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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

1月5日~1月9日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、小川菜摘さん

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1月5日(月) 「さみしがり屋の子供のころ」
実は一人っ子の小川さん、家で一人ではつまらない。友達を家に連れ込んだり、遊びに行ったりと、とにかく一人でいることを避けていた子供時代。ローラースケート、テニス、アイドルの追っかけいろいろやったが長続きはせず飽きっぽかったと振り返ります。でも映画を見るのと歌舞伎を見るのは続いていたそうです。

1月6日(火) 「文学座の研究生」
中村雅俊さん主演のドラマ ゆうひが丘の総理大臣 に出演することになった小川さん。ドラマ終了後、女優を志します。ところが自分はずぶの素人であることを自覚、文学座の研究生の試験を受けます。奇跡的に合格し、なんと同期には渡辺徹さんがいたそうです。その時の経験が今につながると振り返っています。

1月7日(水) 「浜田さんとの出会い」
ご主人の浜田雅功との出会いから結婚までのお話です。自分の両親に浜田さんを逢せた時、
浜田さんの態度はどうだったのでしょうか?その時のエピソードを伺っています

1月8日(木) 「家族のこと」
浜田さんの家庭での姿、とにかく忙しい夫がたまに帰ってきたとき、子供の一言に衝撃を受けます。妻として、母親としての思い出です。そして子育ての間、封印していた演劇についての思い、今ひと段落して、再開しようとしています。

1月9日(金) 「舞台女優 小川菜摘」
俳優の深沢敦さんがトークに加わります。深沢さんプロデュースの舞台「裏スジ」についてのお話です。実は同い年というお二人。なぜ深沢さんは小川さんを起用しようと考えたのでしょうか?これからの活動についての意気込みも聞いています。

<プロフィール>
1962年、東京都出身。
★主な代表作
【映画】わたしの優しくない先輩(10)
【ドラマ】EX「広域警察」中西みどり役、TX「14才」、NTV「ゆうひが丘の総理大臣」 
【書籍】「小川菜摘のすっぴん料理~浜田ファミリーの味ができるまで」

12月29日~1月1日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、濱田マリさん

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12月29日(月) 「個性的だった子供がモダチョキへ...」
子供の頃は目立ちたがり屋で、それが学校の友だちに認めらないという時期を過ごしたマリさん。辛かった反面、みんなと一緒じゃないという気持ち良さもあったそうです。音楽の目覚めは高校2年生くらいの時。「モダンチョキチョキズ」という伝説のパフォーマンス集団に参加したマリさん。今日はモダチョキの話も伺いました。

12月30日(火) 「恵まれた女優デビュー」
バラエティ番組に進出したマリさん。CMにも出演し、どんどん自分の世界が広がっていきます。1997年にモダンチョキチョキズが解散したあとは、芝居にのめり込み女優の道を歩み始めます。初ドラマで憧れの明石家さんまさんの恋人役を演じ、とても恵まれた環境での女優デビューとなりました。

12月31日(水) 「女優への想い」
台本を読むのが大好きというマリさん。
マリさんにとって演じるとはどういうことなのでしょうか?
2004年に公開された映画「血と骨」ではビートたけしさんの愛人役を演じられます。現場でのたけしさんの「やさしさ」についても語ってくださいました。

1月1日(木) 「今後の活動と趣味のお話」
現在NHKの朝の連続テレビ小説「マッサン」に出演中です。
「キャサリン」という役についてどう思っているのでしょう?
また、1月3日から始まる舞台「菊次郎とさき」に出演されます。これはビートたけしさんのご両親が主人公のモデルになっているそうです。
そんなマリさんは今「ボルダリング」にハマっているそうです。ボルダリングの魅力とは何でしょうか?

<プロフィール>
1968年、兵庫県出身。
歌手、ナレーター、タレント、女優として幅広く活躍。

12月22日~12月26日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、杏里さん

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12月22日(月)「オリビアを聴きながらでデビュー」
厳格だけど優しいお父さん、面倒見の良いお母さんに育てられた杏里さんは、とても音楽好きな少女でした。お兄さんたちのレコードを聴きながら、採譜をするようにピアノを弾いていたのだそうです。高校1年の時にはもう、杏里さんにデビューの話が舞い込んでいました。それもいきなりアルバムでのデビュー!、ロサンゼルスのスタジオを借りての録音です。気がつけば世界の一流アーティストに囲まれてのレコーディングが始まっていたのでした。

12月24日(水)「キャッツアイ、そして多忙な毎日」 
杏里という名前は、レコード会社の社長さんが娘さんに用意していた名前なのだそうです。アメリカでも通用する名前を頂いたと杏里さんは話します。キャッツアイの主題歌を唄うときはちょっと戸惑ったのだそうです。当時はまだシンガーがアニメの曲を歌う事は無い時代でした。でも、歌ってみるとうまく杏里さんにはまり、この曲は大ヒットしました。その頃から杏里さんは自分で曲をプロデュースするようになります。ヒット曲が続き忙しい毎日になりますが、友人にはできるだけ会うようにしていた杏里さんでした。

12月25日(木)「歌手として」
杏里さんのコンサートは縁結びコンサート。スタッフの縁結びも、ファン同士の縁結びも。ファン同士が結ばれて子供も曲を覚えてくれる、世代を超えて受け入れられることはうれしいと話す杏里さんです。そんな杏里さんが大事にしているものは喉と人間関係。特に喉については、まったく声を出さない日を決めているのだそうです。オフは無い。何をやってもどこかで仕事に結び付けてしまうと話す杏里さんに「貧乏性でしょう」と訊いてみたところ、全くその通りと答えてくれました。

12月26日(金)「今後について」
杏里さんにとってアメリカは、エンタテインメントの勉強場所であり情報を受け取れる場所です。曲を作っている時はピアノかコンピュータを使います。いつも一人で作曲するのだそうですが、のめりこんでしまうので時計が欠かせないのだそうです。作曲している姿は人に見せたくないと杏里さんは話します。今後の目標を伺ったところ、ペースを崩さぬように、そしてライブを欠かさないようにしたいと話しくれました。ずっと自分の音楽を大切にしたい杏里さんです。

<プロフィール>
'78年に「オリビアを聴きながら」でデビュー。その後、アニメ『キャッツ♥アイ』の主題歌「CAT'S EYE」がオリコン1位となる大ヒット。'89年にリリースしたアルバム『CIRCUIT OF RAINBOW』では第31回日本レコード大賞のアルバム大賞を受賞。その後もコンスタントに作品を発表。音楽シーンで常にトップを走り続けている。現在は、日本とL.A.を拠点として精力的に活動を行っている。

12月15日~12月19日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、山寺宏一さん

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12月15日(月) 「根拠のない自信で声優を志す」
今週は、文化放送13Fのラウンジからお届けします。思春期が早く、小学校6年生の途中から高校3年生まで、女子と一言も会話をしなかったという山寺宏一さん。しかし、人を笑わすことは好きだったため、大学では落語研究会に所属し、卒業後は、俳優養成所に入所。そこで、「演技をしなきゃいけない俳優は無理かもしれないけれど、声優ならできそう...」という根拠のない自信で声優を志すのですが、初めての収録はスタッフの手違いからとんでもないことに!月曜日は、山寺宏一さんの声優初仕事までを振り返っていただきました。

12月16日(火) 「右肩上がりの人生」
「プロの声優として生活ができるようになるまではアルバイト先の鰻屋さんのご主人にとても良くしてもらい、特に苦労もしてない」と語る山寺宏一さん。その後も順調に仕事は増え続け、「右肩上がりの人生」なんだそうです。
火曜日は、「山寺宏一は本当に右肩上がりの人生なのか?」 その辺りを詳しく検証していきます。

12月17日(水) 「役を引き継ぐということ」 
「洋画の吹き替え」や「アニメのキャラクターの声」など、演じる声優さんによって、まったくイメージが変わってしまう...そのように感じられるリスナーさんも多いのではないでしょうか?
そこは、演じる側としても、役を引き継ぐ時などには「前任者のイメージを大切にするのか」「自分なりの解釈で臨むのか」、頭を悩ませるとのこと。水曜日は、「宇宙戦艦ヤマト」の古代進や「ルパン3世」の銭形警部など、かつて声優界のレジェンドたちが演じていた役を数多く引き継ぐ山寺宏一さんに、その辺のバランスについてお話を伺っています。

12月18日(木) 「やまちゃん、オーハー!」
平日の早朝にテレビ東京系列で放送されている「おはスタ」のMC・やまちゃんとしてもお馴染みの山寺宏一さん。
木曜日は、前半は「おはスタ」立ち上げまでの裏話。後半は、「俳優としての山寺宏一さん」にスポットをあてています。毎朝5時前に起きるという山寺宏一さんに、長い長い一日を乗り切るコツを教えていただいたのですが、返ってきた答えは「仕事の合間に何度も自宅に帰って5~15分仮眠をとる」という、相模原市民の、私、野村邦丸にとってはまったく役に立たないものでした(笑)

12月19日(金) 「我が故郷(ふるさと)・東北」
最終日は、宮城県出身の山寺宏一さんに、故郷を襲った東日本大震災後に考え、悩んだ事。また、実際に行動したこと、今現在も行動していることについてお話を伺いました。山寺宏一さんの東北愛が感じられると思います。お聴き逃しなく!

<プロフィール>
アニメや吹き替えなど声の仕事をはじめ、俳優としてドラマや舞台など幅広い分野で活躍する。主な出演作品は、洋画 『マスク』『オースティンパワーズ』『ベンジャミン・バトン』、海外ドラマ 『フルハウス』、劇場版アニメ 『美女と野獣』『アラジン』など数多くのディズニー作品に出演。『劇場版ポケットモンスター』では全作品ゲスト出演。アニメ 『新世紀エヴァンゲリオン』、ナレーション 日本テレビ『未来創造堂』、ラジオ bayfm『BAY LINE7300』、映画 『20世紀少年』『自転少年』、ドラマ 日本テレビ『仔犬のワルツ』、NHK『ブルーもしくはブルー』、テレビ テレビ東京『おはスタ』、TBS『王様のブランチ』、フジテレビ『めちゃめちゃイケてるっ!』、テレビ朝日『徹子の部屋』、CF 『ハウス食品「こくまろカレー・シチュー」』、舞台 『12人の優しい日本人』など。また、ものまねに定評があり、多くのものまね番組でも活躍する。

12月8日~12月12日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」 のゲストは、柏原芳恵さん

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12月8日 (月) 「柏原芳恵さんの少女時代」
大阪で生まれた柏原芳恵さん。家族そろって音楽が好きという事もあって、小さい頃から歌に親しみがあったそうです。そんな柏原芳恵さんの芸能界デビューのきっかけは、小学校の卒業文集での夢なんだそうです。
ただ、元から歌手になりたい訳では無かったそうで...。

12月9日 (火) 「柏原芳恵さんがデビューするまで」
ノリでスター誕生にエントリーした柏原芳恵さん。
ダメで元々...と受けたオーディションでの様子を振り返っていただきました。
気が付いたらデビューまでの道筋が出来ていたという柏原芳恵さんのお話です。

12月10日 (水) 「柏原芳恵さんとあのヒットナンバー」
柏原芳恵さんの代表曲「ハローグッバイ」、「春なのに」。この2曲のエピソードについてお話をお聴きしています。
また現在の皇太子・浩宮様が、柏原芳恵さんのコンサートにいらした時のお話もお聞きしました。

12月11日 (木) 「素顔の柏原芳恵さん」
アイドルとして多忙の毎日を送っていた柏原芳恵さん。
色々な大人たちに守られていた事が影響してか、現在でも電車の乗り方がよく分からないんだそうです。
また、現在も独身でいらっしゃる柏原芳恵さんの恋愛観について、切り込んでみました。

12月12日 (金) 「柏原芳恵さんの創るという活動について」
粘土細工や陶芸などの創作活動にも精力的な柏原芳恵さん。
もちろん、歌手としても「詩」を作る活動をされています。
年齢を重ねてきたからこそ、書けるようになった曲がたくさんあると話す柏原芳恵さん。
「母親」に対する思いを綴った曲「Mama」に焦点を当てて、柏原芳恵さんの「創る」活動についてお話をお聴きしました。

<プロフィール>
1979年、日本テレビ『スター誕生!』に出場、グランドチャンピオンとなり、柏原よしえの名で1980年6月1日シングル『No.1』でデビュー。1981年発売の7枚目のシングル『ハロー・グッバイ』の大ヒットにより松田聖子らとともにトップアイドルスターとなる。また、女優として1987年映画『ビーバップハイスクール』のマドンナ、1988年『青い山脈'88』主演。以後、ミュージカルなどの舞台ワークで受賞歴多数。2005年、芸能生活25周年記念としてCD・DVD・写真集を発売した。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 特別編」もあります!ゲストは、荻野目洋子さん。
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12月8日 (月) 「小学生での最初のデビュー」
山口百恵さんが好きだった荻野目洋子さんは内気な子。でも、町内のお祭りで『津軽海峡冬景色』を唄って入賞してからは人前で歌うのがやみつきになったのだそうです。
そして、テレビのちびっ子番組にも出るようになり、9歳で一旦デビューします。でもなんとなく間違った大人になりそうだなと思った洋子さんは一旦辞めてしまいます。
兄妹は4人。4人が遊ぶためにお父さんは手作りで卓球台を作ってくれたのだそうです。なので洋子さんは卓球好きで、中学時代には県大会に出るぐらいの腕前になっていました。姉の慶子さんよりも・・・、と、照れながら語る荻野目洋子さんです。

12月9日 (火) 「15歳でのソロデビュー」
普通の中学生生活を送った荻野目洋子さんでしたが、進路を考えるときに「歌しかない」と考え、事務所に連絡を取り、「未来航海」でデビューします。アニメ「みゆき」の声優もやっていたからかキャンペーンにはたくさんの人が集まってくれたのだと、当時を振り返る荻野目さんです。その頃、お姉さんの荻野目慶子さんはもう活躍中。でも、全然会う機会は無く、インタビュー記事などで「姉がライバル」と書かれると、自分は自分なのにとちょっと腹を立てていた洋子さんでした。

12月10日 (水) 「ダンシングヒーロー」 
荻野目洋子さんの最初の大ヒットは「ダンシングヒーロー」。今までとは違う16ビートの曲でしたが、スタッフ全員にヒットの予感があったのだそうです。最初に歌ったときはまだ歌詞を覚えきれていなくて、なんと、譜面台を置いた上に唄い直しまでしたのだと、洋子さんは笑って話します。ベストテン番組にも出るようになった荻野目さんは「それまでは自分で限界を決めていた。計算ではできない、ヒットしてからは毎日がうれしかった」と話してくれました。好きな人もできました。後に御主人になる方ですが、その時は「仕事を取るか結婚するか」と事務所に言われて、迷わず仕事をとったのだそうです。その訳は・・・。

12月11日 (木) 「アイドルから大人のシンガーへ」
19歳の時、荻野目洋子さんはダンスのレッスンの為に渡米します。日本人とは気にするところが違い、恥ずかしいという感情よりも、何を吸収し自分をどうPRするかを考えるアメリカの文化を感じられたのが一番の収穫だったと荻野目さんは話します。帰国後には武道館での単独コンサートがありました。武道館ははじめてビリージョエルのライブを見たところだったのでとても緊張し、こなすことで精一杯だったと笑う荻野目洋子さんでした。

12月12日 (金) 「御家庭での荻野目さん」 
荻野目洋子さんには3人の娘さんが居ます。子育ては大変だったけれど、大型犬で事前に練習していたので大丈夫、今は皆良い子に育っていると洋子さんは笑います。一旦ステージから遠のいていた荻野目さんですが、25周年を機にまた歌手に復帰しました。せっかく復帰するのだからとデビュー前と同じトレーナーさんに練習をつけてもらった、何事にも真面目な荻野目さんです。これからの目標を伺ったら、ずっとステージで輝いていたいと荻野目洋子さんは迷わず話してくれました。

<プロフィール>
1984年、シングル『未来航海』でデビュー。以来、数多くのシングル、アルバム(ベスト盤含む)を発表。シングル『ダンシング・ヒーロー~Eat You Up~』『六本木純情派』、アルバム『ノン・ストッパー』など、数々の大ヒットを放つ。また、米音楽界の大物プロデューサー、ナラダ・マイケル・ウォルデンといち早く組み、英語・日本語の両バージョンで発表したアルバム『VERGE OF LOVE』や、CMタイアップによるヒットの先駆けとも言える『ねえ』『STEAL YOUR LOVE』『コーヒールンバ』、フジテレビの人気番組『ウゴウゴルーガ』とのコラボレーション・アルバム『DELUX』、クラブ・シーンの先端アーティスト達と組んだアルバム『Chains』など、多岐にわたる歌手活動を展開。通算39枚目のシングルは日本テレビ系の人気番組『知ってるつもり?!』のテーマソングとして起用された。2005年にはデビューシングルから数々のヒット曲を盛り込んだベストアルバム『COLEZO!』をリリース。

12月1日~12月5日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、倉本聰さん

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12月1日 (月)
北海道富良野市拠点に活動されている倉本聰さん。先日他界された高倉健さんとの思い出話から今週はスタートします。
倉本さんはシナリオライターや役者を養成する「富良野塾」を2010年に閉じてしまいました。最近の若者は無気力無反応だと言います。それも富良野塾を閉塾した理由のひとつだとか。そんな倉本さんの目には東京の小劇場に出演する若者はどのように映っているのでしょうか。

12月2日 (火)
倉本さんは自分の本当の意図が伝わらないまま制作されるテレビドラマに疑問もあったと言います。そんな倉本さんがストレス解消のためにしていた「ナスの呪い揚げ」とは?倉本さんの代表作と言えば21年間続いた「北の国から」。この「北の国から」と出演者の実生活は色々リンクすることも多くあったようです。亡くなった地井武男さんが演じたシーンの話などもしていただきました。

12月3日 (水)
テレビドラマを見ないという倉本聰さん。その理由とは?また、ラジオドラマに対する思いも語って頂きました。役者に合わせてセリフを書いているという倉本さん。またまた高倉健さんとのエピソードが飛び出します。
ところで「北の国から」の特徴的な黒板純の「〜なワケで...」というナレーションにはモデルがあったそうです。そのモデルとは?

12月4日 (木)
東京大学を卒業して、ラジオ局に就職した倉本さんは、渥美清さん出演のラジオドラマの演出、ディレクターを担当していたそうです。そのときに、放送用のテープを消してしまうという大きな事件がおきてしまいます。倉本さんはそのピンチをどのように切り抜けたのでしょうか?ところで「北の国から」の「泥のついた1万円札」のエピソードを覚えていますか?このアイデアはどこから生まれたのでしょうか?

12月5日(金)
現在は舞台を中心に活躍する倉本さん。来年は倉本聰さん書き下ろし演出による舞台「夜想曲--ノクターン」の全国公演ツアーを行います。昨年、福島の海岸で砂を掘っている男性に出会ったことが、この脚本を執筆するきっかけになったそうです。また、倉本さんはどんな「老人」を目指しているのでしょうか?「倉本節」を充分にご堪能ください。

<プロフィール>
1935年、東京都出身。脚本家・劇作家・演出家。東京大学文学部美学科卒業後、1959年ニッポン放送入社。1963年に退社後、脚本家として独立。1977年、富良野に移住。1984年から役者やシナリオライターを養成する私塾「富良野塾」を主宰。
代表作に「北の国から」「前略おふくろ様」「昨日、悲別で」「ライスカレー」「優しい時間」「風のガーデン」など多数。
2006年より「NPO法人C・C・C富良野自然塾」も主宰し、閉鎖されたゴルフ場に植樹をし、元の森に返す自然返還事業と、そのフィールドを使った教育プログラムにも力を入れている。

11月24日~11月28日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、篠山輝信さん

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11月24日(月) 「家族写真が極端に少ないその理由」
篠山紀信さん、南沙織さんご夫妻の二男である篠山輝信さん。小さいころから今も「写真やっていないのか?歌うたわないのか?」と聞かれ続けているそうです。お父様は忙しくて月に一度ぐらいしか姿を見せなかったので、家ではいつもお母様と一緒。アイドルであった母親でしたが、家庭では厳しかった。いまだにテレビを見て「姿勢をまっすぐに」など注意されるそうです。お父様はあまり家族写真を撮っていないそうです。その理由とは...?

11月25日(火) 「サッカー少年が演劇の道へ」
高校入学までサッカー一筋だった篠山さん。高校1年の時、英語劇部に入部します。理由は大道具をやりたかったから。しかし、極端に男性部員が少なかったため、すぐにメインどころの役をすることに。入部の動機からずれていく流れに、戸惑いながらもやっていく。しかし、次第に人に見られることへの「快感」を覚えるようになっていきます。そして大学でも演劇を専攻されます。篠山さんは完全に演技の道にはまってしまったのでした。

11月26日(水) 「俳優、そしてバラエティー番組に出演」
大学を卒業して、プロの俳優になった篠山さん。テレビドラマの初出演は高校生の役。活動をしていくうちにバラエティー番組に出演することになります。収録現場で、芸人さんたちの話術が素晴らしいということに感心してしまいます。そしてNHKの朝の情報番組の中継レポーターに。最初のころのエピソードとその心構えについてお話しいただいています。

11月27日(木) 「朝のレポーター 5年で500回以上」
アッキーという愛称は突然呼ばれたのだそうです。NHK「あさイチ」司会の井ノ原快彦さんがボソッと言った一言でアッキーが定番化します。5年500回以上中継をやってきた篠原さん、押すだけのレポートではなく、引くということもできるようになってきたと振り返っています。レポートで一番おいしかった食べ物についても教えていただきました。レポオートがうまくいったかそうでないかは、中継が終わった後のスタジオでの一言にかかっていると思っているそうです。

11月28日(金) 「休日とビジネス英語」
休みの日は、近くの喫茶店や図書館で本を読むのが好き。理由は仕事でしょっちゅう旅をしているから。レポーターのほかに、現在NHKの教育(Eテレ)でビジネス英語の番組に出演されています。その収録のエピソードを語ってくださいました。台本無しのガチンコ収録なのだそうです。気になる女性像についても語っていただきました。役者としてチャレンジしたい役についても熱く語っています。

<プロフィール>
2006年、大学卒業を機にデビュー。舞台、ドラマ、映画を中心に活動する。篠山紀信は父、南沙織が母である。また、NHK『あさイチ』でリポーターをするなど幅広く活躍。主な出演作品は、フジテレビ『ダンドリ。~Dance☆Drill~』、TBS『ナショナル劇場「浅草ふくまる旅館」』、テレビ東京『ベルーナ新春ワイド時代劇「忠臣蔵 瑤泉院の陰謀」』、舞台『飛龍伝 2010ラストプリンセス』(作・演出 つかこうへい)、ラジオ『やきぐりバンバン コンマ2』(MBSラジオ)など。

11月17日~11月21日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、田部井淳子さん

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11月17日 (月) 「山を好きになるキッカケ」
世界の名峰を制してきた田部井淳子さん。
少女時代は体が弱く、運動が嫌いだったそうです。
そんな田部井さん、大好きだった先生が誘ってくれた登山をキッカケに、勉強だけでは学べない、そして運動会の様な競争のない山が好きになっていったそうです。
本日は田部井淳子さんが山にハマるキッカケについてお話頂きました。

11月18日 (火) 「本格的に登山への道へ」
大学で再び登山の魅力を思い出した田部井淳子さん。
社会人山岳会に入会してからは、平日は仕事をし、週末の夜行列車で山へ向かい、月曜日までに戻ってくる。という生活をしていたそうです。
その後、山を通じて旦那様との運命の出会いをすることになったそうです。

11月19日 (水) 「女性初のエベレスト登頂」
1975年、田部井淳子さんが35才の時、女性初のエベレスト登頂者となりました。
女性のみのチームでエベレスト挑戦でしたが、なぜ女性だけで登頂しようと思ったのか、その訳や、エベレスト登頂でのエピソードをお伺いしました。

11月20日 (木) 「エベレスト登頂後の田部井さん」
エベレスト登頂後も女性初の7大大陸最高峰登頂など、精力的に登山活動を続けていった田部井淳子さん。有名になるにつれ、田部井さんの息子さんが反発する様になり、色々と大変だったそうです。
でも、そんな息子さんとの仲をとりもったのも、また山だったと嬉しそうに話す田部井さんでした。

11月21日 (金) 「これからの田部井淳子さん。」
これまでに、2度の癌の治療をした田部井淳子さん、一時は余命3ヶ月と宣告されたそうですが、エベレストでの体験からすれば全然、気にならなかったという田部井さん。今ではすっかり克服され、登山を続けているそうです。
東日本大震災以降は、福島県の被災者の方とのハイキングや高校生達と富士登山をしているそうです。
最終日は、田部井淳子さんのこれからの活動についてお伺いしています。

<プロフィール>
1939年、福島県三春町生まれ。世界初の女性エベレスト登頂者・世界初の女性七大陸最高峰登頂者。NPO法人日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト(HAT‐J)所属。

11月10日~11月14日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、真中満さん

11月10日(月)「野球を始めた頃」
子供の頃からスポーツ好きだった東京ヤクルトスワローズ新監督の真中満さんですが、本格的に野球を始めたのは小学校4年生の頃だったそうです。当時はカープファン、強かったから好きだったと話す真中さんですが、例の赤い帽子まではかぶっていなかったと話してくれました。高校は野球の名門に進み、二度甲子園へ。大学でもすぐにレギュラーとなった真中さんでしたが、日本大学に進学した時は何となく流されて行ったのだと真中さんは笑います。当時日大は2部リーグ、この「2部」の意味すら知らなかった真中さんでした。

11月11日(火)「ヤクルトスワローズ 入団」
日大が東都大学リーグの1部に昇格した2年生の頃から、もしかしたらプロになれるかなと真中さんは思ったのだそうです。ベストナインを4回受賞した真中さんは見事にドラフト3位でヤクルトスワローズに入団します。神宮球場が好きだけど、そううまくはいかないだろうと考えていた真中さん、表には出さないまでも、ヤクルトの指名はとてもうれしかったそうです。当時のヤクルトは強く、女性ファンもたくさんいました。当然レギュラー争いは大変です。代わって出るためにはだれかが怪我でもしてくれないといけない。この心境を正直に話してくれた真中満さんでした。

11月12日(水)「代打の神様/現役引退」
1999年には打率3割をマーク、そして2007年には真中満さんに代打の神様という異名がつきましたが、意外な事に、外人と青木選手が居たために外野手としてはレギュラーになれず、やむなく代打として起用されていたのだと、真中さんは話してくれました。代打はスタンバイが大変だけど、投手よりは楽と話す真中さんです。2008年に真中さんは現役を引退します。引退試合ではガチでの勝負を願ったところ、これまた真中さんらしい終わり方となったのでした。

11月13日(木)「コーチとしての真中さん」
引退した真中さんは、そのままヤクルトのコーチ、そして二軍監督になります。本人雄個性を活かしたいから、まずは良く見ること、と言うのが真中さんの基本なのだそうです。そして、気になる点があっても調子が良い時は触らない。悪くなってきたら初めて話をすると、御自身の指導方針を話してくれました。コーチした選手が試合で活躍したらどうですか?という質問には、万歳する訳にはいかないけれど、ヒットやホームランを打ったらやっぱりうれしいと、ストレートに話してくれました。でも試合後、コーチ陣などで飲みに行った時の話の内容は、いろいろだよとだけ話す真中新監督でした。

11月14日(金)「東京ヤクルトスワローズ 監督就任」
真中新監督に東京ヤクルトの課題を伺ったところ、野球はやっぱり守備が大事、課題は投手力だと話してくれました。打てば給料は上がるけれど・・・・、と笑います。優勝の喜びは優勝しないとわからないから、優勝を知っているメンバーが残っているうちに優勝したいとその心意気を語ってくれました。また、ヤクルトというチームは、勢いに左右されやすいのだそうです。4月5月にどれだけ行けるかが勝負だとも真中さんは話してくれました。優勝を約束してくださいと伺うと、約束はできないけれど頑張りますという答えが返ってきました。慎重、そして正直な真中新監督です。

<プロフィール>
■生年月日 1971年1月6日
■出身地 栃木県
■出身校及び球歴  宇都宮学園高-日本大-ヤクルト(93~08)
■指導歴 東京ヤクルト/二軍打撃コーチ(09~10)/二軍監督(11~13)/一軍チーフ打撃コーチ(14)

11月3日~11月7日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、六角精児さん

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11月3日(月)「 駄菓子屋さんで社会を知る 」
兵庫県でお生まれになり、小学生の時に神奈川県相模原市に転校してきた六角精児さん。急に環境が変わってしまった影響からか、そのころから学校の成績が下がり始め、教育熱心だったお母様との関係でストレスを感じる日々。そんな六角精児さんの楽しみといえば、近所の駄菓子屋さん...だったのですが、そこで、衝撃のある出来事が!月曜日は、六角精児さんの少年時代のエピソードを中心にお話を伺っています。

11月4日(火)「 消去法での役者 」
高校での"全員が何らかの部に所属しなければならない"という決まりから、仕方なく(一番楽ができそうに見えた)
演劇部に入部したのが、六角精児さんと演劇との初めての出会いだったそうです。そして今日まで役者を続けられてきたわけですが、「役者の楽しみ・面白さを知ったのは、つい最近。役者以外に何かをやろうと思っても、あれも出来ない...、これも出来ない...。結局、残ったのが役者だった」との、意外な発言。火曜日は、六角精児さんの堅苦しくない役者論。

11月5日(水)「 ギャンブルの日々 」 
御自身の性格を「自分が楽しいと思ったことにのめり込み、他人を顧みない性格」だと仰る六角精児さん。その性格が悪い方向に作用してしまったのが、ギャンブルでの借金でした。「これではいけない」と思った六角精児さんがとった行動は「ギャンブル以上にのめり込めるモノを見付ける」というもの。水曜日は、六角精児さんがギャンブルの魔力に憑り付かれてしまっていた頃のお話。海外のバカラで、「次は絶対にくる!」と予想した六角精児さんは大金を...!?

11月6日(木)「 六角精児 と 米沢守 」
木曜日は、「自分の実生活と微妙にリンクしている」という、TVドラマ・映画でお馴染み、「相棒」での米沢 守 役についてたっぷりと語っていただきました。今や、「米沢守は六角精児で、六角精児は米沢守」というような感覚らしいのですが、ただ一つ違うのは、パソコンを自由自在に操る米沢守に比べて、六角精児さんは、そちらの方はまったくダメなそうで...。

11月7日(金)「 鉄旅 と 音楽 」
最終日は、現在発売中のムック本「六角精児 鉄旅の流儀」を片手に、鉄ちゃん話でおおいに盛り上がります。
鉄旅の始まりは、美味しいお酒と崎陽軒のシウマイだ!後半は、これから力を入れていきたいという、音楽の話を。曲もおかけしますので、お聴き逃しなく!!

<プロフィール>
1962年生まれ。劇団「善人会議」(現・扉座)の旗揚げメンバー。個性派俳優として数多くのテレビドラマ・映画、舞台に出演。TVドラマ『相棒』シリーズでは鑑識役を演じ、スピンオフ映画『鑑識・米沢守の事件簿〜幻の女房』では初主演を果たす。主な出演作品に、フジテレビ『電車男』、NHK連続テレビ小説『カーネーション』『真夜中のパン屋さん』、TBS『ルーズヴェルト・ゲーム』、舞台『ザ・フルーツ』『イルネス共和国』『アトムへの伝言』『鎌塚氏、すくい上げる』、映画『十三人の刺客』『超高速!参勤交代』など。

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