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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

10月27日~10月31日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、高橋みゆきさん

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10月27日(月)
バレーボール一家で育った高橋さん。物心ついた時からバレーボールが側にあったそうです。バレーボールに限らず、水泳やバスケットボールなど、とにかく身体を動かす事が大好きでした。小学生の時に、車にはねられて宙を舞ったことがありましたが、足から着地をし、無傷で何事もなかったように走って家に帰ったそうです。初日は高橋さんのお子様時代を伺いました。

10月28日(火)
中学校でもバレーボール部に入部し、高校はバレーボールの名門、山形商業高校に進学されます。春高バレーでは全国ベスト16まで勝ち進みましたが、オリンピックまでは考えていませんでした。就職も考えましたが、やはり自分にはバレーボールしか出来ないと考え、Vリーグ・NECレッドロケッツに入団します。そして「シン」というニックネームの由来とは?

10月29日(水)
全日本への抜擢は2000年のシドニーオリンピックの年でした。そのオリンピックの最終予選直前だったため、心の準備もなく重圧もありました。結局、予選敗退でオリンピックには出場できませんでした。予選敗退は日本女子バレー初のことだったので、ボールも見たくない、人にも会いたくない、二度とこんな思いをしたくないと思うほど苦しみました。初めての挫折。そして4年後、アテネオリンピックの予選を迎えるのですが...。

10月30日(木)
2004年、アテネオリンピックに出場し8位入賞を果たします。その後、海外リーグに興味を持った高橋さんはイタリアのプロリーグ、ヴェネツィアに移籍します。反対もある中、活動の場を海外に移した時の心情を伺いました。イタリアでとても充実した日々を過ごした高橋さん。イタリア行きを反対していた柳本監督がイタリアまで来て掛けて下さった言葉とは...。

10月31日(金)
2008年には北京オリンピックに出場します。メダルは逃してしまいますが、充実感はあったそうです。一度、バレーボールを離れてみたくなり、NECレッドロケッツを退団します。その後、トヨタ車体に移籍しますが、バレーをやり尽くしたという思いがあり、引退を決意します。最終日の今日は、今後のこと、そして気になる恋愛観も伺いました。

<プロフィール>
1978年(昭和53年)12月25日、千葉県生まれ、山形県山形市出身。小学生の時、スポーツ少年団の監督をしていた父親の影響でバレーボールを始める。山形市立山形商業高校を卒業後、97年NECレッドロケッツに入団。Vリーグ1999‐2000シーズンに、新人賞を獲得。2000年、全日本代表に初招集されるが、シドニーオリンピック出場権を逃すという苦渋を経験。その後、02年のドイツ世界選手権では主将を任される。02‐03Vリーグでは、最高殊勲選手賞を受賞。04年アテネオリンピックに出場し、5位に。05‐06、06‐07と2シーズン続けて、イタリア・セリエAのヴィツェンツァでプレーする。07年9月にNECに復帰し、直後に行なわれた第14回バレーボールアジア選手権ではMVPを獲得し、日本の全勝優勝に大きく貢献。ポジションはウィングスパイカー。現在は幅広く活動中。

10月20日~10月24日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、高橋英樹さん

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10月20日(月) 「厳格な父」
高橋さんは、校長先生だった厳格な父に独特の教育方針で育てられました。「試験は普段の学力を試すものだから一夜漬けなどもってのほか」と言って遊びにつれだしたり、学校でのニックネームが「色男」と言われたのに腹を立てて学校に乗り込んだりしたそうです。高校に入って高橋さんは映画に「はまって」しまいます。よかった学力がつるべ落としのように低下していくのでした。

10月21日(火) 「父の思惑とオーディション」
俳優になりたいという気持ちがあることを知った父親は、一度オーディションを受けさせて落ちれば諦めがつくだろうと、修学旅行に行っている間に日活のニューフェイスに応募してしまいます。ところが、オーディションはあっという間に最終審査。そこをクリアしたところで、父親が日活と交渉。学業が優先。エキストラなどはさせず、役が付いたらやらせるということで、交渉成立。いきなり浅丘ルリ子さんの弟役でデビューとなりました。

10月22日(水) 「桃太郎侍」と「坂の上の雲」
脚が短いということで時代劇をすることになった高橋さん。代表作『桃太郎侍』のお話。クライマックスに派手な格好で登場するあの衣装のモチーフは意外な人物でした。大河ドラマ『坂の上の雲』の長年にわたる撮影秘話も伺いました。

10月23日(木) 「娘 高橋真麻誕生」
共演者だった女性とご結婚。なかなか子宝に恵まれなかったのですが、ついに長女真麻さんが誕生。その時のエピソードです。出産に合わせ撮影のスケジュールを調整していたのですが、終了2日前に陣痛が始まったとの連絡。高橋さんは、翌朝6時に撮影所に向かいます。そこで共演者やスタッフにお願いしたこととは...?

10月24日(金) 「歴史が大好き」
高橋さんが演じたことのある歴史上の人物について時代考証をした本をお出しになりました。
古地図をもって東京を歩くのが大好きなのだそうで、街の名前こそ変われど坂の名前は変わらない。と熱く語ります。最後に演じてみたい役についても伺いました。

<プロフィール>
昭和19年生まれ、千葉県出身。日活にはいり,昭和36年「高原児」で映画デビュー。38年「男の紋章」以来の任侠もので人気スターとなり「人生劇場」「宮本武蔵」ほかに出演した。また「鞍馬天狗」「桃太郎侍」などテレビ時代劇のヒーローとしても活躍,舞台もつとめる。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム 特別編」もあります!ゲストは、石倉三郎さん(パート2)

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10月20日 (月) 「お笑いの世界へ」 
高倉健さんの導きで東映に入ったものの理不尽な扱いに腹を立てた石倉三郎さんは、歌い手さんの方の舞台に出るようになります。舞台に出てはいるけれど、うだつの上がらない状態が続き、これではいけないなと石倉さんは思い続けました。坂本九さんの司会を経て今度は先輩とコンビを組みコントを始めます。また、この頃ビートたけしさんと出会い、良く飲み歩くようになりました。その後キャバレーでの仕事をしているときにレオナルド・熊さんにコンビを組まないかと誘われます。このコンビは評判を呼び、笑点のレギュラーの話まで来ますが、思わぬ理由でこのコンビはうまくいきませんでした。

10月21日 (火) 「コント・レオナルドで人気者に」 
熊さんの様子を見て仕事にならないと感じた石倉三郎さんは、先輩と一緒にマザー牧場で水耕農園を始めます。そこでテレビを見ると熊さんが写っている。お弟子さんとコンビを組んでの出演でした。1週間後に熊さんから電話が来ます。もう一度二人でやらないかという誘いでした。一回でいいからと言われて復帰してみると、皆に戻って来いと言われます。そこで水耕農園をどうやってやめようかと考えていたら、社長から「疲れたからやめよう」と言われたのだそうです。一生で一番悩んだ時、運が強いなと思ったと、石倉さんは話します。復帰してみるとそこは別世界。年収数千万円にもなっていました。熊さんも「儲かりだしたので倒れている暇がない」と、健康を取り戻したのだそうです。

10月22日 (水) 「高倉健さんとの御縁」 
石倉三郎さんとレオナルド熊さんとのコンビはうまくいきましたが、しばらくして解消してしまいます。何度も弟子と一緒に無断で営業をする熊さんに「ふざけんなよ」と思ったのがその理由だったそうです。入院したりして大変だった熊さんは、ギャラの折半が嫌だったのだろうと話す石倉さんです。もともと役者志望だった石倉さんは、武田鉄也さん主演のテレビドラマで役者に復帰します。なんと主演は芸能界入りの恩人だった高倉健さん。「やってるな。潮が満ちてきたな」と言われた石倉さんはとても喜びました。実は石倉さんの芸名も、高倉健さんにちなんでいます。

10月23日 (木) 「石倉三郎 最強伝説」 
石倉さんは喧嘩っ早いと言われていますが、それは正義感からの物。降りる前に電車に乗ってくる人が居たりすると、ついつい怒鳴ってしまうのだそうです。でもタクシーの横取りを咎めて急所を切られてしまった事もあると石倉さんは笑います。たけしさんと一緒にいるときも絡まれるとつい喧嘩になってしまったのだそうです。たけしさんも止めながら結局その中に入ってしまうのだと話す石倉さんです。でも、お酒を飲んだ鴇田は別、石倉さんはヘラヘラしていて決して喧嘩をしないのだそうです。そして、その理由は正義漢の石倉さんらしいものでした。

10月24日 (金) 「家庭での石倉三郎さん」 
石倉さんの奥さんは深川で小料理屋をやっています。ファンだという事で紹介してくれる人が居て、逢ってみてすぐに一緒に住んでしまったのだそうです。当時3人と付き合っていた石倉さんですが、たけしさんにラジオでばらされてしまって別れたのだと当時を振り返ってくれました。奥さんと石倉さんの二人は似たもの夫婦、友人の橋爪功さんは二人の子供を見てみたかったと言っていたと石倉さんは笑います。そんな石倉さんが今やってみたいのは、映画、それも森重久弥さんが演じていた社長シリーズだそうです。でも、大きな問題があると話す石倉さんでした。

<プロフィール>
1946年、香川県出身。主な代表作に2003年「座頭市」 、2006年「犬神家の一族」 、2010年「相棒-劇場版-2」、2011年「ゴドーを待ちながら」(舞台)など。

10月13日~10月17日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、大塚範一さん

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10月13日 (月) 「大塚範一さんがアナウンサーになるまで」
今週のゲストはフリーアナウンサーの大塚範一さん。
これまでを振り返ると、貧しくとも楽しく育ってきました。という大塚範一さん。
少年時代は、ラジオから流れてくる相撲や野球中継をずっと聞いていたそうです。
当時、将来は弁護士になろうかと思っていた大塚範一さんでしたが、どうして、アナウンサーの道を歩む事になったのか、お話をお伺いしました。

10月14日 (火) 「NHKアナウンサー 大塚範一」
少年時代からスポーツ中継が好きで就職したNHKのスポーツアナウンサーとしてキャリアをスタートさせた大塚範一さん。
実は長いスポーツアナウンサー人生で、ある国際的なスポーツの祭典の中継を一度もやったことが無いのだそうです。
また、大塚範一さんがスポーツアナウンサー時代の印象深い思い出話をお聞きしました。

10月15日 (水) 「NHKからフジテレビの顔へ!」
スポーツアナウンサーとして、一番いい時期にオリンピックの中継が出来なかったり、
バラエティ番組ばかり割り当てられたりと、思い悩んでいたそうです。
そんな時、フジテレビから「めざましテレビ」の総合司会のオファーが大塚さんの元に舞い込みます。
フジテレビに移籍した頃のお話をお伺いしています。

10月16日 (木) 「大塚範一さんの闘病生活」
17年半、「めざましテレビ」を無欠勤だった大塚範一さん。
突然の病で入院することになり、「めざましテレビ」から降板することになります。
一時は病状が回復し、番組復帰目前でしたが、病状が悪化しまた病院生活に戻る事になります。
発病してからの闘病生活について、お話して下さいました。

10月17日 (金) 「大塚範一さんのプライベートと夢」
現在も独身でいらっしゃる大塚範一さん。
独り身でいる理由について、色々な噂があるのですが、真実はどうなのか、そこの所をお伺いしてみました。
またこれからの大塚範一さんの夢や野望についてもお聞きしています。

<プロフィール>
1948年東京都生まれ。1973年、早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、NHKに入局。高松、広島、名古屋の地方勤務を経て、1984年に東京に戻り「サンデースポーツスペシャル」「クイズ百点満点」などの司会やスポーツ実況を務める。1994年3月、NHK退局。同年4月よりフジテレビ「めざましテレビ」のメインキャスターを担当し、17年半、フジテレビの朝の顔として、お茶の間の人気を博す。2011年11月、急性リンパ性白血病を発症。2012年3月降板。11ヵ月の入院生活の後、10月に退院。2013年3月、新番組での復帰目前に再発、現在、治療に専念中。

10月6日~10月10日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、杉山愛さん

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10月6日(月)「子供の頃の話」
杉山愛さんは子供のころから活発。小さい頃はフィギアスケートからピアノまで、テニス以外にもいろいろな事をやっていましたが、小二の頃にはもうテニスが一番になっていて、毎日、小学校の帰りにテニススクールに通っていたのだそうです。負けず嫌いで、試合に負けると泣いていたと話してくれた愛さんですが、実際の処、愛さんは試合よりも練習の方が好きだったそうです。
こんな杉山愛さんが中学で入ったサークルは意外な処。週に1回しか活動が無いのでテニスの邪魔にならない、それだけの理由でここに入ったのでした。
 
10月7日(火)「高校生でのプロ入り」
杉山愛さんは、17歳でテニスのプロになります。早いようですが、15歳でワールドジュニアランキングで1位になった事、全日本室内で優勝したこと、そして世界的名選手のナブラチロワから高1の時に1セット取れた事、こうしたことから、早くからプロプレーヤーになろうと思っていたのだそうです。
そして同じころ、通信制の高校に転校します。プロ選手は学校の公休が認められないので出席日数が足りなくなってしまう、だったらツアー先でも勉強できる通信制にしようという考えからでしたが、結果的に良い息抜きになったと愛さんは話ます。
プロになってから、コーチの元に通う時間がもったいなくて一人暮らしを始めた愛さんは、意外と一人暮らしをエンジョイしていました。初めてロールキャベツを作った時は両親も駆けつけてくれたのだそうです。

10月8日(水)「現役時代」
杉山愛さんは25歳の時、突然スランプに陥ります。どうすれば良いかが全く分からなくなってしまった愛さんは、テニスを辞めたいと考えます。でも相談相手のお母さんから、「すべてやりきったの?」と訊かれた愛さんは、逆に解決法をお母さんに尋ね、「見えるわよ」と答えたお母さんにコーチをしてもらうようになります。後に聞いたところでは、「愛らしさを失っている」とお母さんは思ったのだそうです。
基礎からのやり直しで愛さんはまたペースを取戻し、とうとう2000年にはウィンブルドンのセンターコートに立つことができました。そしてそこは小さいころからポスターで眺めていたあこがれの地でした。

10月9日(木)「プロテニス引退」
スランプを脱した杉山愛さんは、女子プロテニスの世界トップ10に名前を連ねるようになります。お母さんと二人の遠征をする生活になりましたが、お母さんというよりはコーチとしての存在が9割以上だったのだそうです。でも、ママと呼んでいたと愛さんは話します。
2009年に愛さんは現役を引退します。肉体的にも精神的にも限界かなと思った愛さんはお母さんに相談したところ、「いいんじゃない」とあっさり言われたのだそうです。次のシーズンの自分の姿を思い浮かべることが出来なくなった事も大きかったと言う愛さんですが、同時に、これ以上ない解放感が気持ちよかったとも話してくれました。

10月10日 (金)「錦織選手の快挙/今後について」
引退して2週間後にゴルフのレッスンをしてもらったのがきっかけで知り合った方と、2年後に杉山愛さんは結婚をします。日本人の顔をしているけれどインターナショナルな人で、自分を受け止めてくれるのはこの人しかいないと思った愛さんでした。
そんな愛さんは今は指導者。錦織選手は本当にすごい!100年に一度の逸材だと話す愛さんは、自分ぐらいのプレーヤーなら居るけれどと、謙遜しながら話してくれました。
でも、テニスプレーヤーはテニスがうまいだけではダメ、総合力が強くないとと話す愛さんには、やはり指導者としての意気込みが感じられます。

<プロフィール>
神奈川県出身。 4歳でラケットを握り、15歳で日本人初の世界ジュニアランキング1位に輝く。17歳でプロに転向し、34歳まで17年間のプロツアーを転戦。グランドスラムでは女子ダブルスで3度の優勝と混合ダブルスでも優勝を経験し、グランドスラムのシングルス連続出場62回の世界記録を樹立。2009年10月、東レパンパシフィックオープンを最後に現役を引退。現在は後世育成活動やコメンテーターとして活躍中。2011年3月に結婚。

9月29日~10月3日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、俳優の関口知宏さん

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9月29日(月)「少年時代と作曲の目覚め」
司会者で俳優の関口宏さんと元歌手の西田佐知子さんの間に生まれた関口知宏さん。最近、自分がお父様に似てきていると感じることが多いそうです。
真面目でつまらない少年だったと語る知宏さんは、中学生の時に自動演奏が出来るキーボードに出会い作曲に目覚めます。それがその後、TVの企画で旅をした時に役立つ事になるのですが...。

9月30日(火)「旅嫌いが旅番組に」
その生まれた環境からか、自分の行く場所は芸能界だと思っていたそうです。
俳優、タレントとして活躍している時、不意にTVの企画で鉄道の旅のオファーが来ます。同じレールは絶対に通らずに、北海道から佐賀県まで乗り継いでいくという内容でしたが、旅は大嫌いだったにも関わらず「勉強」がしたくて、この仕事を引き受けたそうです。そして、この番組で自ら「絵日記」を描き始めます。

10月1日(水)「知っているのに知らなかった風景」
方向音痴の知宏さんは、とても自然体で鉄道の旅を続けていました。
TVで見て、知っていたつもりでいたのに、知らなかった風景がたくさんあることに気付きます。この旅の間、知宏さんはたくさんの曲を作りました。
震災前の女川で作った曲が、震災後にとてもせつなく感じられるのですが、今回はその胸中を語って頂きました。

10月2日(木)「世界を旅して」
鉄道の旅番組は好評を博し、海外の鉄道を旅する番組に発展します。
この時、知宏さんは、海外から日本を見てみたいと思ったそうです。そして実際旅して感じたのは、日本が世界から注目されているということでした。テーマを持たず、ある意味無目的に旅したからこそ見えたものとは、何だったのでしょうか?

10月3日(金)「旅を終え、日本から世界を見て」
今現在は旅を封印。その旅で得たものを発表しないと完結しないと感じ、著書も出版されています。世界を旅してきた知宏さんは、今、日本を、そして世界をどのように見ているのでしょうか? 旅は封印したはずですが、どこかで駆り立てられる思いもあるそうです。旅嫌いの旅人、知宏さんの旅への思いとは?

<プロフィール>
1972年、東京生まれ。立教大学経済学部経済学科卒。1996年フジテレビ「MMR 未確認飛行物体」で俳優デビュー。以後、数々のドラマや司会など多方面で活動。 代表的な番組は2004年から始まったNHK‐BShi鉄道シリーズの「列島縦断 鉄道12,000kmの旅」「列島縦断 鉄道乗りつくしの旅」「関口知宏が行くヨーロッパ鉄道の旅」「関口知宏の中国鉄道大紀行」など。 その後、海外で活躍している日本人を取材するNHK‐BS「関口知宏のファーストジャパニーズ」、日本の若者の活動を取材する「関口知宏のオンリーワン」へと繋がる。 2012年には「日中国民交流友好年親善大使」に就任し、日中の友好に務めた。

9月22日~9月26日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、俳優の石倉三郎さん

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9月22日(月)「 小豆島から大阪へ 」
御両親が、戦争による空襲で大阪から焼け出され、親戚を頼って辿り着いた小豆島でお生まれになった石倉三郎さん。子供の頃はとにかく貧乏で、何をしてもつまらない...そんな日々を送っていたそうです。
しかし、中学生になって引っ越して来た大阪では"貧乏"が笑いのネタになることを知った石倉三郎さんは...。
月曜日は、石倉三郎さんの少年時代を振り返っていただきました。

9月23日(火)「 役者になりたかったら青山へ行け! 」
中学校を卒業して就職した会社の専務さんから「お前は面白いから営業へ行け」と言われ、「俺は面白いのか...だったら三木のり平や植木等みたいな俳優になれるかもなぁ...」と、おおいなる勘違いで会社を辞め、東京に出てきてしまった石倉三郎さん。当然、世の中そんなに甘くはなく、生活費と劇団の月謝を稼ぐために毎日毎日アルバイトの日々。そんな時、バイト先のパートのおばさんから「役者になりたかったら青山へ行け!」という、その後の石倉三郎さんの運命を大きく変えることになる一言が!!

9月24日(水)「 あんた、バカじゃないの?! 」 
アルバイト先の近くにあった喫茶店で高倉健さんと知り合い、高倉健さんから「役者を目指してんの? 東映でいいなら紹介できるよ」と、言われた石倉三郎さん。しかし、その時の石倉三郎さんの返事は、喫茶店のママが「あんた、バカじゃないの?」と、あきれるほど意外なものでした。
結果的には高倉健さんの紹介で東映の大部屋俳優になるのですが、そこでも「あんた、バカじゃないの?」と言われてもしょうがない騒ぎを起こしてしまい...。

9月25日(木)「 周りに当たり散らす日々 」
横柄な態度のスタッフをポカリとやってしまったのが遠因で東映を辞めてしまった石倉三郎さん。そんな時、「俺のショーの司会をやらないか?」と声をかけてくれたのが坂本九さんでした。その後、「よかったらマネージャーをやってくれ」と言われるまでになった石倉三郎さんでしたが、役者になる夢はあきらめきれず...。
木曜日は、役者になる夢を持ちつつも、現実は劇場でコントをやるしかなく、そのどうにもならない想いを周りに当たり散らしていたという、石倉三郎さんのくすぶり続けた日々。

9月26日(金)「 レオナルド熊さんとの出会い ‐ ラッキーパンチ 」
『チャップリンンズ』というコンビでコントの舞台に立っていた石倉三郎さんの前に突然現れ、「俺と組もう!」とコンビ結成を持ち掛けてきたのがレオナルド熊さんでした。「熊さんと組んだ方が面白いな...」と感じた石倉三郎さんは、ふたりで『ラッキーパンチ』を結成。『笑点』や『花王名人劇場』からの出演依頼が舞い込むような注目のコンビとなったのですが、そんなチャンスが巡ってくる度に、相棒の熊さんが体調不良で倒れるという悪循環に陥り...。
最終日は、『コント・レオナルド』の前身コンビである『ラッキーパンチ』の結成から解散まで。
そして、この後の話は、また日を改めまして...。

<プロフィール>
1946年、香川県出身。主な代表作に2003年「座頭市」 、2006年「犬神家の一族」 、2010年「相棒-劇場版-2」、2011年「ゴドーを待ちながら」(舞台)など。

9月15日~9月19日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは作編曲家 服部克久さん

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9月15日(月) 「笑顔とラーメンで続けたピアノ」 
服部良一という昭和の大作曲家を父に持つ服部克久さん。家には笠置シヅ子さんや灰田勝彦さんなど昭和の大スターが歌の練習に来ていたそうです。大スターの素顔をよく見ていた服部さんは、「若いうちからピアノでもやっておけば?」という母の勧めでピアノを始めます。あまりピアノは好きではなかったのですが教則本のレベルが上がるとご褒美に駅前のラーメンが食べられた。この時の親の笑顔とおいしいラーメンが食べたくてピアノを続けられたのだそうです。

9月16日(火) 「三拍子のハンカチ」 
中学、高校時代、周りで音楽をやっている人が何人かいた。仲間とバンドを組んで服部さんはピアノとアレンジを担当します。服部さんの初アレンジ作品は「第三の男」。イケメンメンバーにギターを弾かせ大うけしたそうです。そして、その後、母の勧めでパリに留学することになります。神戸の港から船で渡仏するとき、たくさんの見送りの人の中で父親がハンカチを三拍子で振っていたのですぐに見つけられたそうです。そして服部さんの人生の中で最も音楽の密度が濃い3年間が始まります。

9月17日(水) 「初仕事とダークダックス」
帰国後、父親の紹介などで放送局のお偉いさんなどに面会するが仕事にはなかなか結び付かなかった。ある日、日本テレビの前を歩いていると、高校時代のバンドの仲間が声をかけてきた。テレビ番組を作っているから、ダークダックスのアレンジをやらないかと誘われます。ダークダックスは当時、今の「嵐」のような大人気グループ。民謡をフランス歌曲風にアレンジして認められ、服部さんの仕事キャリアがスタートします。ダークダックスとソ連(ロシア)を回った思い出も語っていただきました。

9月18日(木) 「音楽のDNA」
息子で音楽家の服部隆之さんには、音楽家になれと一切言っていなかったが、結局音楽家になった。唯一のアドバイスは「いいメロディーが浮かんでくるのは30歳までだから、頭に浮かんだものは書いておけ」今年、服部さんは10年ぶりに21作目となる作品集「音楽畑」をリリースします。ご自分が作った作品をもっと大事にしたらどうだといわれたことがきっかけ。父親の服部良一さんからの感想の手紙はとてもうれしく今も大事にしまってあるそうです。

9月19日(金) 「これからの音楽活動」
10年前に無理がたたって病気をした服部さん。それまでは大きな仕事が終わると、出来不出来にかかわらず飲みに行っていた。お酒はそんなに強くないのですが、その時にいろんな人と語り合うのが次の仕事につながるのだそうです。でも、病気をきっかけに今までとは違う音楽が出てくるようになった。新しいこと、音楽にはまだまだ挑戦していきたい。一つでも多く残していきたいと思うようになったそうです。

<プロフィール>
フランス、パリ国立高等音楽院修了。
日本を代表する作編曲家として、映画「連合艦隊」、アニメ「トム・ソーヤの冒険」、フジテレビ「ミュージックフェア」、NHK 連続ドラマ「わかば」をはじめ幅広い分野で活躍。音楽家という枠を超え、イベント・プロデューサーやピアニスト、指揮者、司会者としてテレビに出演するなど、才気あふれる活躍が注目を浴びている。現在、日本作編曲家協会会長、東京音楽大学客員教授。

9月8日~9月12日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは池波志乃さん

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9月8日(月)「池波志乃の少女時代」
落語家一家で生まれ育った池波志乃さん。
東京の下町で育ち、小さい頃は子供達の「親分」的な存在だったという志乃さん。
生まれ育った環境から、自然と芸事の道へ向かう
池波志乃さんの少女時代についてお話いただきました。

9月9日(火)「女優 池波志乃 デビュー。」
「女優になりたい。」と、お父様に相談を持ちかけたところ、池波志乃さんの決意を確認した翌日、お父様は学校に退学届けを出されたそうです。
その後、芸事の勉強を皮切りに劇団を経て、テレビ時代劇「女ねずみ小僧」で女優デビューされます。
今日は、女優としてデビューまでのお話や、芸名「池波志乃」についてお聴きしました。

9月10日(水)「中尾彬と池波志乃」
当時、週刊誌を賑やかしていた「中尾彬」さん。
出会った当時は礼儀正しかった中尾彬さんを警戒していたそうでしたが、
食の話、本の話などで意気投合、二人は人生のパートナーとして歩んでいくことになるのでした。
今日は二人の馴れ初めや、中尾彬さんの人柄についてお話をお伺いします。

9月11日(木)「書評家・エッセイストとしての池波志乃。」
ずっと同じ様な役柄・同じような年齢の配役が続き、さらに、ご家庭の事情が重なり、池波志乃さんは女優としての魅力を見失い休業してしまいます。
休業中、これまでの繋がりから、書評の仕事が舞い込みます。
もともと、本が好きな池波志乃さんは、この仕事に飛びつきますが...。
今日は、女優を休業していた頃のお話をお伺いします。

9月12日(金)「これからの池波志乃」
現在、沖縄と東京を行き来している池波志乃さんと中尾彬さん。
中尾彬さんの意外なエピソードや、沖縄での生活や沖縄暮らしの魅力について、お話をお聴きしています。
そして、池波志乃さんのこれからの目標・生き方についてもお聴きしました。

<池波 志乃>
1955 年、東京都出身。父は十代目金原亭馬生、祖父は古今亭志ん生という落語界の名門に生まれ、俳優小劇場養成所を経て新国劇に入る。73 年ドラマ『女ねずみ小僧』でデビュー。74 年NHKドラマ『鳩子の海』で注目され、以降『悪魔の手毬唄』『鬼平犯科帳』など映画、テレビドラマ、舞台で活躍。無類の読書好きにして日舞などの伝統芸能にも造詣が深い。近年は沖縄にも住まいを持ち、2005 年には沖縄ミュージシャンを支援する音楽事務所【オフィスSHINO】を設立した。

9月1日~9月5日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは水沢アキさん

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9月1日(月)「英語好きだった中学時代」
東京生まれの水沢アキさんはお父様が教育者ということもあり、とても厳格な家庭で育ったそうです。中学生の頃から英語に興味を持ち、英語を勉強して世界で活躍するのが夢でした。英語のラジオ放送を聞き、TVもアメリカの香りがする番組が好きだったとか。高校1年くらいから芸能界にスカウトされるようになり、お父様の留守中に受けたオーディションが人生の転機になるのですが...。

9月2日(火)「家族に内緒のオーディション」
ご両親に内緒で受けたオーディションでドラマの出演が決まります。お父様は大反対で契約書を破いてしまいましたが、お母様がその契約書を丁寧にテープで貼って修復して下さったそうです。その時出した契約書が芸能界入りのきっかけになりました。歌手デビューもしました。その後文化放送の深夜ラジオ番組「セイヤング」のパーソナリティも務められます。

9月3日(水)「アメリカ留学の日々」
水沢アキさんは24歳の時にアメリカに留学します。しかし、自分の語学力の低さにショックを受け、3ヶ月で日本に戻って来てしまいます。その挫折で水沢さんが学んだものとは?その後、TV番組のレポーターとして世界中を駆け巡り、ヌードにもチャレンジされます。何故、水沢さんはヌードにチャレンジしたのでしょうか...。

9月4日(木)「憧れの結婚生活」
1986年、31歳の時にアメリカ人の実業家と結婚されます。
中学の頃から外国人の男性と結婚してハーフの子供を産みたいという願望がありましたが、それが叶います。しかし、幸せだった結婚生活は7年でピリオドを打つことになります。家庭と女優としての生活、その時の心情を吐露して下さいました。

9月5日(金)「この世に生きているのはヒップホップのおかげ」
ずっと趣味で続けているヒップホップダンスを踊っている時が一番幸せと語る水沢アキさん。子供の反抗期などで辛かった時、嫌なことを全て忘れさせてくれ、自分を支えてくれたのはヒップホップでした。今は恋愛をしている暇もなさそうです。また、TVドラマへの熱い思いも語って下さいました。

<プロフィール>
高校在学中にスカウトされ、1972年、17歳のときに、TBSドラマ「夏に来た娘」で600人の応募の中より主役デビュー。1973年、CBSソニーより「娘ごころ」で歌手デビューし、アイドルとしても大活躍。その後、女優として「天下堂々」「ザ・商社」など多数のテレビドラマを中心に、舞台・映画に多数出演。また、NHKの「連想ゲーム」ではキャプテンをつとめ、頭の回転の速さ・行動力と明るさから、女優としてだけでなく、司会、コメンテーター、リポーター、講演など幅広い分野で活躍。現在2児の母。

8月25日~8月29日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは桃井かおりさん

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8月25日(月)「 アヒルの居場所 」
今週のお客様は、椿鬼奴さんでも清水ミチコさんでもありません。本物の桃井かおりさんです! お祖母様の影響で幼いころからクラシックバレエを始め、海外留学も経験なさった桃井かおりさん。そこで感じたのは「この場所では、私はアヒル。白鳥にはなれない...」という、あきらめだったそうです。しかし、そんな時、たまたま見たお芝居で「アヒルでも何とかなりそう...」という自分の居場所を見付け...。月曜日は、桃井かおりさんが俳優を目指す最初の最初の話。

8月26日(火)「 デビュー映画で脱ぐということ 」
田原総一朗さんが監督を務めた作品で本格的な映画デビューを飾った桃井かおりさん。デビュー作にして、いきなりの大胆な濡れ場があったそうなのですが、それを知った桃井かおりさん、"あるモノ"を買いに本屋さんへ走ったそうです。果たしてその"あるモノ"とは? 火曜日は、デビュー映画で濡れ場を演じたことについての心の葛藤を振り返っていただきました。これについては、ご両親もかなりショックが大きかったそうです。

8月27日(水)「 幸福の黄色いハンカチ 」 
「どうなの、この映画?」と、疑問を持ちながら撮影していたという、映画「幸福の黄色いハンカチ」。しかし、完成した作品を見た桃井かおり」さんは、天下の山田洋次監督に思わず、「上手ですね、監督ったら」と、感想を述べていたそうです。これには山田洋次監督も...。水曜日は、映画「幸福の黄色いハンカチ」の撮影裏話を中心に、後半は、恋多き女・桃井かおりさんの恋愛観・結婚感が明らかになります。

8月28日(木)「 桃井かおり、『 映画 』というお仕事 」
ハリウッド映画「SAYURI」に出演したのを機に、海外の数多くの映画に出演している桃井かおりさん。そのほとんどが新鋭実力若手監督のインディーズ映画で、出演料も格安とのことなのですが、そこには未来を見据えた、ちゃんとした戦略があるようです。詳しくは放送で!それにしても、お話を伺えば伺うほど実に合理的で、楽しそうで、いつまでも夢を見続けられる仕事のやり方だなぁ...と、思えるのでありました。

8月29日(金)「 言葉なんか関係ない! 」
夢は「バルト三国と日本の合作映画を作ること」と語る、桃井かおりさん。中でもラトビアでは日本の大使よりも知られた存在なんだとか。そんなわけで、最終日は、日本ではなかなか聞けないバルト三国の情報を!前日の木曜日の放送でも仰っているのですが、海外の方と交流するのには、言葉なんかそんなに重要な要素ではないそうです。

<プロフィール>
昭和27年生まれ。東京出身。女子美大付属高卒。昭和46年「あらかじめ失われた恋人たちよ」で映画デビュー。「赤い鳥逃げた?」やテレビドラマ「前略おふくろ様」で注目される。52年「幸福の黄色いハンカチ」などに出演し,54年「もう頬づえはつかない」「神様のくれた赤ん坊」でブルーリボン賞主演女優賞を受賞。平成19年監督作品「無花果の顔」でベルリン国際映画祭NETPAC賞。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 特別編」(お昼12時半過ぎ)もあります!ゲストは、THE ALFEEさん。 alfee_kunimaru.jpg

8月25日(月) 「ALFEE結成秘話」
アルフィーの3人は同学年、出会いは高校3年の頃でした。音楽コンテストで坂崎さんと桜井さんは共演、なんと前日にたまたま出会って意気投合した二人でしたが、のちの高見沢さんとの出会いもこんな感じでした。 音楽的方向には違いはありましたが、「おもしろいやつ」とお互いに思ったメンバーは大学入学後に、名前をアルフィーに代えてデビューします。 少しずつ人気が出てきたアルフィーでしたが、どうしてもヒット曲には恵まれません。そんな中での苦労話を、作曲担当の高見沢さんが話してくれています。

8月26日(火) 「制作担当 高見沢さん」 
楽曲の制作担当は高見沢俊彦さん。ヒット曲が出ない間はプレッシャーを感じ、やっとヒット曲が出たと思ったら「今が大事」と言われてまたプレッシャー。気が付いたらずっとプレッシャーを掛けられていると高見沢さんは笑います。
他のメンバーに言わせると高見沢さんの感性は変わっているのだそうで、○○みたいな曲と言って持ってきた曲が全然似ていないという事が良くあるのだそうです。高見沢さんに言わせるとそれは違うという事なのですが・・・・。
曲は「英雄の詩」 BGMは「See you again」「恋人たちのペイヴメント」

8月27日(水) 「フォークの伝道師 坂崎さん」 
坂崎さんは収集家。いろいろな物を収集しています。研究家肌なので一つのものを集め出すとその資料も多くなってしまうと話す坂崎さんです。そんな坂崎さんはフォークも大好き。60年代後半から75年までのフォークなら任せて!坂崎さんはいろいろな人と共演しています。実はアルフィーのメンバーは皆お笑いが好き。ピグモンのモノマネなど、人を笑わせるのが好きな坂崎さんは、ライブの間にお客さんが飽きてきたらモノマネをやって笑わせるんだとこれまた笑いながら話してくれました。

8月28日(木) 「アルフィー創設者 桜井さん」
ご本人曰く、趣味は特にないという桜井さん。アルフィーとして活動を始めた頃は貯金が趣味だったのではないかと坂崎さんの指摘がありましたが、桜井さんによればこれは楽器を買うためだったのだそうです。ドラムセットが欲しかったけど、ボーカルからベースに転向した時だったので、泣く泣くベースギターを買った桜井さんでした。当然、ベースギターを練習し始めたのはプロデビューしてからだったのだそうです。桜井さんは落語が大好き、そしてテレビとお酒も大好きです。他のメンバーとも一緒に飲み歩いていた80年代は全く記憶に残っていないと、メンバー全員で笑いながら話してくれました。

8月29日(金) 「これからのTHE ALFEE」
アルフィーがデビューした頃、バンドのメンバー同士が仲良しすぎると周囲から言われたのだそうですが、メンバーは気にしていません。だからこそ面白いトークができ、アルフィーの本質であるライブステージもうまくいくと三人は話してくれました。でも、三人の目標はいろいろ、もっとお酒が飲みたい桜井さん、これ以上収集を増やさないように気を付けている坂崎さん、ギターの衝動買いを続けたい高見沢さん。でも、良く聞いてみると、ずっとずっと仲良しで居ることが一番の目標であることを暗に教えてくれたアルフィーの三人でした。

<プロフィール>
1973年、明治学院大学キャンパスにて出会いグループを結成、翌1974年8月25日シングル『夏しぐれ』でデビュー。1983年、デビュー10年目にしてシングル『メリーアン』が大ヒット。以降、日本の音楽シーンを代表するバンドとして活躍している。2013年11月リリースのTHE ALFEE 63枚目のシングル「GLORIOUS」は、チャート紙に48作品連続ベスト10入りを果たしている。一方、コンサートツアー・イベントと精力的な活動を続けており、海外公演は1998年「ニューヨーク」、翌1999年には「ベルリン」にて成功をおさめている。日本のアーティストの中でも最もコンサートの動員数が多いグループの一つであり、1986年の夏の野外イベント、東京湾13号埋立地における『 TOKYO BAYAREA』では日本人アーティストとして初の一夜で10万人を動員。ライブ通算本数は2013年秋ツア-終了時に2,444本を迎える。

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