だからどっちなの?(放送終了)

ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

6月27日~7月1日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは鶴見辰吾さん

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6月27日(月)「芝居との出会い」
40歳から自転車、50歳からマラソンを始めた鶴見さん。アクティブなイメージがある鶴見さんですが、幼少期はヒーローものに憧れる内気な少年だったそうです。
当時鶴見さんのおば様が宝塚スターの追っかけをしており、劇場へ連れて行ってもらったのをきっかけに、芝居に興味を持ち出します。そして中学1年生の時に受けたテレビ番組のオーディションから、どのようにデビューへと繋がったのかをお話ししていただきました、

6月28日(火)「中学三年生が演じる中学三年生」
「3年B組金八先生」に出演することになった鶴見さん。衝撃的な役柄を演じることになります。最初は、そのような役だとは知らずに演じていた、当時思春期だった鶴見少年の心情を伺います。そして中学生が集まっていた、収録現場の裏側も明かしていただきました。ドラマ、映画と出演していた鶴見さんが、その時点で俳優としてどのようになっていくと考えていたのかお伺いしました。

6月29日(水)「俳優、鶴見辰吾」
3年B組金八先生、そして映画に出演と、周囲から見ると順風満帆に見える「俳優 鶴見辰吾」。しかし当時、中学生の鶴見少年が憧れていたのはちょっと不良。アイドル的活動に違和感を感じ、本人は限界を感じていたそうです。その当時、鶴見さんはどのように考えていたのかを、お伺いしました。
そして30歳で初めて悪役を演じ、その難しさに苦労されたそうです。監督にしぼられながら、どのように新境地を拓いていったのか?さらに先日亡くなられた、日本を代表する演出家「蜷川幸雄」さんとのエピソードも語っていただきました。

6月30日(木)「俳優として」
NHKで放送された「坂の上の雲」。どのように役を演じたのか、共演した高橋英樹さんとの話、ロケの大変さなど、ドラマの裏側を語っていただきました。
コミカルな演技から、悪役まで多彩な役を演じる鶴見さん。主演としてではなく、バイプレイヤーとしての俳優のやりがいを教えていただきました。
そして鶴見さんが挑戦している内の一つ、日本舞踊をなぜ始めることになったのかのエピソードを伺いました。

6月31日(金)「チャレンジ」
40歳を越えてから自転車、ギターなど数多くのことに挑戦する鶴見さんですが、新しいことにチャレンジすることになった、きっかけを伺います。そして今年3月に3時間9分27秒の好タイムで走ったマラソン。なぜマラソンにチャレンジしたのかを詳しくお話して頂きました。
最後に新しいことにチャレンジし続ける鶴見さんの、今後やってみたいことを教えていただきました。

<プロフィール>
1964年12月生まれ。東京都出身。1977年に『竹の子すくすく』でデビュー。TBS『3年B組金八先生』で注目を浴びて以降、テレビ、映画、舞台などで幅広く活躍している。近年はNHK大河ドラマ『黒田官兵衛』、映画『バンクーバーの朝日』、2015年5月公開の『Zアイランド』などに出演。6月には手塚治虫原作、栗山民也氏が演出する舞台『アドルフに告ぐ』で峠草平役を演じる。趣味の自転車では数々のレースで入賞するほどの実力を持ち、2007年に自転車活用推進研究会が任命する「二代目自転車名人」に就任。自転車の地位向上や自転車を取り巻く環境改善などに取り組み続けている。著書に『とことん自転車』(小学館新書)がある。

6月20日~6月24日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは岩崎良美さん

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6月20日(月) 「姉の宏美さんを追ってデビュー」
3姉妹の末っ子として生まれた岩崎良美さん。
姉の岩崎宏美さんの後ろをついていくような、おとなしい子どもだったとのこと。
歌のレッスンで2人の姉と一緒に歌うのが好きだった良美さんは、1975年にデビューし、楽しそうに仕事していた宏美さんの姿を見て、自分も歌手になりたいと思うようになります。
そして、1980年に「赤と黒」でデビュー。大人っぽい曲で驚いたそうです。

6月21日(火) 「『スクールウォーズ』と『タッチ』」
歌手としてデビューした岩崎良美さんは、女優としても活躍されるようになります。
1984年のドラマ『スクールウォーズ』では、マネージャー役で出演。
撮影は寒さとの闘いが大変だったと振り返ります。
しかし、作品の人気は強く、今でも、役名でサインをねだられるそうです。
そして、同じ頃にリリースし、スマッシュヒットした『タッチ』。
自分よりも小さい子どもたちがファンになってくれた曲でした。

6月22日(水) 「活躍の場を広げて」
歌手・女優として活躍していた岩崎良美さん。
活動の場を舞台やナレーションにも広げていきました。
ミュージカル『アニー』や、『おさるのジョージ』のナレーションでは、子どもの視点が勉強になったそうです。
おかけする曲は木村カエラさんの『butterfly』のカバー。岩崎良美さんにとって、思い入れのある曲です。

6月23日(木) 「ご主人との出会い」
カバーアルバムを制作中にご主人と出会い、結婚された岩崎良美さん。
初対面なのに、小さい頃から知っていたような印象を受けたとのこと。
しかし、ご主人は良美さんが『タッチ』を歌っていることすら、知らなかったそうです。
おかけするのは、ボサノバの名曲『イパネマの娘』のフランス語バージョン。
フランス好きの良美さんは、留守番電話のメッセージもフランス語なんだとか...。

6月24日(金) 「結婚生活とこれから」
ブログやtwitterに頻繁に登場する、岩崎良美さんの愛猫。
フランス好きの良美さんですから、猫の名前はもちろんフランス語です。
一方、5年経った結婚生活で、もともと好きだったお酒を飲まなくなりました。
「意外といいものだ」と結婚生活を語ります。
曲は『MY LIFE』。
日本ラグビーフットボール協会公認、ラグビーの応援ソングです。
結婚生活とこれからのお話です。

<プロフィール>
1980年『赤と黒』にて歌手デビューし『涼風』でTBS系『ザ・ベストテン』にランクイン、日本テレビ音楽祭で最優秀新人賞を受賞。『あなた色のマノン』では日本レコード大賞新人賞を獲得しNHK紅白歌合戦に初出場。1985年『タッチ』が大ヒットし日本レコード大賞にて金賞を受賞。1984年頃から俳優としての活動も増え、『スクールウォーズ』などにレギュラー出演し、1990年には朝の連続ドラマ『花真珠』で主演を務める。フランス語やシャンソンを学ぶなど精力的に活動し、現在ではミュージカルやナレーションなど活躍の場を広げている。

6月13日~6月17日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは林家三平さん

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6月13日(月)「笑点 新メンバーへ」
笑点の新メンバーになった林家三平さん、絶対に漏らさないで欲しいといわれ、決まったことを家族にも言えなかったのは辛かったそうです。寝言まで確認を取っていたと話す三平さんです。
発表当日も漏れないように日本テレビの会議室でじっと待ち、他のメンバーの方に逆に挨拶に来ていただいたと話す三平さん、佐智子夫人にはなんとNHKに行くといって出かけたのだそうです。

6月14日(火)「初代林家三平の思い出」
林家三平さんは、海老名家の次男、4人目の子供です。お兄さんと比較されることは?と伺ったところ、歳が離れているから、一人っ子みたいな育ち方をしたと話してくれました。
お父さんが"林家三平"だと意識したのはなんと幼稚園の時、でも、だれかに手を振ってもらうとお父さんは「加山雄三です」と挨拶していたそうです。そのうちにクリストイートウッドですと言い出し、さすがにそれは無理と突っ込まれていたと、有名人であることを楽しんでいた雰囲気があった思い出を語る、二代目三平さんです。
有名人の二世はそれを受け入れる人と受け入れられない人が居ますが、二代目三平さんは受け入れていたのだそうです。それは、有名人が家に遊びに来てくれるから。子供心をもったお父さんとの思い出を二代目三平さんはいろいろと話してくれました。

6月15日(水)「正蔵、そして三平という名前について」
林家三平さんのお兄さんは正蔵師匠。三平の名前を継いでいません。三平さんにこのことを聞いてみたところ、正蔵というのは海老名家が一度外に貸し出してしまった祖父の名前、それが戻ってきたのだから、それを兄が継ぐのは当然でしたと話してくれました。
三平さんはもともと落語家になるつもりが無かったのに、バルセロナの食堂で外国の人に日本の文化自慢ができなかったことで落語家になろうと決心します。三平の名前を継ぐ事になったときはちょっと躊躇した三平さんですが、同じ落語家の元義理の兄のアドバイスで名前を継ぐ決心をしたのでした。

6月16日(木)「三平さんの落語修行」
大きな名前を継ぐにあたり、三平さんにはいろいろな風当たりがあったそうです。でも、それ以上に自分を思ってくださるサイレントマジョリティがあり、寄席にも足を運んでくれる、だからこの人たちを大切にしたいと三平さんは話します。
その三平さんに落語への向き合い方を作ってくれたのは小朝師匠でした。月に2回のネタ卸しを5年間やった。つらかったけれど・・・・と当時を思い出す三平さんでした。
三平さんはもうひとつ、先代の円楽師匠の思い出も話してくれました。三平さんの子供時代、海老名家が四面楚歌となっていた中での良い話です。
 
6月17日(金)「三平さんのこれから」
先代の林家三平さんとテレビ番組の笑点には、少なからぬ繋がりがありました。「笑点」という番組名が決まったのは今収録している場所、ねぎし三平堂なのだそうです。
出演が決まった三平さんにはレギュラー陣からいろいろとアドバイスをもらいましたが、それについても三平さんは話してくれました。
三平さんに夢を伺ったところ、落語を世界に向けて発信する活動を発展させたいと話してくれました。通じにくい部分もあるけれど、世界中で喜ばれる話もある。それは"ケチの話"と話してくれた林家三平さんです。

<林家三平さんプロフィール>
昭和45年12月11日生まれ。
初代林家三平の次男で、林家正蔵の弟。
中央大学時代に林家こん平に入門。
平成14年林家いっ平の名で落語協会真打昇進。
21年2代林家三平を襲名した。
英語・中国語落語にも挑む。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオ サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは、谷村新司さん。 tanimura_kunimaru.jpg                

6月13日(月)「22歳」
谷村新司さんの生まれは河内長野、和の雰囲気に包まれた家でした。その頃の影響が曲や歌詞にも出ていると話す谷村さんは、小さい頃の祇園の舞妓さんとのエピソードも話してくれました。
そんな谷村さんは大のラジオ好き。新しい情報はラジオで発信していたのだそうです。ソロになりテレビに出演する際にも2曲作ってどちらが良いかをラジオリスナーに投票で決めてもらっています。このときできた曲が「22歳」、今日お掛けする曲になります。
 
6月14日(火)「冬の稲妻」
谷村新司さんはアリスを結成し活動を始めますが、なかなか売れません。ブレイクすればさかのぼって聴いてくれるだろうと当初谷村さんは思っていたそうですが、さすがにだんだん不安になったそうです。「冬の稲妻」が大ヒットしたのは、そろそろまずいな・・・と、思った頃の出来事でした。
アリスの所属事務所がジェームズブラウンの招聘で失敗して大借金を抱えてしまいました。アリスはこの借金を返すためにたくさんのコンサートをしているという話があり、それは井筒監督の映画の小ネタにまで使われています。この頃のエピソードをお聴きください。

6月15日(水)「昴」
「昴」は中国では中国の歌だと思われています。上海万博でアジア大陸代表として日本語で谷村さんが歌ったときに元は日本の歌と知り、中国の人たちはとても驚いていたのでした。政治や経済はどうしても対立してしまうことがあるけれど、文化はそうではない。だから文化交流を大事にしたいと話す谷村新司さんです。
もうひとつ、「昴」がいろいろな処で歌われている理由を谷村さんは最後にボソッと話してくれました。それは・・・。

6月16日(木)「いい日旅立ち」 
いい日旅立ちは谷村新司さんが山口百恵さんに書いた曲ですが、百恵さん引退後に谷村さんが歌うようになります。バトンタッチされたからと話す谷村さんは、この曲の歌詞について永六輔さんから指摘されたエピソードを話してくれました。
海外で在住の方にとって、この歌の詩は更に重みがあるのだそうです。それは、日本に住んでいる私たちには思いもよらない話でした。

6月17日(金) 「アルシラの星」 
谷村新司さんの新曲は「アルシラの星」スバルの次に空に上がってくるシリウスの古代アラビア名がタイトルの由来になった曲です。昴の次に天にのぼるのがアルシアの星。財の星スバルに支えられた文明から、その次の心を大切にする時代へ、だんだん変わっていくと谷村さんは話します。この曲は女性3人のユニット、カラフィナとのデュエット曲で、星と地上の女の子の対話が歌になっているのだそうです。
そんな谷村さんが今楽しんでいるのは料理、辛子醤油で食べるとおいしいサラダを最後に紹介してくれました。

<谷村新司さんプロフィール>
1948年12月11日、大阪府生まれ。
72年、堀内孝雄らと結成したフォークグループ「アリス」でデビューし、「冬の稲妻」「帰らざる日々」「チャンピオン」などのヒット曲を連発する。
82年のアリス活動停止以降は、並行して行っていたソロ活動やアーティストへの楽曲提供を本格化させ、「昴 -すばる-」「いい日旅立ち」「サライ(加山雄三との共作)」などのスタンダードナンバーを多数発表し、海外での公演も精力的に実施。
2004年からは上海音楽学院の教授を務め、後進の育成にも力を入れている。
13年、毎日芸術賞と芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。
15年には紫綬褒章を受章した。

6月6日~6月10日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストはアグネス・チャンさん

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6月6日(月) 「照れ屋だった少女時代」
子どもの頃は照れ屋で、大人を前では緊張して声が出せなかったというアグネス・チャンさん。転機になったのは、中学生の時に始めたボランティア活動。子どもたちと接する時は、不思議と自分を素直に出せたそうです。チャリティでフォークソングを弾き語りしているうちにアマチュアの間で噂になり、やがて香港のテレビ局にスカウトされます。
初日の月曜日はバフィー・セントメリーの名曲「サークルゲーム」のカバーとともに、お楽しみください。

6月7日(火) 「『ひなげしの花』で大ヒット」
日本で歌手デビューを果たした頃のお話。来日のキッカケは、香港での冠番組「アグネス・チャン・ショー」に出演した作曲家・平尾昌晃さんとの出会いだったそうです。その後、周囲の反対を押し切って海を渡った末に、デビュー曲「ひなげしの花」がいきなり大ヒット、人気に火がつきます。その一方、言葉の壁に苦労し、ハンカチを濡らすこともあったそうです。「丘の上 ひなげしの花で〜♪」というフレーズの裏話もあります。

6月8日(水) 「絶頂期の芸能界引退」
1976年、人気絶頂の中、芸能界を引退した頃を振り返ります。
当時はまだ学生だったアグネス・チャンさん。行く末を心配したお父さまに説得されてカナダ留学を決意。トロント大学へ編入されます。日本や香港と違って、誰も自分を知らない場所での生活は自由で楽しかったそうです。
再び訪日を果たしますが、世間から求められるイメージとのズレに困惑。そんなとき、中国にあるお母様の故郷に赴かれます。そこで出会った特別な歌のおかげで、今日までやってこられたそうです。その歌にはどんなエピソードがあったのでしょうか?胸中を語ってくれました。

6月9日(木) 「ボランティア活動への思い」
1998年からユニセフでの活動を行なっているアグネス・チャンさん。
キッカケはご長男が生まれたとき。赤ちゃんを連れて行けるボランティアのイベントにお忍びで参加し、それに気づいたユニセフの関係者に声をかけられたことが始まりでした。今年の3月から「ユニセフ・アジア親善大使」に任命され、ますます活動の場を広げることになりました。
4日目の木曜日は、子どもたちの支援にかける思いをお話しいただきました。

6月10日(金) 「論争を巻き起こした教育方法」
3人の息子さんを持つアグネス・チャンさん。出産した当時は仕事場に赤ちゃんを連れて行ったことが「子育て論争」に発展し、世間を賑わせました。
その後は3人ともアメリカ・スタンフォード大学に進学。アグネスさん曰く、カナダ留学で修得した児童心理学を応用したことが功を奏したそうです。
そして最終日の金曜日は、昨年発売した最新曲「プロポーズ」もおかけします。
現在のアグネス・チャンさんの歌声をお楽しみください。

<プロフィール>
1972年、『ひなげしの花』で日本デビュー。一躍アグネス・ブームを起こす。上智大学国際学部を経て、カナダのトロント大学(社会児童心理学)を卒業。1984年、国際青年記念平和論文で特別賞を受賞。1989年、米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学。1994年、教育博士号取得。1998年、日本ユニセフ協会大使に就任。2002年、初の短編小説集『パーフェクト・カップル』を発売。2006年、全米歌手デビュー。

5月30日~6月3日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストはファンキー加藤さん

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5月30日(月)「夢はプロレスラーかミュージシャン」
八王子で育った加藤さん、子供のころを振り返ります。3人兄弟の真ん中。
兄弟げんかも激しく、壁に穴が開いてしまい、カレンダーでふさいでいたそうです。
子供のころになりたかったのはプロレスラーとミュージシャン。特にプロレスラーには本当になりたかったようで特訓を繰り返していたそうです。

5月31日(火)「CDのジャケット」
ライブハウスでなかなかお客さんが集まらず、ショッピングモールに繰り出したファンキーモンキーベイビーズ
だんだんお客さんが集まるようになってきます。八王子の出身ですが、デビュー前に横浜のクラブでちょっと怖い思いもしたこともあったそうですが、そこで度胸がついたそうです。
デビューのきっかけも横浜のクラブの店長さんからの一言があったからでした。
デビューシングルには当時ちょっと世間を騒がせていたあるタレントさんの写真を起用したのでした。
曲のタイトルからお願いしたその人とは?そして明石家さんまさんとのエピソードも教えてくれました。

6月1日(水)「ファンモンからソロアーチストへ」
メンバーの一人が実家のお寺を次ぐことになり、ファンキーモンキーベイビーズは10年の活動にピリオドを打ちます。
いざ一人になると、どうしようと不安になりますが、そのままのスタイルでいこうと決めます。
ゼロからのスタートではなかった。ファンのありがたみをしみじみと感じたインストアライブのエピソードや6時間半かかった握手会などについてお話しいただいています。

6月2日(木)「全力ライブのエネルギーのもと」
全力のライブ活動。一流のアーティストと番組やライブで一緒になった時にこれはかなわないと思ったそうです。ならばこちらは全力でやるだけだと決心します。40歳が視野に入ってきてどのように体を鍛えているのかライブの前にまるでアスリートのように計算して食事をする方法を紹介していただいています。

6月3日(火)「俳優 ファンキー加藤」
初主演映画「サブイボマスク」について。最初に話が来たときにお断りを入れたそうです。
荷が重いと感じ時間がたちます。その後事務所の社長のある一言で出演を決意します。
いったい何と言われたのか?
そして、演技で一番難しかったのはセリフを覚えることではなかった、セリフを言っていないときだと語ります。

<プロフィール>
1978年東京都八王子市生まれ。
2004年地元八王子にてFUNKY MONKEY BABYSを結成。リーダーを務める。
2006年「そのまんま東へ」でメジャーデビュー。
2009年初のNHK「紅白歌合戦」への出場が決まり、以後、解散まで4年間連続で出場、TBS「輝く!日本レコード大賞」においても3年連続で出演し作曲賞、優秀作品賞、優秀アルバム賞の各賞を獲得する。2013年6月 夢の舞台でもあった「東京ドーム」にて、同グループを解散。
2014年に、ソロデビューシングル『My VOICE』をリリース。
6月11日、初主演映画「サブイボマスク」の公開が決定。

5月23日~5月27日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは近藤サトさん

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5月23日(月) 「子供時代の近藤サト」
岐阜県土岐市で育ち、山出しの田舎者だとおっしゃる近藤サトさんは山でよく遊んだそうです。
陣地ごっこや化石掘り、また蜂の子やイナゴも獲って食べるなどとても活発な女の子だったそう。
そんな彼女が芸能界を初めて意識したのはテレビで見た「たのきんトリオ」。この時、何となくテレビの向こう側の世界に憧れたそうです。

5月24日(火) 「アナウンサーの道へ」
父親から「東京で一旗揚げなさい」と言われて育った近藤サトさんは岐阜県から上京し、日本大学芸術学部放送学科に進学します。テレビの世界に憧れていた大学時代は朗読サークルに入りました。
時代はバブル景気の真っ最中。授業もそこそこにマスコミのアルバイトに精を出したそうです。
何と文化放送で中継レポーターのアルバイトも。そして就職先も東京志望で、華のフジテレビに入社します。

5月25日(水) 「局アナ時代の近藤サト」
フジテレビに入社し、派手な世界だったが意外と地味な生活を送っていたという近藤サトさんはアナウンサーとしていろんな仕事を経験します。1年目から報道番組に起用される一方、有名タレントとのバラエティー番組の司会や、今では考えられない水着を着ての仕事。紛争地帯にも行ったそうです。ある時、上司から言われた「朗読が好きなら企画書を書いてみない?」という言葉がきっかけで自身が企画書を書いたのが、フジテレビアナウンサーによる朗読劇『ラヴシーン』でした。

5月26日(木) 「フリーアナウンサーの仕事」
1998年に入社後、8年でフジテレビを退社した近藤サトさん。30才を手前に何となく仕事が減ってきて自分がどれくらい必要とされているのだろうと考え、外の世界も見たいとフリーアナウンサーの道へ。
ナレーター専門の事務所に所属します。当初ナレーション入れの仕事に「私が頑張らなきゃ」という気負いがあったが、ある時番組スタッフから「テレビ番組はナレーション入れの前にはもう視聴率が決まっている」と言われ、肩の荷が下りたというエピソードも。ナレーションの仕事はとにかく楽しいそうです。

5月27日(金) 「プライベート」
ナレーター、大学特任教授でもある近藤サトさんのプライベートについて伺います。小学6年生の息子さんは母親近藤サトさんのことを「ウザイウザイ」とよく言うわりに、「今日仕事休みになったから家にいるよ!」という言葉に思わず「やったー!」。でもすぐあとに「しまった!」という顔をするのがかわいいそう。また朝の仕事が終わると歩いてランチ店を探すのが目下の楽しみで、夜は「お酒は弱いけど、同席者は目いっぱい楽しませますよ~」とのこと。

<プロフィール>
1991年、フジテレビにアナウンサーとして入社し、報道番組を中心にバラエティなど幅広い分野で活躍をする。
現在はフリーアナウンサーやナレーターとしての仕事をする傍ら、2011年から日本大学芸術学部放送学科特任教授(非常勤)としてアナウンス実習、朗読、卒業研究指導を担当し、後任の育成をすべく母校で教鞭をふるう。

5月16日~5月20日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは天童よしみさん

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5月16日(月) 「大ちゃん数え唄」
子供の頃から歌が上手く、所謂、「のど自慢荒らし」だったという天童よしみさん。自分が歌うと、みんなが笑顔になってくれるのが嬉しかったんだそうです。そして、ひょんなことからレコーディングしたのが、テレビアニメ「いなかっぺ大将」の主題歌である「大ちゃん数え唄」。初日の月曜日は、懐かしのこの曲をたっぷりとお聴き下さい!

5月17日(火) 「道頓堀人情で風が吹く」
テレビ番組の勝ち抜き歌合戦で10週勝ち抜いて、トントン拍子で歌手デビューが決まった天童よしみさんでしたが、デビュー曲である「風が吹く」を始め、その後はまったく鳴かず飛ばず。今後の身の振り方を考え始めた頃に出会った曲が「道頓堀人情」でした。♪負けたらあかんで東京に♪...偶然にも、当時の天童よしみさんの状況を唄ったよう歌詞と、毎晩の盛り場キャンペーンが功を奏し、この曲が、自身初のヒット曲となりました。
火曜日は、デビューしてからヒット曲に恵まれるまでの10年を振り返っていただきます。

5月18日(水) 「珍島物語」 
水曜日は1996年に発売されてミリンオンヒットを記録した曲「珍島物語」にスポットを当てます。
曲に纏わる様々なエピソードを披露して下さったのですが、中でもビックリしたのが「この曲はモスラのイメージ」という、ちょっと聞いただけでは「?」というもの。詳しくは放送でご確認ください!

5月19日(木) 「天童よしみ、ポップスを歌う」
通常のコンサートとは別に、ジャズやポップス中心のライヴも精力的に行っている天童よしみさん...と言うことで、木曜日は天童よしみさんによるカバー曲「VACATION」をおかけいたします。ノリノリでお楽しみ下さい!

5月20日(金) 「女のあかり」
「♪どんな苦労ものりこえて...」、「♪明日を信じて生きるのよ。いつか夜明けがくるまでは」。最新曲「女のあかり」の一節です。この曲、コンサートでは以前から唄っていたとのことなんですが、先日の熊本地震のこともあり、最近は唄うたびに色んな想いが込み上げてきて、時には涙が出てくることも多くなってしまったそうです。
最終日は、そんな「女のあかり」をじっくりとお聴き下さい。

<プロフィール>
1971年、「ちびっこのど自慢」に出場して優勝。
その実力が認められ、フジTV系の「いなかっぺ大将」挿入歌「大ちゃん数え唄」をレコーディング。
読売テレビ「全日本歌謡選手権」で10週を勝ち抜き、最年少で7代目チャンピオンとなる。
1972年、「風が吹く」でデビュー。その後、「道頓堀人情」が大ブレークし、1997年「珍島物語」が100万枚の大ヒット。
2000年、「NHK紅白歌合戦」で紅組のトリを務める。
ドラマではフジTVの「天草こずえの歌姫探偵」に主役で出演。
2004年にはディズニー映画「ブラザーベア」で、フィル・コリンズ作詞・作曲の劇中歌「グレートスピリット」を歌うなど、ジャンルの枠を超えて活躍を続けている。

5月9日~5月13日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは是枝裕和さん(映画監督)

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5月9日(月) 「『海街diary』」
『海街diary』で、ことしの日本(にほん)アカデミー賞4冠を獲得した是枝裕和さん。
綾瀬はるかさん、長澤まさみさん、夏帆さん、そして広瀬すずさんの演じる4姉妹が主役の映画ですが、撮影中に4人がどんどん仲良くなっていったそうです。
休憩中のやり取りをヒントに、あるシーンが生まれたとのこと。
そして、広瀬すずさんには、台本を渡さず、現場で台詞を伝えていました。
その意図とは...。

5月10日(火) 「映画との出会い」
学生時代は、学級委員やキャプテンを務めることが多かった是枝裕和さん。
小説家になりたかった是枝さんは、大学にはあまり行かず、映画館に入り浸るようになります。
そこで、映画監督や脚本家の存在を知り、脚本家を目指すようになりました。

5月11日(水) 「ADから映画監督へ」
制作会社に入社したものの、最初は不遇の時代だったという是枝裕和さん。
その後、後ろ向きな理由から、ドキュメンタリーを手掛けるようになります。
そして、映画監督として4本目の作品「誰も知らない」では、主演の柳楽優弥さんがカンヌ国際映画祭で最優秀主演男優賞を取ったことで、国内外で大きな話題となりました。
撮影している時から、手応えがあったそうです。

5月12日(木) 「子役に求めるもの」
いまだに「映画監督」という肩書きがなじまないという是枝裕和さん。
映画祭の授賞式では、居心地の悪さを感じているそうです。
一方、カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した「そして、父になる」に代表されるように、是枝さんの作品は、子役の演技が特徴的と言われています。
「撮りたい子どもで撮り、個性を活かすこと」を考えているという是枝さんですが、「そして、父になる」でも、子役の演技に驚かされたそうです。

5月13日(金) 「最新作『海よりもまだ深く』」
是枝裕和さんの最新作『海よりもまだ深く』は5月21日から全国で公開されます。
なりたかった大人になりたいと思い続けている大人が主人公のこの作品では、母親像やある食べ物などに、是枝さんの実体験がちりばめられています。
一方、趣味を仕事にしたという是枝さんは、ストレスもたまらず、気晴らしも必要ないとおっしゃいます。

<プロフィール>
1962年、東京都練馬区出身。1987年、早稲田大学第一文学部を卒業後、テレビ番組制作会社「株式会社テレビマンユニオン」に入社。95年、「幻の光」で映画監督デビューし、同作品はベネチア国際映画祭で金オゼッラ賞を受賞した。その後「ワンダフルライフ」「DISTANCE」を発表し、海外からの注目が高まる。2004年公開の「誰も知らない」、08年「歩いても 歩いても」、09年「空気人形」、11年「奇跡」も国内外の多数の賞を受賞した。数多くのドキュメンタリー作品やCMなども手がけている。13年5月27日、フランスのカンヌ国際映画祭に出展した「そして父になる」が、日本映画としては26年ぶりとなる審査員賞を受賞した。

5月2日~5月6日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは山田五郎さん

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5月2日(月)「思いがけず若者雑誌へ」
大学を卒業し、奨学金を借りて大学院に通おうと考えていた山田五郎さんでしたが、奨学金の基準を満たせず断念。大学では新聞学科にいたこともあり、友人が受けに行くマスコミ関係の会社説明会について行き、就職活動を始めることになります。美術書の担当をしたいと思い出版社を受けようとしますが、美術専門の出版社は不況もあり、募集がなく、美術書も扱っている大手出版社、講談社に入社することになります。ところが、若者向け雑誌「ホットドッグ・ プレス」の編集部に配属されます。

5月3日(火)「編集者 山田五郎」
講談社に入社し、「ホットドッグ・ プレス」の編集部に配属された山田五郎さん。ファッション担当になるものの、その時点では他の人気雑誌に水をあけられていました。デザイナーズ&キャラクターズブームに乗り、雑誌は急成長しますが、どうやって読者を獲得していったのか?さらに特集記事を担当することに。面談で集めた1000人のアンケート、当たり前の結果がでてしまうデータを面白くする技術とは?また昨今の出版不況と呼ばれる現状についても、お話していただきました。

5月4日(水)「テレビ出演そして講談社退社」
テレビに出るきっかけとなる「タモリ倶楽部」。どのように出演することになったのかきっかけを伺います。そして、「山田五郎」という名前、元々は架空の人物の名前だったそうです。何故その名前が生まれ、名乗ることになったのでしょうか?他にもその頃担当していた高級婦人誌ではバブル時代ならではの苦労もあったとか。
編集者をやりながらテレビにも出演する山田五郎さん。講談社をやめたタイミングから、フリーになってわかった苦労話もお話いただきました。

5月5日(木)「機械の楽しみ方」
子供の頃から歯車やピストンなどの金属が好きで、近所の工場からいらない部品をもらって家の庭に集めていた山田五郎少年。子供の頃から機械が好きな、山田五郎さんならではの目線で、機械や時計について語っていただきます。同じように作られた機械にも、ひとつひとつに個性があり、時計では「巻き上げ感」、「押し感」、「戻り感」など色々な「感」の楽しさを語る五郎さん。日本人ならではの楽しみ方など、あらゆる角度から語っていただきました。

5月6日(金)「西洋美術の裏側」
西洋美術史に詳しい山田五郎さん。コピーライターの、こやま淳子さんと共に行ったイベントを元に本にした「ヘンタイ美術館」を手に、お話を伺いました。ダヴィンチだけなぜ姓で呼ばれるのか、など素朴の疑問から、知られざる裏側など、普通の美術書だけではわからない、面白い西洋美術を教えていただきました。
最後に山田五郎さんから若者へ、やりたいことはすぐやるべきという、趣味の多い山田五郎さんならではのメッセージを頂きました。

<プロフィール>
1958年 東京都生まれ。上智大学文学部在学中にオーストリア・ザルツブルク大学に1年間遊学し、西洋美術史を学ぶ。卒業後、㈱講談社に入社『Hot-Dog PRESS』編集長、総合編纂局担当部長等を経てフリーに。現在は時計、西洋美術、街づくり、など幅広い分野で講演、執筆活動を続けている。

4月25日~4月29日の「ラジオ サロン・de・くにまる」のゲストは丘みつ子さん

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4月25日(月) 「女ターザンが女優になるまで」
丘みつ子さんは三人兄弟の末っ子。女の子遊びはしたことがなく、女ターザンと呼ばれるほどの活発な少女時代を送りました。
あまり興味がなかったという芸能界に入ったのは19歳の時。
CMタレントとしてモデルクラブに所属していたのですが、日活の増田監督の目にとまり女優としての道を歩むことになります。

4月26日(火) 「お茶の間の人気者」
丘さんが連続テレビドラマ小説「オランダおいね」「ノンちゃんの夢」に出演していた頃、映画会社の五社協定が無くなります。自由にオーディションを受けられるようになり、丘さんは幅広くTVスターとして活躍することになります。
また、丘さんは倉本聰さん原案の「前略おふくろ様」にも出演しています。あまりにも厳しい倉本聰さんの指導を振り返って、「まるで闘争だった」と懐かしむ丘さんです。

4月27日(水) 「マラソン女優・丘みつ子」
女優活動とは別に、マラソンにも精を出している丘みつ子さん。走るようになったのは30代の頃。小さい時に大病をしたこともあって、健康維持のために始めたそうです。
数ある運動の中からマラソンを選んだ理由は「世界中どこに行っても靴が一足あれば走れるから」だとか。世界中どこに行っても走ることを忘れなかったそうです。
トライアスロンに挑戦した時には意外な裏話も。目の前を泳いでいた選手に対して丘さんが取った、闘争心の強さを伺えるエピソードをお聴きください。

4月28日(木) 「箱根で温泉三昧」
現在は神奈川県の箱根にお住まいの丘みつ子さん。決め手は東京に近いこと、そして家々が離れているためご近所付き合いがあまりなく、気楽でいられることなんだとか。
もちろん友人の家に遊びに行くこともあります。箱根ではディナーに招待されるときに温泉はつきもので、1メートルごとに違う泉質の湯が湧いており、白濁湯や炭酸泉など、家庭で温泉めぐりできることもこの町の魅力なんだそうです。

4月29日(金) 「陶芸家はお酒飲み」
陶芸家としての顔も持つ丘みつ子さん。
最初の10年ぐらいは東京・中目黒で電気釜を使って陶芸をしていたそうですが、ある時、薪釜の魅力に取り付かれて箱根の自宅に釜を構えました。自然の造形と、釉薬を使わない焼き上がりが味わい深さを造るのだと語ります。仕上げの5日間は付きっ切りで火力の調整をするそうですが、そこにはお酒が欠かせないのだとか。

<プロフィール>
19歳の時、ミス人魚コンテストをきっかけにモデル界入り。1968年、『禁断の果実』で映画デビュー。1970年、テレビ『おらんだおいね』で人気を獲得し、以降、主にテレビドラマで活躍。主な出演作として、日本テレビ『14ヶ月』、映画『キッズリターン』などがある。そのほかに、映画『マディソン群の橋』メリル・ストリープ役などの外画の吹替えも務める。また、20年以上続けている作陶は、毎年個展を開催する。

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