終わりよければ・・・(放送終了)

12月2日~12月6日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、石井竜也さん

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12月2日(月)「子供の頃の話」
石井竜也さんは北茨城市の漁師町の生まれです。小さいころは引っ込み思案な子供で、お墓の文字を指でなぞるのが好き、家では"ふすまっこ"と呼ばれたりもしていました。お父さんの影響で絵を描くようになり、お母さんの勧めで合唱団にも入っている子供でしたが、声変りが遅かったために女の子の中で唄わされてしまい、合唱団はやめてしまいます。
石井さんの御父さんは喫茶店を営んでいました。その頃シャンソンなどを聴いていましたが、これが今に影響しているかもと石井さんは話してくれました。でも、その頃は楽器は全然弾いていなかったのだそうです。

12月3日(火) 「米米CULB誕生」
芸大を受験した石井さんは隣の人のあまりにもうまい絵を見て、自信を無くしてしまいます。そして芸術系の学校である文化学園に通うようになるのですが、ここはいろいろな分野の有名人が自分の思う事を話してくれる、アートの集大成のような自由な雰囲気の学校でした。
石井さんは文化学園で後に米米CLUBのメンバーとなる友人に出会います。初めは皆で「芸術」の名の元にモンティパイソンのような8mmビデオを撮っていたのですが、のちに楽器を持ち、ステージで演奏するグループになりました。この頃、石井さんは自分たちを面白い集団とは意識していなかったのだそうです。そして、イメージしていたのは意外なものでした。

12月4日(水)「カールスモーキー石井と石井竜也」
米米CLUBはすぐに大ヒットを飛ばすようになります。代表的な曲は"君がいるだけで"や"浪漫飛行"だけど、FUNK FUJIYAMAやCOME COME WARのようなラップの曲の方が米米CLUBらしいんだよねと、石井さんは話してくれました。
米米CLUBは結成から8年を過ぎたあたりで解散します。この理由について石井さんは、お祭りは一年中続いているわけじゃないと話してくれました。でも同時に映画の失敗などで落ち込んでいた時に、それを皆に背負わせるわけにはいかないとも考えたのだそうです。
その頃、珍しくお父さんからの電話がありました。この電話がとても石井さんの心にしみたのだそうです。

12月5日(木)「映画監督/アーティスト」 
映画監督などでも活躍している石井竜也さんですが、表現の上では、受け手を裏切るのが好きなのだそうです。ちがう目線で人間を観察し、それを表現する。いつも面白いモノ探しをしているのだそうです。石井さんはきゃりーぱみゅぱみゅさんの大ファンで一緒の画面に映れたら幸せと話してくれました。でも、電車で隣り合わせに座って、それをきゃりーさんがブログにアップしたらブログが炎上してしまったことがあったそうです。
もしかして出している光線がやばいのかも、何か裏があって、周りをつぶしてしまうタイプとおもわれているのかもと石井さんは笑って話してくれました。

12月6日(金)「今後について」 
石井竜也さんは今、故郷、北茨城の現状をいつも気にかけています。東日本大震災で大きな被害を受けたのに、関東ということで忘れられつつあるからだそうです。
そんな北茨城の生んだ偉人が岡倉天心。文明開化の時期にアジアの美術の素晴らしさを説いた人なので迫害されてしまったが、立派な人だったと石井さんは話してくれました。
石井さんの歌には空や海が良く出てきます。これは小さいころ石井さんがいつも海を眺めていて、原風景を歌っているからだそうです。あの頃、他の子どもとはちょっと変わっていたと石井さんは回想します。
石井さんはいま、「角(かど)」が好きなのだそうです。角から見ると前は広がっている。将来は"角にいるだけで"という曲を作りたいぐらい角が好きだと、石井さんは冗談を飛ばしてくれました。

<石井竜也>
85年『米米CLUB』としてデビュー。楽曲、セット、衣装など総合的にプロデュース。また映画監督としても活動の場を広げ、1994年『河童』、1996年『ACRI』を公開する。1997年、米米CLUB解散後(2006年再始動)、ソロ活動開始。大阪『HEP FIVE』の空間プロデュース、『鈴鹿8時間耐久レース』の総合プロデュースや、『愛・地球博』レギュラープログラムの総合プロデューサーを務める。2008年には森アーツセンターギャラリーにて初の大型展覧会『顔魂~KAODAMA~』を成功させ、4月からは日本テレビ『The M』にてMCを、東京ディズニーリゾート25周年イメージソングの作詞、歌唱も行うなど、その活動は留まることを知らない。