終わりよければ・・・(放送終了)

4月21日~4月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、三田村邦彦さん

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4月21日(月) 「厳格な家庭に生まれて」
俳優の三田村邦彦さんは、新潟県の新発田で生まれ、育ちました。最近は雪がほとんど降りませんが、昔は雪深かったところです。お父さんは厳格な人、作法にうるさかったけれど、意外な事に叩かれたことだけはなかったのだそうです。小さいころの三田村さんは一人で遠くに出かけるのが好き、だけどなぜか小さい時から将来は俳優になりたいという気持ちがあったと言います。テレビはまだ家庭に無い時代だったので、映画に影響されたのかなと三田村さんは話してくれました。

4月22日(火) 「東京にて俳優の道を歩む」
三田村邦彦さんは俳優志望であることを隠して受験勉強をしていました。英語の先生にだけ本音を伝えた三田村さんですが、その先生からも猛反対を受けてしまいます。そこで志望は隠して予備校に通う事にして三田村さんは上京します。東京で文学座の試験を受けますが二度落ちてしまい、結局劇団青俳に所属する事になりました。そして翌年の受験シーズンがやってきたところで隠しきれなくなり、俳優志望であることを親に手紙で伝えます。まずは勘当の手紙が、更に連れて帰るためにお母さんが迎えに来ますが、なんと三田村さんはお母さんを発車間際に列車に押し込んで故郷に帰らせてしまったのだそうです。

4月23日(水) 「25歳での映像デビュー」
演劇の世界に入った三田村さんの映像デビューは映画の主役でした。村上龍さんの芥川賞作品、「限りなく透明に近いブルー」をその村上さんが監督をして作った映画でしたが、ストーリー、そして演出に不満の三田村さんは何度も村上龍さんと喧嘩をしてしまいます。でも、今となってみると、村上さんはいい人だったんだなと三田村さんは話してくれました。実は三田村さんには1年前にも主役の話が来ていたのを断っていました。蜷川幸雄さんからは「主役を断るなんて馬鹿じゃないか」と怒られていたのだそうです。その後、当時のスタッフと再会した三田村さんは、「丸くなったねェ」と言われて、思わず笑ってしまったのだそうです。とんがっていた時期を懐かしそうに話す三田村さんでした。

4月24日(木) 「数々の人気作への出演」
三田村邦彦さんの代表作と言えば必殺仕事人ですが、実はこのドラマは三田村さんには辛いものだったそうです。お金をもらって人を殺すという事、それにどうしてもなじめず、夢の中では殺した俳優さんに刀で追い回され、三月(みつき)もした頃にはストレスから体に赤い斑点ができてしまったと三田村さんは当時を振り返ってくれました。結局、6年半続けることができたのは藤田まことさんの励ましの言葉。そして、まだ、俳優として何一つできていないという自分への戒めでした。あのころは何も知らなかったと三田村さんは言います。太陽にほえろでジプシー刑事(デカ)となった頃にはもう三田村さんは丸くなっていたのだそうです。スタッフの苦労を知ったから・・・、と、三田村さんは笑って話してくれました。

4月25日(金) 「プライベートとこれから」
三田村さんには3人の息子さんが居ますがそのうちの一人(中山麻聖(ませい)さん)はお父さんと同じ俳優さんです。最近は共演もしていますが、その際に三田村さんはご自身の若い頃を反省して、「スタッフさんには親切に、監督の依頼は断らないように」と、話しているのだそうです。ミュージカル「アニー」では三田村さんはスキンヘッドの大富豪「ウォーバックス」を演じます。頭を剃り上げるのはかまわないけれど、気が付いたらウォーバックスの年齢になっていたのがショックだと話してくれました。ロメオとジュリエットをやりたかったのに、その歳の頃には時代劇をやっていたと笑う三田村さんです。
これからの夢は、皆を集めて劇団を作って日本中を廻りたいのだそうです。蜷川幸雄さんからは、「みんな最後は喧嘩別れしている」と、水をさされたそうですが。

<三田村邦彦>
1953年、新潟県出身。中学時代から演劇に憧れ、高校卒業後、劇団青俳養成所を経て、劇団青俳に所属。1977年主演映画『限りなく透明に近いブルー』でデビュー。主な出演作にABC『必殺仕事人 シリーズ』、日本テレビ『太陽にほえろ!』、NHK『壬生の恋歌』、TBS連続ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』、テレビ朝日『将軍家光忍び旅』、フジテレビ『金曜エンタテイメント「京都祇園入り婿刑事事件簿」』、テレビ朝日『土曜ワイド劇場「殺人スタント」』など。情報・バラエティ番組にも多数出演している。