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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

12月21日~12月25日の「ラジオサロンdeくにまる」のゲストは岡崎朋美さん

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12月21日(月)「スピードスケートとの出会い」
北海道ご出身の岡崎朋美さん。スピードスケートを始めたのは小学1年生のときから。学校の授業で日常的に滑っていたそうです。小さい頃から運動神経が良かったという岡崎さんですが、スピードスケートだけは体をうまく動かせずに歯がゆい思いをしていたとか。高校入学後は、親元を離れたい気持ちもあって、釧路で下宿生活を始めます。厳しい門限や食事管理のもと、ますますスピードスケートに打ち込んでいくことになります。

12月22日(火)「名門、富士急行に入団」
高校を卒業後の進路で、OLとして社会に出ようと考えていた岡崎さん。そんな折に、スピードスケートの名門・富士急行に声をかけられます。自分の進路で悩んでいるとき、周囲からは「富士急の練習は大変でツラいよ」とたしなめられますが、そのことが岡崎さんの負けず嫌いな気持ちに火をつけたそうです。

12月23日(水)「朋美スマイル」
冬季オリンピック5大会連続出場という輝かしい記録を持つ岡崎さん。オリンピック出場を決める最初の選考会ではどうしても勝ちたいという秘められた思いを語ってくれました。
リレハンメルオリンピックが終わり、短距離だけでなく長距離走のトレーニングも始めます。同時期の大会でつぎつぎと勝てるようになり、「地元、日本でメダルを獲得したい」と、強く思うようになります。そして、迎えた長野冬季オリンピックで、華々しく3位入賞、見事銅メダルに輝きます。

12月24日(木)「富士急行からよしもとへ」
冬季オリンピック、6大会目の連続出場を目指していたと語る岡崎さん。長野オリンピックが終わり、一息ついていた時期にご主人と出会います。しかし、その出会いは偶然ではなかったようです。お二人はどのようにして結ばれたのでしょうか?また、現役引退後は富士急行の管理職を務めます。しかし、「自分の幅を広げたい」との思いから退社を決意し、その後、よしもとへ所属されます。

12月25日(金)「母になったスプリンター」
いまや一児の母である岡崎さん。今日はお子さんがスタジオに遊びに来てくれました。お子さんにはまだスピードスケートデビューをさせてないと言います。最近、富士急行の監督からスピードしてもらったお子さんの無邪気な言葉に、岡崎さんは胸をつまらせます。
また、今後の進展についてお話を伺いました。現在は若い世代の育成にも力を注いでいるそうです。指導のときは朋美スマイルとは裏腹に、厳しい鬼教官になるようです。

<プロフィール>
1971年、北海道清里町生まれ。釧路星園高校から、富士急行スケート部へ。1994年から2010年まで5大会連続でオリンピックに出場。長野五輪では日本女子短距離として初めてメダルを獲得し、「朋美スマイル」は全国的に人気となる。トリノ五輪では日本選手団主将、バンクーバー五輪開会式では日本選手団の旗手を務める。2013年12月に現役引退を表明。

12月14日~12月18日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストはデーブ大久保さん

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12月14日(月)「野球との出会い」
3歳の時にお父さまが亡くなり、女手ひとつで育てられたデーブさん。小学校に入学するときに、腹違いのお兄さんに「大きくなったら何になりたい?」と聞かれ、思わず「野球」と答えてしまい、なんとそれが野球を始めるきっかけになったそうです。野球に打ち込む一方、地元ではそうとうヤンチャでケンカも多かったとか。名門水戸商業高校に進学し野球を続けますが、残念ながら甲子園には行けずじまい。しかし、そのプレイは好評で、西武ライオンズのチーフスカウトが練習を見に来ていたそうです。

12月15日(火)「西武ライオンズ入団」
西武ライオンズから1位指名を受けたデーブさん。契約金は4,000万円と提示されましたが、その時球団側の涙を誘ったというお母様の言葉とは?入団後キツい練習が始まり、なかなか試合にも出られません。下積み時代の広岡監督や伊原コーチ、森監督との逸話も伺いました。そして、そんな西武ライオンズに話題のルーキー、同じ右打ちの長距離バッター清原選手が入団してきます。実際二人の関係はどうだったのでしょうか?当時の胸の内をお伺いしました。

12月16日(水)「巨人での大活躍」
なかなか西武ライオンズで活躍出来なかったデーブさんはトレードを訴え、そして、訴えてから3年後ジャイアンへの移籍が決まりました。元々ジャイアンツファンだったデーブさんの当時の心境を伺いました。そして、その後、憧れの長嶋茂雄さんが監督に就任されます。広島戦で三振してバットをバキバキに割って暴れていた時、長嶋監督がデーブさんに掛けた言葉とは?また「プロ野球の楽しさ」についてもたっぷりと伺いました。

12月17日(木)「現役引退」
28歳で現役引退したデーブさん。その後スポーツマネジメント会社「デーブカンパニー」を設立します。その独立を勧めてくれたのも、会社名を考えてくれたのも長嶋監督だったそうです。野球解説をしながらタレントとしても活動していたデーブさんは、渡辺久信監督からの誘いで、西武ライオンズのコーチになりますが、そこにはかなりの葛藤があったようです。コーチ就任後、頑張ってきたデーブさんですが、再びユニフォームを脱ぐことになります。当時の心境や野球に対する思いをお話しくださいました。

12月18日(金)「楽天の監督とこれからのデーブさん」
もう二度とプロ野球界に戻ることはないと思っていましたが、東北楽天ゴールデンイーグルスから誘いを受け、2012年1軍バッティングコーチに就任します。2軍監督を経て2015年1軍監督を務めました。会社組織のトップである楽天三木谷会長との関係性とはどのようなものだったのでしょうか?結局、監督を辞任しますが、オファーがあればまたユニフォームを着たいと語るデーブさん。来年開店を予定している居酒屋や野球教室など、デーブさんの活躍のフィールドはまだまだ広がりそうです。

<プロフィール>
'67年、茨城県生まれ。水戸商から豪打の捕手として'85年ドラフト1位で西武入団。'92年、巨人へトレード移籍。'95年、現役引退。引退後はタレント、プロゴルファー、解説者等を経て'08年、西武一軍打撃コーチに就任。'12年楽天一軍打撃コーチ、'13年、二軍監督を経て'14年10月、一軍監督に就任。しかし、'15年10月、成績低迷の責任を取り退任。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオ サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは、MAX。
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12月14日(月)「TORA TORA TORA」
MAXのメンバーは皆沖縄出身。デビューしてCDを2枚出しますが全然売れません。もともと企画もので始まった単発のグループだったからと当時を振り返るMAXのメンバーですが、次も売れなかったら沖縄に帰すぞと事務所から言われたのはショックだったようです。そして3枚目の「TORA TORA TORA」が大ヒット、これは大事なチャンスをつかんだ一曲となったのでした。
この時からはじまったMAXのメンバーの東京暮らしはもう20年。でも未だにみんな東京の生活に慣れることができません。仲良しのMAXは苦手な物も同じでした。

12月15日(火)「Give me a shake」
Give me a shakeはMAX初のランキングトップ曲。オリコンで1位になった時にはスターになった気分だった、そしてこの曲のおかげで紅白にも出られたと話す3人です。
それまでのMAXメンバーは全員一緒の生活。シャワーや電話が1つしかなくて苦労したと話すメンバーですが、とても楽しそうに当時の生活を振り返ってくれました。曲がヒットした事で別々の部屋に住むようになりますが、それでも同じマンションの別の部屋。事務所の都合もあったようですが、仲良しのメンバーにとってはこれで良かったようです。

12月16日(水)「MAXメドレー」 
Give me a shakeのヒット以来、MAXは絶好調。実に13曲連続でベストテン入りを果たします。そこで今回のサロンdeくにまるでは趣向を変えて、当時のMAXの3曲をメドレー仕立てにしてみました。
銀河の誓いからGrace of my heart そしてRide on time。MAXのライブでも、この曲順は珍しいのだそうです。今回はパーソナリティのリクエストでの構成です。

12月17日(木)「一緒に」 
"一緒に"は、MAX初のバラード曲。踊らない曲だったのでステージではどう表現したら良いか迷ったし、ファンの反応もわからなかったのだそうです。
しかもこの曲を出すタイミングでミーナさんがMAXから離れる事になりました。歌詞のストーリーと実際のストーリーが重なってしまい、ずっとMAXとして活動できると思っていたメンバーは途方に暮れてしまいましたが、一番つらかったのは当人のミーナさん。今日は当時の心境を話してくれました。

12月18日(金)「ニューアルバム」
MAXから離れたミーナさんは、沖縄で普通に生活していました。でも、MAXの曲を聞くのはとてもつらかったと当時を振り返るミーナさんです。
もう一度メンバーに戻りたいとミーナさんが思ったのは5年目の事。MAXのメンバーに手紙を書き、マネージャーさんに託しますが、ここにはちょっと手違いが。今となっては笑い話になる思い出です。
まずは25周年、目標は還暦MAXだそうです。ずっと変わらないでいたいと話してくれましたが、ナナさん、リナさんはあることだけは経験したいのだそうです。それは・・・・。

<プロフィール>
1995年、安室奈美恵も在籍した沖縄出身のグループ"スーパーモンキーズ"としてデビュー後、安室のソロ活動開始に伴い、ナナ、ミーナ、レイナ、リナの4人で"MAX"を結成。シングル「恋するヴェルファーレダンス~サタデー・ナイト」でデビュー。ヒット曲を連発し、歌唱力とダンスを武器に活躍。その後、メンバーチェンジを経てNANA、MINA、LINAの3人体制でのシングル「Tacata'」(2013年)は中毒性のあるフレーズで話題に。2015年にはデビュー20周年を迎え、精力的に活動中。

12月7日~12月11日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは歌手の辺見マリさん

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12月7日(月)『君、歌は歌えるの?」
4歳からバレエをやっていた辺見さん。京都会館で大好きな布施明さんのコンサートを見に行って、楽屋に忍び込みます。京都会館はよくバレエで出演していたので顔パス。そうしたら布施さんの関係者から「君、歌は歌えるの?」と聞かれます。これが芸能界入りのきっかけになりました。

12月8日(火)『大ヒット曲「経験」』
18歳でレコーディング、19歳でデビューした辺見さん。デビュー曲は『ダニエル・モナムール』かわいく、セクシーな曲です。吐息交じりの甘い声は、セクシーすぎて放送できないんじゃないかということで録音しなおしたそうです。そしてそのあと、あの大ヒット曲「経験」。実はタイトルは全く違うのもだったのです。そんな秘密を紹介してくださいます。

12月9日(水)『結婚、そして洗脳騒動』
21歳で結婚した辺見さん、2人のお子様に恵まれます。その後、30代半ばである宗教関連の人たちに洗脳されていきます。自分も知らないようなことを言い当てられたりしていつのまにかどんどん傾倒していったご自分を振り返ってお話しいただきました。その洗脳から脱することができたきっかけは 辺見さんの大好きな『歌』でした。

12月10日(木)『親離れ、子離れ』
娘である辺見えみりさんとの関係はとても良好。孫との時間も最高。よく考えると親離れ、子離れしていないのは自分であったと気づきます。お孫さんを寝付かせるときに、子守唄を歌うのですが、それがよくある歌ではなく、ミュージカルの曲とか、ディナーショーで歌ううな曲が多いようです。

12月11日(金)『ベイビーストップ』
ヒット曲『経験』、ステージで歌うときは、なるべく当時のアレンジで歌うようにしているのだそうです。いろんなアレンジをしたこともあったのですが、やはり、オリジナルがいいのだそうです。実は過去にジャズバージョンの「経験」を録音したことがあるのだそうですが「やめて」は『ベイビーストップ』というのだそうです。今やっていてて楽しい同窓会コンサートというイベントについてもお話しいただいています。

<プロフィール>
1950年10月5日生まれ。京都府出身。中学3年の時、渡辺プロ主催・新人ヒットパレードでスカウトされる。デビュー決定後、母からスペインの血が混じっていることを知らされ、フラメンコダンスを習うことに。1969年コロムビアより辺見マリとして「ダニエル・モナムール」でデビュー、2作目「経験」が大ヒットし、セクシー歌謡路線が評判に。他の曲に「めまい」「私生活」等。歌手・俳優の西郷輝彦と結婚したが、後に離婚。娘にはタレントの辺見えみりがいる。

11月30日~12月4日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは野口五郎さん

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11月30日(月)「 青いリンゴ 」
今週は、毎日一曲ずつ野口五郎さんの曲をおかけして、その曲にまつわるエピソードを伺っていきます。
月曜日は、「青いリンゴ」。
演歌でデビューした野口五郎さんはセカンドシングルであるこの曲でポップス路線に転向し、これが最初のヒットとなり
ました。しかし、演歌とポップスの違いいから、レコーディングでは「リズムに乗れない...」と、戸惑ったそうです。

12月01日(火)「 甘い生活 」
火曜日、本日の一曲は、オリコンで初めて1位を獲得した「甘い生活」。
当時は数多くの音楽番組があり、この頃の野口五郎さんは半ば気を失いながら各番組に出演していたそうです。
そんな状態ならば音楽が嫌いになっても仕方がないと思うのですが、野口五郎さんの空き時間の楽しみは何と...!

12月02日(水)「 私鉄沿線 」 
水曜日は、野口五郎さんを代表する一曲でもある「私鉄沿線」。イントロに注目です。
この曲を聴きながら、二人が、「改札口で待つことがなくなった現代」について語り合います。

12月03日(木)「 グッド・ラック 」
木曜日は、邦丸さんのリクエストで「グッド・ラック」をおかけします。
お得意のダジャレも飛び出して絶好調の野口五郎さんだったのですが、歌い方に関する邦丸さんの細かい指摘に動揺を隠せず、「今度からこの曲、歌いにくくなるなぁ」と愚痴ることに...。

12月04日(金)「 再会タイムマシン  」
最終日は、今年の夏にリリースされた最新シングル「再会タイムマシン」にまつわるエピソード。
歌入れは野口五郎さんのプライベートスタジオで、深夜、一人っきりで行ったらしいのですが、この模様が怪しすぎて...ご自身では「俺は変態だから」と仰っておりました(笑)

<プロフィール>
1956年、岐阜県美濃市生まれ。1971年、15歳で歌手デビュー。セカンドシングル「青いリンゴ」がスマッシュヒットし、西城秀樹、郷ひろみと「新御三家」と呼ばれ大人気に。「甘い生活」「私鉄沿線」で2作品連続オリコン週間チャートの1位を獲得。一方、「カックラキン大放送!!」「天才・たけしの元気が出るテレビ」(ともに日本テレビ系)などのバラエティ番組などでも活躍。

11月23日~11月27日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは寺田恵子さん

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11月23日(月)「SHOW-YA誕生」
SHOW-YAのボーカル、寺田恵子さんはカルメン・マキさんの大ファン。マキさんの後を継げるのは自分だけだと信じて、コピーバンドから活動を始めました。SHOW-YAに加入したきっかけは勧誘されたから。3回断った寺田さんですが、4回目に直接断りに行ったら、そこに居たのは同じバイト先の人。この偶然の出会いで断れなくなってしまった寺田さんでした。
当時、このバンドは違う名前でしたが、なかなか芽が出ません。名前が悪いからじゃないか?という話になり決めた名前がSHOW-YA。居酒屋から名前をもらったのですが、後には、この名前が縁で実際に一日女将を体験する事になったのだそうです。

11月24日(火)「デビューのきっかけ」
SHOW-YAは実力を認められるようなバンドになりましたが、なぜかデビューの話はきません。見かねた楽器屋さんが事務所を作ってくれてやっとデビューしますが、やはり全然売れません。SHOW-YAの評価は高いのに売れないのはボーカルの自分のせいだと、寺田さんは落ち込んだのでした。そこでハードロック路線で行くことを決めビジュアルを考えているときに、下着で歌ったらどうだろうを思い立ちます。下着に鋲を打ち、これをステージ衣装としたのでした。後に「限界ラバース」がヒットし、SHOW-YAは一躍人気バンドになったのでしたが、これにはカルメン・マキさんからの貴重な一言もありました。

11月25日(水)「SHOW-YAからの脱退」
せっかく売れ始めたSHOW-YAから寺田恵子さんは脱退してしまいます。原点に戻りたいゼロになりたいと突然思ったと話す寺田さんです。そして半年間家事手伝いをした寺田さんは普通に就職しようとして、履歴書に書くべき職歴に悩んでしまいます。そんな折、友人とカラオケで久しぶりに歌を歌った寺田さんの元に、タイミング良く復帰のお誘いが掛かります。唄う楽しさを思い出した寺田さんはソロの歌い手として復帰することを決意し、今までとは違う形で再出発するためにアコースティックギターの練習を始めます。この時、寺田さんには、ある想いがありました。雪のニューヨークで・・・、空想の話です。

11月26日(木)「再結成して気が付いたこと」
寺田恵子さんはだんだん、またSHOW-YAの活動に戻りたくなります。しかし当然の事ながら昔のメンバーは許してくれません。15周年のときに5年掛けてメンバーを説得しようと決め、20周年の時に寺田恵子ボーカルのSHOW-YAを再結成しました。はっきりしないメンバーも居たので、逆に切れてみたら「やらないと言っているわけじゃない・・・」と、再結成がきまったそうです。SHOW-YAは普通とは違うバンドだと寺田さんは言います。奇跡のバンドなのだそうです。長い時を経ての再演奏をした時も、その間の日々が昨日と今日の間の事のように感じられたと寺田さんは話してくれました。

11月27日(金)「新曲 Lock Love」
SHOW-YAを結成した頃の合言葉は「女なめんなよ!」、でも、今は「熟女なめんなよ!」に変わったと寺田さんは話します。新曲 Lock Loveは作詞が秋元康さん。良い話よりも攻めの詩が欲しかった寺田さんは、歌詞を変えてもらうために秋元さんにメールを送ります。その後も何度も詩と曲のキャッチボールをして新曲を完成させると、NAONのYAON(ナオンの野音)に出ているアーティストもコーラスに参加してくれました。結婚はしてないけど今は充分幸せと話す寺田さんです。

<プロフィール>
1963年生まれ。高校1年生のとき、バンド活動を開始し、当時から注目される。 1985年、女性だけのロックグループ『SHOW-YA』のヴォーカリストとしてデビュー。8thシングル「限界LOVERS」は30万枚突破のロングセラーを記録。

11月16日~11月20日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは松本伊代さん

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11月16日(月) 「松本伊代、デビュー」
ことし50歳を迎えた松本伊代さん。
ピンクレディやキャンディーズの振り付けを覚えていた松本伊代さんは、小さいころから歌手への憧れを持っていました。
デビューのきっかけは、15歳の時、原宿でのスカウトでした。
あっという間にデビューしたものの、演技には苦労します。
「2年間休みはない」と言われたほどのハードなスケジュールでしたが、当の本人はあっけらかんと当時を振り返ります。

11月17日(火) 「センチメンタル・ジャーニー」
芸能界入りからすぐにアイドル歌手としてのデビューが決まります。
しかし、ボイストレーニングの時、鼻声コンプレックスとぶつかりました。
「鼻声は治せる」と言われたものの、結局、そのままの声を残すことに。
「伊代はまだ16だから」というフレーズとともに大ヒットします。
しかし、大ヒットしたが故に、この曲を歌いたくない時期もありました。
再び歌えるようになった理由とは...。

11月18日(水) 「ヒロミさんとの出会い」
旦那様、ヒロミさんとの出会いは、フジテレビで深夜に放送されていた『オールナイトフジ』。
「B21スペシャルの真ん中の人、かっこいいなぁ」と以前から思っていた松本伊代さんは、
自分から声をかけていきます。
出会った頃はバラエティ番組への姿勢など、よく怒られていたそうですが、ヒロミさんの誠実なところに惹かれていきました。
そして、プロポーズの言葉は...。

11月19日(木) 「夫婦円満の秘訣」
結婚から20年以上経ったヒロミさん松本伊代さん夫妻。
昔よりコミュニケーションをとるようになり、ラブラブ度が増しているそうです。
それでも、ケンカすることもあります。
ヒロミさんは怒ると黙ってしまうため、その理由を探すのに苦労するとのこと。
そして、ヒロミさんといえば多趣味なことでも知られていますが、最近はDIYを一緒に楽しんでいるそうです。
松本さんがはまっているのは、なんと「しっくい塗」です。

11月20日(金) 「今とこれから」
デビュー同期の皆さんと楽しい付き合いのある松本伊代さん。
話題は昔話ではなく、今、お互いが気にしていること。
1月には柏原芳恵さん、早見優さんとのコンサートも予定されています。
コンサートでは、古くからのファンが今も自分を応援してくれることに感動するそうです。
目指すのは、今も現役で歌い続ける先輩たち。
そして、個人的には手先を使った趣味を始めたいとおっしゃっていました。

<プロフィール>
1981年、ビクター音楽産業株式会社より、シングル『センチメンタルジャーニー』にてデビュー。
大ヒットを記録、日本レコード大賞など各新人賞を総ナメに。
同期の中森明菜、堀ちえみ、小泉今日子、早見優らとともにトップアイドルとなる。
以後、映画・テレビドラマ・CM・バラエティ番組などで活躍する。
2005年には、早見優・堀ちえみとともにママドルユニット『キューティー★マミー』を結成し、CDをリリース。
デビュー作『センチメンタルジャーニー』
代表作品日本テレビ『夜逃げ屋本舗』 / 映画『バカヤロー3』 / 舞台『LOVE LETTERS』

11月9日~11月13日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは落語家の柳家花緑さん

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11月9日(月)「花緑さんの子供時代」
戦後の落語界で最年少となる22歳で真打ち昇進した柳家花緑さん。お祖父様は人間国宝の五代目柳家小さんさん。母親は女優を目指したこともあり芸能に素養のある方で、叔父は六代目柳家小さんさんという芸能の家庭で育ちました。両親が離婚したため、お祖父様が父親代わりだったそうです。花緑さんは小学校6年生の時に落語家になることを決意したそうですが、それにはお母様の思惑があったそうです。

11月10日(火)「修行時代」
花緑さんは中学を卒業すると高校に行かず、前座生活が始まりました。寄席にも通うようになりましたが、その時すでにいくつも噺が出来たそうです。祖父である柳家小さん師匠の稽古は型の口移しから始まり「間」を重視したものでした。2年半の前座生活を経て、二つ目にスピード昇進すると自分の時間が出来るようになり、色々考えることも多くなったそうです。その頃「柳家小さんの孫」と言われることをどのように感じていたのでしょうか?

11月11日(水)「真打ち昇進そして苦悩」
落語界のサラブレットとして順風満帆だったはずの花緑さん。「柳家小さんの孫」と言われることが、どんどん辛くなってきます。22歳で真打ちに昇進されますが、プレッシャーも重なり精神状態は最悪だったそうです。躁鬱のような状態に苦しみ、自由になりたくて初めての一人暮らしを始めました。高座に上がることも苦痛になり、自殺したいと思うこともあったそうです。しかし、その後TVに出る機会が増え、すこしずつ花緑さんは変わっていきます。

11月12日(木)「新たなるチャレンジ」
花緑さんは洋服を着て椅子に座ってする新作落語にチャレンジしています。
古典落語と新作落語の二足のわらじと言いますが、それにはどのような思いが込められているのでしょうか?また、落語は冬の時代もあれば、ブームになった時代もあります。花緑さんはそれをどう感じていらっしゃるのか、お祖父様の小さん師匠が語っていた言葉を交えつつ、お話頂きました。

11月13日(金)「お芝居とこれからの花緑さん」
花緑さんはお芝居にも積極的に出演しています。芝居はひとりで完結する落語と違い、共演者との掛け合いや、立ち上がったり、駈け出したりなど、よりリアルな世界が楽しくて仕方ないそうです。また、気持ちのありようなど、落語との違いも話してくださいました。40歳代半ばになり、弟子も育てたいという思いもあるそうですが、なにを言うかよりどうあるか。お祖父様の背中を見て育ってきたからこその思いがそこにはあるようですが・・・。

<プロフィール>
1987年3月 中学卒業後、祖父・五代目柳家小さんに入門。前座名 九太郎。
1989年9月 二ツ目昇進。小緑と改名。
1994年 戦後最年少の22歳で真打昇進。柳家花緑と改名。
2003年3月に落語界の活性化を目的として結成された「六人の会」(春風亭小朝、笑福亭鶴瓶、林家正蔵、春風亭昇太、立川志の輔) のメンバー。

11月2日~11月6日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは教育評論家の尾木直樹さん

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11月2日(月)「受験失敗」 
気象予報官だった父親の影響で、子供のころから天気や地震には詳しかった尾木ママ。地震が起きたらまずは揺れの時間や方角を確認する癖がついてしまったそうです。高校受験に高熱で失敗。しかし何とか私立の高校に滑り込みます。入学後、体罰をする教師が許せず、「先生、それは憲法違反です!」と毅然と立ち向かうのですが...

11月3日(火)「複雑な思いの高校時代」 
親の転勤により転校することに。編入試験を受けるのですが前の学校の体罰教師が成績に赤点(落第点)を付けたため、受験資格がないといわれてしまいます。そこで、新たな学校でもう一度1年生からやり直します。ところが同じことを2度やるのが結構苦痛で、授業以外の学校行事などには一切でなくなってしまうのでした。

11月4日(水)「大学サークルが面白い」
早稲田大学で農村問題研究会というサークルに入ります。世の中は学生運動が盛んで、なかなか授業も行われない時代でした。サークル活動は農村の調査や分析をして提言をまとめるという活動でしたが、やってみると実に面白い。今の尾木ママの研究活動にも大変役立っているそうです。学生時代に出会われた奥様とのなれそめについてもお話しいただいています。

11月5日(木)「教師になって~オネェ言葉のルーツ~」 
教師となり、生徒たちとのコミュニケーションに交換ノートを始めます。いろいろ決め事があり、学校では読まない、家で返事を相談と同じ分量書くなどして信頼関係を気付いてきました。そうやっているうちに女生徒たちの言葉遣いが移ってしまい、今のキャラクターの基礎が出来上がりました。今の教師たちが抱える課題について提言もしていただきました。

11月6日(金)「自分の子育てはしくじった」
よく墓参りや仏壇を拝む子供たちは、優しい心が養われているという研究結果を発表した尾木ママ。その調査内容についてお話しいただいています。子育ての専門家でありながら、自分の子育てについては『しくじった』そうです。特に口がうまい親は、いい子症候群に気を付けたほうがいいとアドバイス。自分が本などに書いておきながら実は自分がやってしまっていたという反省の弁です。

<プロフィール>
1947年滋賀県生まれ。早稲田大学卒業後、私立海城高校、東京都公立中学校教師として、22年間子どもを主役としたユニークで創造的な教育実践を展開、その後大学教員に転身。
2003年に法政大学キャリアデザイン学部教授に着任。2012年4月からは法政大学教職課程センター長・教授に就任。主宰する臨床教育研究所「虹」では、所長として子育てと教育、メディア問題等に関する現場に密着した調査・研究に精力的に取り組んでいる。

10月26日~10月30日の「ラジオ サロンdeくにまる」のゲストは仲井戸麗市(CHABO)さん

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10月26日(月)「デビューのきっかけ」
仲井戸麗市さんは新宿生まれ。鶏のチャボが自分に似ているので、後にCHABOを名乗る仲井戸さんですが、なんと小さい時は野球少年でした。それが変わったのはビートルズの曲に出会ってから。レコードを買い、ギターを習い始めた仲井戸さんですが、3年してからクラシックギターを習っても何にもならない事に気が付いたのだそうです。
渋谷で仲井戸さんは加奈崎さんに出会い、古井戸を結成。本来の方向性では無いものの「さなえちゃん」というヒット曲も生まれます。この方向性の事が葛藤となり、後にいろいろな事件をおこしてしまうのですが、CHABOさんはその頃やらかした事を懐かしそうに話してくれました。

10月27日(火)「RCサクセションに加入」
忌野清志郎さんとの出会いは意外と古く渋谷で唄い始めた頃でした。そして1979年にCHABOさんはRCサクセションに加入します。
忌野さんはリズムアンドブルースをやりたくて、でも方向性が良くわからず試行錯誤の状態でしたが、だんだん形ができてきます。忌野さんは当時新婚だった仲井戸さんの家に良く泊りに来て、ビールを飲みながら音楽を作っていました。
名曲、雨上がりの夜空に では、周囲の勧めでレコーディングするときに歌詞を変えたのだそうですが、これは今も後悔していると話すCHABOさんです。

10月28日(水)「忌野清志郎さん」
RCサクセションはヒット曲こそ無いけれど記憶してもらえるバンド、ぶっ飛んでいてキラキラしていたと当時を語るCHABOさんは、忌野清志郎さんの病気を告白されてからはどんなふうに接していいかわからなかったと当時を思い出してくれました。
清志郎さんの葬儀で、CHABOさんは清志郎さんのギターを高々と掲げてみせます。忌野さんの楽器係の青年がギターをわざわざ渡してくれたのだそうで、その思いが熱かったと話してくれました。
思い出話がちょっと辛そうなCHABOですが、新曲、僕らのビックピンクでは、その清志郎さんとの思い出を唄っています。

10月29日(木)「デビュー45周年」
デビューから45周年の感想を訊かれたCHABOさんは、40代にしてはじめて、バンドマンを職業と意識したのだそうです。そして、肉体と精神は反比例するという言葉が気になっているCHABOさんは、肉体が衰えたら精神がぶっ飛んでいかないといけないと話してくれました。
自分が重たい子供だったので、19ぐらいからCHABOとして生きてこられたのがとてもよかった。でも、ティーンエイジャーの悩みは歳を取っても解決しないと、CHABOさんは笑いながら話します。

10月30日(金)「これからについて」
CHABOさんは人づきあいが苦手でしたが、最近は若い人と良く会っているのだそうです。良い刺激になると話すCHABOさんです。
また、CHABOさんにとってギターはパスポートであり、社会との接点でもあるのだそうです。これからも可能な限り少しでも長くギターを弾いていたい、少しでもライブをやりたい、曲を作りたいと話してくれました。ギターから一生離れられないであろうCHABOさんでした。

<プロフィール>
1950年、東京都出身。1970年、古井戸でデビュー。79年忌野清志郎が率いるRCサクセションに加入。1990年、RCサクセション無期限活動停止を機に本格的なソロ活動を展開。91年に土屋公平とのユニット・麗蘭(れいらん)を始動。毎年年末には、京都・磔磔でLIVEを行っている。執筆書「だんだんわかった」「1枚のレコードから」「ロックの感受性」絵本「猫の時間」(写真家おおくぼひさこさんとの共作)を発表。

10月19日~10月23日の「ラジオ サロン de くにまる」のゲストは浅田次郎さん

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10月19日(月)「浅田次郎の発想力」
まったく違う毛色の作品を数多く世に出されている浅田次郎さんは、作品ごとに別人が書いたように見えることを心がけて執筆されているそうです。
2つの作品を同時進行で手掛けることもあるそうですが、その切り替えは、まるで隣の部屋に入るようなもので、苦労はないとおっしゃっていました。
そして、執筆中は主人公になりきるものの、進む筆にブレーキをかけることも大事とのこと。

10月20日(火)「浅田作品の映像化」
高倉健さん主演の「鉄道員」、水谷豊さん主演の「王妃の館」など、多くの作品が映像化されています。
浅田次郎さんはそういった作品について、原作と比較してはいけない、預けたら文句は言わないというスタンスをとっています。
基本的には映像をご覧になっているそうですが、中には「見ない方がいい」というものも・・・。
そして、清朝の末期を描いた「蒼穹の昴」。
中国の現地取材はまったく行わずに完成させたそうです。
浅田さんが考える、現地取材の意義と怖さとは・・・。

10月21日(水)「執筆スタイルと便利になって失われたもの」
今でも原稿用紙に万年筆で原稿を書いている浅田次郎さん。
このスタイルは新人作家時代の名残りだそうです。
情報端末の進化は、執筆活動にも、旅行にも、便利さをもたらしました。
しかし、浅田さんは便利になることで、失われたものがあり、それを考えないといけないとおっしゃいます。
未知の探求であるはずの旅行から、非日常や感動が奪われてしまったと分析されていました。

10月22日(木)「浅田さんとギャンブル」
馬主でもあり、大の競馬好き・カジノ好きの浅田次郎さん。
馬券を買うときは必ず競馬場に足を運ぶこだわりぶりです。
また、カジノは、よくラスベガスにいらっしゃるそうです。
ルーレットやブラックジャック、そしてスロットを楽しまれていますが、それ以外のエンターテインメントからも刺激を受けているとおっしゃっていました。
一方、日本にカジノは不要と考えている浅田さん。
たとえカジノができても、行かないそうです。その理由は...面が割れるのが恥ずかしいから。

10月23日(金)「新作と外から見た日本」
21日(水)に発売された新作は、アメリカ人の男性が日本を訪れる物語。
書こうと思った理由は、「日本人が日本を失っているから」
アメリカの目から観察した日本を書ききたかったそうです。
コンビニエンスストア、新幹線。
日本では当然と思っていることが外から見るとそうではないことが多いと浅田次郎さんはおっしゃいます。
そして、浅田さんが書きたいと思いつつも、なかなか書けないでいるのは、恋愛小説だそうです。その理由とは...。

<プロフィール>
1951年東京都生まれ。95年『地下鉄に乗って』で吉川英治文学新人賞、97年『鉄道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、06年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞・司馬遼太郎賞、08年『中原の虹』で吉川英治文学賞、10年『終わらざる夏』で毎日出版文化賞をそれぞれ受賞。

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そして、今週はSPウィークということで、「サロンdeくにまる 特別編」もあります!ゲストは、渡辺美里さん。 watanabe_kunimaru.jpg

10月19日(月)「渡辺美里さんの 『 今 』」
何と!デビュー30周年。記念アルバムも発売し、現在、ツアーで47都道府県をまわるなど、精力的な活動を続ける渡辺美里さん。初日は、そんな渡辺美里さんの近況をお聞きしているうちに、アッという間に時間が過ぎてしまいました。

10月20日(火)「ファーストアルバム 『 eyes 』」
10歳で歌手になることを決めたという渡辺美里さん。
火曜日は、「ミスセブンティーンコンテスト」で歌唱賞を受賞してからデビューするまでを振り返っていただきました。
「ミスセブンティーンコンテストはアイドル(が受けるオーディション)でしょ?」という、邦丸さんの失礼な発言に渡辺美里さんの表情が!(笑)
おかけする曲「eyes」は、12月に発売される「リマスター盤」からです。 お聴き逃しなく!

10月21日(水)「雨の西武球場」 
渡辺美里さんといえば「西武球場ライヴ」を思い浮かべるリスナーさんも多いのではないでしょうか?水曜日は、20年間続けた西武球場ライヴの中から、1989年「雨の西武球場」にスポットを当てます。
編集を担当した番組スッタフは、その年の夏、リアルタイムでびしょ濡れになり、号泣していたそうです。

10月22日(木)「『 やりたいこと 』 を 『 やる 』」
木曜日は、コーナー冒頭から渡辺美里さんが邦丸さんに先制パンチを浴びせます。 邦丸さん、K.O.寸前です。
後半は、渡辺美里さんがさまざまなことにチャレンジし続ける理由について伺っています。

10月23日(金)「最新アルバム 『 オーディナリー・ライフ 』」
渡辺美里さんの最新アルバム『オーディナリー・ライフ』。
最終日は、そのアルバムタイトルに込めた想いについて語っていただきました。
来年の年明けまで続くツアーの情報もありますよ!

<プロフィール>
1985年デビュー。翌年「My Revolution」がチャート1位となり、同年8月、女性ソロシンガーとして日本初となるスタジアム公演を、西武スタジアムにて成功させる。以降20年連続公演という前人未到の記録を達成し、渡辺美里の活動の中でも代名詞的な存在となる。
2005年西武スタジアムに終止符を打った翌年、2006年からは、毎年「美里祭り」と題して様々な都市でLIVEが開催されている。
渡辺美里の活動は音楽だけにとどまらず、ラジオのパーソナリティー、ナレーション、ミュージカルなどにも挑戦している。

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