終わりよければ・・・(放送終了)

ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

3月16日~3月20日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは林与一さん

hayashi_kunimaru.jpg

3月16(月)「林与一少年、役者への道」
歌舞伎一家に生まれ、全身に刺青を入れることに憧れていたという林与一さん。
15歳の時に初舞台を踏んだ感覚が忘れられず、歌舞伎の世界に飛び込んでいきます。
当時からイケメンで二股なんて当たり前という林与一さんの生活ぶりについてお話していただきました。

3月17日(火)「ふてる林与一、拗ねる長谷川一夫。」
東京に移り住んだ林与一さんが弟子入りしたのが、俳優の長谷川一夫さんでした。
誰よりも近くで舞台や芝居の話を聞き、学んだそうです。
しかし、毎晩毎晩それが続くと林与一さんは嫌気がさして、長谷川一夫さんに対して反抗したりしたんだとか。
そして、林与一さんの名前が世間に知れ渡るようになったのが、NHK大河ドラマの第2作目「赤穂浪士」でした。
最初は出演に気が乗らなかったという林与一さん。その理由とは・・・。

3月18日(水)「必殺仕掛け人!」
林与一さんの代表作といえば「必殺シリーズ」の第1作目『必殺仕掛け人』。
大ヒットの裏にはライバルにあたる「ある時代劇作品」のとある出来事があったからだとお話していました。
また必殺仕掛け人で、共演した緒方拳の事が嫌いだったという林与一さん。
ずっと暗黙の戦いを繰り広げていたというおふたりのエピソードもお伺いしました。

3月19日(木)「俳優・林与一について」
今振り返ると、ぶん殴ってやりたいくらい昔の自分が生意気で嫌いだったという林与一さん。60歳を超えて「ようやく人間ぽくなったね」と周りに言われる様になったんだとか。その一方で、相手役をした女優からは、「一緒にやると楽だね」と言われる程、細かく気を使っているのだそうです。
今日は、林与一さんの俳優という一面について深く探ってみました。

3月20日(金)「林与一のプライベートに迫る!」
最近はディズニーランドやスイーツにハマっているという林与一さん。
女子力が高めなお話をされたかと思うと、かなりぶっちゃけたお話をされています。
最終日は、林与一さんのプライベートを中心にお話をお聴きしました。

<プロフィール>
昭和17年生まれ。昭和32年大阪歌舞伎座「お吟さま」で初舞台。翌年松竹京都に入社,「七人若衆誕生」など時代劇映画に出演。39年テレビ「赤穂浪士」の堀田隼人役で人気をえる。その後映画「鼠小僧次郎吉」,テレビ「必殺仕掛人」,舞台「ぼんち」などに出演。兵庫県出身。

3月9日~3月13日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは作曲家、ピアニストの西村由紀江さん

nishimura_kunimaru.jpg

3月9日(月)「 ピアノとの出会い 」
子供の頃は人見知りで、自分の思った事をなかなか言葉にできず、他人と話すのが苦手だったという西村由紀江さん。しかし、自宅にあったピアノのド・レ・ミで自分の気持ちを表現する術を知ってからは、「私はピアノでなら会話ができる」と気付き、ピアノ教室でピアノを弾いては一人でニヤニヤする日々を送っていたとのこと。
月曜日は、西村由紀江さんとピアノとの出会いについてお話を伺っています。

3月10日(火)「 逆転の発想 」
「ピアノ教室に通っていた当時は、手が小さくて、定番のピアノ曲は上手く弾けなかった」という西村由紀江さんでしたが、「手が小さいというハンデを逆手にとった曲を自分で作ればいいんだ!」という逆転の発想でオリジナルの曲作りに没頭。そして、19歳の時にレコードデビューのチャンスが訪れるのですが、ここで新たな問題が...。
火曜日は、西村由紀江さんがレコードデビューするまでを振り返ります。

3月11日(水)「 ザルツブルグにて... 」 
レコードデビューを果たしたものの、相変わらず人見知りで、プロモーション活動で自分を上手く表現できないことに悩んでいたという西村由紀江さん。「自分は音楽をやっていて良いのか?」とまで考えるようになってしまったそうです。
そんな西村由紀江さんの問いに一つの答えを出してくれたのが、この番組でもすっかりおなじみ、"ザルツブルグの街"でした。ここでのピアノ講習会に参加したことで、「音楽は自由なんだ。私が楽しめばいいんだ」と感じられるようになったそうです。
水曜日は、「ザルツブルグの自由な音楽」について!

3月12日(木)「 101回目のプロポーズ 」
西村由紀江さんが音楽を担当したドラマ「101回目のプロポーズ」。木曜日は、その時の制作秘話などを伺います。
ドラマの場合、完成した映像を見ずに音楽を作らなければならないことが多いため、西村由紀江さんは「撮影現場の空気感」で曲を作っていくとのこと。そして、「言葉」が思い付かないことはあっても、「音楽」が思い付かないことはないそうです。それならば、くにまるジャパンの「音楽」も作って...くれる? まさかねぇ...。

3月13日(金)「 優しさを届けたい 」
「ピアノで優しさを届けたい」と語る西村由紀江さん。
その言葉通り、西村由紀江さんは現在、「学校コンサート」、「病院コンサート」、また、家庭に眠っているピアノを、東日本大震災によってピアノを失ってしまったご家庭に届ける「Smile Piano 500」など、精力的な活動を続けていらっしゃいます。
最終日は、それらの活動で思ったこと、感じたことなどをお話していただきました。

<プロフィール>
幼少より音楽の才能を認められ、ヨーロッパ、アメリカ、東南アジア諸国への演奏旅行に参加。マエストロや世界の一流オーケストラとも共演し、絶賛を博す。
桐朋学園大学入学と同時にデビュー。
2011年、デビュー25周年を迎え、国内だけでなく、香港、韓国、台湾でのコンサートも成功をおさめる。
2012年、アカデミー賞受賞アニメーション作家、フレデリック・バック氏の絵画とのコラボレーションアルバムを発売し、注目を浴びる。
2015年、通算38作目となるニューアルバム「My Stories」をリリースする。
代表作は、ドラマ「101回目のプロポーズ」、映画「子ぎつねヘレン」、NHK「アーカイブス」など。

3月2日~3月6日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは及川光博さん

oikawa_kunimaru.jpg

3月2日(月)「子供の頃の話」
及川光博さんの御両親は働き者で家にあまりいないため、及川さんはメイドさんに囲まれた子供時代を過ごしました。中学では演劇部に入り、ファンクラブまで出来ましたが、逆に男子の中では浮いてしまってちょっと辛い思いをしたそうです。
そこでロックバンドを組み、学園祭で活躍してみると、男女関係無く打ち解けられるようになり、これが及川さんの将来を決定づける事となりました。なんと15の時に、もう、普通のサラリーマンにならないと決めていた及川さんです。
この頃の自分を振り返って「ギャラなしサービス業」と揶揄する及川さんですが、必要とされないのなら調子に乗れない、それは今も同じと、及川さんは変わらぬ気持ちを語ってくれました。

3月3日(火)「25歳で念願のデビュー」
周囲の反対を押し切って俳優を目指した及川さんですが、そこには25歳までに目が出なければ諦めるという約束がありました。でも、なかなかうまくいきません。
そこで及川さんはライブハウスでも歌いだし、キャラクター、トーク、更にはインパクトが無ければダメだという事に及川さんは気が付きます。王子様キャラクターの誕生です。
でも、せっかく芽が出ても王子様キャラはバラエティでいじられてばかり、だんだん窮屈になり、及川さんはこのキャラクターを捨ててしまいます。ファンとメディアの両方の期待に応えようとしたけどダメだったと及川さんは話してくれました。そして選んだのは・・・・。

3月4日(水)「俳優として」 
及川さんの俳優デビューは連ドラの「With LOVE」。この時は失敗したら次は無いなと思いながら夢中で演じたそうです。 
そして一番のヒットは「相棒」の神戸尊。何で僕なんだろうと驚くと共に、プレッシャーで負けないには笑うしかないからと、実際に笑いながら撮影に臨んだと当時の思い出を話してくれる及川さんです。
水谷豊さんからもらった、「俳優の演技は台本以上」という言葉の通りに、自分が思う事を試し、神戸尊(役名)の形が出来上がったと及川さんは当時を振り返ってくれました。

3月5日(木)「多忙な日々」 
ドラマの撮影の合間にアルバムを出し、全国ツアーをこなしていた多忙な毎日でも、意外と切り替えはできてると及川さんは話してくれました。参加するものと主体的な物の違いなのかなと自分を分析しています。
哲学を勉強した為かいつも不安を抱えている言いつつも、及川さんは毎日を楽しんでいるのだそうです。自分という素材を使ったスター育成ゲームをやっているようだと言います。いろいろ仕事をしてみて、及川さんは御自身の仕事のやりかたに一つの結論を見出しました。及川さんが熱く語ってくれた、それは・・・。

3月6日(金)「巡り合わせの日々」
及川さんは40にして後に奥さんとなる檀れいさんに出会います。仕事も結婚もめぐり合わせ、こつこつとやっていると誰かがみていてくれると話す及川さんには、とうとう仮面ライダー3号の役まで廻ってきました。
もしも歌手で無かったらと何になっていましたか?という質問に、及川さんは迷うことなく、イベントのプロデューサと答えてくれました。本当は裏方タイプ、だけれども、一番の素材が自分だったと、少し照れながら話す及川光博さんでした。

<プロフィール>
1996年シングル『モラリティー』でメジャーデビュー。以降、自身のライヴ活動のほか、他アーティストとのイベントプロデュースや、NHK大河ドラマ『利家とまつ』やフジテレビ『白い巨塔』、舞台でも美輪明宏演出・主演の『毛皮のマリー』に出演するなど活動は多岐にわたり、2009年には主演映画である『クローンは故郷をめざす』が公開されたほか、テレビ朝日ドラマ『相棒 season7』最終回で、水谷豊扮する"杉下右京"の相棒"神戸尊"として出演。以降、『相棒 season ten』まで出演。その他の主な出演作品に、CM『サントリー「C.C.レモン」』や『コミュニケーションアプリ「LINE」』など。

2月23日~2月27日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは金井克子さん

kanai_kunimaru.jpg

2月23日(月)「子供時代とフィンガーアクション」
1945年、中国の天津で生まれた金井克子さん。その後、物心付く前に大阪に引越します。バレエブームもあり、8歳の時に、あのフランス人形のような衣装に憧れバレエを始めます。金井克子さんと言えばヒット曲「他人の関係」。この「フィンガーアクション」を使った独自の振付けは、その後の歌謡曲に大きな影響を与えたそうです。

2月24日(火)「バレエダンサーとしてデビュー、そして歌」
1959年、読売テレビ「バレエ劇場」に出演し芸能界デビューを果たします。
その後、NHKの「歌のグランドショー」にも出演するようになり、歌をうたうようになります。その番組を見ていたプロデューサーの誘いでお芝居にも出演します。とても忙しい生活の中、友達付き合いはほとんど出来なかったそうです。今日はトントン拍子で進んでいったデビューの頃のお話を伺いました。

2月25日(水)「『他人の関係』の大ヒット」  
TVがカラーになった頃、金井さんの衣装の一部が男性ファンの間で大きな話題となりました。その話題になったものとは、なんだったのでしょうか?
1973年にリリースした「他人の関係」が初めてオリコン・シングルチャートでトップ10にランクイン。刺激的な歌詞と振付けが話題になりましたが、その裏話をたっぷりと伺います。

2月26日(木)「『他人の関係』の再ブレイクと美の秘訣」  
昨年、一青窈さんのカバーにより、「他人の関係」が再びヒットしました。
40年ぶりに日の目を見た曲を、金井さんはどのように感じているのでしょうか?今年70歳を迎える金井さんは、若い頃とほとんどボディーサイズが変わっていないそうです。その美しさを保つコツは?今日は、金井さんの「美の秘訣」にも迫ります。

2月27日(金)「新曲にかける想い、そして今後の夢。」  
「他人の関係」再ブレイクを受け、金井さんは作詞を担当した有馬三恵子さんと40年ぶりに再会したそうです。歌詞にエロティックなニュアンスを盛り込むのが有馬さんの極意。有馬さん作詞で金井さんが歌う新曲が聴ける日も近いかもしれません。
「私から、踊りを取ったらなにもない」と、言い切る金井さんの今後の夢も伺いました。

<プロフィール>
1962年に『ハップスバーグ・セレナーデ 涙の白鳥』でレコード・デビュー。1966年には第17回NHK『紅白歌合戦』に出場し、以降、4年連続出場を果たす。1973年に『他人の関係』が大ヒットし、日本レコード大賞企画賞を受賞した。主な代表作品に、シングル『愛さまざま 波止場エレジー』(TBSドラマ「赤い関係」主題歌)、アルバム『THE BEST 金井克子』他多数。

2月16日~2月20日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは斉藤慶子さん

saito_kunimaru.jpg

2月16日(月) 「週50時間の勉強と初めてのエスカレーター」
親に反抗することもなく、優等生だった斉藤さん。学校以外で週に50時間も勉強していたそうです。夜は早く、朝型。勉強の目的は、当時テレビを見て憧れたスチュワーデスになること。高校の修学旅行で東京に来たとき、はじめてのマクドナルドを経験。買う前にリハーサルまでしたそうです。しかし店員にいわれた一言に戸惑ってしまいます。

2月17日(火) 「大学に入ったらパラダイス」
いつまでに何かをしなければならないという制約があまりなかった大学時代を「パラダイスだった」と振り返ります。4畳半のアパートはなんと北向きの部屋で冬には部屋に氷が張るという厳しい環境でしたが、楽しくてしょうがなかったそうです。大学近くのデパートでスカウトされ、モデルになるのですが、それがきっかけで東京に出ることになり、芸能界へ進んでいくことになるのです。

2月18日(水) 「芸能界に入って」
ラジオでは文化放送ミスDJパレードも担当。そのころの思い出を語ってくださいました。
その後、女子大生ブームで伝説のクイズ番組「クイズダービー」に出演します。この時すでに竹下景子さんが出演しており、同じ「ケイコ」が二人いる。これは紛らわしいから名前を変えるように事務所に話があったとか。初めてのドラマ出演については鮮明に覚えているそうです。

2月19日(木) 「映画 東雲楼 女の乱」
1994年公開の映画 東雲楼 女の乱 に出演し、女優として高い評価を得た斉藤さん
その苦労話をお聞きしています。また、お子様を生んだ時の話もしてくださいます。

2月20日(金) 「プライベートについて」
プライベートでは中学生のお嬢さんがいらっしゃいます。
なかなか料理は難しいと漏らします。食事は味ではなく、空間の居心地がいかにいいかによって良さが変わると思っているそうです。女優としてやってみたい役についても語っていただきました。

<プロフィール>
1961年7月14日生まれ。宮崎県出身。1982年JALの「沖縄・夏」キャンペーンガールでデビュー。NHK大河ドラマ『秀吉』(1996年)、 天うらら(1998年)、連続テレビ小説『わかば』(2004年)などに出演。

----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
そして、今週はSPウィークということで、「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 特別編」もあります!ゲストは、cobaさん。
coba_kunimaru.jpg

2月16日(月)「3歳で作曲」
アイコーディオニストであり、作曲家であるcobaさんは一人っ子、これ以上無いというぐらいにまじめなお父さんの下で育ちました。こんなお父さんの唯一の趣味はアコーディオン、cobaさんの家の押入れの上段には、すぐに弾けるようにアコーディオンがおかれれていたのだそうです。
cobaさんは音感教室などで音楽性を磨いていきます。その頃作った歌を口ずさむcobaさんはとても楽しそう。
アコーディオンとの出会いは小学校4年生の時、誕生日に人生ゲームが欲しかったのにお父さんはアコーディオンを買ってきてしまったのです。その時の落胆した様子を、cobaさんは昨日の事のように話してくれました。

2月17日(火)「アコーディオンの魅力に取りつかれる」
お父さんが買ってきたアコーディオンは半年間手付かずでした。しかし、学校の校庭での伴奏をするためにcobaさんはアコーディオンを弾くことにします。そして一音出した瞬間、体中に染み渡るアコーディオンの音に、cobaさんは魅せられてしまったのでした。しかし、アコーディオンの地位は決して高くないということにもcobaさんは気が付きます。そして、このみにくいアヒルの子をどうやったら白鳥にできるかという事をcobaさんは考えるようになりました。

2月18日(水)「アコーディオンの本場、イタリアでの日々」
自分の進路を考え始めたcobaさんは、18歳の時にイタリアのアコーディオンメーカーに手紙を書き、最終的にベネチア?にある世界最高峰の学校でアコーディオンの勉強をするようになります。試験では落ちたと思った、そして入学してからも他の生徒との経験の差を生めるのが大変だったと語るcobaさんです。
世界アコーディオンコンテストに優勝、学校も無事卒業したcobaさんに、周囲はイタリアに残ることを勧めますが、cobaさんは断り、帰国します。

2月19日(木)「日本で音楽活動を開始」
cobaさんは日本に帰ってきますが、日本ではぜんぜんアコーディオンの仕事がありませんでした。日本ではまだアコーディオンはみにくいアヒルの子、10年間、よく生きていたなとcobaさんは話します。
でも、ランバダがヒットすると環境は一変します。仕事の電話はどんどん入り、一番多い日は1日で10曲レコーディングしていたとcobaさんは話してくれました。
その頃、cobaさんは本名での活動を止め、芸名「coba」を名乗るようになります。海外のレコード店で自分の名前が誤記されていたのがそのきっかけだったのだそうです。
メジャーデビュー、ビヨークとのワールドツアー参加など、cobaさんの活躍の場はあっという間に広がっていきます。この業界は怖いなぁと、cobaさんはしみじみ語ってくれました。

2月20日(金)「cobaさんの思い」 
Cobaさんは日本で活動するにあたって3つの封印を決めていました。伴奏楽器と思われたくないので伴奏はしない。新しい分野を作りたいのでカバーはやらない。そして、一人オーケストラと言われないようにソロはやらない。でも、cobaさんは2年前にこの封印を解きはじめたのだそうです。その訳を訊いてみると「もう良いかな」と思ったと、cobaさんは笑います。本来ソロの楽器だし、カバーもとても似合う、そして、もう、前のイメージには戻らないだろうと考えたのだそうです。
そんなcobaさんの夢は意外な事です。期間限定でヨーロッパにあるものを作りたいのだそうです。

<プロフィール>
数々の国際コンクールで優勝。以来、ヨーロッパ各国でのCDリリース、チャート1位獲得など、"coba"の名前と音楽は国境を越え世界の音楽シーンに影響を与え続けている。今日までプロデュースしてきた映画、舞台、テレビ、CM音楽は500作品を超える。

2月9日~2月13日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、石田ゆり子さん

ishida_kunimaru.jpg

2月9日 (月) 「石田ゆり子さんの少女時代」
インドア派の少女だったという石田ゆり子さん。
妹のひかりさんが通うスイミングに迎えに行く内に水泳を始めたくなり、一緒にスイミングに通うようになります。
最初は25メートルも泳げなかったそうですが、気が付けば神奈川県を代表する水泳選手になっていたのだそうです。
頑張ればロサンゼルスオリンピックを目指せる所まで行っていたという石田ゆり子さんの少女時代についてお話をお聴きしました。

2月10日 (火) 「女優への道」
もしかしたらオリンピック選手になっていたかもしれない...そんな石田ゆり子さん。
芸能界に入るキッカケは、街でスカウトされた事なんだそうです。
その時はお母様に反対されたそうなんですが、その後、妹のひかりさんが、まったく同じ人からスカウトされた事がキッカケとなって芸能界へ足を踏み入れることになります。
石田ゆり子さんが女優になるまでのエピソードをお聞きしました。

2月11日 (水) 「女優としての転機」
何も分からないまま、女優として過ごした20代。
この頃についたイメージが辛くて仕方なかったそうです。
そんな中、連続ドラマ「不機嫌な果実」で主役を演じる事に。
最初は不倫に走る主婦の気持ちなんて分からない。自分とかけ離れた役に戸惑っていたそうなんですが、ある一言がキッカケで役者として成長する事が出来たそうです。
女優としての転機についてのお話です。

2月12日 (木) 「声優・石田ゆり子」
小さい頃からジブリ作品が大好きだったという石田ゆり子さん。
「平成狸合戦ぽんぽこ」に出演した後、「もののけ姫」のサンに抜擢されます。
嬉しい反面、とても不安で難しかったという『もののけ姫』について、お話をお伺いしました。

2月13日 (金) 「映画・悼む人」
2月14日から公開される映画『悼む人』にご出演している石田ゆり子さん。
原作を読まれた時から映像化される時は、「どんな役でもいいから絶対に関わりたい...。」そう考えていたそうです。
そして、映画化の話が持ち上がった時には、作者の天童荒太さん宛てに、石田ゆり子さんの思いの丈を筆にしたため送ったそうです。
ご出演の映画「悼む人」のお話をたっぷりとお聞きしています。

<プロフィール>
1988年、NHK『海の群星』でデビュー。同年、映画『悲しい色やねん』でスクリーンデビューを果たす。2006年、映画『北の零年』で日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。実力派女優として数々のテレビドラマ、映画などで活躍する。主な出演作品は、フジテレビ『佐賀のがばいばあちゃん2』『魔女裁判』『今週、妻が浮気します』、NHK『外事警察』、映画『解夏』『おとうと』『サヨナライツカ』『誰も守ってくれない』他多数。

2月2日~2月6日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、奈良岡朋子さん

naraoka_kunimaru.jpg

2月2日(月) 「御祖父様の願い」
昭和4年生まれの奈良岡朋子さんは、物心がついた時から、「あぁ、自分は将来、お医者さんになるんだなぁ...」と、思っていたそうです。そして、それは御祖父様のたっての願いでもあったとのこと。しかし、そんな夢を打ち砕いたのが『戦争』でした。月曜日は、奈良岡朋子さんに「日本が戦争に敗けるとは思っていなかった時代」を語っていただきました。

2月3日(火) 「不純な動機」
火曜日は、日本の敗戦により目標を失った奈良岡朋子さんが「劇団民藝」の入団試験を受けるまでを振り返っていただきます。試験を受けた動機は、「有名な役者さんに会えるかも...」という、意外にも不純なもの。また、大学に進学したのも「父親が『大学までは面倒を見てやる』と言っていたので、進学しなきゃ勿体ない」という、こちらも不純な動機だったそうです(笑)

2月4日(水) 「奈良岡朋子さんのお仕事」 
芝居をする気はこれっぽっちもなかったのに「劇団民藝」の試験に受かって、女優の道を歩き始めた奈良岡朋子さん。その後のご活躍は、皆さんご存知の通りです。水曜日は、奈良岡朋子さんの数々のお仕事の中からいくつかをピックアップして、文化放送秘蔵の音源などを交えながらご紹介いたします。若かりし頃の自分の声を聴いた奈良岡朋子さんの反応は如何に?!

2月5日(木) 「お芝居をするな!」
木曜日の放送は、俳優を目指しているリスナーさんは必聴です! 奈良岡朋子さんの演技論を届けします。端的に言うなら「(俳優は)お芝居をするな!」とのこと。ちょっと聞いただけでは矛盾しているように思えるこの言葉の意味は放送でご確認ください。

2月6日(金) 「心友 ・ 加藤和枝さん」
最終日は、心友だった加藤和枝さん=美空ひばりさんとの交流についてお話を伺っています。「美空ひばりさん」としてではなく、「加藤和枝さん」としてお付き合いをしていたからこそのエピソードが満載です。

<プロフィール>
1929年生まれ。東京都出身
◎初舞台  
1948年 『女子寮記』 寮生(民衆芸術劇場公演)
◎最近の舞台
2013年8月 『黒い雨』
2013年12月 『八月の鯨』 リビー
2014年各地公演 『八月の鯨』 リビー
2014年12月 『バウンティフルへの旅』 キャリー・ワッツ

1月26日~1月30日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、里崎智也さん

satozaki_kunimaru.jpg

1月26日 (月) 「憧れの東京生活?」
昨年、千葉ロッテマリーンズの現役を引退した里崎さん。まずは、率直に現在の心境をお伺いしました。徳島県鳴門市出身の里崎さんは小学生の時に遊びの延長で野球を始めます。帝京大学への進学をきっかけに上京し、憧れの東京生活がスタートすると思いきや実際に住んだ場所とは?また、その頃からプロの野球選手になることを意識し始めたそうです。

1月27日 (火) 「千葉ロッテマリーンズに入団」
「帝京に里崎あり」と言われた大学の野球時代。1998年ドラフトの逆指名制度を使い、2位で千葉ロッテマリーンズに入団します。当時、18連敗していた千葉ロッテに入団しようと思った理由とは?入団1年目に左手首を骨折してしまいます。しかし、そんな困難も「回り道したからこそ、見える景色もある」と、プラスに捉えていたそうです。

1月28日 (水) 「千葉ロッテの日本一とWBCの世界一」
2005年、2010年、千葉ロッテマリーンズは日本一になります。キャッチャーだからこそ見える優勝の瞬間とはどのようなものだったのでしょうか?
WBC初代王者としての経験も持つ里崎さん。この時、韓国に破れ準決勝への道をほぼ絶たれます。しかし里崎さんは「落ち込んでいたらチャンスはつかめない」と、あくまでも前向き。そして、そのチャンスが訪れ世界一をつかみとります。

1月29日 (木) 「里崎流ポジティブ・シンキング」
「失敗イコール学びである」と語る里崎さん。今日は、そのポジティブ・シンキングの極意に迫ります。ピッチャーに対しては怒ることも多かったそうです。
ところで黒崎さんはなぜ現役引退を決意したのでしょうか?引退会見で流した涙の理由も明かされます。

1月30日 (金) 「解説者としてのスタートと今後について」
2015年はプロ野球解説者として活躍する予定の里崎さん。野球の難しさや楽しさをファンの方に伝えられるのを楽しみにしているそうです。監督を望む声も聞こえて来ますが、今は、野球以外の可能性も探し、チャレンジしてみたいと語ります。そして里崎さんが考える「人を見ることの大切さ」とは何でしょうか?

<プロフィール>
98年ドラフト2位で千葉ロッテマリーンズに入団。
・2005~2010年にかけて6年連続二桁本塁打を記録
・2012年 ロッテの生え抜き捕手として初のプロ入り通算100号本塁打を達成
・ベストナイン:2回 (2006年・2007年)
・ゴールデングラブ賞;2回 (2006年・2007年)
・WBCベストナイン 捕手部門(2006年)            

1月19日~1月23日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、根岸季衣さん

negishi_kunimaru.jpg

1月19日 (月) 「演劇への道」
根岸季衣さんは東京生まれ、警察官だったお父さんはとても厳しい方でしたが、根岸さんは外が大好き、デパートのおもちゃ売り場で近所の子と遊ぶような女の子でした。
幼稚園の頃から学芸会では主役、あまりに根岸さんばかりが目立つので苦情もあったようです。そんな根岸さんが本格的に演劇へ進むのは桐朋学園の演劇専攻に入学するとき。薬剤師になれと言い続けていたお父さんからは、意外な言葉をもらった根岸さんでした。

1月20日 (火) 「保育園の先生から女優へ」
せっかく演劇を勉強していた根岸季衣さんですが、卒業まであと半年というところで学校をやめてしまいます。出番の少ない卒業公演の為だけに半年取られることに我慢ができなかったと根岸さんは笑います。
ところがここで根岸さんは保育士になろうとします。先に仕事をみつけ、それから短大に入り直した根岸さんですが、座学の退屈さに我慢できずまた中退。短大を二つ中退してしまった根岸さんでした。
そして今度はつかこうへいさんの事務所に入り、また演劇の道に進みます。なんとなく事務所の看板を背負うような状況になり、ちょっと荷が重かったけれど楽しかった、苦労はしなかったと根岸さんは話してくれました。

1月21日 (水) 「女優としての仕事」
根岸季衣さんは大ヒットドラマ「ふぞろいの林檎たち」に出演しています。山田太一先生の作品で声が掛かった時にとてもうれしかった。テレビドラマの良き時代を経験できたと根岸さんは話します。
そのドラマの収録中に旦那さんの訃報がありました。この時の中井貴一さんや時任さんの気配りに助けられた根岸さん曰く、人が弱っているときに一番いい男が分かるのだそうです。
役者は点数がわからない、でも、存在感が欲しいと言われたら役が小さいと思った方が良い、この言葉には引っかからないと根岸さんは笑いながら話してくれました。
とても器用、どんな役でもこなしてしまう根岸さんですが、ひとつだけ苦手な演技があるのだそうです。それは・・・。

1月22日 (木) 「バンド活動と結婚生活」
根岸季衣さんの最初の結婚相手は作詞家の大津あきらさん。舞台音楽をやっていたので住むところも稽古場も一緒。だけど役者としての自分を認めてくれた人と、根岸さんは大津さんを懐かしみます。
大津さんが亡くなってから根岸さんはブルースバンド活動を始めます。もともとは英会話の先生と始めたバンドでしたが、今は皆、気の置けない日本人仲間。昔レコードを2枚出したことのある根岸さんでしたが、なんでももっと早くライブをやらなかったのだろうというぐらい、バンド活動は楽しいのだそうです。
そしてバンドメンバーと再婚した根岸さんは、これでホッとした。今まで肩肘を張っているつもりはなかったけれどと、今の心境を語ってくれました。

1月23日 (金) 「今後について」
根岸季衣さんは仕事をしている時が一番楽しいのだそうです。ライブをやっても楽しいけど、それはきっとプロになりきっていない、楽しみすぎだと思うと、案外冷静に根岸さんは話します。
そんな根岸さんはライブ・映画・そしてミュージカルと大忙し。映画「まなざし」ではどんどん痩せていく娘を演じるために減量したという根岸さん、このままミュージカルが出来ればいいけれど、女性の場合は痩せるとおばあさん顔になってしまう、でもまた演技の幅が広がるのでこれも受け入れたいと話す根岸さんでした。
<プロフィール>
1954年2月3日生まれ、東京都出身。桐朋学園在学中につかこうへいと出会い、「ストリッパー物語」で主役で鮮烈なデビューを飾り、脚光を浴びる。'78「ヒモのはなし」で第13回紀伊國屋演劇賞個人賞受賞。ほか「蒲田行進曲」の小夏役を演じるなど、つかこうへい作品黄金期を支える一人である。また、ドラマ「愛さずにはいられない」('80/NHK)に主演するなど映像の世界にも意欲的に進出。「ふぞろいの林檎たち」('83'97/TBS)、「痛快!OL通り」シリーズ(''89/TBS)、「モモ子」シリーズ(TBS)、「警察庁鑑識課」シリーズ(NTV)など、映画「野獣死すべし」('80/村川透監督)、「海と毒薬」('86/熊井啓監督)、「タフ 」('91/原田眞人監督)、「死国」('99/長崎俊一監督)、「ほとけ」('01/辻仁成監督)、「漫☆画太郎 ババァゾーン(他)」('04/山口雄大監督)ほか、過去を背負った薄幸な役から、ほっとする存在、豪快なおばさんの役はたまた、妖怪のようなおばあちゃんまで幅広く演じ、変幻自在な様を見せつけている。

1月12日~1月16日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、古村比呂さん

komura_kunimaru.jpg

1月12日 (月)「北海道での古村比呂さん」
北海道の江別市出身の古村比呂さん。
活発なお姉さまと違い、家の中で読書をしている方が好きだったそうです。
教育一家に生まれた古村さん、将来は養護教諭になりたいと、考えていた古村比呂さんでしたが...。

1月13日 (火)「上京、そして女優の道へ」
「自分を変えたい!」そんな風に思っていた頃、偶然スカウトされて北海道のテレビ番組でアシスタントを務めることになった古村比呂さん。
その後、番組に関わっていた景山民夫さんからの勧めもあって、東京へと見学にやってきます。そこで「ついでだから...。」と受けたオーディションに合格し、本格的に上京して芸能活動をスタートさせるのでした。

1月14日 (水)「NHK朝の連続テレビ小説 チョッちゃん」
古村比呂さんを一躍有名にしたのが、NHKの朝の連続テレビ小説「チョッちゃん」。
主人公とそれを演じる古村比呂さんに通じている部分が多く、とても感情移入しやすかったそうです。
今日は「チョッちゃん」にまつわるエピソードをお聞きしました。

1月15日 (木)「家庭での古村比呂さん」
26才の時にご結婚、3人の息子を授かり、その後、離婚されます。
しかし、3人の息子たちとの生活をとても楽しんでいるそうで...。
今日は、古村比呂さんの3人の息子と、子育てが終わった後、女優としての復帰するまでのお話です

1月16日 (金)「闘病生活から古村比呂さんが得たもの」
2011年に古村比呂さんは子宮頸がんと診断されました。
子供たちの為に死ねない...。と、古村比呂さんは子宮の全摘出を決意されます。
この体験をされたからこそ、子宮頸がんに対する考え方、そして、男性にも正しい理解をしてもらいたいと、お話下さいました。
今日は、闘病生活を経て古村比呂さんが伝えたい事をお聴きしています。

<プロフィール>
北海道生まれ。1985年、北海道のローカル番組出演中に、景山民夫氏にスカウトされ、上京。クラリオンガール準グランプリに選ばれる。1986年、東映映画『童貞物語』主役で女優デビュー 。21歳のときNHK連続テレビ小説『チョッちゃん』のヒロインを務め、一躍人気女優に。ワーナーパイオニアより「バージンボウイ」でレコードデビュー。

前の10件 4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14