斉藤一美 ニュースワイド SAKIDORI! 毎週月曜日~金曜日 15:30~17:50 ON AIR
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応援!ユニバーサルスポーツ

  • お電話:パラ陸上・やり投げ 若生裕太選手

    パラ陸上の視覚障害のクラスのやり投げで、東京パラリンピック出場を目指す若生裕太さんにお電話を繋ぎました。
    若生さんは、1997年、東京・大田区生まれ。
    小学1年から野球を始め、中学では硬式野球チームに進み、日大鶴が丘高校ではキャプテンを務めて134人の部員をまとめました。
    体育教師になるという夢を抱き、日本大学文理学部体育学科に進学。
    しかし、大学2年の秋、目の難病「レーベル遺伝性 視神経症」を発症し、およそ半年で、両目の視力が0.01まで低下しました。
    ゴールボールやブラインドサッカーを経験した後、おととし6月から、やり投げに専念。
    わずか1年で日本新記録を樹立し、現在56m94まで記録を更新。
    東京パラリンピックでも活躍が期待されています。

    今日は、限られた視力の中でどうやってやりを投げているのか、手ごたえは何で感じとっているのかなど詳しくお話していただきました。
    次の試合は、10月11日に「2020愛知パラ陸上競技フェスティバル」、11月7日には「第25回関東パラ陸上競技選手権大会」が控えているそうです。
    若生さんの勝利のシャウトが飛び出すか!?活躍に期待です!
  • お電話:前田有香さん

    今日は、このコーナーではもうお馴染み!
    様々なメディアで障害者スポーツの魅力を発信している前田有香さんにお電話を繋ぎました。

    4月からこのコーナーにも携わるようになった松井アナは、障害者スポーツによりいっそう興味を持つようになったといいます。
    そのなかでも応援したい競技の1つが、車いすバスケ!
    実は以前、お仕事で日本代表の藤本怜央選手にお会いし、上半身の筋肉の盛り上がりに驚いたのだとか。
    そんな松井アナに、今日は前田さんが、改めて車いすバスケの見どころや、先週もこのコーナーで触れたクラス分けの問題などをピックアップして紹介してくださいました。

    ほかにも応援したい競技の1つとして松井アナが挙げたのが、車いすバスケ。
    激しいタックルが魅力ですが、車いすバスケと車いすラグビーでは、使っている車いす自体にも違いがあるのだそうです。
    また、ゴールボールやブラインドサッカーといった視覚に障害のある選手が行う競技では「音」が重要になりますが、完全に視覚が遮断された状態で、耳だけでなく、肌で圧や風の動きを感じて空間を把握し、果敢に攻め込むという奥深さについても語ってくださいました。
  • お電話:朝日新聞 スポーツ部記者 榊原一生さん

    今、東京パラリンピック 車いすバスケの一部の選手が出場資格を失うという事態が起きていることについて伺いました。



    このようなことが起きてしまった原因については、IPC(国際パラリンピック委員会)がパラリンピック競技に関する新しいクラス分けの基準を発表し、2018年までに基準にのったクラス分けをするよう求めていたことが挙げられます。


    元々、車いすバスケは新しい基準が導入される前から国際車いすバスケ連盟が独自のクラス分けをしており、IPCが設定したクラス分けの方が厳しいこともあって、参加資格を失う選手が出てきてしまう状況となりました。



    根底にあるものは考え方の違いで、公平性を厳格化するIPCと、魅せるプレイを大事にする国際車いすバスケ連盟の差であるとお話してくれました。

  • お電話:パラ陸上 井谷俊介選手(SMBC日興証券所属)

    今日は、パラ陸上のT64という義足のクラスの100mと200mで、アジア記録を持つ井谷俊介さんとお電話を繋ぎました。

    井谷さんは、1995年生まれ。三重県尾鷲市のご出身です。幼い頃から鈴鹿サーキットに通い、プロのカーレーサーを夢見て大学生からカートレースに出場していましたが、今から4年前の冬にバイク事故で右足の膝から先を切断しました。その後、パラ陸上と出会うとすぐに頭角を現し、2018年のアジア選手権や去年の日本選手権で優勝。

    なんと、競技歴わずか10か月でアジア記録を樹立したという井谷さん。

    「周りの家族や友人の存在が大きかった。励まして支えてもらえたから、負い目を感じずに前に進めた。最初、切断した時には世界で一番つらいのは自分と思ったけれど、周りの家族や友人が落ち込んでいる姿を見て『これは僕のせいだ。みんなを笑顔にするために頑張ろう!』と感じた。」

    そこからは、笑顔の無限ループのように、良いほうに良いほうに進んだといいます。


    先週末、熊谷で開催された日本選手権では200m優勝!しかし、おとといの100mで、井谷さんは得意の後半で伸びず、2位という結果に。

    おとといの敗戦を振り返り、「あっけにとられた。なんか一瞬で終わった感じで、負けるのも久しぶりだったし、何よりも普段通りの自分の走りが出来なかったのが悔しかった。タイムを見ると、前半の30mがすごく遅かったので、スタートの反応や、1歩目2歩目の動きがよくなかったのかも」と分析。

    コロナ禍の外出自粛期間中は地元・三重の砂浜や公園の芝生で走り込み、義足を引き上げる力を高めました。

    「自分はまだ、延期になった東京パラの内定が取れていない。まずはこのシーズン、年明けからも頑張って内定を取り、メダル争いに食い込めるように!」と意気込みを語ってくださいました。

  • お電話:医療施設「ポリクリニック」常勤医 青木隆明さん

    きょうは、来年の東京パラリンピックの選手村に設けられる医療施設「ポリクリニック」の常勤医、岐阜大学医学部 整形外科 特任准教授の青木隆明さんにお話を伺いました。


    どんなお仕事か伺うと、選手村の中にある医療施設で、外国の選手はもちろんスタッフの方を診療・連携病院を紹介するといった業務を行うといいます。


    また、ポリクリニックには青木さんを含め4人の担当医がいて、内科や歯科があり、診察はなんと無料なんだとか! しかし、通訳の方はいないため、勤めるには語学力も必要です。


    元々、28年前のバルセロナパラリンピックで水泳選手の担当医として参加した青木さん、選手と一体となって本番を支えた体験が今回も参加するきっかけになったそうです。残念ながら東京パラリンピックは1年延期してしまいましたが、選手のみなさんは前向きにとらえ来年に向けて気持ちを高めているといったお話を聞くことができました。

  • お電話:日本パラリンピック委員会委員長 河合純一さん

    今日お電話を繋いだのは、日本パラリンピック委員会委員長の河合純一さん。

    河合さんは、1975年、静岡県浜松市のお生まれです。
    全盲のスイマーとして、パラリンピックには1992年のバルセロナ大会からロンドン大会まで6大会連続で出場!金メダル5個を含む、合計21個のメダルを獲得しました。
    その間、1998年、早稲田大学卒業後、社会科の教師として母校の浜松市立舞阪中学校で教員とアスリートを両立。
    2016年には、国際パラリンピック委員会から日本人で初めてパラリンピック殿堂入りを果たし、来年の東京パラリンピックでは日本代表選手団の団長も務められます。

    今日、8月25日は本来であれば、東京パラリンピックの開会式の日でした。
    今頃は国立競技場の近くで待っていたのかなと思うと複雑な気持ちだという河合さん。
    この1年延期について、「年齢が高い選手には1年というのは大きいだろうし、若い選手には伸びしろがある。ただ出来ないことを数えるのではなく、常にどうすればできるかを考えて取り組んでいるパラアスリートたち。選手たちは1年後を目指して前向きに取り組んで、準備してくれていると信じている。今、自分にできることは何なのか。コツコツ積み上げて、いつでもそれを発揮できる努力が必要なのかなと思う。」と、コロナ禍で色々なものが未確定な中での、日本パラリンピック委員会の委員長としての思いをお話してくださいました。

    今年度改訂された学習指導要領には、初めて「パラリンピック教育」という言葉が入っています。
    元中学校の教員でもある河合さんは「これは大きな一歩!」だと言います。
    障害者スポーツやパラリンピックが日本でもっと浸透するために、パラリンピックの歴史や価値にとらわれず、共生社会をどう作っていくのか、学びや教育がこれからの時代やレガシィを作っていくと期待されていました。
    河合さん、ありがとうございました!
  • お電話:日本ボート協会(パラローイング)有安諒平さん

    今日は、日本ボート協会の指定強化選手、有安諒平さんにお電話を繋ぎました。


    有安さんは、1987年、サンフランシスコ生まれ。15歳で視力が低下する「黄斑ジストロフィー」を発症しました。

    大学生で理学療法士と出会い、自らも大学を入学し直して理学療法士の道へ。その後、パラ柔道に取り組み、2016年にパラローイングと出会いました。

    現在は、パラローイングの選手や、高齢者施設を運営する東急イーデザインの理学療法士の他、杏林大学の大学院生として医学研究に励むなど充実した日々を送っています。


    有安さんがパラローイングに興味を持ったのは男女混合、障害も混合という点。

    以前取り組んでいたパラ柔道は、様々な障害の人が競技しやすいようなルールづくりになっているが、全て混ざって参加できるパラローイングの面白さに惹かれたそう。柔道で鍛えた広背筋は、水を掴む動きで大変役に立っているそうです。

    また、様々な障害者の方いるため、4人乗りのクラスでは息をあわせるために全身で船の様子などを感じながら一致団結しているとのこと。

    2000メートルを漕ぎ切ったときは全員が100%の力を出しているため、一体感がすごいと感想を述べました。

  • お電話:株式会社バイリンガル・グループ 郷農彬子さん

    今日は、1964年の東京パラリンピックでボランティア通訳を務めた郷農彬子さんにお電話を繋ぎました。

    お父様が長崎の進駐軍の通訳をしていた関係で、英語が堪能だった郷農さんは、1943年生まれ。日本女子大学1年生の時に、東京パラリンピックのボランティア通訳に誘われ、1年間の準備のあと、各国の選手が集まる代々木の選手村で、選手間の交流の場であった「インターナショナルクラブ」で通訳を担当されました。

    現在、国際会議の準備・運営のほか、通訳、翻訳などにかかわる株式会社バイリンガル・グループの代表取締役をお務めです。

    そもそも郷農さんは、東京オリンピックで通訳がしたいと応募。「1年生ではダメだ」と言われ、すごすごとその場を立ち去ろうとしたときに「パラリンピックの通訳はどうですか?ボランティアですけど」と声をかけられたそうです。

    そこで"ボランティア"という単語を初めて聴いた郷農さん。("ボランティア"が、どういうスペルなのかも分からず「b」で辞書を引いていたというエピソードも!)

    ボランティア通訳に参加していた、日本赤十字の青年課の課長で、当時の皇太子妃の美智子さまの信頼も厚かった橋本祐子さんとの出会いは、郷農さんの人生で大きなものとなりました。英語のことだけではなく、あらゆる面で橋本さんに鍛えられたと振り返ります。

    「インターナショナルクラブ」は選手間の交流の場でしたが、来るのは外国人ばかり。通訳をしたくても、日本人選手は部屋にこもって出てこなかったといいます。そこで、夜の時間を楽しく過ごしてもらうために、大学のクラブに声をかけ、ジャズやハワイアンを演奏してもらうなど、アナウンス、コーディネート、プロモートまでをこなした郷農さん。

    「当時も外国人選手はすごく明るくて、障害者だから・・・とか、オドオドしたりしない。今思えば、あの頃の日本人の障害者の方は遠慮なさっていたのかも。パラリンピックを実際に見たら、きっと皆さん、障害者の見方が変わると思う!」とお話してくださいました。

  • お電話:車いすラグビー 今井友明選手

    今日は、車いすラグビーの今井友明さんとお電話を繋ぎました。

    1983年生まれ。千葉県我孫子市のご出身です。
    中学3年生のとき、プールに飛び込んだ際に首の骨を折り、両手両足に障害が残りました。
    25歳で車いすラグビーをはじめ、その後、日本代表に選ばれると、2016年、リオデジャネイロパラリンピックで銅メダル。
    2018年、世界選手権で金メダルを獲得します。

    今井さんが車いすラグビーを始めたきっかけは、一緒に車いすバスケをやっていた仲間が先に始め誘われたから。最初は「ぶつかって何が楽しいんだ」と思い、参加に躊躇したそうですが、実際に始めてみると楽しくてハマっていったといいます。

    車いすラグビーは4対4で行われ、試合中倒れてしまったらレフェリーが止めるまでは自分で起き上がることができません。そのため、相手を倒せばその分有利に試合展開ができるため、できるだけ倒せるようにぶつかっていくとのこと。ぶつかるとファールを取られる車いすバスケとは正反対の魅力に魅了されていったお話、さらに戦略などをたっぷりとお話して頂きました。
  • お電話:パラ自転車 杉浦佳子選手(楽天ソシオビジネス所属)

    今日は、楽天ソシオビジネスに所属されている、パラ自転車の杉浦佳子さんとお電話を繋ぎました。

    1970年生まれ。静岡県のご出身です。
    薬剤師の仕事をしながら、トライアスロンに取り組んでいた2016年、練習として参加した自転車のロードレースで転倒。
    脳挫傷、外傷性くも膜下出血等で重体となりましたが、奇跡的に意識を取り戻し、リハビリに専念した後、パラ自転車に挑戦。
    手足や体幹に障害のあるクラスで2017年、2018年、ロードの世界選手権で金メダルを獲得されました。
    右半身には今もまひが残りますが、不屈の闘志で東京パラリンピックに挑みます!

    意識を取り戻したときには、レースをスタートしたことしか覚えていなかったそうです。
    ドクターからは障害がひどかったため、もう自転車には乗れないよと言われたという杉浦さん。
    趣味で続けていた競技で転倒して障害を負ったことで、会社にも迷惑をかけた意識が強く、ご自身も「もう乗れないな」と思っていたといいます。
    意識が変わったのは娘さんの「もうママ、自転車乗らないの?」の一言。
    娘と一緒に自転車には乗りたいなと思うようになったのと、「もう一度ロードレースに出させてあげたい」と言ってくれたコーチの一言で、「パラリンピックを目指せば、もう一度乗ってもいいのかな」と、パラ自転車にチャレンジするきっかけに。

    東京パラリンピックが1年延期になったことについては「本来であれば49歳10か月で、ギリギリ40代でパラリンピックに出られたはずだったので、そのニュースを見た日はかなりへこんだ。けれど、ある方から40代でこれだけすごい記録を出しているんだから、1歳くらい変わらない。伸びしろあるよ!と言われた。」
    今は前向きに新たな目標を立て、モチベーションを保ちながら頑張っていらっしゃいます。
    「障害者だからこのレースという枠はあるけれど、(健常者との)垣根はなくてもいいように思う。憧れの選手に追い付いて走れたら。」と語ってくださいました。

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