第5スタジオは礼拝堂 第36章「局舎建設と人材集めの日々」

第5スタジオは礼拝堂 第36章「局舎建設と人材集めの日々」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:局舎建設と人材集めの日々」

  1951年4月20日の深夜に行われた電波監理員会の採決。賛成4、反対2、留保1という薄氷を踏むような形で、日本文化放送協会は放送局開局のための財団法人として設立が認可された。そして翌5月7日に「財団法人設立届」を提出する。さらに6月、7月、10月の3度、開設に向けての準備進行状況というものを電波監理委員長に宛てて提出した。この間、7月19日には、電波監理委員会から「無線局」としての呼称を「文化放送」とするよう指定があった。つまり財団法人としては「文化放送協会」だが、ラジオ局としては「文化放送」であるということが正式に決まったことになる。このように準備は順調に進んでいたが、一方で誤算もあった。申請時のセントポール放送協会(当時)のアピールポイントであった、アメリカ製の放送機材(RCA製)の完成が遅れていたのだ。本来は、10月2日に予備免許が付与される予定で、それまでに工事を終えていなければならなかったが間に合わなかった。このため、10月5日に、局舎の完成を翌年1952年3月20日まで待ってもらうための「工事落成期日延期願い」を提出することになった。翌6日には送信所設置場所に関しても変更届を提出した。このようにドタバタしている中、理事会にも動きがあった。10月9日には諸般の事情により松方茂三が退くことになり、代わって小林珍雄(こばやしよしお)が理事に就任した。小林は当時50歳、上智大学の教授で神学の専門家として知られた人物だった。カトリックに精通した小林の参画はマルチェリーノにとっても心強いことであった。小林は文化放送の常務理事となり、編成局長も兼ねることとなる。

第一期アナウンサーたちが採用される

文化放送が向き合わねばならないのは、電波監理委員会だけではなかった。民放である以上、スポンサーも集めなければ話にならない。もちろん機材搬入が遅れてしまった局舎の完成も気になるし、放送を行うにはスタッフを集め組織も組み立てねばならない。創立時のメンバーはまさに不眠不休で準備に励んだ。1951年 8月15日、文化放送は新聞紙上にアナウンサー募集の広告を掲載する。すると1300人の男女が応募してきた。なかなかの手ごたえだ。9月1日から採用試験を行い、15日には8名が採用される。激戦を勝ち抜いたこの8人が新卒の第一期文化放送アナウンサーということになった。

男性は本田義夫、忠石守雄、大伏肇、吉森理郎の4名。そして女性は荒牧富美江、佐藤智恵子、武田篤子、そして田中マリ子の4名。大学新卒もいれば、NHKからの移籍組もいたが、いずれも若いアナウンサーたちだった。一方で、現場経験豊富なベテランアナも必要だったので、NHK出身の松田義郎や岩橋健正、佐伯耕治が指南役として採用される。 

ベテランの岩橋アナを囲む新人アナたち

この写真を提供してくれたのは荒巻アナ(左から4番目)のご遺族。荒巻アナは、東京女子大に在学中から劇団小劇場付属の演劇研究家で学び、1944年に卒業するとNHKに入局した。1年後には退職し、結婚、出産を経て教職に就くが、教職の傍らNHKの番組司会などを担当するなどした。文化放送では人気アナになるが、2年後に退職しテレビ司会者としても活躍した。ちなみに、戦時中NHKに入局したのは戦争という事情が大きく影響している。私がお話を伺ったことのある作家の故近藤富枝さんもその一人だった。戦時中、男性アナたちが兵役に取られたり、戦地における報道要員として満州など外地に送られるなどとしたため、アナウンサーも人不足となった。その穴を埋める要員として女性アナが多く採用されたのだ。近藤さんは、当時の様子を描いたNHKの連続テレビ小説「本日は晴天なり」のモデルとなった。荒巻アナもまさに近藤さんと同じだったと考えられる。声のトーンが高い女性アナは主に短波放送担当として外国へ向けた放送を行うなど活躍した。しかし、戦争が終わり男性アナたちが職場に戻ってくると、彼女たちの仕事は減り、近藤さんはNHKを対局して作家へと転身、荒巻アナは文化放送に入局したというわけだ。そのように局にあわせて採用され、アナウンス技術を磨くことになったアナウンサー8人への訓練は、開局を半年後に控えた1951年10月10日にスタートした。その約2か月後の12月には局員全体の総数も65人となった。

局員は7月には15人、12月には総数65名となった。

いわくつきの払い下げ送信所

一方、電波を出すには当然ながらアンテナ(=送信所)が必要になる。送信所は、9月にNHKの新郷工作所(送信所)の譲り受け交渉が成立し、晴れて文化放送の川口送信所となったのだが、なかなかいわくつきの送信所だった。NHKにとって港区愛宕山の送信所から最初に移転した先がこの川口市内の送信所で、この時にJOAK(NHK東京放送局)の出力も10kwに増力されたのだが、実はこの新郷工作所には、太平洋戦争中に、都心の空襲を避けるため仮の放送局が設けられたのだ。別名、隠ぺい放送局とも呼ばれる。地下に設けられた送信室は、時空を超え2001年になってまるで高松塚古墳のように発見され、話題となった。もちろん文化放送の技術担当者も調査に協力することとなったのだが、実は戦時中、この隠ぺい放送局には大きな使命が課せられていた。プロパガンダ放送や妨害電波を発信する役割を担っていたのだ。例えば、アメリカからのプロパガンダ放送を日本国民に聴かせないために周波数を重ねて不快な音声を発信したりしていた。そのことを取り上げたのが、2020年に文化放送で放送した「戦争はあった」という番組で、民間放送連盟賞や放送文化基金賞、放送人の会大賞などを頂いた。この番組は5章に分かれていたのだが、中でもこの隠ぺい放送局について深堀り取材したスピンオフ番組が、翌年放送した「軍属ラジオ」という番組。この番組はギャラクシー賞の大賞を受賞している。文化放送の石森則和記者がアメリカの公文書館に取材し発掘した資料は、非常に興味深かった。ちなみにこの隠ぺい放送局は調査終了後再度封印したままとなっている。

話を元に戻そう。首尾よくこの新郷工作所(送信所)を譲り受けることとなった文化放送は、12月になって番組編成に取り掛かった。番組編成とは簡単に言ってしまえば、どのような番組を放送するかを決めて番組表を組むことだ。番組にあわせたスポンサー探しも行わねばならない。ゼロから作りあげてゆくわけなので想像がつかないくらいの膨大な作業であったろう。番組という枠を決めた後は、出演者や制作者、構成作家や脚本家などを決めて、春からの放送に間に合うように打合せを行い、先行して番組収録も始めなければならない。とは言っても、放送局は免許事業なので、公正公平な放送を心掛けねばならない。好き勝手に作って良いというわけではないというわけで、偉い先生方のご意見を伺うこととなり、文学者や劇作家など有識者たちを集めて12月から会合も始めた。本放送開始まで残すところ3か月余り。この時点で局員の数は65名になっていたが、まだまだ足りない。特に制作現場の準備は苛烈を極めていた。この65人のメンバーの中に、伊藤満氏もいた。文化放送のそばの自宅に暮らし、今もお元気な伊藤さんに話を伺ったのは5年前だ。

伊藤満さんの証言

「自分は台東区吉原の生まれなんだよ。親は長唄をやっていて市村座に出演、兄も歌舞伎座に出ていた。実家は吉原の引手茶屋をやっていたんだよね。そんな環境なので子どものころから芸能が好きだった。 旧制上野中学を出た後、徴兵されて、少年航空兵に入った。大津の予科練や三重の航空隊にいたよ。ちなみに一期上の連中はほとんど戦死したんだけど、俺たちの時には飛行機も残っていなくて、福知山で飛行場を作らされていただけだった。だから予科練じゃなくてドカ練だな(笑) 文化放送に入社したころは社員にも戦争帰りが大勢いたと思うよ。でもみんなただ忙しかったという記憶しかない。だから、そんな(戦争の)話もしなかったね。 もともと私は、戦後東宝傘下の東京芸術劇場(今の民芸)に入って、帝劇でシェイクスピアをやったり NHKの学校放送(現在の「中学生日記」の様なものか)に出演するなど俳優をしていたんです。 実は三木鶏郎さんのグループと仲良くて、中でも河井坊茶(ぼうちゃ)さんとは仲が良かった。坊茶さんはおそらくクリスチャン。その河井坊茶さんや「魚河岸物語」を書いた森田誠吾さんらに開局準備中の文化放送を紹介されたんだ。実はラジオ東京(のちのTBS)と文化放送、どちらでも選べたんだよ。でもラジオ東京は毎日新聞社や電通など4社が合同で作った会社なのでそのうち(内輪で)揉めるのではないかと思った。その点、文化放送は単独で作った会社なのでこっちの方が安心かなと思ったわけ(笑)。ちなみに入社試験の時に、身体検査をいっしょに受けた奴は「文化放送は初任給が7千円しかもらえないから入社するのを辞める」と言ってたね。7千円はその当時の水準でも安かった。でも自分は金に頓着しないタイプだったからね。(笑)

開局時のメンバーは70人くらいだったかな。 とにかく入社したらびっくりだよ。なんでもやらなくちゃならない。

音楽も演出も報道も、とにかく何にでも手を出したね。 一番大きいのは5スタ。2スタは主調にあってニュースを読むスタジオだった。 ニュースは生だが、他はほとんどテープに収録して放送する。 制作が完パケのテープを作って、Qシートと一緒に自分のいた放送指揮室に持ってくる。 毎日それを整理して副調整室に持っていくのが俺の仕事だった。」

この話を改めて聴きなおしてみると、伊藤さんが入社した昭和26年と私が入社した昭和63年の間には37年の時間差はあるものの、ほぼ同じ景色を見ていたのだということが良くわかった。このブログのタイトルである第5スタジオは公開放送にも耐えられるよう作られた(礼拝堂でもあったわけだが)広いスタジオであった。2階がスタジオで、それを見下ろす3階部分にミキサールームがあった(実はこの形は現在の浜松町の社屋でも踏襲されていて、12階にメディアプラスホールという公開放送用のホールがある、そのホールを見下ろす13階部分にスタジオを兼ねたミキサールームがある)。時間を超えて同じ空間を共有していた。郷愁が度を超すのも考えものだが、それでも良い思い出しか蘇ってこない。10年ほど前に、とある建築界の権威にインタビューしたことがあり、話しているうちに偶然にもその人が、文化放送の建て替えを提案した当事者だということが分かった。そしてなぜ自分がそれを提案したのかと滔々と語ってくれた。もちろん安全性の観点からの忠告に何の瑕疵も無いのだが、もし彼が文化放送の番組を愛している人物であったならば、少し違う提案の形があったかもしれない。引っ越さずにやや安普請の新館を立て直すなど。と言うのもこの文化放送会館(聖パウロ会館)は、見た目も格調高かったが、非常に分厚いレンガ建築で非常に堅牢な建物だったからだ。残すべきだったのではないかと、一社員としては思う。「たられば」の話をしても仕方がないが….

気を取り直して、話を戻そう。伊藤満さんの奥様の敬子さんは、四谷時代の文化放送そばの老舗蕎麦屋「満留賀」の娘だった。生まれも育ちも四谷という生粋の東京っ子。敬子さんは戦前から四谷の町を定点観測してきた方だ。彼女の話も実に興味深かった。

伊藤敬子さんの証言

「うちは江戸の古地図に出てくる旗本の家です。 私は集団疎開から戻っても双葉に通ったんです。ずっとこのあたりから離れたことはないの。でも四谷の景色もずいぶん変わりましたね。戦前は、四谷が新宿以上ににぎやかな場所だったんです。でも戦後は、新宿が(空襲で)焼けた後に闇市ができて(大きい街に)変わっていったんですよ。 私たちは新宿は近寄らなかったんです。行ったのは、今は丸井が建っている映画館の帝都座のあたりまでよね(現在の丸井のあたり)。(聖パウロ)教会の建物を建てていたときのことは覚えています。嵐が来たんです。建てている最中、木造の骨組みを載せていたところに台風が来て(倒壊)事故が起きたの。留守番のおばさんが亡くなったのよ。あの場所は、井上ひさしさんも「モッキンポット師の後始末」で書いているけれど、戦時中「かまぼこ兵舎」になっていたところ。だから教会が立った時は驚きました。文化放送の建物も目立っていましたよ。当時このあたりは高い建物が何もなかったから。空襲でみんな焼けて四谷から見えるのは、絵画館と富士山だけ。民間放送局ができるらしいと聞いてはいたけれど、まさか地元の四谷にできると思っていなかったから、「こんな何もないところに」という感じでみな驚きました(笑)。戦前のにぎやかな時代を知らない、戦後の四谷しか知らない人にはもっとびっくりだったのではないかしら。まだ(新宿通りは)道も細くて、地方の松山や熊本のように路面電車がのんびり走る町でしたね。」

敬子さんの話にあった建物が倒壊して亡くなったのは、以前ご紹介した桑島カツさんだ。マルチェリーノが胸を痛めた事故だった。ちなみに、昔の四谷の景色を目に浮かぶように語ってくれた敬子さんは、実家のそば屋「満留賀」の出前の手伝いで、時折、注文された蕎麦を手に文化放送に出入りしていたのだという。そんな敬子さんを見初めたのが満さんで、2人は言ってみれば「職場結婚」したというわけだ。そんな素敵ななれそめも聞かせて頂いたのだが、伊藤満さんはのちに文化放送を辞めて妻の実家のそば屋「満留賀」を継ぐことになる。そして、1982年に店を改装して2階に「四谷倶楽部」という貸席をオープンする。文化放送開局60周年の際にCD化され落語ファンに衝撃を与えた「志ん朝十三夜」は、この四谷倶楽部で行われた口演が中心だ。番組リスナーの招待という形で行われた志ん朝の生口演は毎回立ち見が出るの大盛況だった。伊藤さんはのちに演芸ものを中心としたディレクターとして、芸術祭を受賞するなど活躍するのだが、最初に配属されたのは、放送指揮室という名前はいかめしいが中身は地味でハードな職場だった。

次回へ続く

 

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