私の理想とする夏休み

ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

7月25日~7月29日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは鶴岡雅義さん

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7月25日(月) 「『小樽の人よ』でデビュー」
鶴岡雅義と東京ロマンチカのリーダー、鶴岡雅義さん。
デビュー曲「小樽の人よ」がいきなりヒットしましたが、鶴岡さんは、曲を出してレコード会社の所属になれればいい、と考えていたそうです。
もともと東京ロマンチカのメンバーのエピソードを基にした曲ですが、舞台は小樽ではなく、釧路でした。
行ったこともなかったという小樽には、その後何度も足を運び、観光大使にまでなりました。
デビュー曲『小樽の人よ』に関するお話です。

7月26日(火) 「レキントギターと二匹目のどじょう」
もともとクラシックギターを演奏していた鶴岡雅義さん。
このままではクラシックギター奏者で終わってしまう、歌謡界に入りたいと思っていた頃、トリオ・ロス・パンチョスのレキントギターを見て、「これだ」と思ったそうです。
そして、曲は「小樽の人よ」のヒットを受け、二匹目のどじょうを狙って作られた「旅路の人よ」はレコード大賞の歌唱賞を獲得。
しかし、さすがに三匹目はいなかったと鶴岡さんは笑って振り返ります。

7月27日(水) 「古賀メロディと『君は心の妻だから』」
1969年のヒット曲「君は心の妻だから」。
リリースした時は、「古賀メロディのマネ」「古すぎる」と酷評されたそうです。
しかし、鶴岡雅義さんは曲作りの段階で「古賀メロディ風にしよう」と考えていました。
曲が売れ始めた頃、古賀政夫さんにこの曲のことを報告すると、古賀さんの返事は「古賀メロディではない、鶴岡メロディだ」でした。
鶴岡さんは、その言葉の意味を深く考えていましたそうです。

7月28日(木) 「『夜のヒットスタジオ』でのコント」
人気番組「夜のヒットスタジオ」に出演していた鶴岡雅義さん。
ヒゲの芸者などでコントに挑戦すると、まごつく表情に注目が集まり、「アップに堪えられる顔」という肩書きまで生まれました。
やりたくなかったコントですが、コンサートに行けばその話題で大盛り上がりだったそうです。
おかけする曲は「北国の町」。
実は、「やっつけ仕事」でできた曲でした。
お話は、「夜のヒットスタジオ」でのコントについてです。

7月29日(金) 「東京ロマンチカのこれから」
82歳でも身体の悪いところがないという鶴岡雅義さん。
曲作りは、フレーズが浮かべば完成したようなものだとおっしゃいます。
それでも、レキントギターを演奏する指は動かなくなってきているそうです。
曲は2003年にリリースした「花かげのひと」。
今後の目標はとにかく、東京ロマンチカを続けていくこと。
そして、ギターを弾く機会を持ち続けることです。
東京ロマンチカのこれからのお話です。

<プロフィール>
古賀政男より作曲について学び、阿部保夫よりギターを学ぶ。昭和35年にラテングループ『トリオ・ロス・カバジェロス』を結成。昭和40年作曲家としてのデビュー曲「二人の世界」を発表。石原裕次郎が歌唱し大ヒット。昭和41年『鶴岡雅義と東京ロマンチカ』を結成。昭和42年からグループを基盤に「小樽のひとよ」「旅路のひとよ」「君は心の妻だから」を発表しいずれも大ヒットする。テレビでは「アップにも耐える顔」としてコントなどでも活躍。現在グループの活動と作曲家として活躍。

7月18日~7月22日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは城戸真亜子さん

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7月18日(月)「不純な動機でモデルのお仕事」
子供の頃から絵を描くことが大好きで、大学も芸術大学に進んだ城戸真亜子さん。しかし、大学では、「周りの学生たちと比べて自分は知らないことが多すぎる。どうしよう...」と、不安を感じていたそうです。そんな時に飛び込んできたのが「モデルのお仕事」。城戸真亜子さんは、「この経験が少しでも絵を描くことにプラスになれば...」という、不純な動機でモデルの世界に足を踏み入れるのですが...。城戸真亜子さんが、モデルのお仕事を始めるまでを振り返ります。きっかけは、撮影よりも海水浴を優先した友達の存在でした。

7月19日(火)「脱力系キャンペーンガール」
1981年に『カネボウ化粧品・夏のキャンペーンガール』を務めた城戸真亜子さん。今日は、その撮影でのエピソードを中心にお話を伺います。
海辺で、リラックスした感じで胡坐をかく城戸真亜子さんのポスターを、当時、広告系の雑誌は「城戸真亜子のような脱力系がこれからのムーブメントだ!」などと評していたそうですが、実際は、「単に撮影に慣れていなくて、どうしてよいかわからなかっただけ」だそうです(笑)

7月20日(水)「どっち付かずが私の仕事」 
『芸能活動をしていても、自分の立ち位置は画家』という意識で活動していたつもりが、周りは『タレントが趣味で絵を描いている』としか見てくれないことが悔しくてしょうがなかったという城戸真亜子さん。美大生が大学卒業時に行うことが通例となっていた個展も開催するかどう悩んだそうです。今は、「どっち付かずが私の仕事」と思っているそうですが...。
自分の心を整理できていなかった20代の城戸真亜子さんスポットを当てます。

7月21日(木)「お義母さまの介護」
最近まで認知症のお義母さまの在宅介護をなさっていた城戸真亜子さん。
ご自身の体験から得られた、介護についてのアドバイスをお話していただきます。

7月22日(金)「城戸真亜子の食べ歩き」
今日は、TV番組で多くのグルメリポートを担当していた城戸真亜子さんに、「食・お酒」について語っていただきました。「その土地に行ったら"その土地のモノ"を食べたくなるタイプ」という城戸真亜子さんが印象に残っている料理は、砂漠でノマドの方々が自然を利用して作ってくれた○○だそうです。 ○○が何なのかは放送でご確認下さい!

<プロフィール>
在学中からモデルとして活動。1981年、カネボウのキャンペーンガールに選出される。女優、レポーター、執筆など、活躍の場は多岐にわたる。画家としての活動も積極的に行い、1981年に女流画家協会展に入選して以来毎年個展を開いている。展覧会に、『ムーンライトパーティー』『源氏物語』『城戸真亜子展』、テレビ出演に、TBS『ワイドウォッチャー』など。また学研・アートスクールの主宰。NEXCO中日本CSR懇談会委員、中部国際空港顧問、学研ホールディングス社外取締役を務める。

7月11日~7月15日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは東儀秀樹さん

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7月11日(月)「ブルースギタリスト」
趣味が多くしかも深く追及している東儀さん。
最近はギターにはまっていて特にブルースをよく奏でているそうです。少年時代の東儀さんはどんな少年だったのでしょうか?
実は雅楽との接点がなく高校卒業まで来てしまったのです。でも、それまで雅楽に触れられなかったのは今となってはよかったと振り返ります。

7月12日(火)「宮内庁へ直談判」
商社マンの父の仕事の関係で外国での生活の経験もある東儀さん。
小さいころから日本人という意識は持っていたそうです。高校卒業後、宮内庁に雅楽師として入るのですが、国家公務員なので当然試験があります。そこで東儀さんは異例の直談判を行います。

7月13日(水)「ソロアーティストになってみて」
宮内庁を退庁してソロアーティストになった東儀さん。
周りの人たちの反応は様々でした。
古典を守る、伝統の楽器で新しい曲を演奏する、そのどちらも大切にしていきたいのだそうです。古いものを守ることが自信につながっているのだそうです。

7月14日(木)「趣味が多すぎて、深すぎて」
多趣味でしかもその度合いが本当に深い東儀さん。
ダイビングの機材などは自分の分だけでなく、同伴する友人の分までスタンバイしているそうです。なぜそこまではまってしまったのか、ライセンスを取るまでのお話です。多趣味なだけに、出かけるとき最初の目的を忘れて気づいたら違うことしていたということもざらにあるそうです。

7月15日(金)「子育てのコツは子ども扱いしないこと」
子育てに関しては「東儀家の子育て 才能があふれ出す35」の理由という本をされている東儀さん。
お子さんには「子供向け」のものをあえて聞かせたり、見せたりはしないのだそうです。大人である父親が好きなものを一緒に楽しむ。そうしているうちに大人顔負けの耳を持つようになってきたそうです。幼稚園児と本格的な音楽談義を気づいたらしていたことも。大きくなった時が今から楽しみなのだそうです。

<プロフィール>
1959年東京生まれ。奈良時代から1300年にわたり雅楽を世襲してきた東儀家に生まれる。幼少期を海外で過ごし、クラシック、ロック、ジャズなど幅広い音楽ジャンルに接する。帰国して高校を卒業後、宮内庁楽部に入り、宮中儀式や皇居での雅楽演奏会、海外での公演に参加。96年宮内庁を退職。同年『東儀秀樹』でアルバムデュー。古典の継承のかたわら、雅楽器と現代音楽を融合させた独自の音楽活動を展開する。2015年には心しみいる篳篥の音で"日本の情景"そして"日本人の心"を紡ぎ出す作品『日本の歌』をリリース。

7月4日~7月8日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは田中律子さん

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7月4日(月) 「芸能界入りのきっかけ」
東京生まれで実家は商店街で美容院を営んでいるという田中律子さんは、どちらかというと引っ込み思案な女の子だったそうです。芸能界なんて別世界だと思っていましたが、中学入学前に東京・町田でスカウトされました。そしていろいろなオーディションを受けるうちにコツをつかんでやがてモデルの仕事をするようになり、高校生の時にある女性アーティストの妹分として筒美京平さんプロデュースでレコードデビューを果たします。

7月5日(火) 「幅広いジャンルでの活躍」
高校時代にレコードデビューした田中律子さんは歌はあまり得意でなかったということですが、当時は3か月ごとにニューシングルを出し続けるのは当たり前。嫌々レコーディングを続けるうちに胃かいようで病院に運ばれたことも。また多忙な毎日で、仕事をやめようと思ったことも何度かあったと言います。しかしそんな時に限って大きな仕事が舞い込み、ドラマ「愛しあってるかい!」で小泉今日子さんと、「101回目のプロポーズ」では浅野温子さんとの共演が決まります。今日は浅野温子さんの演技を間近で見てきた田中律子さんならではのエピソードの披露も・・・。

7月6日(水) 「バラエティーの仕事」
女優業を中心に活動していた田中律子さんでしたが、バラエティー番組「目撃!ドキュン」や「王様のブランチ」などの司会の仕事が入ってくるようになりました。人の話を聞き出すというのは商店街で育った気質が役立ったのかもしれないとのこと。当時アイドル冬の時代と言われバラドルとして活躍していくわけですが、現在はテレビ朝日系「路線バスで寄り道の旅」で、自由奔放な徳光和夫さんのお相手を。今日はその裏話もたっぷりとお届けします。

7月7日(木) 「田中律子さんとアウトドア」
17歳の頃に月刊誌「Outdoor」の表紙の仕事をきっかけに山でのキャンプを始め、これまたモデルの仕事で沖縄の海でダイビングを経験し、アウトドアライフでのストレス発散は性に合ってるという田中律子さん。現在は水上のサーフボードの上でヨガをする「サップヨガ」の協会を立ち上げ、サップヨガのインストラクターを養成しています。今日はアウトドアライフの魅力について伺います。

7月8日(金) 「これからの田中律子さん」
アウトドア好きでダイビングにもはまった田中律子さんは、沖縄の海でエルニーニョ現象によりサンゴが死んでしまう事態に遭遇しました。そんな時、たった一人でサンゴを養殖して海に移植する活動をしている方と出会い、共感し、活動を支援する団体を立ち上げました。
現在18歳の娘さんはイギリス留学中、そして沖縄にも自宅がある田中律子さんの今後の目標は、「80才になっても真っ赤なビキニを着てサーフィンをしていたい!」だそうです。

<プロフィール>
1984年にCMデビュー。以後、テレビドラマ、映画、CMなどで活躍。主な出演作品に、フジテレビ『愛しあってるかい!』フジテレビ『101回目のプロポーズ』フジテレビ『白鳥麗子でございます』、TBS『ナースステーション』、日本テレビ『ガラスの靴』、NHK『ルームシェアの女』、映画『7月7日、晴れ』映画『鷲と鷹』。CMも過去多数出演し、『アサヒ緑健青汁』『花王ウルトラアタックNeo』のインフォマーシャルにも出演する。NPO法人『アクアプラネット』の理事長でもある。また2014年「一般社団法人日本サップヨガ協会」を設立、会長となる。内閣府沖縄振興審議会委員や美ら島沖縄大使、久米島観光大使、石垣島サンゴ大使にも就任している。

6月27日~7月1日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは鶴見辰吾さん

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6月27日(月)「芝居との出会い」
40歳から自転車、50歳からマラソンを始めた鶴見さん。アクティブなイメージがある鶴見さんですが、幼少期はヒーローものに憧れる内気な少年だったそうです。
当時鶴見さんのおば様が宝塚スターの追っかけをしており、劇場へ連れて行ってもらったのをきっかけに、芝居に興味を持ち出します。そして中学1年生の時に受けたテレビ番組のオーディションから、どのようにデビューへと繋がったのかをお話ししていただきました、

6月28日(火)「中学三年生が演じる中学三年生」
「3年B組金八先生」に出演することになった鶴見さん。衝撃的な役柄を演じることになります。最初は、そのような役だとは知らずに演じていた、当時思春期だった鶴見少年の心情を伺います。そして中学生が集まっていた、収録現場の裏側も明かしていただきました。ドラマ、映画と出演していた鶴見さんが、その時点で俳優としてどのようになっていくと考えていたのかお伺いしました。

6月29日(水)「俳優、鶴見辰吾」
3年B組金八先生、そして映画に出演と、周囲から見ると順風満帆に見える「俳優 鶴見辰吾」。しかし当時、中学生の鶴見少年が憧れていたのはちょっと不良。アイドル的活動に違和感を感じ、本人は限界を感じていたそうです。その当時、鶴見さんはどのように考えていたのかを、お伺いしました。
そして30歳で初めて悪役を演じ、その難しさに苦労されたそうです。監督にしぼられながら、どのように新境地を拓いていったのか?さらに先日亡くなられた、日本を代表する演出家「蜷川幸雄」さんとのエピソードも語っていただきました。

6月30日(木)「俳優として」
NHKで放送された「坂の上の雲」。どのように役を演じたのか、共演した高橋英樹さんとの話、ロケの大変さなど、ドラマの裏側を語っていただきました。
コミカルな演技から、悪役まで多彩な役を演じる鶴見さん。主演としてではなく、バイプレイヤーとしての俳優のやりがいを教えていただきました。
そして鶴見さんが挑戦している内の一つ、日本舞踊をなぜ始めることになったのかのエピソードを伺いました。

6月31日(金)「チャレンジ」
40歳を越えてから自転車、ギターなど数多くのことに挑戦する鶴見さんですが、新しいことにチャレンジすることになった、きっかけを伺います。そして今年3月に3時間9分27秒の好タイムで走ったマラソン。なぜマラソンにチャレンジしたのかを詳しくお話して頂きました。
最後に新しいことにチャレンジし続ける鶴見さんの、今後やってみたいことを教えていただきました。

<プロフィール>
1964年12月生まれ。東京都出身。1977年に『竹の子すくすく』でデビュー。TBS『3年B組金八先生』で注目を浴びて以降、テレビ、映画、舞台などで幅広く活躍している。近年はNHK大河ドラマ『黒田官兵衛』、映画『バンクーバーの朝日』、2015年5月公開の『Zアイランド』などに出演。6月には手塚治虫原作、栗山民也氏が演出する舞台『アドルフに告ぐ』で峠草平役を演じる。趣味の自転車では数々のレースで入賞するほどの実力を持ち、2007年に自転車活用推進研究会が任命する「二代目自転車名人」に就任。自転車の地位向上や自転車を取り巻く環境改善などに取り組み続けている。著書に『とことん自転車』(小学館新書)がある。

6月20日~6月24日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは岩崎良美さん

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6月20日(月) 「姉の宏美さんを追ってデビュー」
3姉妹の末っ子として生まれた岩崎良美さん。
姉の岩崎宏美さんの後ろをついていくような、おとなしい子どもだったとのこと。
歌のレッスンで2人の姉と一緒に歌うのが好きだった良美さんは、1975年にデビューし、楽しそうに仕事していた宏美さんの姿を見て、自分も歌手になりたいと思うようになります。
そして、1980年に「赤と黒」でデビュー。大人っぽい曲で驚いたそうです。

6月21日(火) 「『スクールウォーズ』と『タッチ』」
歌手としてデビューした岩崎良美さんは、女優としても活躍されるようになります。
1984年のドラマ『スクールウォーズ』では、マネージャー役で出演。
撮影は寒さとの闘いが大変だったと振り返ります。
しかし、作品の人気は強く、今でも、役名でサインをねだられるそうです。
そして、同じ頃にリリースし、スマッシュヒットした『タッチ』。
自分よりも小さい子どもたちがファンになってくれた曲でした。

6月22日(水) 「活躍の場を広げて」
歌手・女優として活躍していた岩崎良美さん。
活動の場を舞台やナレーションにも広げていきました。
ミュージカル『アニー』や、『おさるのジョージ』のナレーションでは、子どもの視点が勉強になったそうです。
おかけする曲は木村カエラさんの『butterfly』のカバー。岩崎良美さんにとって、思い入れのある曲です。

6月23日(木) 「ご主人との出会い」
カバーアルバムを制作中にご主人と出会い、結婚された岩崎良美さん。
初対面なのに、小さい頃から知っていたような印象を受けたとのこと。
しかし、ご主人は良美さんが『タッチ』を歌っていることすら、知らなかったそうです。
おかけするのは、ボサノバの名曲『イパネマの娘』のフランス語バージョン。
フランス好きの良美さんは、留守番電話のメッセージもフランス語なんだとか...。

6月24日(金) 「結婚生活とこれから」
ブログやtwitterに頻繁に登場する、岩崎良美さんの愛猫。
フランス好きの良美さんですから、猫の名前はもちろんフランス語です。
一方、5年経った結婚生活で、もともと好きだったお酒を飲まなくなりました。
「意外といいものだ」と結婚生活を語ります。
曲は『MY LIFE』。
日本ラグビーフットボール協会公認、ラグビーの応援ソングです。
結婚生活とこれからのお話です。

<プロフィール>
1980年『赤と黒』にて歌手デビューし『涼風』でTBS系『ザ・ベストテン』にランクイン、日本テレビ音楽祭で最優秀新人賞を受賞。『あなた色のマノン』では日本レコード大賞新人賞を獲得しNHK紅白歌合戦に初出場。1985年『タッチ』が大ヒットし日本レコード大賞にて金賞を受賞。1984年頃から俳優としての活動も増え、『スクールウォーズ』などにレギュラー出演し、1990年には朝の連続ドラマ『花真珠』で主演を務める。フランス語やシャンソンを学ぶなど精力的に活動し、現在ではミュージカルやナレーションなど活躍の場を広げている。

6月13日~6月17日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは林家三平さん

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6月13日(月)「笑点 新メンバーへ」
笑点の新メンバーになった林家三平さん、絶対に漏らさないで欲しいといわれ、決まったことを家族にも言えなかったのは辛かったそうです。寝言まで確認を取っていたと話す三平さんです。
発表当日も漏れないように日本テレビの会議室でじっと待ち、他のメンバーの方に逆に挨拶に来ていただいたと話す三平さん、佐智子夫人にはなんとNHKに行くといって出かけたのだそうです。

6月14日(火)「初代林家三平の思い出」
林家三平さんは、海老名家の次男、4人目の子供です。お兄さんと比較されることは?と伺ったところ、歳が離れているから、一人っ子みたいな育ち方をしたと話してくれました。
お父さんが"林家三平"だと意識したのはなんと幼稚園の時、でも、だれかに手を振ってもらうとお父さんは「加山雄三です」と挨拶していたそうです。そのうちにクリストイートウッドですと言い出し、さすがにそれは無理と突っ込まれていたと、有名人であることを楽しんでいた雰囲気があった思い出を語る、二代目三平さんです。
有名人の二世はそれを受け入れる人と受け入れられない人が居ますが、二代目三平さんは受け入れていたのだそうです。それは、有名人が家に遊びに来てくれるから。子供心をもったお父さんとの思い出を二代目三平さんはいろいろと話してくれました。

6月15日(水)「正蔵、そして三平という名前について」
林家三平さんのお兄さんは正蔵師匠。三平の名前を継いでいません。三平さんにこのことを聞いてみたところ、正蔵というのは海老名家が一度外に貸し出してしまった祖父の名前、それが戻ってきたのだから、それを兄が継ぐのは当然でしたと話してくれました。
三平さんはもともと落語家になるつもりが無かったのに、バルセロナの食堂で外国の人に日本の文化自慢ができなかったことで落語家になろうと決心します。三平の名前を継ぐ事になったときはちょっと躊躇した三平さんですが、同じ落語家の元義理の兄のアドバイスで名前を継ぐ決心をしたのでした。

6月16日(木)「三平さんの落語修行」
大きな名前を継ぐにあたり、三平さんにはいろいろな風当たりがあったそうです。でも、それ以上に自分を思ってくださるサイレントマジョリティがあり、寄席にも足を運んでくれる、だからこの人たちを大切にしたいと三平さんは話します。
その三平さんに落語への向き合い方を作ってくれたのは小朝師匠でした。月に2回のネタ卸しを5年間やった。つらかったけれど・・・・と当時を思い出す三平さんでした。
三平さんはもうひとつ、先代の円楽師匠の思い出も話してくれました。三平さんの子供時代、海老名家が四面楚歌となっていた中での良い話です。
 
6月17日(金)「三平さんのこれから」
先代の林家三平さんとテレビ番組の笑点には、少なからぬ繋がりがありました。「笑点」という番組名が決まったのは今収録している場所、ねぎし三平堂なのだそうです。
出演が決まった三平さんにはレギュラー陣からいろいろとアドバイスをもらいましたが、それについても三平さんは話してくれました。
三平さんに夢を伺ったところ、落語を世界に向けて発信する活動を発展させたいと話してくれました。通じにくい部分もあるけれど、世界中で喜ばれる話もある。それは"ケチの話"と話してくれた林家三平さんです。

<林家三平さんプロフィール>
昭和45年12月11日生まれ。
初代林家三平の次男で、林家正蔵の弟。
中央大学時代に林家こん平に入門。
平成14年林家いっ平の名で落語協会真打昇進。
21年2代林家三平を襲名した。
英語・中国語落語にも挑む。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオ サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは、谷村新司さん。 tanimura_kunimaru.jpg                

6月13日(月)「22歳」
谷村新司さんの生まれは河内長野、和の雰囲気に包まれた家でした。その頃の影響が曲や歌詞にも出ていると話す谷村さんは、小さい頃の祇園の舞妓さんとのエピソードも話してくれました。
そんな谷村さんは大のラジオ好き。新しい情報はラジオで発信していたのだそうです。ソロになりテレビに出演する際にも2曲作ってどちらが良いかをラジオリスナーに投票で決めてもらっています。このときできた曲が「22歳」、今日お掛けする曲になります。
 
6月14日(火)「冬の稲妻」
谷村新司さんはアリスを結成し活動を始めますが、なかなか売れません。ブレイクすればさかのぼって聴いてくれるだろうと当初谷村さんは思っていたそうですが、さすがにだんだん不安になったそうです。「冬の稲妻」が大ヒットしたのは、そろそろまずいな・・・と、思った頃の出来事でした。
アリスの所属事務所がジェームズブラウンの招聘で失敗して大借金を抱えてしまいました。アリスはこの借金を返すためにたくさんのコンサートをしているという話があり、それは井筒監督の映画の小ネタにまで使われています。この頃のエピソードをお聴きください。

6月15日(水)「昴」
「昴」は中国では中国の歌だと思われています。上海万博でアジア大陸代表として日本語で谷村さんが歌ったときに元は日本の歌と知り、中国の人たちはとても驚いていたのでした。政治や経済はどうしても対立してしまうことがあるけれど、文化はそうではない。だから文化交流を大事にしたいと話す谷村新司さんです。
もうひとつ、「昴」がいろいろな処で歌われている理由を谷村さんは最後にボソッと話してくれました。それは・・・。

6月16日(木)「いい日旅立ち」 
いい日旅立ちは谷村新司さんが山口百恵さんに書いた曲ですが、百恵さん引退後に谷村さんが歌うようになります。バトンタッチされたからと話す谷村さんは、この曲の歌詞について永六輔さんから指摘されたエピソードを話してくれました。
海外で在住の方にとって、この歌の詩は更に重みがあるのだそうです。それは、日本に住んでいる私たちには思いもよらない話でした。

6月17日(金) 「アルシラの星」 
谷村新司さんの新曲は「アルシラの星」スバルの次に空に上がってくるシリウスの古代アラビア名がタイトルの由来になった曲です。昴の次に天にのぼるのがアルシアの星。財の星スバルに支えられた文明から、その次の心を大切にする時代へ、だんだん変わっていくと谷村さんは話します。この曲は女性3人のユニット、カラフィナとのデュエット曲で、星と地上の女の子の対話が歌になっているのだそうです。
そんな谷村さんが今楽しんでいるのは料理、辛子醤油で食べるとおいしいサラダを最後に紹介してくれました。

<谷村新司さんプロフィール>
1948年12月11日、大阪府生まれ。
72年、堀内孝雄らと結成したフォークグループ「アリス」でデビューし、「冬の稲妻」「帰らざる日々」「チャンピオン」などのヒット曲を連発する。
82年のアリス活動停止以降は、並行して行っていたソロ活動やアーティストへの楽曲提供を本格化させ、「昴 -すばる-」「いい日旅立ち」「サライ(加山雄三との共作)」などのスタンダードナンバーを多数発表し、海外での公演も精力的に実施。
2004年からは上海音楽学院の教授を務め、後進の育成にも力を入れている。
13年、毎日芸術賞と芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。
15年には紫綬褒章を受章した。

6月6日~6月10日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストはアグネス・チャンさん

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6月6日(月) 「照れ屋だった少女時代」
子どもの頃は照れ屋で、大人を前では緊張して声が出せなかったというアグネス・チャンさん。転機になったのは、中学生の時に始めたボランティア活動。子どもたちと接する時は、不思議と自分を素直に出せたそうです。チャリティでフォークソングを弾き語りしているうちにアマチュアの間で噂になり、やがて香港のテレビ局にスカウトされます。
初日の月曜日はバフィー・セントメリーの名曲「サークルゲーム」のカバーとともに、お楽しみください。

6月7日(火) 「『ひなげしの花』で大ヒット」
日本で歌手デビューを果たした頃のお話。来日のキッカケは、香港での冠番組「アグネス・チャン・ショー」に出演した作曲家・平尾昌晃さんとの出会いだったそうです。その後、周囲の反対を押し切って海を渡った末に、デビュー曲「ひなげしの花」がいきなり大ヒット、人気に火がつきます。その一方、言葉の壁に苦労し、ハンカチを濡らすこともあったそうです。「丘の上 ひなげしの花で〜♪」というフレーズの裏話もあります。

6月8日(水) 「絶頂期の芸能界引退」
1976年、人気絶頂の中、芸能界を引退した頃を振り返ります。
当時はまだ学生だったアグネス・チャンさん。行く末を心配したお父さまに説得されてカナダ留学を決意。トロント大学へ編入されます。日本や香港と違って、誰も自分を知らない場所での生活は自由で楽しかったそうです。
再び訪日を果たしますが、世間から求められるイメージとのズレに困惑。そんなとき、中国にあるお母様の故郷に赴かれます。そこで出会った特別な歌のおかげで、今日までやってこられたそうです。その歌にはどんなエピソードがあったのでしょうか?胸中を語ってくれました。

6月9日(木) 「ボランティア活動への思い」
1998年からユニセフでの活動を行なっているアグネス・チャンさん。
キッカケはご長男が生まれたとき。赤ちゃんを連れて行けるボランティアのイベントにお忍びで参加し、それに気づいたユニセフの関係者に声をかけられたことが始まりでした。今年の3月から「ユニセフ・アジア親善大使」に任命され、ますます活動の場を広げることになりました。
4日目の木曜日は、子どもたちの支援にかける思いをお話しいただきました。

6月10日(金) 「論争を巻き起こした教育方法」
3人の息子さんを持つアグネス・チャンさん。出産した当時は仕事場に赤ちゃんを連れて行ったことが「子育て論争」に発展し、世間を賑わせました。
その後は3人ともアメリカ・スタンフォード大学に進学。アグネスさん曰く、カナダ留学で修得した児童心理学を応用したことが功を奏したそうです。
そして最終日の金曜日は、昨年発売した最新曲「プロポーズ」もおかけします。
現在のアグネス・チャンさんの歌声をお楽しみください。

<プロフィール>
1972年、『ひなげしの花』で日本デビュー。一躍アグネス・ブームを起こす。上智大学国際学部を経て、カナダのトロント大学(社会児童心理学)を卒業。1984年、国際青年記念平和論文で特別賞を受賞。1989年、米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学。1994年、教育博士号取得。1998年、日本ユニセフ協会大使に就任。2002年、初の短編小説集『パーフェクト・カップル』を発売。2006年、全米歌手デビュー。

5月30日~6月3日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストはファンキー加藤さん

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5月30日(月)「夢はプロレスラーかミュージシャン」
八王子で育った加藤さん、子供のころを振り返ります。3人兄弟の真ん中。
兄弟げんかも激しく、壁に穴が開いてしまい、カレンダーでふさいでいたそうです。
子供のころになりたかったのはプロレスラーとミュージシャン。特にプロレスラーには本当になりたかったようで特訓を繰り返していたそうです。

5月31日(火)「CDのジャケット」
ライブハウスでなかなかお客さんが集まらず、ショッピングモールに繰り出したファンキーモンキーベイビーズ
だんだんお客さんが集まるようになってきます。八王子の出身ですが、デビュー前に横浜のクラブでちょっと怖い思いもしたこともあったそうですが、そこで度胸がついたそうです。
デビューのきっかけも横浜のクラブの店長さんからの一言があったからでした。
デビューシングルには当時ちょっと世間を騒がせていたあるタレントさんの写真を起用したのでした。
曲のタイトルからお願いしたその人とは?そして明石家さんまさんとのエピソードも教えてくれました。

6月1日(水)「ファンモンからソロアーチストへ」
メンバーの一人が実家のお寺を次ぐことになり、ファンキーモンキーベイビーズは10年の活動にピリオドを打ちます。
いざ一人になると、どうしようと不安になりますが、そのままのスタイルでいこうと決めます。
ゼロからのスタートではなかった。ファンのありがたみをしみじみと感じたインストアライブのエピソードや6時間半かかった握手会などについてお話しいただいています。

6月2日(木)「全力ライブのエネルギーのもと」
全力のライブ活動。一流のアーティストと番組やライブで一緒になった時にこれはかなわないと思ったそうです。ならばこちらは全力でやるだけだと決心します。40歳が視野に入ってきてどのように体を鍛えているのかライブの前にまるでアスリートのように計算して食事をする方法を紹介していただいています。

6月3日(火)「俳優 ファンキー加藤」
初主演映画「サブイボマスク」について。最初に話が来たときにお断りを入れたそうです。
荷が重いと感じ時間がたちます。その後事務所の社長のある一言で出演を決意します。
いったい何と言われたのか?
そして、演技で一番難しかったのはセリフを覚えることではなかった、セリフを言っていないときだと語ります。

<プロフィール>
1978年東京都八王子市生まれ。
2004年地元八王子にてFUNKY MONKEY BABYSを結成。リーダーを務める。
2006年「そのまんま東へ」でメジャーデビュー。
2009年初のNHK「紅白歌合戦」への出場が決まり、以後、解散まで4年間連続で出場、TBS「輝く!日本レコード大賞」においても3年連続で出演し作曲賞、優秀作品賞、優秀アルバム賞の各賞を獲得する。2013年6月 夢の舞台でもあった「東京ドーム」にて、同グループを解散。
2014年に、ソロデビューシングル『My VOICE』をリリース。
6月11日、初主演映画「サブイボマスク」の公開が決定。

5月23日~5月27日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは近藤サトさん

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5月23日(月) 「子供時代の近藤サト」
岐阜県土岐市で育ち、山出しの田舎者だとおっしゃる近藤サトさんは山でよく遊んだそうです。
陣地ごっこや化石掘り、また蜂の子やイナゴも獲って食べるなどとても活発な女の子だったそう。
そんな彼女が芸能界を初めて意識したのはテレビで見た「たのきんトリオ」。この時、何となくテレビの向こう側の世界に憧れたそうです。

5月24日(火) 「アナウンサーの道へ」
父親から「東京で一旗揚げなさい」と言われて育った近藤サトさんは岐阜県から上京し、日本大学芸術学部放送学科に進学します。テレビの世界に憧れていた大学時代は朗読サークルに入りました。
時代はバブル景気の真っ最中。授業もそこそこにマスコミのアルバイトに精を出したそうです。
何と文化放送で中継レポーターのアルバイトも。そして就職先も東京志望で、華のフジテレビに入社します。

5月25日(水) 「局アナ時代の近藤サト」
フジテレビに入社し、派手な世界だったが意外と地味な生活を送っていたという近藤サトさんはアナウンサーとしていろんな仕事を経験します。1年目から報道番組に起用される一方、有名タレントとのバラエティー番組の司会や、今では考えられない水着を着ての仕事。紛争地帯にも行ったそうです。ある時、上司から言われた「朗読が好きなら企画書を書いてみない?」という言葉がきっかけで自身が企画書を書いたのが、フジテレビアナウンサーによる朗読劇『ラヴシーン』でした。

5月26日(木) 「フリーアナウンサーの仕事」
1998年に入社後、8年でフジテレビを退社した近藤サトさん。30才を手前に何となく仕事が減ってきて自分がどれくらい必要とされているのだろうと考え、外の世界も見たいとフリーアナウンサーの道へ。
ナレーター専門の事務所に所属します。当初ナレーション入れの仕事に「私が頑張らなきゃ」という気負いがあったが、ある時番組スタッフから「テレビ番組はナレーション入れの前にはもう視聴率が決まっている」と言われ、肩の荷が下りたというエピソードも。ナレーションの仕事はとにかく楽しいそうです。

5月27日(金) 「プライベート」
ナレーター、大学特任教授でもある近藤サトさんのプライベートについて伺います。小学6年生の息子さんは母親近藤サトさんのことを「ウザイウザイ」とよく言うわりに、「今日仕事休みになったから家にいるよ!」という言葉に思わず「やったー!」。でもすぐあとに「しまった!」という顔をするのがかわいいそう。また朝の仕事が終わると歩いてランチ店を探すのが目下の楽しみで、夜は「お酒は弱いけど、同席者は目いっぱい楽しませますよ~」とのこと。

<プロフィール>
1991年、フジテレビにアナウンサーとして入社し、報道番組を中心にバラエティなど幅広い分野で活躍をする。
現在はフリーアナウンサーやナレーターとしての仕事をする傍ら、2011年から日本大学芸術学部放送学科特任教授(非常勤)としてアナウンス実習、朗読、卒業研究指導を担当し、後任の育成をすべく母校で教鞭をふるう。

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