どうでもいいサミット

ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

5月23日~5月27日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは近藤サトさん

kondou_kunimaru.jpg

5月23日(月) 「子供時代の近藤サト」
岐阜県土岐市で育ち、山出しの田舎者だとおっしゃる近藤サトさんは山でよく遊んだそうです。
陣地ごっこや化石掘り、また蜂の子やイナゴも獲って食べるなどとても活発な女の子だったそう。
そんな彼女が芸能界を初めて意識したのはテレビで見た「たのきんトリオ」。この時、何となくテレビの向こう側の世界に憧れたそうです。

5月24日(火) 「アナウンサーの道へ」
父親から「東京で一旗揚げなさい」と言われて育った近藤サトさんは岐阜県から上京し、日本大学芸術学部放送学科に進学します。テレビの世界に憧れていた大学時代は朗読サークルに入りました。
時代はバブル景気の真っ最中。授業もそこそこにマスコミのアルバイトに精を出したそうです。
何と文化放送で中継レポーターのアルバイトも。そして就職先も東京志望で、華のフジテレビに入社します。

5月25日(水) 「局アナ時代の近藤サト」
フジテレビに入社し、派手な世界だったが意外と地味な生活を送っていたという近藤サトさんはアナウンサーとしていろんな仕事を経験します。1年目から報道番組に起用される一方、有名タレントとのバラエティー番組の司会や、今では考えられない水着を着ての仕事。紛争地帯にも行ったそうです。ある時、上司から言われた「朗読が好きなら企画書を書いてみない?」という言葉がきっかけで自身が企画書を書いたのが、フジテレビアナウンサーによる朗読劇『ラヴシーン』でした。

5月26日(木) 「フリーアナウンサーの仕事」
1998年に入社後、8年でフジテレビを退社した近藤サトさん。30才を手前に何となく仕事が減ってきて自分がどれくらい必要とされているのだろうと考え、外の世界も見たいとフリーアナウンサーの道へ。
ナレーター専門の事務所に所属します。当初ナレーション入れの仕事に「私が頑張らなきゃ」という気負いがあったが、ある時番組スタッフから「テレビ番組はナレーション入れの前にはもう視聴率が決まっている」と言われ、肩の荷が下りたというエピソードも。ナレーションの仕事はとにかく楽しいそうです。

5月27日(金) 「プライベート」
ナレーター、大学特任教授でもある近藤サトさんのプライベートについて伺います。小学6年生の息子さんは母親近藤サトさんのことを「ウザイウザイ」とよく言うわりに、「今日仕事休みになったから家にいるよ!」という言葉に思わず「やったー!」。でもすぐあとに「しまった!」という顔をするのがかわいいそう。また朝の仕事が終わると歩いてランチ店を探すのが目下の楽しみで、夜は「お酒は弱いけど、同席者は目いっぱい楽しませますよ~」とのこと。

<プロフィール>
1991年、フジテレビにアナウンサーとして入社し、報道番組を中心にバラエティなど幅広い分野で活躍をする。
現在はフリーアナウンサーやナレーターとしての仕事をする傍ら、2011年から日本大学芸術学部放送学科特任教授(非常勤)としてアナウンス実習、朗読、卒業研究指導を担当し、後任の育成をすべく母校で教鞭をふるう。

5月16日~5月20日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは天童よしみさん

tendou_kunimaru.jpg

5月16日(月) 「大ちゃん数え唄」
子供の頃から歌が上手く、所謂、「のど自慢荒らし」だったという天童よしみさん。自分が歌うと、みんなが笑顔になってくれるのが嬉しかったんだそうです。そして、ひょんなことからレコーディングしたのが、テレビアニメ「いなかっぺ大将」の主題歌である「大ちゃん数え唄」。初日の月曜日は、懐かしのこの曲をたっぷりとお聴き下さい!

5月17日(火) 「道頓堀人情で風が吹く」
テレビ番組の勝ち抜き歌合戦で10週勝ち抜いて、トントン拍子で歌手デビューが決まった天童よしみさんでしたが、デビュー曲である「風が吹く」を始め、その後はまったく鳴かず飛ばず。今後の身の振り方を考え始めた頃に出会った曲が「道頓堀人情」でした。♪負けたらあかんで東京に♪...偶然にも、当時の天童よしみさんの状況を唄ったよう歌詞と、毎晩の盛り場キャンペーンが功を奏し、この曲が、自身初のヒット曲となりました。
火曜日は、デビューしてからヒット曲に恵まれるまでの10年を振り返っていただきます。

5月18日(水) 「珍島物語」 
水曜日は1996年に発売されてミリンオンヒットを記録した曲「珍島物語」にスポットを当てます。
曲に纏わる様々なエピソードを披露して下さったのですが、中でもビックリしたのが「この曲はモスラのイメージ」という、ちょっと聞いただけでは「?」というもの。詳しくは放送でご確認ください!

5月19日(木) 「天童よしみ、ポップスを歌う」
通常のコンサートとは別に、ジャズやポップス中心のライヴも精力的に行っている天童よしみさん...と言うことで、木曜日は天童よしみさんによるカバー曲「VACATION」をおかけいたします。ノリノリでお楽しみ下さい!

5月20日(金) 「女のあかり」
「♪どんな苦労ものりこえて...」、「♪明日を信じて生きるのよ。いつか夜明けがくるまでは」。最新曲「女のあかり」の一節です。この曲、コンサートでは以前から唄っていたとのことなんですが、先日の熊本地震のこともあり、最近は唄うたびに色んな想いが込み上げてきて、時には涙が出てくることも多くなってしまったそうです。
最終日は、そんな「女のあかり」をじっくりとお聴き下さい。

<プロフィール>
1971年、「ちびっこのど自慢」に出場して優勝。
その実力が認められ、フジTV系の「いなかっぺ大将」挿入歌「大ちゃん数え唄」をレコーディング。
読売テレビ「全日本歌謡選手権」で10週を勝ち抜き、最年少で7代目チャンピオンとなる。
1972年、「風が吹く」でデビュー。その後、「道頓堀人情」が大ブレークし、1997年「珍島物語」が100万枚の大ヒット。
2000年、「NHK紅白歌合戦」で紅組のトリを務める。
ドラマではフジTVの「天草こずえの歌姫探偵」に主役で出演。
2004年にはディズニー映画「ブラザーベア」で、フィル・コリンズ作詞・作曲の劇中歌「グレートスピリット」を歌うなど、ジャンルの枠を超えて活躍を続けている。

5月9日~5月13日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは是枝裕和さん(映画監督)

koreeda_kunimaru.jpg

5月9日(月) 「『海街diary』」
『海街diary』で、ことしの日本(にほん)アカデミー賞4冠を獲得した是枝裕和さん。
綾瀬はるかさん、長澤まさみさん、夏帆さん、そして広瀬すずさんの演じる4姉妹が主役の映画ですが、撮影中に4人がどんどん仲良くなっていったそうです。
休憩中のやり取りをヒントに、あるシーンが生まれたとのこと。
そして、広瀬すずさんには、台本を渡さず、現場で台詞を伝えていました。
その意図とは...。

5月10日(火) 「映画との出会い」
学生時代は、学級委員やキャプテンを務めることが多かった是枝裕和さん。
小説家になりたかった是枝さんは、大学にはあまり行かず、映画館に入り浸るようになります。
そこで、映画監督や脚本家の存在を知り、脚本家を目指すようになりました。

5月11日(水) 「ADから映画監督へ」
制作会社に入社したものの、最初は不遇の時代だったという是枝裕和さん。
その後、後ろ向きな理由から、ドキュメンタリーを手掛けるようになります。
そして、映画監督として4本目の作品「誰も知らない」では、主演の柳楽優弥さんがカンヌ国際映画祭で最優秀主演男優賞を取ったことで、国内外で大きな話題となりました。
撮影している時から、手応えがあったそうです。

5月12日(木) 「子役に求めるもの」
いまだに「映画監督」という肩書きがなじまないという是枝裕和さん。
映画祭の授賞式では、居心地の悪さを感じているそうです。
一方、カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した「そして、父になる」に代表されるように、是枝さんの作品は、子役の演技が特徴的と言われています。
「撮りたい子どもで撮り、個性を活かすこと」を考えているという是枝さんですが、「そして、父になる」でも、子役の演技に驚かされたそうです。

5月13日(金) 「最新作『海よりもまだ深く』」
是枝裕和さんの最新作『海よりもまだ深く』は5月21日から全国で公開されます。
なりたかった大人になりたいと思い続けている大人が主人公のこの作品では、母親像やある食べ物などに、是枝さんの実体験がちりばめられています。
一方、趣味を仕事にしたという是枝さんは、ストレスもたまらず、気晴らしも必要ないとおっしゃいます。

<プロフィール>
1962年、東京都練馬区出身。1987年、早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社「株式会社テレビマンユニオン」に入社。95年、「幻の光」で映画監督デビューし、同作品はベネチア国際映画祭で金オゼッラ賞を受賞した。その後「ワンダフルライフ」「DISTANCE」を発表し、海外からの注目が高まる。2004年公開の「誰も知らない」、08年「歩いても 歩いても」、09年「空気人形」、11年「奇跡」も国内外の多数の賞を受賞した。数多くのドキュメンタリー作品やCMなども手がけている。13年5月27日、フランスのカンヌ国際映画祭に出展した「そして父になる」が、日本映画としては26年ぶりとなる審査員賞を受賞した。

5月2日~5月6日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは山田五郎さん

yamada_kunimaru.jpg

5月2日(月)「思いがけず若者雑誌へ」
大学を卒業し、奨学金を借りて大学院に通おうと考えていた山田五郎さんでしたが、奨学金の基準を満たせず断念。大学では新聞学科にいたこともあり、友人が受けに行くマスコミ関係の会社説明会について行き、就職活動を始めることになります。美術書の担当をしたいと思い出版社を受けようとしますが、美術専門の出版社は不況もあり、募集がなく、美術書も扱っている大手出版社、講談社に入社することになります。ところが、若者向け雑誌「ホットドッグ・ プレス」の編集部に配属されます。

5月3日(火)「編集者 山田五郎」
講談社に入社し、「ホットドッグ・ プレス」の編集部に配属された山田五郎さん。ファッション担当になるものの、その時点では他の人気雑誌に水をあけられていました。デザイナーズ&キャラクターズブームに乗り、雑誌は急成長しますが、どうやって読者を獲得していったのか?さらに特集記事を担当することに。面談で集めた1000人のアンケート、当たり前の結果がでてしまうデータを面白くする技術とは?また昨今の出版不況と呼ばれる現状についても、お話していただきました。

5月4日(水)「テレビ出演そして講談社退社」
テレビに出るきっかけとなる「タモリ倶楽部」。どのように出演することになったのかきっかけを伺います。そして、「山田五郎」という名前、元々は架空の人物の名前だったそうです。何故その名前が生まれ、名乗ることになったのでしょうか?他にもその頃担当していた高級婦人誌ではバブル時代ならではの苦労もあったとか。
編集者をやりながらテレビにも出演する山田五郎さん。講談社をやめたタイミングから、フリーになってわかった苦労話もお話いただきました。

5月5日(木)「機械の楽しみ方」
子供の頃から歯車やピストンなどの金属が好きで、近所の工場からいらない部品をもらって家の庭に集めていた山田五郎少年。子供の頃から機械が好きな、山田五郎さんならではの目線で、機械や時計について語っていただきます。同じように作られた機械にも、ひとつひとつに個性があり、時計では「巻き上げ感」、「押し感」、「戻り感」など色々な「感」の楽しさを語る五郎さん。日本人ならではの楽しみ方など、あらゆる角度から語っていただきました。

5月6日(金)「西洋美術の裏側」
西洋美術史に詳しい山田五郎さん。コピーライターの、こやま淳子さんと共に行ったイベントを元に本にした「ヘンタイ美術館」を手に、お話を伺いました。ダヴィンチだけなぜ姓で呼ばれるのか、など素朴の疑問から、知られざる裏側など、普通の美術書だけではわからない、面白い西洋美術を教えていただきました。
最後に山田五郎さんから若者へ、やりたいことはすぐやるべきという、趣味の多い山田五郎さんならではのメッセージを頂きました。

<プロフィール>
1958年 東京都生まれ。上智大学文学部在学中にオーストリア・ザルツブルク大学に1年間遊学し、西洋美術史を学ぶ。卒業後、㈱講談社に入社『Hot-Dog PRESS』編集長、総合編纂局担当部長等を経てフリーに。現在は時計、西洋美術、街づくり、など幅広い分野で講演、執筆活動を続けている。

4月25日~4月29日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは丘みつ子さん

oka_kunimaru.jpg

4月25日(月) 「女ターザンが女優になるまで」
丘みつ子さんは三人兄弟の末っ子。女の子遊びはしたことがなく、女ターザンと呼ばれるほどの活発な少女時代を送りました。
あまり興味がなかったという芸能界に入ったのは19歳の時。
CMタレントとしてモデルクラブに所属していたのですが、日活の増田監督の目にとまり女優としての道を歩むことになります。

4月26日(火) 「お茶の間の人気者」
丘さんが連続テレビドラマ小説「オランダおいね」「ノンちゃんの夢」に出演していた頃、映画会社の五社協定が無くなります。自由にオーディションを受けられるようになり、丘さんは幅広くTVスターとして活躍することになります。
また、丘さんは倉本聰さん原案の「前略おふくろ様」にも出演しています。あまりにも厳しい倉本聰さんの指導を振り返って、「まるで闘争だった」と懐かしむ丘さんです。

4月27日(水) 「マラソン女優・丘みつ子」
女優活動とは別に、マラソンにも精を出している丘みつ子さん。走るようになったのは30代の頃。小さい時に大病をしたこともあって、健康維持のために始めたそうです。
数ある運動の中からマラソンを選んだ理由は「世界中どこに行っても靴が一足あれば走れるから」だとか。世界中どこに行っても走ることを忘れなかったそうです。
トライアスロンに挑戦した時には意外な裏話も。目の前を泳いでいた選手に対して丘さんが取った、闘争心の強さを伺えるエピソードをお聴きください。

4月28日(木) 「箱根で温泉三昧」
現在は神奈川県の箱根にお住まいの丘みつ子さん。決め手は東京に近いこと、そして家々が離れているためご近所付き合いがあまりなく、気楽でいられることなんだとか。
もちろん友人の家に遊びに行くこともあります。箱根ではディナーに招待されるときに温泉はつきもので、1メートルごとに違う泉質の湯が湧いており、白濁湯や炭酸泉など、家庭で温泉めぐりできることもこの町の魅力なんだそうです。

4月29日(金) 「陶芸家はお酒飲み」
陶芸家としての顔も持つ丘みつ子さん。
最初の10年ぐらいは東京・中目黒で電気釜を使って陶芸をしていたそうですが、ある時、薪釜の魅力に取り付かれて箱根の自宅に釜を構えました。自然の造形と、釉薬を使わない焼き上がりが味わい深さを造るのだと語ります。仕上げの5日間は付きっ切りで火力の調整をするそうですが、そこにはお酒が欠かせないのだとか。

<プロフィール>
19歳の時、ミス人魚コンテストをきっかけにモデル界入り。1968年、『禁断の果実』で映画デビュー。1970年、テレビ『おらんだおいね』で人気を獲得し、以降、主にテレビドラマで活躍。主な出演作として、日本テレビ『14ヶ月』、映画『キッズリターン』などがある。そのほかに、映画『マディソン群の橋』メリル・ストリープ役などの外画の吹替えも務める。また、20年以上続けている作陶は、毎年個展を開催する。

4月18日~4月22日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは立川志の輔さん

tatekawa_kunimaru.jpg

4月18日(月) 志の輔さんの子供のころ
近所の商店街のお店の手伝いをしていたという志の輔少年。精肉店の内側に入り、お客さんの注文をきき、商品を渡す。次の日は青果店で天井から下がっているザルからおつりをとって渡すということを繰り返していました。今思えば、自分の存在感の確認をしていたようであったと振り返っています。子供のころの落語に対するイメージもお話いただきました。

4月19日(火) 29歳で弟子入り
大学卒業後、落語が好きではあったけれども、落語家になる勇気がなく、4年間、広告代理店で社会人を経験したあと、29歳の時に立川談志に弟子入り。29歳という年齢からか師匠の後ろについて行くと、いろんな先輩から『馬鹿じゃないの?』と心配されたそうです。2つ目に昇進した時に師匠から送ってもらった言葉が忘れられない。『手っ取り早く仕上げた』。そんなに急がなくてもと感じていたそうです。

4月20日(水) 煙草とお酒
タバコをやめて7年。ヘビースモーカーだった志の輔さん。そのころ、文化放送の旧社屋のスタジオでは煙草がすえました。当時のアシスタントだった水谷加奈アナウンサーには申し訳ないことをしたと謝罪します。邦丸さんとの煙草トークをお楽しみください。
そして、お酒についてもお話いただきました。毎日欠かさないそうです。

4月21日(木) 富山県人
富山出身の志の輔さん。富山県人の笑いに関する感覚についてのお話です。頭の中でまず富山弁で物事を考え、それを標準語に変換してから話すということを今も繰り返しているそうです。時々、テレビやラジオでも富山弁の一部が出る時があるそうです。そのときの焦りについて振り返っていただいています。落語のオチも変えることもあるそうです。

4月22日(金) 油断ができない師匠 
落語はお客様が頭の中でいろいろと考えていただくものだと志の輔さん。志の輔落語は演劇なのか?そういわれる理由は、寄席ではなく、若いころから劇場やホールなどでやって来たことが影響していると分析しています。『油断ができなかった』という談志師匠とのやりとりについても振り返っていただきました。

〈プロフィール〉
富山県出身。1983年、立川談志門下入門。1990年5月、立川流真打昇進。落語家の他、タレント・MCとしても活躍。NHK『ためしてガッテン』司会、文化放送『志の輔ラジオ落語DEデート』パーソナリティとして活躍するかたわら、古典・新作を問わず、現代に生きる視点で「志の輔らくご」を展開。

4月11日~4月15日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは高橋由美子さん

takahashi_kunimaru.jpg

4月11日(月)「子供の頃からおじさまにモテモテ」
埼玉県にお生まれの高橋由美子さん。ご実家は理容室で、「どちらかというと営業向き」という高橋さんは、子供の頃から散髪に来るおじさま方に大人気だったそうです。
その人気ぶりは「親父殺し」と呼ばれるほどだったとか。
周囲に年配の方が多かった影響で、子どもながらに見ていたテレビは時代劇と野球中継。家のテレビはいつも巨人戦だったそうですが、今は千葉ロッテマリーンズのファンに。
そのキッカケとなったアイドル時代のお仕事についても語ってくれました。

4月12日(火)「芸能界デビュー」
クラシックバレエの先生に勧められたことがキッカケとなり、10代で芸能界へと足を踏み入れた高橋由美子さん。アイドル歌手になる前は女優としてテレビドラマに出演していました。
しかし、周囲の大人たちに「一回だけでいいから」と言われて歌手デビューし、アイドルとしての活動をスタート。デビュー曲が、当時の人気アニメ「魔神英雄伝ワタル2」の主題歌だったということもあり、大ヒット。
こうして、高橋由美子さんはアイドル街道をひた走ることになります。

4月13日(水)「20世紀最後のアイドル」
20世紀最後のアイドルというキャッチフレーズでアイドル活動をしていた高橋由美子さん。しかし、素の性格はおとなしく、アイドルらしいキャピキャピ感を演出することが得意ではなかったそうです。
本当の自分と、周囲から求められる姿が違う中「高橋由美子というアイドルをプロとしてトコトン演じてやろう」という決心をしました。
「アイドルを演じられなければ、女優にはなれない」と話す由美子さんです。

4月15日(木)「役と私」
舞台やテレビドラマでも活躍している高橋由美子さん。
そこでは、自分を捨てて役になりきる事を心がけています。
よく周囲から「素の姿と違うね」と言われるそうですが、由美子さんは「あれは演じているんだから」とバッサリ一蹴します。
しかし、長期公演の舞台に出演しているときだけは別、役になりきるので2〜3ヶ月それを引きずることもあるそうで...。
今回はドラマ「相棒」に出演していたときの裏話も語ってくれました。

4月15日(金)「お酒とのつきあい方」
最終日はお酒との付き合い方について。
高橋由美子さんにとって良いお酒とは、仲間とのお酒。一緒にいる人・共有する時間が楽しければ良いお酒だそうです。
またお酒を目一杯楽しむため、飲み会のときには最初に周囲が何時に帰るかを聞いて、それに合わせて飲み方を変えるんだとか。
しかし、時には守れないこともあるそうです。それはどんなときなのでしょうか。
高橋由美子さんご出演の舞台「寝とられ宗介」が東京では5月から上演されます。脚本・つかこうへいさん、演出・錦織一清さんによる今回の舞台についてもお話しいただきました。

<プロフィール>
89年、TVドラマ「冬の旅・女ひとり」(TBS系)でデビュー。翌年CD『Step by Step』で歌手デビュー後、アイドル歌手として絶大な人気を得る。10代半ばにしてスターの仲間入りをし、TV・CM・エッセイ執筆等その活躍の場を広げる。舞台においてはミュージカル、ストレイトプレイとジャンルに問わずその実力を発揮し、観客を魅了。
2015年8月から「さいたま市観光宣伝部長」に就任。

4月4日~4月8日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストはきたろうさん

kitaro_kunimaru.jpg

4月4日(月) 「かわいかった子ども時代」
子どものころはとにかく可愛かったというきたろうさん。
勉強もでき、運動神経もよく、モテモテだったそうです。
小学生の時は野球をやっていましたが、本番に弱かったため、ポジションを変更されてしまい、大きな挫折を味わいました。
一方、学芸会では主役として活躍。
この経験が、役者を目指すきっかけとなりました。
「きたろうさんの子ども時代」のお話です。

4月5日(火) 「演劇の世界へ」
父親に言われ、中央大学に進学したきたろうさん。
しかし、当時は学生運動が盛んで、ほとんど授業はありませんでした。
数々の舞台に立つようになっていましたが、基本を勉強するため、養成所に入ります。
そこで出会ったのが、後にシティボーイズを結成する、大竹まことさんと斉木しげるさんでした。
養成所を辞め、「表現劇場」を立ち上げたきたろうさん達は、芝居はせず、仮面ライダーのショーで地方回りをするようになります。
その頃は「とにかく楽しければいい」と考えていました。
「演劇の世界へ」というお話です。

4月6日(水) 「シティボーイズ結成」
学生時代の延長線上を楽しんでいたきたろうさんに転機が訪れます。
表現劇場のメンバー、風間杜夫さんの活躍に刺激を受け、大竹まことさん、斉木しげるさんとコントグループ「シティボーイズ」を結成します。
なかなか客が増えない中、テレビに出ないとダメだと思った大竹さんは、近くにあるからという理由でNHKに電話をかけます。
この電話がきっかけで、一気にテレビに出るようになりました。
きょうのテーマは、「シティボーイズ結成」です。

4月7日(木) 「役者・きたろう」
映画やドラマで役者としても活躍中のきたろうさん。
演じる時に考えるのは、「人と同じことはやりたくない」。
最近では、きたろうさんありきで役が用意されることもしばしば。
そんな「きたろうワールド」に憧れる若い役者さんも増えていますが、きたろうさんは「俺にはなれない」と一蹴します。
その理由は、「楽をしようと思うこと」、「人を嫉妬しないこと」、そして「根拠のない自信を持ち続けること」が難しいからだそうです。
「役者」についてきたろうさんが語ります。

4月7日(金) 「お酒との付き合い」
2014年から、居酒屋を訪問する番組を始めたきたろうさん。
お酒好きのため、趣味を仕事にするのは嫌だったものの、今は自然体で楽しめるようになりました。
好きなお酒は日本酒。つまみは台本です。
お酒を飲みながら台詞を覚えると、アイデアがどんどん浮かんでくるので、その時間が何よりも好きなんだそうです。
5月14日に公開される映画「殿、利息でござる」の台詞も、もちろん、日本酒を飲みながら...
「お酒」についてのお話です。

<プロフィール>
1971年、俳優座小劇場解散後、風間杜夫らとともに「表現劇場」結成。1979年、現メンバーである大竹まこと・斉木しげるとラジカルで知的なコントユニット"シティボーイズ"結成。1981年、日本テレビ『お笑いスター誕生』でデビュー。10週勝ち抜きグランプリを獲得。その後、テレビ・映画・CM・舞台など幅広く活躍。主な出演作品に、テレビ『タイムスパイラル』『シティボーイズノテツガク 快楽と絶望』、映画『南極料理人』『横道世之介』『天地明察』、舞台『斎藤幸子』など。

3月28日~4月1日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストは伍代夏子さん

godai_kunimaru.jpg

3月28日(月)「子供時代の伍代さん」
東京代々木八幡に生まれた伍代さん。実家は魚屋さんで、小さい頃から親が働く様子を見て育ちました。学校では学級委員や班長などはやっていましたが、実は恥ずかしがり屋で、人前に出るのは嫌いだったそうです。子供の頃からとにかく演歌好き。雑誌の付録についていたソノシートが聞きたくて、親にお願いしてポータブルレコードプレイヤーを買ってもらいます。そんな伍代さんが一番最初に買ったレコードとはなんだったのでしょうか?初日の今日は、子供時代を振り返っていただきました。

3月29日(火)「下積み時代」
「演歌歌手になるのは当然」と、思い込んでいた伍代さん。高校1年生の時に、街であきらかにスカウトマンと解る人を見かけます。自らその人の前を何往復もし、なんとか声を掛けてもらうことに成功します。ボイストレーナーの先生を紹介され、本格的に歌手を目指すことになったのですが、そこから始まる紆余曲折。実は伍代夏子という名前になる前に何度かデビューもしましたがヒットには結びつきません。夜のスナックでの辛いキャンペーンも経験しました。今日は下積み時代のお話です。

3月30日(水)「人気歌手への仲間入り」
名前を変えて再デビューを繰り返し、4回目でやっと「伍代夏子」にたどり着きます。
姓名判断の先生にお願いして決めた名前ですが、実はこの「伍代」には、憧れのあの歌手の名前が隠されているそうです。 そして、その伍代夏子としてのデビュー曲「戻り川」で、やっと人気歌手への仲間入りを果たします。辛いと思っていた下積み時代のキャンペーンも無駄ではなかったと振り返ります。

3月31日(木)「杉良太郎さんとの結婚」
「お芝居をやりたいのなら、杉良太郎さんの舞台をみておきなさい」と日舞の先生に連れて行かれたのが杉さんとの出会いでした。楽屋でごあいさつをしたところ、次の舞台にも誘われます。伍代さんがプレゼントしたエルメスのコーヒーカップがきっかけで、ふたりはお付き合いに発展しますが、そこには、とある杉さんの思い込みがあったそうです。ところで、杉さんはご自宅ではどのように過ごされているのでしょうか?今日は、杉良太郎さんとの出会いと結婚、プライベートをお伺いしました。

4月1日(金)「杉良太郎さんと伍代夏子さん」
ご主人の杉良太郎さんは社会福祉活動にも力を入れていらっしゃいます。結婚されてから伍代さんも福祉活動に参加し、今ではふたりのライフワークになっているそうです。東日本大震災の際には、杉さんの今までの活動を知っている方々の協力のもと、タンクローリーで被災地にガソリンを届けることができました。また、お二人の呼びかけで大規模な炊き出しも行いました。最近ではご夫婦でのお仕事も増えてきているそうです。そして最後は伍代さんの今後の夢で〆て頂きました。

<プロフィール>
1987年、CBSソニーレコード(現ソニー・ミュージックレコーズ)より「戻り川」でデビュー。同曲は、35万枚を超すヒットとなり、翌1988年に「第21回日本有線大賞」と「第21回全日本有線放送大賞」の最優秀新人賞を受賞。1990年には「忍ぶ雨」でNHK紅白歌合戦へと初出場し、以来、通算22回(2016年現在)の出場を果たしている。1999年、俳優の杉良太郎と結婚。2012年、厚生労働省より「肝炎対策特別大使」に。C型肝炎を克服した自身の経験をもとに、肝炎の正しい知識と検査受検を広く呼びかけている。 また、諸外国との文化交流にも熱心でこれまで数々の国際交流に貢献しており、その功績が認められ2015年には外務大臣表彰を受けている。

3月22日~3月25日の「ラジオジャパン サロン・de・くにまる」のゲストはダイアモンド✡ユカイさん

yukai_kunimaru.jpg

3月22日(火)「音楽に目覚めて」
ダイアモンド✡ユカイさんはもともと音楽には興味無し、スポーツの好きな少年でした。でも、中学時代、野球でかかとを痛めて療養していた時に友人が持ち込んだビートルズのレコードを聴き、気持ちが変わります。ビートルズから音楽の楽しさを感じたと話すユカイさんです。
紆余曲折がありながらもギターを弾き始めたユカイさんは、発表会でギター片手に歌う機会を得ます。イエスタディを歌い終えたときのクラスメイトからの大拍手で、ボーカル・ダイアモンド✡ユカイさんは歌を唄う事に目覚めたのでした。

3月23日(水)「レッド・ウォーリアーズ」
大学に進学し、友人とバンドを組んでいたダイアモンド✡ユカイさんですが、卒業を迎えた頃には友人は皆離れて行ってしまいました。ロックを続けるかどうか悩んでいるなか、元レベッカの木暮さんとバンドを組むことになります。歌は得意だけど曲作りは苦手だからちょうど良いと、ユカイさんは思ったのだそうです。
こうして結成したレッド・ウォーリアーズは最初は時代に合わせた音楽を演奏しますが、途中からやっぱり好きな事をやろうという気持ちになり、ガンガンのロックに転向します。最初はファンが激減しましたが、気が付けば時代の一番先頭に立っていました。でも、レッド・ウォーリアーズはたった3年で解散してしまいます。それは意外な、いや、ユカイさんらしい理由からでした。

3月24日(木)「ソロになって」
ダイアモンド✡ユカイさんのソロ第一作は"世界の女は俺のもの"、ユカイさん曰く、当時はつけあがっていたのだそうです。それなりに人気はあったものの、だんだんコンサート会場が小さくなっていき、レッド・ウォーリアーズを再結成した後には武道館を出入り禁止になってしまったりして、だんだん気持ちが落ち込んでいきます。
癒されたいと思って結婚したユカイさんですが、だんだん元に戻り生活はめちゃくちゃ、そしてスタッフにバンドのお金を持ち逃げされた頃には奥さんからは離婚を言い渡されてしまいます。バンドも解散、気が付けばマネージャーも居なくなったユカイさんは、ろうそくの光の元でベートーベンの悲壮を聞きながら、今後のことを考えていました。でも、結局、元に戻ってしまったユカイさんです。

3月25日(金)「バラからタンポポへ」
第二次独身時代を謳歌していたダイアモンド✡ユカイさんは、だんだん寂しさも感じるようになり、身近にタンポポの様な女性が居ることに気が付いて再婚します。今まではバラの様な女性が好きだったけれどタンポポがよくなったと話すユカイさんです。でも、ボソッと愚痴のような一言も・・・。
歳が年なので念のためにと調べた検査で、自分に子供ができない原因があるとわかったユカイさんは不妊治療を始めます。2回失敗した後、もういいやと思うユカイさんに奥さんはもう一回だけと。名医の元で子宝を授かり幸せになったユカイさんに今後の御自身について伺ってみた処、挑戦し続ける気持ちをずっと持っていたい、これが夢と話してくれました。

<プロフィール>
1986年、伝説のロックバンド「RED WARRIORS」のボーカルとしてメジャーデビュー。人気絶頂期の1989年わずか3年の活動で日本武道館公演を最後に解散。その後、「ダイアモンド☆ユカイ」として、ソロ活動を開始する。現在は音楽活動を中心に舞台・映画・バラエティー番組に出演するなど幅広く活動。代表作のソフィアコッポラ監督作品映画『Lost In Translation』では、業界人の特徴をついかんだCMディレクター役を好演し、ビル・マーレイと対峙した。2010年デビュー25周年を迎えた。また私生活では47歳にして初めてパパになる。2011年7月21日には自身の不妊治療と夫婦の愛と葛藤の日々を綴った『タネナシ。』を講談社より発刊し大きな反響を呼んだ。また、2011年11月1日に双子が誕生した。ブログ「ユカイなサムシング」も『俺の妻』シリーズなど各所で話題に。

1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11