第5スタジオは礼拝堂 第44章「S盤アワーの青い鳥は近くにいた」

第5スタジオは礼拝堂 第44章「S盤アワーの青い鳥は近くにいた」

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「プロローグ」はこちら

第1章:「それはチマッティ神父の買い物から始まった」はこちら

第2章:「マルチェリーノ、憧れの日本へ」はこちら

第3章:「コンテ・ヴェルデ号に乗って東洋へ」はこちら

第4章:「暴風雨の中を上海、そして日本へ」はこちら

第5章:「ひと月の旅の末、ついに神戸に着く」

第6章:「帝都の玄関口、東京駅に救世主が現れた」

第7章:「東京・三河島で迎えた夜」

第8章:「今すぐイタリアに帰りなさい」

第9章:「今すぐ教会を出ていきなさい」

第10章:「大森での新生活がスタートした」

第11章:「初めての信徒」

第12章:「紙の町で、神の教えを広めることに」

第13章:「戦争の足音が近づいてきた」

第14章:「ベロテロ、ニューヨークに向かう」

第15章:「印刷の責任者に」

第16章:「イタリアの政変で苦境に」

第17章:「警察官と一緒にNHKに出勤」

第18章:「裏口から入ってきた警察署長」

第19章:「王子から四谷へ〜マルチェリーノの逮捕」

第20回:「本格的な空襲が始まる」

第21回:「東京大空襲」

第22章:「修道院も印刷所も出版社も」

第23章:「終戦」

第24章:「焼け跡に立つ」

第25章:「横浜港で驚きの再会」

第26章:「四谷は瓦礫の山の中」

第27章:「民間放送局を作っても良い」

第28章:「社団法人セントポール放送協会」

第29章:「ザビエルの聖腕がやってきた!」

第30章:「映画封切りデーの勘違いが、運命を変えた」

第31章:「ついに帰化を決断し、丸瀬利能に」

第32章:「放送局の申し込みが殺到」

第33章:「勝ち抜くためのキーワードは、文化」

第34章:「そして最終決戦へ」

第35章:「放送局認可へ、徹夜会議が開かれる」

第36章:「局舎建設と人材集めの日々」

第37章:「マルチェリーノに猛烈抗議」

第38章:「スモウチュウケイガヤリタケレバスグニコイ」

第39章:「局舎が完成、試験電波の発信に成功」

第40章:「新ロマネスク様式の文化放送会館」

第41章:「開局前夜祭」

第42章:「四谷見附の交差点が最大の関所」

第43章:「格が違うと言われて燃えた男」

第44章:S盤アワーの青い鳥は近くにいた

1952年の1月、日本ビクターの小藤武門が売り込んだ「S盤アワー」の企画書は、ラジオ東京(現TBS)には断られたものの、東京で2番目の開局となった日本文化放送協会からは受け入れられた。文化放送開局まで3か月を切っていた。

文化放送(正式には日本文化放送協会)が開局した当時の1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)にかけては、国際情勢に目を向けるとまさに激動の時代だった。1月にはイギリスがスエズ運河を封鎖する「スエズ危機」が発生し、韓国では大統領の李承晩が西側の反対を押し切って「李承晩ライン」を設定。キューバでは親米独裁のバティスタ軍事政権が誕生した。日本を取りまく環境も大きく変わり、文化放送開局後間もない1952年の4月28日にアメリカとの間で平和条約が発行され日本が悲願の主権を回復した。7年近い占領時代がようやく終わったとは言っても沖縄や小笠原などはアメリカに取り残され、沖縄の基地問題など今につながる宿題を山のように残したままの船出となった。日本の主権回復よりも一足早くGHQによる接収の解除も続いていた。以前紹介した日比谷松本楼は1951年11月に接収が解かれ、経営権が小坂哲瑯氏の父の光雄氏の手に戻ってきたが、進駐軍はレストランの中を荒らし放題のまま帰国して行ったと言う。そのような苦労や憤りはあったであろうが、それでも接収が解除され戻ってきたのは喜ぶべきことだった。神宮球場や帝国ホテルなども接収解除され、新スタートの意欲に満ちていた時代だ。1952年の3月には戦災を免れた有楽町の日劇(日本劇場)の中に大人の殿堂「日劇ミュージックホール」が開業し世間を驚かせた。

ちょうどその頃、その日劇から目と鼻の先の数寄屋橋を舞台に展開される男女の出会いと別れを描いた物語が大人気となった。それがNHKのラジオドラマ「君の名は」だ。1952年に放送を開始した菊田一夫原作のドラマで、東京大空襲の夜に数寄屋橋の上で命を助けあった見ず知らずの男女が、半年後にもう一度数寄屋橋の上で会う事を約束し別れた。しかし、別れ際に男(春樹)が「君の名は?」と尋ねるものの、女(真知子)は何も言わず立ち去っていく。半年後約束どおりに数寄屋橋に現れた春樹であったが、真知子の姿は無かった。 この東京大空襲とは、3月の下町空襲ではなく5月の山手空襲のことだ。マルチェリーノやパガニーニ、キエザら聖パウロ修道会の仲間が、火の海の中を四谷から麹町を目指して逃げた山手大空襲。あの日の夜には百人百様のドラマがあった。

戦争は数多くの「再会」のドラマを生んだ。引き揚げ船で息子が戻ることを待ち続ける母を歌にした「岸壁の母」もそうだし、私も戦後70年の際に様々な戦争体験者に話を聞いたが、再び親に会える、友に会える、妻に夫に会える、故郷の姿を見る事ができるという思いを持っていなかった人はいなかったと思う。聞いた中で印象的だった話がある。原爆投下で惨状と化した長崎で、兄とともに郊外の農家に買い出しに出かけた思い出を語ってくれた松原さんという男性がいた。兄と2人で農家の軒先に立ち、野菜を売ってくれと頼んだ。ところが出てきた農家の夫婦は返事もせず呆然とした顔で松原さんの兄の顔を見つめていたのだ。それと言うのも、松原さんの兄が、夫婦の戦死した息子と瓜ふたつだったのだという。息子に再会できたようだと喜ぶ夫婦は、山のように野菜を持たされてくれ2人はまた来ると約束して帰宅した。これも再会のドラマだと思う。戻らない息子との悲しくも温かい再会のエピソードだ。そう言えば、ともに日本の地を踏んだマルチェリーノとベルテロの2人も一歩間違えば生き別れになったかも知れない。マルチェリーノは空襲も特高の不当逮捕にも耐え抜いて生き延びた。そして幸いにも終戦の翌年、無事に横浜港で再会を果たすことができたのだ。長いニューヨーク生活でまるまる太って帰ってきたベルテロと、戦時下の東京の食料不足で別人のようにやせ細ったマルチェリーノは、声を発するまでお互いがお互いにを気付かなかったというエピソードを以前に紹介したが、似たような体験をした人も多かったのではないだろうか。

戦前の数寄屋橋交差点 写真の真ん中に見える日劇(日本劇場)は1933年に完成し、空襲も占領軍の接収も免れた。その目の前に春樹と真知子が出会った数寄屋橋があるが、1958年に外堀が埋め立てられすっかり景観が変わった。

戦争は分断と再会、そして再生の物語だ。「君の名は」は、ただ単にハラハラドキドキする恋愛ドラマというものではなかった。戦争で生き別れや死に別れを経験した人が多かった時代だ。堪えがたい喪失感を胸に戦後を生き抜いた人々にとって、2人がもう一度めぐり逢って欲しいという思いは、現代を生きる我々よりももっともっと切実なテーマだったのではないだろうか。この逢いたくてもすれ違い続ける悲恋ドラマで描かれたテーマは万国共通で、放送からちょうど半世紀後に、隣の韓国でも「冬のソナタ」という名作ドラマとなって視聴者の心に訴えた。韓国の人たちもまた南北分断という生き別れや死に別れを経験している。

2016年に大ヒットしたほぼ同名?のアニメ映画「君の名は。」も、二度と逢えないかも知れないという心や時間の空白を埋めようとするドラマだった。この映画はラストシーンで四谷の須賀神社に通じる急峻な石段が描かれ、アニメファンの聖地として知られるようになった。須賀神社の目と鼻の先には文化放送があった。私にとっての須賀神社は、労働組合の一員としてストを打つ際に、ミカンやお菓子を買い込んで立てこもった懐かしい場所でもある。須賀神社は今も変わらないが、あの場所に文化放送はもう無い。記憶の中には有っても、あの局舎に会う事は二度とできない。だから例えばGHQの本部として使用された第一生命ビルが、立て替えられた後も往時の姿を再現していることに何というか温かさと力強さを感じる。古いものを残しながら新しいものを生み出すことはとても難しいことだがとても大事なことだ。

1952年はどのような時代だったのか

話を戻そう。NHKのラジオドラマからスタートした「君の名は」は、翌年、岸恵子と佐田啓二の主演で映画化され、岸恵子のストールの巻き方「真知子巻き」を真似た女性たちで街が華やぐことになった。笠置シヅ子の「東京ブギウギ」から5年、高峰秀子の「銀座カンカン娘」から3年。戦後颯爽と登場した陽気な歌の数々に、時代もようやく追いついてきたのだ。占領から解放されて、日本も自分の足で戦後の歩みを始める高揚感の中にあった。そしてそのような時代の中、ある意味では逆に占領軍の置き土産のような形で憧れの洋楽をお届けする「S盤アワー」がスタートしたことになる。番組の生みの親である日本ビクターの小藤武門氏は、当時の四谷の街の様子について次のように綴っている。

「戦後7年近く経ったと言っても、東京・四谷界隈はまだ焼けビルとバラックばかりで、そこに建った財団法人日本文化放送協会は、際立って人目を惹く異風な、修道院を思わせる建物だった」(小藤武門著、アドパックセンター刊「S盤アワー わが青春のポップス」から) 

異風という言葉に、当時近隣住民たちが感じた教会のような建物への新鮮な驚きを小藤も感じたのだというのがよくわかる。周囲にビルや家屋も少なく、今よりずっと近隣のお墓やお寺、そして神社と教会のコントラストが強かったと思う。もちろん戦後7年が経過していたので、アメリカから帰国したベルテロが呆然と眺めたがれきの街とは違っているが、まだところどころに空き地が存在していて、それは空襲の傷跡、戦争の爪痕だった。

小藤にとってラジオ東京に断われた後に転がり込んできたキリスト教と関わりのある「2番目の局」での番組開始の決定。まさに拾う神だったというと不謹慎か。実のところは、営業的に苦しかった文化放送協会にとって、むしろ日本ビクターこそが拾ってくれた神だった。小藤が胸を躍らせて向かった完成したばかりの放送局は、メインスタジオの第1スタジオと第5スタジオの2つがひときわ大きく、局舎の真ん中を2階から3階まで貫いていた。一方、小さめの第2、第3スタジオは天井も低くほとんどが2階に設置されていた。建物の外壁は分厚いレンガで堅牢に作られていた。そしてできたてほやほやの新しい局舎で、小藤を手助けするスタッフが急遽集められ会議が開かれた。開局の日まで2ヵ月しか残されていなかった。当時のスタッフについて小藤は、「S盤アワー わが青春のポップス」(アドパックセンター刊)の中でこのように書き残している。

「営業担当ぜっちゃん(皆美享衛氏)は私同様復員軍人くずれ。青雲の志を抱いて、はるばる鹿児島の外れから放送局の門を叩いた赤ちゃん(赤塚演夫氏)は、大酒豪だが、誠意あふれる九州男児。それに、モダンボーイのヒロ坊(双葉山の甥、常盤熙氏)、同じく営業担当の島ちゃん(島地純氏)は海軍兵学校出身で特攻隊の生き残り、制作担当のマロさん(大塚三仁氏)は小学校の教師上り(後に「ユア・ヒット・パレードでも、私とコンビを組み番組編集の魔術師の異名をとった同じく制作担当の細倉勝さんは新宿のレコード店「コタニ」からの転身といった具合である。経歴は多彩だが、みんな揃いも揃ってラジオ放送についてはズブの素人ばかり、しかし、ひとくせも、ふたくせもあるサムライ揃いであった。それは面白いというか、変わっていたというべきか、まさに民放幕開け、新時代の鐘を鳴らすにふさわしき人々であったことに違いはない」

島地さんや赤塚さんたちは私が入社した当時は、関連会社の役員などを務めていた人たちで直接話したことは無かった。ただ小藤の文章から、彼が文化放送の面々に同士愛を持っていたことがよく分かり嬉しい。元海軍予備学生の小藤にとってはまさに戦友だったのだろうか。このように文化放送社内からも営業担当から制作、編集担当まで、人間臭くて、クセの強いメンバーたちが、S盤アワー担当として集まった。とは言え彼ら放送局側のメンバーは、気合は入っていても音楽に関しては、まさにズブの素人たちだったので、小藤にとっては自分が頑張らねばという思いも強くしたことであろう。

RCAとの契約で「S盤(RCAと契約した日本ビクターの洋楽)」をかける権利は確保したものの、まだ輸入盤が簡単に日本に入ってくる時代ではなかった。当時ひと月に発売される「S盤」は3枚程度で、毎週放送する番組にも関わらずどう考えても肝心の曲の数が足らない。つまりかけるレコードもすぐに足らなくなることも容易に想像がついた。だから、番組作りの発想を180度変える必要があった。そこで小藤をはじめS盤アワーのスタッフはいくつかのルールを考えた。大きく分けると、まず①にとして、「音質を良くすることが、番組の決め手になる」「単なるレコードの紹介番組にはしない」ということ。次に②として「ドラマティックな演出にする」ということ。「毎週同じ曲がかかっても、必然性があるように工夫する」こと。そして③は、「曲にあわせて文学的な美しい言葉で情景を作り出す」(ナレーションが主役で音楽が脇役であっても良いし、ナレーションが脇役に回り音楽をエスコートしてもよい)というものだった。まず①の音質だが、当時誰も思いつかなかったアイデアで勝負することにした。そして、それはレコード会社制作の番組だからこそ成立したことでもあった。とにかく当時のレコードは針を下すだけでジャージャーと音が鳴った。レコードならではの味わいだろうと言う人もいるが、それは今の時代に感じることで、当時は味わいのレベルを通り越して、ほとんどノイズのレベルだった。モノ不足の時代でレコード盤の材質も悪かったことも原因していた。

とは言え、元々の音源はアメリカでHiFi録音されたマスターテープだ。そのマスターテープが航空便で送られてきて日本国内でレコード盤に刻むのだが、当然ながら元のテープは実にクリアでダイナミックな音だった。ノイズもない。そこで小藤は、このマスターテープをそのままダビングして原音に近い状態で放送することを思いついたのだ。そんなことをすれば手間暇のかかり方は尋常ではないし、万が一誤って貴重な原音を消してしまったらクビを覚悟せねばならない。録音ボタンさえ押さなければテープを消すことなんてないだろうと言う話ではない。当時の放送局には消磁機(しょうじき)なる機械があり私も若いころよく使ったのだが、そもそもテープは針で刻むのではなく磁気で記録してあるので、その磁気を消す、つまり消磁すると音も消えてしまうのだ。とても便利な機械だが、うかつに大事なテープを近づけただけでヘタをすると音が部分的に、あるいはきれいさっぱり消えてしまうのだ。デジタルデータと違って復旧はまずできない、実に恐ろしい機械でもあった。とにかく大事な原盤を扱うことによる心配は尽きなかったが、それよりも音の良さを追求することを優先することにした。

続いて②のドラマティックな演出だが、それにまず欠かせないものは「テーマ曲」選びだ。「テーマ曲を何にするか」そして「喋り手を誰にするか」の2つは現在の番組作りでも変わらぬ大事な要素で、いずれも番組がスタートしてから変更することはスポンサーに恰好が付かないし、リスナーに対しても不誠実だ。とは言え、実はテーマ曲に関しては小藤が迷うことはなかった。オープニングテーマは、2か月後に発売する予定にしていたペレス・プラードの「エル・マンボ」に決めた。「エル・マンボ」を流すために「S盤アワー」を作ると言っても過言ではなかったし、「これしかない」という確信もあった。エル・マンボは、マンボの王様ペレス・プラードが、キューバからメキシコに移住した翌年の1949年に発表したペレス・プラード最初のヒット曲だ。ちなみに有名な「マンボNO.5」は1950年の発表で5曲目にあたる。つまり初ヒットのエル・マンボは「マンボNO.1」に相当する曲だった。明るく陽気でエネルギーに満ちていて新番組のテーマ曲にふさわしいと小藤は考えた。ところでマンボと聞くと大昔からラテン世界に浸透していた音楽と思い込みがちだが、そうではない。今ではマンボも古典のようなものだが、当時は戦前のキューバでルンバにジャズが合体したばかりのニューウェイブな音楽ジャンルだった。当時の感覚では、ラジオ番組のテーマ曲にふさわしいのはクラシックやジャズなどのスタンダードだったと考えられるが、小藤は斬新さにかけた。番組スタートと同時に「S盤アワー」と「エル・マンボ」「ペレス・プラード」の名前はセットで日本中に浸透してゆくことになる。小藤はエンディングテーマにもこだわった。当時は前後のテーマ曲を同じにすることが定番だったが、始まりと終わりの曲を別にすることで番組全体にドラマのような起承転結を付けることができると考えた。そこでオープニングはひたすら元気な「エル・マンボ」でラテンムードに染めるが、エンディングは一転して、陽気だがムーディーなジャズナンバー、ラルフ・フラナガンの「唄う風」でアメリカンムード満点に締めくくることにした。「唄う風(SingingWinds)」はプッチーニの歌劇「蝶々夫人」の「バルカローレ」をグレン・ミラー風にアレンジした曲だ。

問題は喋り手だった。③で目指した「曲にあわせて文学的な美しい言葉で情景を作り出す」。あるいは「ナレーションが主役になることもある」ためには喋り手の人選で失敗するわけにはいかなかった。自分のイメージ通りの声と喋りで番組を彩りたい小藤は、1ミリの妥協もしたくなかったが、そのイメージ通りの喋り手がどうしても見つからない。そこでレコード会社の宣伝担当者は、日本ビクターからデビューが決まっていた宮城まり子を推薦してきた。美しく温かい声で、誰の耳にも申し分なかった。しかし、あくまでも「自分の中の理想」の問題なので、もはや宮城まり子が良いとか良くないという次元では無くなっていた。自分の頭と心の中にしか答えがない。さらに社内ではもうひとつの心配もあった。それは宮城まり子は大スターになる素質を秘めていたので、そうなった場合はできたばかりの民放ラジオなどというものに出演させている時間など無くなるのではという社内の懸念だ。実際に宮城は大スターになっていったので、もし宮城がパーソナリティに選ばれても、忙しすぎて途中で降板という事態になっていた可能性はゼロではない。このほか、当時世間に良く知られた音楽評論家がDJを務めるべきではという意見もあがった。しかし小藤は名士たちの高尚な音楽話よりも、もっと自由なしゃべり、進駐軍放送のWVTR(後のFEN)ような、のびのびとトークをする番組にしたかった。小藤の頭の中に、ふと足を上げてダイナミックに歌い上げる笠置シヅ子の姿が浮かんだ。新しい時代を作るには、明るさ、陽気さ、のびのび感が欠かせないと考えた。しかし、肝心のそんなイメージにぴたっとはまる声が無い。「青い鳥はどこにいるのだろうか?」 小藤は焦りと諦めの中、悶々と日々を過ごしていたが、実はその青い小鳥は小藤のすぐそばにいたのだ。「灯台下暗し」だった。

ある日、会社のお昼休みにトイレに入った小藤の耳に、遠くから鼻歌交じりの「椿姫」のアリアの歌声が聴こえてきた。「幻聴なのか」と小藤は思った。出演者選びに悩みすぎて、ついには自分の頭の中で想像する声がまるで本物のように聴こえてきてしまったのではないか。しかしその声は幻聴ではなかった。若々しく、透き通った伸びのある歌声。嫌味がなく、気取りもいない親しみのある伸びやかな明るい声。声に惚れるという言葉があるが、小藤はその鼻歌交じりの歌声に一瞬で惚れた。しかもその声は壁越しの給湯所から聴こえてきた。ここはレコード会社だが、いくら専属歌手であっても一般社員が使う給湯所にいるはずは無い。誰なのか?小藤はトイレから出て隣の給湯所を覗いてみた。そこには見た事の無い若い女性がいた。大きな目に度の強い眼鏡をかけ、鼻歌を歌いながら廊下を歩いて総務課の部屋に消えていった。社内で聞き込みをすると、その女性は帆足まり子という名前で、高校を卒業して日本ビクターに入社したばかりのOLだそうだ。総務課で郵便物を仕分けるメール係だと言うこともわかった。しばらくすると、ビクターの広告のための社内オーディションで、彼女の声を吹き込んだナレーションのテープも回ってきた。そのテープを聴いた小藤は確信した。「S盤アワーのDJは彼女しかいない」

スターDJ帆足まり子の誕生

S盤アワー放送中の帆足まり子さん

実は帆足まり子という名前のこの新入社員は元々は歌手志望だったらしい。しかし夢かなわずというよりも、いつか歌手になるチャンスがめぐってくるかもという淡い期待を胸にレコード会社に入社したそうだ。しかも縁あって「異国の丘」などで飛ぶ鳥を落とす勢いだった作曲家の吉田正の目に留まり、歌手になる夢をかなえるチャンスをつかんだばかりだった。時の総理であった吉田茂のもとに集まった若手政治家や政治家の卵たちのことを「吉田学校」と呼んでいたが、同じ吉田つながりで吉田正の門下にある歌手たちのことも世間は「吉田学校」と呼んだ。この音楽版「吉田学校」の生徒たちは、まさにスター軍団で、鶴田浩二、フランク永井、松尾和子、橋幸夫、三田明、吉永小百合、雪村いづみら時代の寵児たちが揃っていた。実はこの大作曲家と私は薄い薄い縁がある。スポーツ部員だった1999年から2003年の4年間、私は文化放送の野球解説者だった豊田泰光さんの事実上「カバン持ち」として行動を共にさせて頂いていたのだが、豊田さんは茨城県の同郷だったよしみで西鉄ライオンズのスター選手だった1958年に吉田正作曲の「男のいる街」という曲で日本ビクターから歌手デビューし、しかも7万枚を売り上げるヒットを飛ばしていたのだ。スポーツ選手による歌手デビューのはしりだが、豊田さんと吉田さんの友情は長く続き、吉田正没後の2004年に故郷の日立市に吉田正音楽記念館が開設された際には豊田さんが尽力している。東奔西走している姿を私も間近で拝見し、自身がディレクターを担当していた豊田さんのトーク番組で何度も吉田メロディをかけ、吉田学校の歌手にご出演頂き、記念館のことにも触れたりした。その縁で吉田夫人にもお目にかかる機会を得て、関係者にのみ配られる記念懐中時計を頂いた。今も私の宝物である。ちなみに吉田正音楽記念館への遺品の寄贈式では、豊田さんが体調不良の夫人に代わって出席もしている。豊田さんは晩年まで実に精力的だった。吉田記念館開設と西武ライオンズのライオンズ・クラシックプロデューサーとして大活躍を見せて冥途へと旅立った。私の文化放送における数少ない「恩人」のひとりだ。

話を戻すが、その大作曲家・吉田正に才能を見込まれた帆足まり子は、歌手を目指すのか?それともDJになるのか?の二者択一を迫られることになった。今はやりの二刀流と行きたいところだが、宮城まり子ですらもその道は選べなかった。どちらかを選ばねばならない。小藤からの懸命の説得に帆足はついに「一日だけ考えさせてください。母とおばあちゃんに相談してみます」と伏し目がちに答えた。小藤には心なしか元気が無いようにも見えた。

しかし翌日、帆足は別人のように晴れ晴れとした表情で現れ、小藤に答えた。「やらせていただきます」 もちろんありがたい返事だったが、頼んだ側であるにも関わらず小藤は急に不安になってきた。説得を始めた当初は吉田正門下に入るという話は知らなかった。ここにきてビクターにとって、もっとも重要な作曲家である吉田正がヘソを曲げる可能性があるのではと心配になってきたのだ。小藤は「ところで吉田先生のほうは大丈夫かい?」と不安気に尋ねたが、心を決めた当の帆足に迷いは無かった。笑顔を作って小藤の目を見ると言った。「大丈夫ですよ。きょう母と2人でお断りに行ってきます」 吉田も喜んでくれて、帆足のDJデビューを「頑張れ」と送り出してくれた。ただし吉田は帆足を歌手デビューさせなかったことをずっと後になってから、小藤に「惜しいことをした」とこぼしたと言う。 帆足の判断が彼女自身にとって良かったのかどうかは今となってはわからない。ただしこの彼女の決断で文化放送が救われたことは間違いない。番組のコンセプトは決まった。出演者もテーマ曲も決まった。小藤と文化放送のスタッフの面々は、開局日から3日目にあたる1952年4月2日の放送開始に向けてさらなる追い込みをかけた。

次回に続く

 

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