終わりよければ・・・(放送終了)

9月26日~9月30日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、舞の海秀平さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、舞の海秀平さん!

9月26日(月)「やんちゃな少年時代」
毎日職員室に呼ばれるようなやんちゃな子供だった舞の海さんは、小柄な小学生でしたが、年に1度の相撲大会ではヒーローになれる、相撲好きの少年でした。
得意技は左下手投げ、自然と覚えてしまったのだそうで、これはプロになっても得意技でした。
厳しいお父さんの下で育ちましたが、ただ厳しいだけではなく、物を大切にする人でもあったので、舞の海さんは少しだけ他の少年より苦労をしたのだそうです。

9月27日(火)「稽古で強くなった高校時代」
周りに比べて小柄な舞の海さんは、中学生の頃から相撲を取ってもだんだん勝てなくなってきました。
声を掛けてくれた高校は1校だけ。
相撲の盛んな青森県代表にしては珍しく、その学校ではインターハイで予選落ちも経験しました。
しかし、その頃から一生懸命練習をするようになり個人で全国準優勝。日大相撲部から声が掛かりました。
舞の海さんは楽しいキャンバスライフを夢見て上京、しかし現実はあまりにも相撲漬けの毎日でした。

9月28日(水)「プロ入り」
中途半端な気持ちだったので相撲部での練習にあまり力が入らなかったという舞の海さん。
卒業後、教師になることまで決まっていましたが、後輩が突然亡くなった事で意識が変わります。
そこで改めて練習に精を出し、出羽の海部屋への入門も決まりましたが身長が4cm足りません。
そこでビン付け油を4cm盛って新弟子検査を受けたのです。

9月29日(木)「技のデパート」
身長が足りずに新弟子検査を落ちてしまった舞の海さんは、こんどは美容整形を思い立ちます。
頭にシリコンを埋め、通常の3倍のスピードで生理食塩水を注入した舞の海さんにとって、このは頭痛との闘いでした。
角界入りしてからは技のデパートと呼ばれ、活躍しました。
そんな舞の海さんが一番心に残っているのは横綱の曙関に勝った時。
最高の集中力で思い通りの相撲を取った舞の海さん、なんとも言えない達成感があったそうです。

9月30日(金)「一歩引いて見た相撲界」
舞の海さんが引退を決めたとき、末期癌で寝たきりだった大翔鳳関から励ましをもらったのだそうです。
大翔鳳関は2週間後に亡くなりました。
大学時代に突然後輩が亡くなった時と、この時、人生で二回、舞の海さんは生と死が隣り合わせであることを強く感じたのだそうです。
そして、相撲を辞めてスポーツキャスターになり、相撲の世界を客観視できるようになった舞の海さんは「土俵の矛盾、大相撲、混沌の中の真実」という本を書きました。
この本は単に物事に白黒をつけるのではなく、いろいろな見方から相撲の世界を取り上げています。


<舞の海秀平>
日大相撲部で活躍。
山形県の高校教師の内定が決まっていたにもかかわらず、周囲の反対を押し切って夢であった大相撲入りを決意。
新弟子検査基準(当時)の身長に足りなかったため頭にシリコンを入れて新弟子検査に合格。
1990年5月、大相撲出羽海部屋入門。同月、初土俵(幕下付出し)。
1991年3 月、十両(四股名:舞の海)に昇進し、同年9月幕内入りを果たす。
角界最小の身体ながら、「猫だまし」、「八艘飛び」などファンを驚かせる数々の技をくりだし、"技のデパート"の異名をとる。
1999年11月の引退までに、技能賞を5回受賞。
2000年、2001年には帝京大学非常勤講師も務める。
現在は NHK大相撲解説者などをつとめるほか、テレビ・スポーツキャスターとして幅広く活躍中。
◎最高位:小結 ◎三賞:技能賞5回受賞 ◎生涯通算成績:385勝418敗27休 ◎幕内通算成績:241勝287敗12休 ◎得意技:左四つ・下手投げ