財団法人日本文化放送協会」設立当初の布陣は、会長職に予定通り澤田節蔵が就任し、理事(取締役に相当)には長谷川才次、木内良胤、松方茂三郎、鈴木弁雄、徳川宗敬、利光洋一、内野作雄、平山厚、斉藤惣一の9人が就任、会長と理事の計10人が文化放送協会の経営に関わることとなった。本来は経営の中心を担うはずだったマルチェリーノは、株式会社の監査役に相当する監事という役職にで、一歩引いた形で経営に関わることなった。一歩引いたとは言え、聖パウロ修道会が文化放送協会の母体であることに間違いはなく、文化放送会館(聖パウロ会館)内に神父たちの住まいが設けられることも決まった。聖パウロ女子修道会からアスピラント(修道女見習い)たちがスタッフとして加わることにもなり、そういった意味では、マルチェリーノも一定の満足は得ていたのではないだろうか。なお、10人の理事のうち、聖パウロ修道会に関わりのあるメンバーは澤田会長を含めて8人。このうち徳川宗敬(むねよし)は、水戸徳川家の出身で、十五代将軍、徳川慶喜は大叔父にあたる。文化放送設立に加わった当時は、参議院議員を務めていた。徳川は後に会長に担がれて、文化放送内の権力闘争に巻き込まれてしまうのだが、そもそもは企業家肌でもなく、「緑化運動の父」とも呼ばれ、戦後の日本国土に緑を増やすために生涯尽力した人物だ。企業内闘争の先頭に立つことには苦労もあったであろう。1989年に91歳で亡くなったのだが、文化放送開局時のエピソードを聞く上では、生前しっかりと話を聞いておくべき人物だった。一方、聖パウロ系以外では、国鉄の外郭団体などが母体のラジオ東都から平山厚が、さらに東京ラジオセンターからは斉藤惣一が加わった。斉藤は、プロテスタント界の大物で、日本YMCAの総主事を務め、国際基督教大学の建学にも関わっている。戦後は、引揚援護院の長官として外地からの引き揚げにも尽力してきたひとかどの人物だった。このように様々な人物が集い、放送局を「完成」させるためにスタートを切った。放送局として自立するために必要な要素は大きく言って2つ。ひとつは放送局舎の完成、もうひとつは人材集めであった。

次回に続く

 

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