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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

2月11日~2月15日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、高須クリニック院長の高須克弥さん

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2月11日 月曜日 「医者一家に生まれて」
江戸時代は徳川家康の侍医だったという、代々続く医者の一族で生まれた高須さん。お父さんが早くに亡くなり、お祖母さんとお母さんに育てられました。小中学校時代の高須さんは、ずばり「いじめられっ子」。家がお金持ち、色白で太っている、勉強はできるが態度が大きく先生の間違いを指摘する・・・いじめられる要素満載!と胸を張る高須さん。当時の思いは?

2月12日 火曜日 「美容整形との出会い」
当然のように医師の道を志し、昭和大学医学部に進学した高須さん。高須一族に整形外科医がいなかったので、整形外科を選びました。学業優秀で、1年生のときに既に卒業論文を書き上げていた高須さんは、大学院生のとき西ドイツに留学し、現地の先生が自分の鼻を小さくするという手術を見学し衝撃を受けます。今日は高須さんが美容外科と出会うきっかけのお話です。

2月13日 水曜日 「高須クリニック開業」
美容整形の道に進むと決めた高須さん、親戚一同から「医者の家系の面汚しだ」とバッシングを受けましたが、尊敬するお祖母さんが、耳鼻科医のはずなのに「実は私もやっていた。だからやってみな」と背中を押してくれます。その後名古屋でいよいよ高須クリニック開業。いちばん最初の患者はお母さん。まぶたがたるんできたのを直してあげたそうです。

2月14日 木曜日 「自分の体、張ってます」
高須さんの信条は「新しい技術は、まず自分の体で試す」。自ら体を張って新技術を開発する高須さん、注射や麻酔も自分で試していれば、患者さんに対して誠実に向き合えます。高須さんは、クリニックに訪れる患者さんに対して「いじらないほうがいいよ」と言うほうが多いのだそうです。そんな高須さんに、野村邦丸の顔を仮に「お直し」するとしたらどこを直すかを直撃!

2月15日 金曜日 「西原理恵子さんと交際宣言」
漫画家の西原理恵子さんとの交際を発表した高須さん。もともと仲良しだった二人、西原さんの離婚した元旦那さんがガンになり、高須さんが復縁を勧めたことで、西原さん一家は最後の半年を家族で幸せに過ごすことができ、そんな出来事から高須さんと西原さんも絆が深まりました。最新刊「その健康法では早死にする!」は、小太りがいちばん長生き!と提唱、野村邦丸も深く納得の一冊です。

<高須克弥>
1945年1月22日、愛知県生まれ。医学博士(昭和大学、1973年)。
医療法人 社団福祉会 高須病院理事長。昭和大学医学部形成外科学客員教授。美容外科「高須クリニック」院長。
東海高校、昭和大学医学部卒業。同大学院医学研究科博士課程修了。大学院在学中から海外へ(イタリアやドイツ)研修に行き、最新の美容外科技術を学ぶ。「脂肪吸引手術」を日本に紹介し普及させた。江戸時代から続く医師の家系。人脈は芸能界、財界、政界と多岐にわたり幅広い。金色有功章、紺綬褒章を受章。

2月4日~8日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、藤山直美さん

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2月4日月曜日  「私は王貞治さんのファンなんです。」
家が常に借金の抵当に入っていたという藤山家。子供のころ子役をしていた藤山さんは、割と世の中を冷めて目で見ていたようです。近所の友達とはよく遊んでいたそうで野球をよくやっていたそうです。野球は巨人のファン。なぜならそこに王貞治さんがいたから。V9時代の巨人の選手の名前がどんどん出てきます。そして今はソフトバンクのファンなのだそうです。理由はそこに王さんがいるから。でも初恋の相手は意外な方でした。

2月5日火曜日 「父親の舞台は見ないで歌舞伎に夢中」
中学一年の時に当時の市川猿之助の歌舞伎を見て、ノックアウト。もうそれからは歌舞伎通いの青春時代が始まります。藤山寛美さんが東京で公演をしているとき友達と東京の新橋演舞場に遠征。お金は父親の寛美さんが払っているのに、寛美さんの舞台は一度も見なかった。
1泊2日で4回の舞台を見て帰って行ったそうです。世の中は新御三家が人気なのに、「成田屋~!」とどこで声をかけるかに青春をかけていたそうです。もちろんセーラー服で...

2月6日水曜日 「喜劇役者になったきっかけ」
喜劇役者になるとは思っていなかったのに、父親の死がきっかけでやることになった直美さん。
今となっては藤山寛美の舞台をもっと見ておけばよかったと思うそうです。
普通の女性として結婚して子供産んで過ごしていくと思っていたのにそうはいかなくなった。
中には父親の演劇のスタイルをそのまま受け継ぐと思っている人もいたそうです。直美さんは10年後、20年後に期待に添えるようにできればいいのではないかと思っているそうです。

2月7日木曜日 「歌舞伎愛と高校野球」
NHKの朝のドラマに主演で人気、認知ともにうなぎ上りに。志村けんさんが藤山寛美さんの舞台をやることに。とてもうれしかったそうです。直美さんは志村けんさんに「バカ殿」に出たい!とリクエスト。バカ殿の妹役で出ることになりました。一方、今でも歌舞伎への愛は変わらず。見られない日が続くと禁断症状が出てくるそうです。1日でも休みがあれば大阪の舞台を見に行くそうです。特に苦ではなくそれがもう日常化しているそうです。そして、高校野球の話へと進んでいきます。なぜか四国勢が好きなのだそうです。

2月8日金曜日 「舞台の話、今後の藤山直美」
芸能界に友達がいない、付き合いが本当に悪い女なんですと直美さん。でも普通の学校時代からの友達はたくさんいるし、しょっちゅうあっているそうです。それが楽しい。
明治座で現在公演中の舞台は「かたき同志」三田佳子さんと共演。
役者としては今後、普通の近所のおばさんの役としてやっていられたらいいなぁと話す直美さん。個人的な望みはあまりないそうです。あれもこれも望みがあっても、この頃は、一つ二つできただけでも感謝しないといけないと思うなのだそうです。この言葉には邦丸さんも深く納得。

<藤山直美>
昭和33年、大阪市生まれ。松竹新喜劇座長、故藤山寛美の三女。3歳のときNHK大阪制作の「桂春団治」に父親と一緒に出たのがテレビ初主演。ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」の子役オーディションに合格して初舞台を踏む。以来、父と共演した「追分供養」、NHKテレビ小説「心はいつもラムネ色」(昭和60年)などに出演したほか、「おんなは度胸」(平成3~4年)で人気を博し、初の主演映画「顔」(平成12年)に於いて数多くの賞を獲得。一方、父・藤山寛美氏の死後は松竹新喜劇で座長格として公演を行う。

1月28日~2月1日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、伊吹吾郎さん

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1月28日(月)「 高校時代はギターに夢中 」
北海道のご出身で、小さな頃から「もの作り」が好きだったという伊吹吾郎さんは、エンジニアを目指して北海道釧路工業高等学校に入学。そこで出会ったのが、今や伊吹吾郎さんの生涯の趣味ともなっている「ギター」でした。
今日は、女性よりもギターに夢中だったという、伊吹吾郎さんの学生時代を振り返っていただきました。

1月29日(火)「 俳優になった理由、それは... 」
東宝のニューフェイスに合格して東宝俳優養成所に通い始めた伊吹吾郎さんでしたが、養成所に行ったのはほんの数日。完全なる劣等生だったそうです。それもそのはず、伊吹吾郎さんが俳優を志した理由は「○○○○○」なのですから! 詳しくは放送をお聴きください。

1月30日(水)「 ドラマ『 無用ノ介 』、オーディションで大失敗! 」
ある日、事務所に言われるがままに時代劇ドラマ「無用ノ介」のオーディションを受けに行った伊吹吾郎さん。初めての時代劇で、しかも原作を読んでいなかったため、オーディションでは数々の致命的な失敗をしてしまったそうです。しかし、それにもかかわらず見事に主役の座を獲得。
それは、一時は北海道に帰ろうとさえ思った伊吹吾郎さんの人生が逆転した瞬間でした。
今日は伊吹吾郎さんの出世作「無用ノ介」でのエピソードを伺っています。

1月31日(木)「 三代目 渥美格之進 」
1983年から17年間、ドラマ「水戸黄門」で三代目 渥美格之進役をお務めになった伊吹吾郎三さん。同時期に黄門様役に抜擢された西村晃さんが「自分なりの笑い方」で東野英治郎さんとの違いを出そうと試みたのに対し、伊吹吾郎さんは「自分なりの印籠の出し方」にこだわっていたそうです。今日は、伊吹吾郎さんに、その"こだわりの印籠の出し方"を熱く語っていただいたのですが、ラジオなのでリスナーのみなさんにちゃんと伝わるかどうか...それだけが心配です。

2月1日(金)「 時代劇の復活を願う 」
今日は、ドラマ「水戸黄門」でずっと一緒に撮影していてウマが合ったという、助さん役 の あおい輝彦さんとのエピソードなどを伺っています。
後半は、最近の時代劇事情についての伊吹吾郎三さんの忌憚のないご意見、また、時代劇に対する熱い想いをたっぷりと!


<伊吹吾郎>
昭和21年1月2日、北海道爾志郡生まれ。
国士舘大学工学部在学中に日本映画テレビ演劇学院に入る。
41年、東宝第7回ニューフェイス、東宝俳優養成所に入所。
42年、東宝現代劇11期生。テレビデビュー作は「無用ノ介」。
「水戸黄門」第14部より格さんこと渥美格之進役を17年間務める。
TV「必殺仕事人」、映画「戒厳令の夜」「任侠」ほかに出演。

1月21日~1月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、工藤夕貴さん

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1月21日(月) 「工藤夕貴さんの少女時代」
工藤夕貴さんのお父様は歌手井沢八郎さん。
有名人の娘として、小さい頃から色々とご苦労をされていたんだそうです。
そんな工藤夕貴さん、言いたいことは言う!という性格だったらしく、小学校の頃、クラス全員を敵に回してディベートを行ったそうなのですが、結果は引き分け。今でも納得がいってないそうです。
今日は工藤夕貴さんが芸能界デビューする前までのお話をお聴きしました。

1月22日(火)「アイドルとして芸能界に」
中学1年生の頃、アイドルとしてデビューした工藤夕貴さん。
『自分には合わない仕事を我慢してやっているのに結果がなかなか出ない...。』という状況が嫌で仕方が無かったそうです。
その一方で、映画「逆噴射家族」「台風クラブ」など話題の作品に出演し、15歳の頃には「アメリカの映画に出演したい」と思うようになっていったそうです。
今日は、工藤夕貴さんがアイドルとして活躍していた時のお話をお伺いしました。

1月23日(水)「工藤夕貴、海外進出!」
工藤夕貴さんが、アメリカの映画に出演する事を夢見ていた頃、カンヌ映画祭の最優秀芸術貢献賞を受賞した作品「ミステリートレイン」への出演依頼が舞い込んできます。
その後、映画「ピクチャープライド」など出演、日本と海外を行き来していたそうですが、「アメリカで勝負したい!」という気持ちから、アメリカに活動の拠点を移すことになります。
今日は、海外で活動を始めた頃のお話しをお伺いしました。

1月24日(木)「アメリカでの生活」
活動の拠点をアメリカに移した工藤夕貴さん。
待っていたのは、オーディションの日々と厳しい現実でした。「日本からの収入が減る一方で仕事がない...。」そんな状況を打破する為に、アルバイトを始めますが、そこで気が付く事、気が付かされる事が多かったそうです。
今日は、アメリカで生活していた頃のお話をお聴きしました。

1月25日(金)「これからの工藤夕貴さん」
静岡県の朝霧高原で自給自足の生活をしている工藤夕貴さん。
土と触れ合いながら生きる事、近所の人達との交流など、充実感で満たされた生活を送っているそうです。そんな工藤夕貴さんは映画「カラカラ」にご出演されています。
今日は映画「カラカラ」のお話を中心に工藤夕貴さんのこれからについて、お話をお聴きしています。


<工藤夕貴>
東京都生まれ。「逆噴射家族」で映画デビュー、ヨコハマ映画祭最優秀新人賞を受賞。「台風クラブ」の好演でも注目され、「戦争と青春」では日本アカデミー賞優秀主演女優賞、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞。89年、ジム・ジャームッシュ監督の「ミステリー・トレイン」に抜擢され、その演技でインディペンデント・スピリット賞主演女優賞にノミネートされる。その後も「ピクチャーブライド」、「へヴンズ・バーニング」、「ヒマラヤ杉に降る雪」、「SAYURI」(2005)、「インプリント~ぼっけえ、きょうてえ~」、「佐賀のがばいばあちゃん」、「ラッシュアワー3」、「L change the World」などの国内外の映画に出演。
また、05年3月よりロサンゼルスから静岡県の朝霧高原へ居を移し、自給自足の生活を実践している。

1月14日~1月18日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、伊集院静さん

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1月14日 月曜日 「ミスター長嶋に憧れ、立教大学へ」
1950年、山口県で生まれた伊集院さん。少年時代は野球少年でした。
高校野球の県予選で、あの山本譲二さんのいる高校と対決します。お姉さんの旦那さんが巨人の選手で、後楽園球場に野球を見に行った伊集院さんは、憧れの長嶋茂雄さんと対面。そこでミスターが言ったひとこととは・・・?

1月15日 火曜日 「伊集院静・誕生」
ミスター長嶋に誘われて立教大学に進学した伊集院さんですが、ヒジを壊して野球をやめてしまいます。親から勘当された伊集院さん、横浜の街で荒くれ者を相手にボディガードやバーテンダーをして学費を稼ぎます。卒業後は広告代理店に就職。ここで、現在のペンネームとなっている「伊集院静」を初めて使うことになります。「伊集院静」誕生までのエピソードです。

1月16日 水曜日 「小説家デビュー」
広告代理店を辞めた伊集院さんは、カバンを持ってあてどなく横須賀線に乗り、逗子に降り立ちます。そこで逗子「なぎさホテル」の支配人と出会い、ホテルに住み着くのですが、この時期に最初の小説「皐月」を執筆します。小説と並行して、作詞家としても活動していた伊集院さん、マッチの「ギンギラギンにさりげなく」や「愚か者」の作詞を手がけます。マッチとの興味深いエピソードを話してくれました。

1月17日 木曜日 「夏目雅子さんのこと」
2番目の奥様、故・夏目雅子さんとのことについて、伊集院さんはまだ誰にも、何処にも話していないという秘話を教えてくれました。雅子さんを失った伊集院さんは、「途方に暮れる、というのはこういうことなのかとわかった」というくらい、文字通り途方に暮れ、酒やギャンブルに溺れた日々を過ごします。そして、師匠となる色川武大さんとの出会い。失ったもの。得たもの。無頼派作家と言われる「作家・伊集院静」の真髄に迫ります!

1月18日 金曜日 「別れる力」
現在は奥様の篠ひろ子さんと仙台にお住まいの伊集院さん。東日本大震災は作家・伊集院静にとっても大きな出来事だったそうです。新刊「別れる力」では、大切な人との数え切れない別れを経験してきた伊集院さんの考える「別れる力」についてお話いただいています。


<伊集院静>
1950年山口県防府市生まれ。72年立教大学文学部卒業。81年短編小説『皐月』でデビュー。91年『乳房』で第12回吉川英治文学新人賞、92年『受け月』で第107回直木賞、94年『機関車先生』で第7回柴田錬三郎賞、2002年『ごろごろ』で第36回吉川英治文学賞をそれぞれ受賞。

1月7日~1月11日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、綾小路翔さん

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1月7日(月)「子供のころの話」
小学校ではそこそこなんでもできる子供でしたが、中学になったらいろんな子供が集まり、
上には上がいるもので、これでは1番にはなれないと内心思っていたそうです。
ぐれる要素があるような家庭環境でもなかったし、世の中にも不満がなかったのですが、
最後のころのツッパリ文化をかじってしまった。家では部屋でラジオをよく聞いていたそうです。
オールナイトニッポン出演を夢見て、家でDJの練習をよくしていたそうで、そのころのカセットは今も残っているそうです。

1月8日(火)「中学で目覚めた音楽(?)」
空前のバンドブーム。イカ天などが流行っていたころ、殴りっこでは1番にはなれないと感じていた綾小路翔さん。とんねるずのTV番組でヤンキーがバンドに目覚めるというコントを見て「これだ!これなら同級生誰もやっていない」ということで早速バンドを結成。
最初からオリジナル曲でやっていたそうです。その頃作った曲がのちに氣志團のメンバーにアレンジしてもらい矢島美容室の「ニホンノミカタ」になって行きます。木更津にはライブハウスがなかったのでダンスホールと交渉してライブハウスを作っりグッズも自分たちで作り、Tシャツなども作って売っていました。
その後、東京に出てきたのですが、生活するだけで精一杯の2年間を過ごしてしまったのだそうです。

1月9日(水)「バンド活動再開、ボーカル綾小路翔誕生」
高円寺のライブハウスでバイトを始め、バンド活動を再開。
やっていたバンドはボーカルがいないインストゥルメンタルバンド。
そこで、バンド名氣志團が決まります。学ランのスタイルもこのころ確立。
演奏はめちゃくちゃだったが、綾小路さんのしゃべりで時間稼ぎをしていた。でも演奏が始まったら帰ってしまう。歌ものをやろうということになり、綾小路さんはギターを首から降ろします。ボーカル綾小路翔が誕生したのでした。

1月10日(木)「ワンナイトカーニバルは目の上のたんこぶ」
プロデビューの話があったがメンバー全員が反対。でも綾小路さんはメンバーを説得してプロデビューを果たします。最初、メンバーの中では評価が低かったのですが、綾小路さんは友達の女性たちをサクラとして使って高評価を演出して納得させます。
これで人気者になったのですが、この曲をなかなか越えられないという壁にあたり、メンバーは悩みます。ノリで作った曲が、自分の感性の上を行ってしまう。それから脱却できるかが今年の課題だそうです。

1月11日(金)「2013年の氣志團はなんでもアリ」
DJ OZMAは遊びでやっていたと明言。かなり強気のライブをしていたし、自身もあった。でも、一番ではないかもしれないと感じ2011年名だたるミュージシャンとライブで共演。2013年の氣志團はどうなるのか?初心忘るべからず。氣志團はなんでもアリ。何ができるのか、トライして見たいと決意を新たにする綾小路さん。もう怖いものはない、弱点も分かってきた。ツアーも決まり皆さんに本気の氣志團をお示ししたいと意気込みます。


<綾小路翔>
ヤンクロックバンド「氣志團」の團長。 1997年、千葉・木更津にて氣志團を結成。2001年メジャーデビュー。TBS系ドラマ「木更津キャッツアイ」出演、 自ら企画の大型野外ロックフェス、全国アリーナツアー、ロックバンドとしては最速での東京ドームGIG成功など、「氣志團現象」を巻き起こし、NHK紅白歌合戦へも2年連続で出場を果たす。

1月1日、4日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ジュディオングさん

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1月1日 「木版画家としてのジュディさん」
歌手として有名なジュディオングさんは、木版画家でもあります。
21歳で大病をしたときに、お母さんが油絵の具を病室に持ってきてくれて、油絵をはじめたのだそうです。そして、25歳のときにたまたま見た版画展で白黒の木版画の中に色を感じたときから、ジュディさんは木版画の世界にはまっていきました。最初は花などを描いていたジュディさんですが、だんだん日本家屋を描くようになります。ついつい版が多くなりがちなのが、悩みの種なのだそうです。

1月4日 「役者のように唄うニューアルバム」
東日本大震災の後、台湾の人たちは日本の事をとても心配をしてくれました。ジュディオングさんは、この理由として、日本統治下の時代に、日本人が台湾が良くなるように行動をしてくれたから、そして、台湾の震災の時に助けてもらったからだと話してくれました。
昨年末、ジュディさんは新しいアルバムを発表しました。少し前の失恋の曲だけを集めたアルバムで、まるで役者のようにジュディさんは唄っています。
シンガーであり、アクターであり、木版画家であるジュディオングさんは多忙ですが、時間は作るものだと言います。今年も木版画家として、歌手として頑張っていくのだそうです。

<ジュディオング>
台湾生まれ。3歳で来日し、女優として11歳の時、日米合作映画「大津波」でデビュー。 その後テレビドラマ、映画、舞台に多数出演。歌手デビューは16歳。1979年に「魅せられて」が大ヒット、日本レコード大賞を受賞。 木版画家としては、「ジュディ・オング倩玉」を雅号とし活躍している。

12月24日~12月28日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、水木一郎さん

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12月24日 「子供のころの話」 
水木一郎さんはクリーニング屋さんで生まれました。以前はレコード店を営んでいただけあって、家には沢山のジャズのレコードが。子供のころからスタンダードジャズを口ずさんでいたのだそうです。目立ちたがり屋の水木さんは、中学校時代には、小倉智明さんと一緒に音楽や落語にはまっていました。老人ホームなどを訪問しては水中亭源五郎の名前で落語を演じ、そしてその合間に懐メロも披露していたという水木さんでした。水木さんは16歳で、ジャズ喫茶のオーディションに合格、歌手としての第一歩を歩み始めます。最初に水木さんの歌を流したのはこの文化放送、歌は「僕のマシュマロちゃん」です。

12月25日 「レコードデビュー」 
水木一郎さんは20歳でレコードデビューをしました。カンツォーネ調が好きで選んだ「君にささげる僕の歌」はあまり売れず、サイン会では次の人が並ぶまでわざと時間を稼ぐようなこともしていたのだそうです。そんなある日、キャンペーン中に、一般の女性から「個性が無い」と指摘されてショックを受けます。水木さんは歌手になることを断念しようとしますが、そこにアニメソングの話が舞い込んできました。ジャケットに顔が出ないけど良いか?と訊かれ、それはかまわないと思った水木さんでしたが、逆に、「毎週テレビで流してもらえるなんて!」と、アニメソングのメリットにも気がついていました。

12月26日「特撮・アニメの主題歌でブレイク!」 
アニメの主題歌を歌うことになった水木一郎さんは、特撮モノの主題歌を歌える人を探している東映のプロデューサーから声が掛かり、仮面ライダーシリーズなど、特撮モノの主題歌を唄うようになりました。NHKの「おかあさんといっしょ」では歌のお兄さんをやりながらでしたが、キャラクター分けには苦労しなかったそうです。
フジテレビの企画で24時間に1000曲歌うライブもやりました。500曲を越えて、疲れが出てきたころ、仮面ライダーを唄っていたらそこに仮面ライダーの化身とも思えるバッタが飛んできて、元気を得たのだそうです。いろいろあったけど、1000曲歌ったことが後の自信につながったと、水木さんは感じているのだそうです。

12月27日 「海外でも活躍」 
1000曲ライブを無事歌い終えたとき、花火があがり、9mのマジンガーゼットが姿を現しました。自分のためにこんなにと思ったとき、水木一郎さんは泣いてしまったのだそうです。その後、香港のアニメイベントのオファーが来て訪中した水木さんは、海外でのアニメ熱に圧倒されました。一般紙までもが取材に来ていて、日本以上にアニメファンが広がっているということを水木さんは強く感じています。
アニメソングは国境を越える、アニメファンは皆とても良い子だと、水木さんはしみじみ話してくれました。

12月28日 「プライベート/今後について」 
水木一郎さんは今、「水木一郎ヴォーカルスクール」で、後進を育てています。長所をほめるとなんとなくいやらしくならなってしまうので、欠点を減らしていくような指導法をとっているのだそうですが、後輩が小さくまとまってしまいがちなのが残念なのだそうです。自らを「夢老い人」と称し、いろいろチャレンジしている水木さんは、マジンガーZの40周年記念アルバムを出しました。さまざまなアレンジの主題歌を収めているアルバムなのだそうですが、40年間、声が変わっていない!事にも気がついてほしいと、水木さんは胸を張って話してくれました。


<水木一郎>
1948年東京都出身。1968年に歌謡歌手としてデビュー。その後1971年に「原始少年リュウ」の主題歌をきっかけに活動の場をアニメソングへと移す。以降「マジンガーZ」「バビル2世」「仮面ライダーX」「超電磁ロボ コン・バトラーV」「宇宙海賊キャプテンハーロック」などアニメ、特撮番組の主題歌を数多く発表し「アニメソングの帝王」の異名をとる。1999年には前人未踏の「24時間1000曲ライブ」も敢行。自身の持ち歌は1200曲を越え、近年は中国、フランス、シンガポール、タイなど海外でもライブを実施。

12月17日~12月21日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、甲斐よしひろさん

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12月17日「音楽と共に育った甲斐少年」
福岡の天神で生まれ育った甲斐よしひろさん。
週末に家族で映画館のレイトショーに行き、その後、食事へ行くのが家族の決まりごとだったそうです。音楽に精通していたお父様の影響で音楽のセンスを磨いていき、人前でも歌う機会が多かったという甲斐さんは、ここでも才能を開花させていったそうです。

12月18日「伝説のライブハウス・照和」
高校生の頃、ラジオの公開番組にバンドで出演した後、博多で伝説のライブハウス「照和」で演奏をし始めた甲斐よしひろさん。その後、一時は就職したものの、自分には合わないと感じると、すぐに辞め、博多に戻りプロデビューを目指し、活動をスタートさせるのですが。「照和」に戻ると以前ほどの活気もなく、「照和」の立て直す所からスタートすることになったそうです。
甲斐さんのプロデビューまでの下積み時代についてお聞きしています。

12月19日「甲斐バンド・メジャーデビュー」
甲斐よしひろさんが、ライブハウス「照和」に出入りしていたバンドから選りすぐりのメンバーを率いて結成された「甲斐バンド」。今日は、デビュー当初から75万枚のセールスを記録した「裏切りの街角」までの軌跡をお伺いしました。
デビューから、自分たちの売れ方の戦略を綿密に練っていたという甲斐さん。実はコインランドリー界にも、甲斐さんの戦略が及んでいる事ですが...。

12月20日「新しいチャレンジを続ける甲斐バンド」
CMソングでおなじみの「HERO」が大ヒットした頃から、毎年、武道館で公演が行われるようになり、NHKホール、箱根・芦ノ湖畔、花園ラグビー場、両国国技館など、これまで誰もライブをやってこなかった会場で、ライブを開催していきます。「ロックは格闘技」と豪語する甲斐バンドもびっくりするエピソードが両国国技館で起こった事もお話いただきました。

12月21日「甲斐よしひろ、セルフカバーへの想い」
デビュー35周年を迎えた「甲斐バンド」。
1月9日にセルフアルバム「ROCKS」が完成するまでの話や、甲斐バンドの大ヒット曲で代表曲「安奈」が生まれたエピソードについて、お話していただいています。自分のスタンダードナンバーをセルフカバーする難しさ、こだわりなど、アルバム「ROCKS」に対する思いを熱く語っていただきました。

<甲斐よしひろ>
1953年福岡県博多生まれ。74年に「ポップコーンをほおばって」で第3回ハッピー・フォーク・コンテスト全国大会優勝、その後「甲斐バンド」を結成し、「バス通り」でデビュー。79年「HERO」で初のチャート1位を獲得。86年に甲斐バンドを解散した後、ソロやKAI FIVEで積極的にライブ活動を行う。「甲斐バンド」として、1月9日にセルフアルバム「ROCKS」をリリース。

12月10日~12月14日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、野村義男さん

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12月10日(月) 「ギターとの出会い」
子供の頃は、昆虫採集やプラモデル作りが大好きな、大人しい少年だったという野村義男さんがギターを手にしたきっかけ...それは、お姉さんに「義男!ちょっとこのコード、弾いてみな!!」と、無理やりギターを持たされたことだったそうです。
その時は上手くコードを押さえられなかった野村義男さん。それがとても悔しくて「今に見てろよ...」という思いで、お姉さんには見つからないように、こっそりとギターの練習を始めるのですが...。
果たして、その後、お姉さんにリベンジすることは出来たのか? 月曜日は、そんなお話。

12月11日(火) 「『 金八 』 と 『 たのきん 』 」
ジャニーズ事務所にスカウトされ、レッスンに通い始めるようになった野村義男さん。
その後、TVドラマ「3年B組 金八先生」への出演が決まり、「たのきんトリオ」として大ブレイクするのですが、野村義男さん御本人は「どちらのネーミングも恥ずかしすぎ。もっと良いのはなかったのかよぉ~」という思いだったそうです。
火曜日は、金八先生の撮影時におけるエピソードなどを例に、当時の大人気ぶりを振り返って頂きました。

12月12日(水) 「THE GOOD- BYE結成 」
トシちゃん、マッチがソロデビューする中、「自分には一人でマイクの前に立つ勇気はない」と、バンドでのデビューにこだわった野村義男さん。そして、自らメンバー探しに奔走し、一年かけて結成されたのが「THE GOOD-BYE」でした。
水曜日は、THE GOOD-BYE結成までの経緯と、今でも仲が良いという近藤真彦さん マッチとの、とても両者アラフィフとは思えない、子供のような "イタズラエピソード" を伺っています。

12月13日(木) 「ギタリストとして... 」
THE GOOD-BYEの活動休止後に事務所も辞め、「これからどうしよう...」と考えに考えて辿り着いた結論が「自分の一番好きなこと(ギター)で飯を食っていこう」。
アイドルからギタリストへの転進は、当然、一筋縄でいくものではなく、自分で手応えを感じるまでに15年もかかったそうです。
木曜日は、そんな「ギタリスト・野村義男」をいろいろと自己分析していただきました。
数々のアーティストのライヴにギタリストとしている野村義男さん。リスナーの皆さんは、今現在、野村義男さんが弾ける楽曲数は何曲だと思いますか? これが、何と?!

12月14日(金) 「仮面ライダーで熱くなれ!」
今回、野村義男さんが一番話したかったのは、多分、この話題だと思います。それは ... 仮面ライダーへの想い。
最終日は、キャラクター入りのギターピックを自作し、自らも音楽を担当している「仮面ライダー」について、たっぷりとお話していただきました。


<野村義男>
1975年、姉の影響でフォークギターを手にする。1979年芸能界デビュー。1983年『The Good-Bye』結成、 シングル「気まぐれONE WAY BOY」でデビュー。(1990年The Good-Bye活動休止、2003年再開)。
現在は、浜崎あゆみバンド、世良公則GUILD 9、宇都宮隆U_WAVEなどに参加。自身のバンド、RIDER CHIPS、三喜屋・野村モーター's BANDでTOURを行う。ギタリスト、プロデューサーとして幅広いジャンルにて活動中。

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