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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

2月27日~3月2日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、五月みどりさん

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2月27日 月曜日 「父の夢を託された少女」
東京でお生まれになった五月みどりさん。
子供の頃から子役として芸事を教えられ、お父様は五月みどりさんを役者か歌手にしたかったそうです。
少女時代のお話です。

2月28日 火曜日 「デビュー」
高校1年のときに出場したのど自慢大会で声をかけられて、歌の稽古をたくさんしたそうです。
そのときはデビューできなかったものの、夏祭りで声をかけられ、即デビューが決定。
デビュー当時のお話です。

2月29日 水曜日 「セクシー路線で人気女優に」
当時すでに売れていた五月みどりさん。
"ハダカ"には何の抵抗もなかったそうです。
いろいろな映画の裏話をうかがっています。

3月1日 木曜日 「さまざまな分野で活躍」
五月みどりさんにとって『伊藤家の食卓』は、本当の家族のようで楽しかったそうです。
ところが、5キロ近く太ってしまったとのこと。
さまざまな分野での活躍をうかがっています。

3月2日 金曜日 「最愛のパートナー」
3度の結婚をされている五月みどりさん。
現在、27年以上同じ男性とお付き合いされているそうです。
その出会いは運命的だったとか。
プライベートを中心にうかがっています。


<五月みどり>
昭和33年『お座敷ロック』でレコードデビュー。
昭和36年『おひまなら来てね』B面にて発売。
大ヒットとなり、一躍スター歌手に。
翌年2月『忙しくても来てね』発売、以後『明日も来てね』『一週間に十日来い』など「来てねシリーズ」をヒットさせる。
37年、38年、39年とNHK紅白歌合戦に連続出場。
テレビでは数多くのバラエティー番組にレギュラー出演(日本テレビ系「おもいっきりテレビ」「伊東家の食卓」 )など。
歌手・女優・画家・着物デザイナーとしてマルチに活躍中。

2月20日~2月24日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、元マラソンランナーの瀬古利彦さん

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2月20日 月曜日 「陸上をはじめたきっかけ」
邦丸さんと同級生、1956年生まれの瀬古さん。中学時代は、意外にも野球部でした。陸上部から助っ人を頼まれて大会に出たら何の練習もしてないのに優勝。そこで地元の三重県内の陸上強豪校・四日市工業高校に進み、本格的に陸上を始めます。でも、瀬古さん、実は5歳の時に、自分は走るのが誰よりも速い、と気がついていたそうです。そのエピソードとは・・・?

2月21日 火曜日 「恩師・中村監督との出会い」
1浪の末に入学した早稲田大学で、瀬古さんは名伯楽・中村清監督と運命の出会いを果たします。考え方、食事といった生活スタイルまで、全て陸上に結びつける監督の独特の指導法で鍛えられました。監督の「お前はマラソンをやれば世界一になれる」の一言で、瀬古さんは中距離からマラソンへと転向します。

2月22日 水曜日 「ロサンゼルスオリンピック」
中村監督の指導を受けて連戦連勝、瀬古さんは世界のトップランナーになります。選手としてピークを迎えた時期に、まさかのモスクワ五輪ボイコット。がっかりした瀬古さんですが、それから4年後、国内の異様な期待を受け「金メダル本命」とされて臨んだロサンゼルス五輪。今日は、オリンピック当時の裏話を伺っています。

2月23日 木曜日 「ソウルオリンピック、そして引退」
ロス五輪の翌年、瀬古さんの恩師・中村監督が不慮の事故死を遂げます。大変なショックを受けながらも、監督の「絶対に練習を休むな。親の葬式にも出るな」の教え通り、この日も練習を休まなかったそうです。そして引退をかけソウル五輪に出場。結果は9位。家に帰ると、奥さんと息子さんが厚紙で作った金メダルをプレゼントしてくれたそうです。

2月24日 金曜日 「現在の活動」
引退後、スビー食品陸上部の監督になった瀬古さん。最初は中村清監督の教え方をそのまま真似して指導していましたが、なかなかうまくいかなかったそうです。そして現在の瀬古さんといえばなんといっても箱根駅伝での、早稲田寄りの迷(?)解説。東洋大学の柏原選手など、駅伝で活躍した強い選手が、早くからマラソンを始めて日本のマラソン界を支えて欲しいという瀬古さん。今月発売になった著書「すべてのマラソンランナーに伝えたいこと」にもマラソンに対する思いが綴られています。

<瀬古利彦>
1956年7月15日、三重県生まれ。野球部に所属していた中学時代、三重県中学春季陸上2000mで優勝。四日市工業高校に進学してから本格的に陸上を始める。インターハイには高1から出場して800mで3位に。高2、高3で800m、1500mの2種目で2連覇する。一浪後、早稲田大学へ。中村清監督の下、マラソンを始める。早稲田大学教育学部卒業後、エスビー食品株式会社に入社。福岡、東京、びわ湖、ボストン、ロンドン、シカゴといったビッグレースで優勝。3000m(7分54秒9)、5000m(13分24秒29)、1万m(27分42秒17)、マラソン(2時間08分27秒)で日本記録(日本最高)をマークした。現在はエスビー食品スポーツ推進局局長。

2月13日~2月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の石田えりさん

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2月13日(月) 
 石田えりさんは、子供の頃はとても暗い性格だったのだそうですが、お父さんの知り合いのおかげで、コンサートを楽屋裏側から見たり、楽屋に遊びに行ったりしていたそうです。
 そんな石田さんは、華やかさにあこがれて歌手になりたいと思っていました。願いがかなって14歳の時に堺正章さんのコンサート会場でスカウトされたのですが、上京してからは何故か演歌のレッスンを受けていたりして、アイドルとしてのデビューのチャンスはなかなかやってきません。

2月14日(火) 
 なかなかデビューができなかった石田えりさんですが、映画「翼は心について」のオーディションでチャンスが訪れます。でもこの時も選考のやり直しがあったりしてすんなりとはいきませんでしたし、その後の仕事にも恵まれませんでした。しかし、次の作品「遠雷」では恥ずかしさをこらえたラブシーンなどの演技が評価され、女優の道を歩み始めます。
 私生活では結婚、そして離婚を経験されています。石田さんはこの時を振り返って、今から思えばよい経験だったと話しています。その頃石田さんは人間不信に陥っていましたが、なんとか努力してなんとかそこから抜け出そうとしていました。

2月15日(水) 
 映画「嵐が丘」で松田優作さんと共演した頃には、石田えりさんは変わっていました。演技というのは自分をすべてさらけ出すのだから、肉体をさらけだせないようでは精神をさらけ出すことはできないと考えたのです。こうして体当たりの演技をした石田さんに、優作さんは「きれいだったよ」と言ってくれたのだそうです。また、その頃「釣りバカ日誌」にも出演しますが、撮影に疲れた石田さんは途中でこの映画を降りてしまいます。
 その後、石田さんは海外でアルバイトをしながら生活をします。この時、もらった給金で飲んだビールの美味しさで、石田さんは働くことの素晴らしさを感じたのだそうです。
 
2月16日(木)
 1993年に石田えりさんは世界的な写真家、ヘルムート・ニュートンの撮影で写真集を撮影しました。SM調だったので、初めは"聞いてないよぉ"と思った石田さんでしたが、これも避けてはいけないと思い直して頑張ったのだそうです。まずは肉体を選んで生まれてきて、精神が必死にそれを追いかけている、それが私の人生だと石田さんは言います。
 だんだん歳をとっていく中で、石田さんは自分の歳で楽しめることをきっちり楽しむことにしているのだそうです。アンチエイジングはしないけれど、肉体の健康はきちんと考えていく、これが石田さんの生き方です。

2月17日(金)
石田えりさんは舞台を大切にしているそうです。同じ時間と空間を共有し、共演者の良いところも悪いところも感じられる舞台、これが好きなのだそうです。来週も公演があります。人間が神に近かった時代の自然な形の命をテーマにした舞台に石田さんは出演します。
千葉に移住し、農作業を楽しむ石田さんですが、まだ一番大切な人には出会っていないと石田さんは思っています。エネルギーのぐるぐる廻る、ブラックホールの様な人をずっと探しているのだそうです。

<石田えり>
1960年熊本県生まれ。78年、映画「翼は心につけて」でヒロインとしてデビュー。82年に「遠雷」で日本アカデミー賞優秀主演女優賞、新人俳優賞などを受賞。「嵐が丘」「飛ぶ夢をしばらく見ない」「愛の黙示録」などに出演し89、91年日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。テレビドラマは「金曜日の妻たちへ」「課長サンの厄年」「おみやさん 第7シリーズ」など。

2月6日~2月10日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の堀ちえみさん

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2月6日(月)「 言葉にできない 」
子供の頃は自分の気持ちを言葉で表現するのが苦手で読書好きな大人しい性格だったという堀ちえみさん。そんな堀ちえみさんの性格を180度変えたのは、小学校3年生の時に行われたクラス替えと、"あるアイドル"の出現だったそうです。
月曜日は、堀ちえみさんの少女時代にスポットを当ててみました。

2月7日(火)「 タレント・スカウト・キャラバン 」
中学生になり反抗期を迎えた堀ちえみさんは、「実家を出たい」という想いから、あるオーデションを受けることになります。これが芸能界デビューのきっかけとなった『ホリプロ・タレント・スカウト・キャラバン』でした。
火曜日は、そのオーデションでの裏話をたっぷりと...。
「娘をタレントにしたくないけど、人様の前で娘に恥をかかせたくもない」という、堀ちえみさんのお母様の複雑な心の葛藤に注目です!

2月8日(水)「 大ヒットドラマ 『スチュワーデス物語』 」
ヒット曲にも恵まれ順調に芸能活動のスタートを切った堀ちえみさんでしたが、その人気を不動のものにしたのは、なんといってもドラマ『スチュワーデス』物語』でしょう。
水曜日は、『スチュワーデス物語』撮影中のエピソードを中心に伺っております。
リスナーの皆様は、松本千秋のあのたどたどしいセリフ回しは制作側の演出だったというのはご存知でしたでしょうか? 決して、堀ちえみさんの演技が下手だったわけではないのですよ!

2月9日(水)「 引退、結婚、出産、離婚、再婚 ... そして、2度目の離婚 」
デビューして5年、20歳の時に「自分の引き出しの中が空っぽになった」と、引退を決意した堀ちえみさん。
木曜日は、堀ちえみさんの芸能界引退後の生活を振り返っていただきました。
結婚、出産、離婚、再婚、2度目の離婚 etc なにかと苦しい時期もあったそうですが、それでもやってこれたのは5人のお子さんが心の支えになってくれたからだそうです。

2月10日(金)「 運命の出会い 」
昨年末に3度目の結婚をした堀ちえみさん。
最終日は、数々の偶然が重なったという運命の出会いからプロポーズまで、思いっ切りのろけて頂きました。
2月11日にSHIBUYA-AXで開催される30周年記念ライブの情報も!


<堀ちえみ>
第6回ホリプロタレントスカウトキャラバンで芸能界入りし、82年3月「潮風の少女」でデビュー。
1983年に出演したドラマ「スチュワーデス物語」が日本中で大ヒットし、アイドルとして歌にドラマに活躍。
2009年には23年ぶりの映画出演となる「色即ぜねれいしょん」が公開となり、以降女優としても活動を再開。
2011年12月、3度目の結婚を経て7児の母となり、情報番組等への出演の他、教育や食育にまつわるトークショーや、連載執筆・音楽活動など、主婦とタレントの両立をしながら、多忙な日々を送る。

1月30日~2月3日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の前田吟さん

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1月30日 月曜日 「苦労した少年時代」
山口県の防府で生まれた前田さん。生みの親と別れ、養子に出されるなど、苦労した幼少時代ですが、それでも持ち前のバイタリティでたくましく育ちました。たいへん苦労した少年時代ですが、小学生の時に担任の先生に言われた一言が「俳優・前田吟」を生むきっかけになったとか。初日は、前田さんの少年時代のお話です。

1月31日 火曜日 「俳優座時代と、映画『ドレイ工場』」
地元の高校を中退して大阪へ、そして本格的に俳優を目指して東京へと上京した前田さん。
俳優座の研究生となります。そして、映画「ドレイ工場」のオーディションに合格し、やっと「俳優・前田吟」に運が向いてきました。そんな中、ついに山田洋次監督と出会います。

2月1日 水曜日 「山田洋次監督、そして『男はつらいよ』」
主演映画「ドレイ工場」の試写会で、山田洋次監督と運命的な出会いをした前田さん。
山田監督は、前田さんの独特のキャラクターを感じ取り、自分の作品に抜擢。ついにあの国民的映画「男はつらいよ」の寅さんの妹さくらの夫「諏訪 博」という、前田さんの当たり役が回ってきます。前田さんが「男はつらいよ」に出演するまでのお話です。

2月2日 木曜日 「『男はつらいよ』の共演者たち」
「男はつらいよ」といえばやはり山田洋次監督、渥美清さん、倍賞千恵子さん。なかでも渥美清さんの思い出話について、前田さんは熱く語っています。国民的ヒーローになってしまった寅さんを演じる渥美さん、悲哀もあったようです。「男はつらいよ」にまつわる人々のお話です。

2月3日 金曜日 「渡る世間は鬼ばかり」
前田さんの出演する作品はよく長寿シリーズになります。「渡る世間は鬼ばかり」もそのひとつ。日本を代表するバイプレイヤーになった前田さんですが、やはり主役より脇役のほうが難しく、日々勉強だとか。公開中の出演映画「月光ノ仮面」そして秋公開の映画「のぼうの城」についても伺っています。


<前田吟>
1944年、山口県出身。
【代表作品】
・「男はつらいよ」 (映画・山田洋次監督) 寅次郎の妹さくらの夫・諏訪博役(1969)
・「渡る世間は鬼ばかり」 (TBSテレビ) 大吉・節子の長女弥生の夫・野田良役(1990)
映画・テレビなどで数多くの作品に出演。

1月23日~1月27日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、桑名正博さん

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1月23日 月曜日 【 お屋敷で育った不良少年 】
大阪のお金持ちの家にお生まれになった桑名さん。
親に入れられた私立中学がイヤで学校に行かなくなったそうです。
少年時代のお話です。

1月24日 火曜日 【 バンドデビュー 】
万博で海外のバンドを見て影響を受けた桑名さんは海外へ行きました。
その後、東京へ帰ってきた桑名さんは、バンドデビューすることになります。
バンドデビューまでのお話です。

1月25日 水曜日 【 ソロデビュー 】
バンド解散後、桑名さんはデビューしますが、思うように売れなかったそうです。
そんな中、ヒットメーカーの筒美京平さんに「哀愁トゥナイト」を書いてもらいますが、シングルリリース直前に桑名さんは逮捕されてしまいます。
ソロデビュー当時のお話です。

1月26日 木曜日 【 セクシャルバイオレットNO.1が大ヒット 】
大ヒットした『セクシャルバイオレットNO.1』ですが、タイトルが商品名だったため、紅白歌合戦には出られなかったそうです。
そんな当時、桑名産は俳優業を始められたんだそうです。
ヒットしたときのお話です。

1月27日 金曜日 【 ハートエイド 】
障害者の方々のレコーディングからスタートしたハートエイド。
神戸の震災でも東北の震災でも、桑名さんは活動されています。
今日はハートエイドの話を中心に伺っています。


<桑名正博>
1972年「ファニー・カンパニー」のヴォーカル&ギターとしてデビュー。
1976年、アルバム「WHO ARE YOU」でソロ活動開始。
以降、「哀愁トゥナイト」「月のあかり」「セクシャルバイオレット№1」などをヒットさせ、ロックヴォーカリストとしての地位を確立。
ライブ・コンサート活動の他、大晦日の「New Year Rock Festival In Kansai」などのROCKイベントのプロデュースも手がける。
現在は、関西や東京を中心にライブを展開。
一方で大阪自由学院理事長や日本芸術社会福祉協会理事長、車いすバスケットボール「ネットライダーズ」主宰者として活躍中。

1月16日~1月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、小椋佳さん

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1月16日 月曜日 【 怪童(?)ピッチャー 小椋 佳! 】
ゲストは小椋佳さん。何をやっても全然駄目だったという少年時代。
そんな小椋さん、小学4年生の頃に地元の少年野球のチームに入ります。
ピッチャーとして出場した試合で7イニング奪三振19という
大記録を打ち立て、地元発行紙の1面に「怪童現る!」と
掲載された事があったそうなのですが、意外なオチがありました。
小椋佳さんの少年時代についてお伺いしました。

1月17日 火曜日 【 優等生と呼ばれて 】
ずっと体育会系で、学業は中の下だったという小椋佳さん。
近所のススメで、家庭教師が付くことになりました。家庭教師の先生の方針で、
小学生の勉強を諦め、小学校5・6年生の時に中学3年間の勉強をスタート。
中学生に進学すると優等生に早代わりしたんだそうです。
高校に入ると哲学書などを読むように薦められる様になり、
ノイローゼ気味になってしまったそうです。
小椋佳さんの中学生~高校生時代のお話をお伺いしました。

1月18日 水曜日 【 東京大学ボート部! 】
高校を卒業し、東京大学へと進学。
ボート部の新人歓迎会に参加したところ、
気が付いたらボート部に入部...部活動に取り組んでいたのですが、
本分である学業が疎かにしている事を悩み、1年でボート部を退部します。
そんな時、出会った親戚の友人であるツアーコンダクターの方と出会い、
2人で旅行会社を立ち上げます。
東大ボート部で汗を流していた頃の話を中心にお聞きしました。

1月19日 木曜日 【 「小椋佳」誕生...手前まで 】
ボート部を退部し、これから勉強に集中!と思った矢先だったのですが、
ゼミの一環だった「芝居」にのめりこんでしまいます。
そんなある日、舞台を見た後、このままだと「創る側」ではなく、
「見る側」に落ち着いてしまう事に恐怖を覚えた小椋さんは、
その舞台の台本、演出を担当していた寺山修司さんに電話するのですが...。
ようやく「小椋佳」誕生の手前までやってきました!

1月20日 金曜日 【 「小椋佳」誕生物語 】
寺島修司さんが企画したアルバムに収録された小椋さんの声を聞いた
レコード会社のディレクターは「きっと若い美少年に違いない」を
デビューさせたいと思い、小椋さんを探します。
その後、レコーディングしてみたものの、お蔵入りとなり、
小椋佳さんも当時勤めていた銀行の方針で海外へと研修へ出かけるのですが...。
「きちんとデビューした思いがない」という
小椋佳さんのデビュー秘話と、最近の活動についてお聞きしました。

<小椋佳>
1944年、東京・上野に生まれる。
67年東京大学法学部卒業後、日本勧業銀行(現みずほ銀行)に入行。
同行に約四半世紀勤務、浜松支店長・本店財務サービス部長等を経て93年退職。
94年東京大学法学部に再入学。
文学部思想文化学科に進み、哲学専攻にて2000年大学院修士号取得。
この間、71年初アルバム「青春・砂漠の少年」を発表。
3作目のアルバム「彷徨」は100万枚のセールスを突破。
以来、ソングライターとして、布施明、中村雅俊、堀内孝雄、美空ひばり等、多数のアーティストへ作品を提供。
「シクラメンのかほり」「俺たちの旅」「夢芝居」「愛しき日々」「愛燦燦」など数多くのヒット作品がある。
現在もなお精力的に創作活動、若手の育成に励む。

1月9日~1月13日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、小野武彦さん

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1月 9日(月) 「裕次郎さんにあこがれた少年時代」
演劇の盛んな小学校に転校したのを機会に、小野さんの演技経験が始まりました。文化放送のスタジオに来たこともあったそうです。狛江に住んでいたので、調布の映画撮影所が近く、憧れの裕次郎さんを見にいったり、年を偽ってエキストラで出ていました。その頃、小野さんが映画を見るときは3本立ての映画館で見ていたので、裕次郎さんだけでなく小津安二郎さんの作品などいろいろな映画に触れることができて、それはとても幸せな体験でした。

1月 10日(火) 「俳優座の養成所にて」
玉川大学に入学した小野さんは、すぐに俳優座の養成所に入り大学を中退してしまいます。「花の15期生」という言葉ができたぐらいいろいろな人がいましたが、小野さんは養成所を卒業してからは文学座に入ります。文学座は分裂騒ぎがあったのでチャンスがあるのではないかと思ったのだそうです。
俳優座時代の友達はどんどん人気者になって行きますが小野さんは取り残されてしまいます。しかし友達の役柄は自分のそれとは違うと感じていた小野さんには、意外なくらい焦りはありませんでした。

1月 11日(水) 「大都会で人気に」
小野さんのチャンスは倉本聰さんに誘われた、ドラマ『大都会』でした。このドラマで憧れの裕次郎さんと共演した小野さんは、「目標としている役者さんは?」という裕次郎さんからの問いかけに、裕次郎さんですと答えたところ、裕次郎さんは真っ赤になってしまったのだそうです。
小野さんの演技を見た方が、次のドラマや映画に声を掛けてくれる連鎖で、どんどん小野さんの仕事は広がっていきます。時々二枚目の役柄の仕事も来ましたが、自分はかっこいいタイプ?の役者じゃないのだから、今のキャラクターを大事にしようと思ったのだそうです。

1月 12日(木)  「踊る大捜査線で大ブレイク」
小野さんの代表作といえば、「踊る大捜査線」。
3人の刑事、通称スリーアミーゴの愛称は3人が廊下で練習をしている姿からついたのですが、この時はいつも演じている袴田課長のキャラクターを表す「履歴書」をイメージしてアドリブをしていたそうです。
当時小野さんは腰痛に悩み、なんと8年間舞台には立たずにいましたが、そんな小野さんが最終的に腰痛の手術を決断したのは本当に意外な理由でした。

1月 13日(金) 9分55秒 「映画と舞台」
小野さんにとっては、舞台と映像、この二つは全く別物なのだそうです。ですからどちらも並行してやっていきたいと。でも木村光一さんをはじめとした素晴らしい人に指導をしてもらったこと、これが小野さんの最大の財産だそうです。そして不思議なことに小野さんにも人を見る目ができてきて、「こいつ良いな」と思うと必ずその人は伸びるのだそうです。
そんな小野さんは、今週末封切の映画ロボジーに出演されています。窓際社員3人にロボット製作を命じる、思いつきで行動する社長の役です。そして3月封切の舞台、海盗セブン、こちらは海を盗んでしまう話です。


<小野武彦>
1942年、東京都出身。
俳優座養成所を経て、文学座に入団し、舞台「美しきものの伝説」でデビュー。
以後、存在感のある演技で独自のキャラクターを確立し、幅広く活躍中。

【代表作品】
「王様のレストラン」
「踊る大捜査線」シリーズ
「科捜研の女2010」
NHK大河ドラマ「徳川慶喜」 など多数

1月4日~1月6日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、浜田光夫さん

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1月4日(水)「 子役から日活・青春映画へ 」
日活青春純愛映画で数々の主役を張った浜田光夫さんのスクリーンデビューは、映画「石合戦」の子役(主演)だったそうです。これは、ご存じないリスナーの方も多いのではないでしょうか?
初日は、浜田光夫さんが俳優を目指すに至った経緯などを中心にお話していただきました。
そして、名作「キューポラのある街」で"物凄いプレッシャーを感じた"エピソードも!

1月5日(木)「 年下のお姉さん?吉永小百合さん 」
映画「ガラスの中の少女」で初共演を果たしてからこれまで吉永小百合さんの相手役を44回も務めたという浜田光夫さん。お二人は、浜田さんが年上にも関わらず「姉と弟のような関係」なんだそうです。
二日目は、その辺の謎に迫ってみました。
どうやら、初共演の際に行った甘味屋さんでの出来事が原因のようなのですが...。

1月6日(金)「 浜田光夫、大スターに酒を奢る? 」
小林旭さんや石原裕次郎さんとも親交があった浜田光夫さん。ある日、三人で街へ飲みに出かける機会があり、高そうなお酒を浴びるほど飲んで、三軒ハシゴしたことあったそうです。支払額は4万5000円(昭和30年代当時)。当然、奢ってくれるものだと思っていた浜田光夫さんに二人のスターが発した言葉は、まさかの「お前が払っといて!」
この結末は...放送をお聴き下さい!


<浜田光夫>
1943年、東京出身。
映画『ガラスの中の少女』(1960年)でデビュー。
【代表作品】
『キューポラのある街 』(映画)
『非行少女』 (映画)
『愛と死を見つめて』 (映画)
『天平の甍』 (映画)

12月26日~12月30日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の伊東ゆかりさん

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12月26日 月曜日 「引っ込み思案な少女」
伊東さんのお父さんは、米軍キャンプでベースを弾いていた音楽家でした。引っ込み思案を心配した父に連れられ、若干6歳で、伊東さんは人前で歌い始めることになります。しかしこんなことはやりたくないと、なかなか笑顔になれません。当時キャンプの兵隊さんたちからついたあだ名は「ノースマイル」。初日は、歌手・伊東ゆかりの誕生ともいえる頃のお話について伺っています。

12月27日 火曜日 「三人娘結成から、忙しい日々」
小学6年生のときにレコードデビューした伊東さん。その後、同じ渡辺プロ所属だった中尾ミエさん、園まりさんと結成した「三人娘」が大ブレイクし、忙しい日々を送ることになります。遊びたい盛りでストレスのたまっていた娘たちは、いろんないたずらをしてはスタッフを困らせていました。この当時も、まだ、歌うことが好きでなかったという伊東さん。三人娘結成時のお話を伺っています。

12月28日 水曜日 「大ヒット曲『小指の思い出』、結婚、そして・・・」
大ヒット曲「小指の思い出」も、最初は歌いたくなかったという伊東さん。「色っぽい」と言われるのがイヤだったそうです。そして事務所からの独立、借金、歌手の佐川満男さんとの結婚、離婚。伊東さん、公私ともに激動の時代のお話です。

12月29日 木曜日 「明るくなれたきっかけ」
離婚して母ひとり娘ひとりになった伊東さん。娘さんのCDデビューには、まさか娘が自分と同じ道を、とびっくりしたとか。そして、ここにきてやっと、考え方が明るく前向きに変わってきました。「ノースマイル」と言われた伊東さんが今のようなサバサバとした明るいキャラに変わったきっかけになった、プライベートや仕事での出来事について伺います。

12月30日 金曜日 「三人娘、結成50周年」
2005年に、40年ぶりに三人娘が再結成されました。久々に一緒に舞台に立った3人、20代のときとは違って、いろんな発見があったそうです。客席も、伊東さんソロの時とは違って、とても賑やかだとか。
3月3日、渋谷オーチャードホールで開かれる「ゆかり・ミエ・まり 三人娘結成50周年結成コンサート~ニッポンをもっと元気に~」のお話も伺っています。

<伊東ゆかり>
1947年、東京都品川区生まれ。ベース奏者だった父親・伊東謙吉の影響で7歳から進駐軍のキャンプで歌を歌っていた。59年「クワイ河マーチ」でデビュー。65年サンレモ音楽祭に日本人として初出場。「恋する瞳」で入賞。67年「小指の想い出」で日本レコード大賞歌唱賞受賞。99年10月「ステージ・ドアーズ」をリリース。中尾ミエさん、園まりさんと結成した「三人娘」としても活動中。

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