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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

7月1日~7月5日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、木野花さん

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7月1日月曜日 「子供のころの話」
青森で育った木野花さん。すごく甘やかされて育ったようです。
都会から田舎の小学校に転校すると断然進んでいるので「超優等生」になっていました。
成績はオール5。
しかし、クラスの代表で何かをやろうとしたりして野心を持つと本番直前に具合が悪くなったりしてドタキャンに。悔しい思いもしたそうです。

7月2日火曜日 「大学生から美術の先生へ」
将来は、自分に過度の期待をかけるとだめなんだなと気づいて美術の道に。
大学の美術部ではモデルになってくれる女性がいなくて、お風呂屋さんを物色。
結局友達同士でモデルになって裸婦像を卒業制作を出したら裸婦を出したのはその二人だけだったそうです。その後、中学の美術の先生に。
生徒との関係よりも教師同士の関係に疲れ体調を崩してしまいます。

7月3日水曜日 「東京に出てきて演劇を」
演劇が面白そうということで上京。面白くてどんどんのめりこんでいきます。
でも演劇界も男性が優位。女性の意見がなかなか通らない。ということで女性だけのグループを結成。
これが成功して評判になります。
十数年の後、新しい世界を求めて青い鳥を退団。演出に力を入れていきます。

7月4日木曜日 「演劇の楽しさ」
自分の演技に限界を感じていて、演出のほうに力を入れていた木野花さん。
女優をやめようと思っていたら劇団 新感線の主役に抜擢。
自分のふがいなさに奮起した木野花さん。50代になって役者業に本気を注入します。
映画スィングガールズについても語って下さってます。

7月5日金曜日 「台本が待ち遠しい「あまちゃん」」
朝の連続ドラマに出演中の木野花さん、撮影中から、台本が待ち遠しいほど楽しい撮影。
台本が面白い。これがヒットしなかったら、役者の責任だ!と感じたそうです。
ほかの役者のみなさんとも自然な距離感で過ごしているそうです。
撮影が終わるのが寂しいとも感じているそう。そのほか舞台のお話などについても伺いました。

<木野花>
弘前大学教育学部美術学科を卒業後、中学校の美術教師となるが、1年で退職、上京して演劇の世界に入る。1974年に東京演劇アンサンブル養成所時代の仲間5人と、女性だけの劇団「青い鳥」を結成。
翌年に旗揚げ公演を行い、80年代の小劇場ブームの旗手的な存在になる。
86年、同劇団を退団。
現在は、女優・演出家として活躍中。

6月24日~6月28日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントの野々村真さん

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6月24日(月)「字が読めない!?野々村真さんの少年時代」
大の読売ジャイアンツファンで、野球が大好きで近所にあった読売球場に通っていたという野々村真さん。勉強が出来たお兄さんとは真逆の典型的なやんちゃ坊主で、小学生になっても字が読めず、周囲を驚かせていたそうです。今日は、小学生時代の野々村真さんのお話です。

6月25日(火)「芸能界デビューまでの道のり。」
中学生の頃には「プロ野球選手になりたい」と考えていた野々村真さん。
ピッチャーとして活躍していたそうですが、ただ、野々村さんご自身、とても短気だったそうで審判に食って掛かり退場騒ぎを起こしていたんだとか...。高校でも野球を続けるのですが、ある事をキッカケに体を壊し野球の道を諦める事に。その後、不良仲間とディスコに出かけて恥をかいた事が芸能界のスカウトされるターニングポイントになったそうです。

6月26日(水)「野々村真、芸能界デビュー!」
いいとも青年隊としてデビューした野々村真さん。
「笑っていいとも」や「世界ふしぎ発見!」での長い芸能生活の中で経験してきた思い出に残るエピソードを教えていただきました。「世界ふしぎ発見!」で、出演20年目にパーフェクトを達成した時のエピソードは必聴です。

6月27日(木)「野々村一家について」
1995年に野々村真さんは10年以上同棲を続けてきた俊恵さんとご結婚されます。
結婚を決意したキッカケはなんともカッコ悪い出来事だったそうです。最近では、愛娘「香音(かのん)」ちゃんが芸能活動をスタートさせます。ただ野々村真さん的には、子供たちが俊恵さんに似てきてちょっと困っているそうです。話の節々で出てくる野々村真さんの本音に注目です。

6月28日(金)「野々村真さんの今後について」
俳優、タレントとしての顔以外に声優などの活動をしている(た)野々村真さん。
最近は息子さんと野球の練習をするのが日課なんだそうです。家族とのつながりを大切になさっている野々村真さんの今後についてお話をお聴きしています。

<野々村真>
1964 年生まれ、東京都出身。82年、いいとも青年隊としてデビュー。
その後、ドラマや舞台を中心に活躍しながら、クイズ番組では元祖おバカキャラとしてお茶の間で大人気に。『日立 世界ふしぎ発見!』(TBS系)『おはよう朝日です』(ABC)などレギュラー出演中。

6月17日~6月21日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントのさとう珠緒さん

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6月17日 月曜日 「子ども時代の珠緒さん」
珠緒さんは1973年生まれ、千葉育ち。
珠緒という名前は中村玉緒さんと新珠三千代さんからいただいたそうです。お祖父さんが船橋競馬の厩務員をしていたので子供の頃からよく馬を見に行っていました。当時から、無意識のうちに集団の中でいい子に振舞ってしまうところがあったそうです。これぞ「ぶりっ子さとう珠緒」の黎明期?

6月18日 火曜日 「芸能界デビュー」
雑誌のミスコンで準グランプリを取り芸能界入りを果たした珠緒さん。
しかし、アイドルグループの一員として、おそろいのトレーナーを着て活動するなど、抱いていたイメージとは違っていたため、数ヶ月で辞めて普通の学生生活に戻ります。その後、また誘いを受けて芸能界に復帰するのですが、そうそう仕事はありません。悶々と過ごす珠緒さんに、親戚の叔母さんがカツを入れてくれるのでした。

6月19日 水曜日 「オーレンジャーとの出会い」
その後珠緒さんは、「超力戦隊オーレンジャー」のオーピンク役で念願のレギュラー出演が決定。
アクションも多くハードな撮影でしたが子どもたちのファンがつき感動します。さらに「ミニスカポリス」にもレギュラー出演。トントン拍子に仕事が増えていくのですが、ラジオのレギュラー番組で、出演者とのトークがうまくかみ合わず降板。落ち込んだ帰り道、タクシーの運転手さんが乗せていってくれたある場所とは・・・?

6月20日 木曜日 「『ぷんぷん!』誕生秘話」
タクシーの運転手さんが、珠緒さんを建設中のフジテレビの建物まで連れて行ってくれて「この子がフジテレビに出れますように」と拝んでくれたおかげか(?)、フジテレビの「スーパー競馬」のアシスタントの出演が決まりました。
そして、珠緒さんの代名詞「ぷんぷん!」の話題へ。ナマ「ぷんぷん!」を披露いただきました。「女が嫌いな女ランキング」でトップを独走していた頃の複雑な心境についてもうかがっています。

6月21日 金曜日 「これからのさとう珠緒さん」
40歳には全く見えない珠緒さん。結婚願望も特にありませんでしたが、ちょっと焦り始めています。
熱愛報道のあった高見盛関とのデート。ふたりとも顔が売れているのになんと堂々と両国駅で待ち合わせたという、不思議なデートの顛末を話してくれました。1週間話しているうちに「ぶりっ子」というよりは、気を使い空気を読みながら、周囲の期待に応える優等生・・・という横顔の見えてきた珠緒さんでした。


<さとう珠緒>
千葉出身。
★代表作品
スーパー競馬 (フジテレビ)(1997)
王様のブランチ (TBSテレビ)(1997)
ピカレスク (映画)(2002)
太田胃散 (CM)(2002)

ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム 6月10日~14日は、壇蜜 さん

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6月10日 (月) <子供の頃の話> 
日本一美しい32歳の異名をとる壇蜜さんは、なんと、邦丸さんのラジオが大好き。和菓子屋さんで働いていたときは、ラジオを聴きながら作業の時間を計っていたのだそうです。
 そんな壇蜜さんの子供時代はちょっと不思議な子で、じゅうたんに家の間取りを書いてみたり、人形で遊んでみたり、一人遊びが多い子供でした。
 少女時代、壇蜜さんが憧れたタレントさんはなんと佐野史郎さん。ドラマを見て、最初は怖いと思った壇蜜さんだったのですが.....好きになったのにはちょっと不思議な気持ちの動きがありました。

6月11日 (火) <デビューまでの道のり> 
 高校時代の壇蜜さんは、女一人で肩肘を張って生きていくのは難しいと言う漠然とした不安を持っていました。
 大学を卒業するときに、就職が決まらず、専門学校で和菓子作りを習いはじめます。海外に和菓子を広げたいという思いでしたが、暖簾分けをしてもらおうと思っていたお母さんの友人が亡くなり、壇蜜さんは葬儀屋の専門学校に入りなおし、そこでは、人の生き死にを学んだだけではなく、「遠縁のおじさんが一番うるさい」という事も学びました。
その後、夏休みにひと稼ぎと思って応募したゲームキャラクターのオーディションでも、壇蜜さんは教訓を得ます。この撮影現場には、意外な身分制度があったのでした。

6月12日 (水) <29歳での本格デビュー> 
 週刊SPAの一般公募型グラビアのに応募したのをきっかけに壇蜜さんの芸能活動がスタートしますが、この頃の壇蜜さんは御自身を野球の松坂選手と比べていました。歳は一緒なのに、自分は何故まだ親の世話になっているのだろうと思っていたのだそうです。
 グラビアでの露出が増えたある日、「私の奴隷になりなさい」という映画の主役の話が舞い込みました。このとき、ついに来たか!と思った壇蜜さんでしたが、同時に、ここで終わるかもしれないから精一杯頑張ろうという気持ちでもあったそうです。
 壇蜜さんは自分が売れているかどうかがわからないと言います。でも、自分を大好きなジュリーに置き換えてみることで自分の状態を良いなあと思えるのだそうです。


6月13日 <多忙な日々> 
 壇蜜さんが多忙になってから私生活で一番変わったのは体調、毛が抜けるようになってしまったのだそうです。でも、ブレイクしても相変わらずカレーを食べにお店に入り、変装して電車に乗っている壇蜜さんは、できるだけ普通に生活をしたいと話します。
 最近は女性誌等で性を語る女性としても活躍しています。自分がアドバイスできる範囲は限られているが、その中で出来ることはやってみたいのだそうです。
そんな壇蜜さんの趣味は熱帯魚を飼う事と梅酒。一番個性的な熱帯魚にマネージャーさんの名前をつけていると、楽しそうに話してくれました。

6月14日 <壇蜜さんの恋愛感> 
 最近壇蜜さんが惹かれるのは、日焼けして働く男性。それもあまり背の高くない方だそうです。そして技術さんフェチ、最近はちょっと引いた感じで仕事をする、スチールさんが気になるという壇蜜さんです。
 陽と陰の人が居るとすると、タウンページのように取り扱い説明書が分厚い陰の人が好きという壇蜜さんですが、人生は共にしても、自分は自分として働きたいというのだそうです。理詰めでこういったことを考えてしまう自分は、実際には結婚できないのでは無いかとも話してくれました。

<壇蜜>
1980年、秋田県生まれ。
大学卒業後、いくつもの職業を経て、2010年、グラビアデビュー。
2012年、映画『私の奴隷になりなさい』に主演し、テレビ番組にも多数出演。
週刊誌からファッション誌まで幅広く活躍中。
日本舞踊師範、英語教員免許、調理師免許などの資格を持つ。

ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム 6月3日~7日は、平泉成さん

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6月3日「7人兄弟の末っ子」
愛知県の山の中で小さな川が流れる額田町の出身の成さん。7人兄弟の末っ子。
お父さんは新聞の横文字を見ては辞書を調べて単語帳を作っていたそうです。お母さんは助産師。ごく普通のどこにでもいる子供だったと振り返っておられました。その頃、竹細工もよくやっていたそうです。これが後に意外なモノづくりの役に立ってくるのでした。子供のころに見た今でも忘れない「裸の島」という映画について語っていただきました。

6月4日「就職したことで意外な展開に」
名古屋のホテルに就職した成さん、寮で相部屋になった人が市川雷蔵さんの知り合い。
役者をやってみてもいいなぁと思って大映のオーディションを受けてみたところ、見事合格。面談の時には市川雷蔵さんがきっと丸を付けてくれたに違いない。そのほかに合格する理由が見当たらないと信じているそうです。
3畳一間で4年間暮らしながら地道にエキストラなどをしていたそうです。

6月5日「東京に進出」
エキストラを適当にやっていたら、監督にエキストラの背景をもっと考えて演技しろと言われて、演技の深さに気づいた成さん。冬に斬られて水に落ちる役を自ら買って出て、後にその監督に「次、セリフのある役用意しておくから」といわれ、少しずつセリフが増えていったそうです。その後東京に進出、とんとん拍子でレコードも出したそうです。

6月6日「アドリブについていけない」
岡崎友紀さん主演の「なんたって18歳」で観光バスの運転手役で出演。台本に忠実だったのでアドリブについていけず、だんだん出番が少なくなってきた成さん。途中で監督が細かい演技指導をしてくれて、「台本を読んで流れはつかんでもセリフは覚えてこなくていい」といわれたそうです。でもこれがきっかけで登場シーンがまた多くなっていったそうです。

6月7日「プライベートとこれからについて」
田中健さんとの出会いがきっかけでケーナ作りを初めて20年。今や田中健さんのケーナは全部成さんの作品だそうです。子供のころの竹細工の腕が今役に立っているのだそうです。家では、バラを育てるのが趣味。30種育てているそうです。映画「箱入り息子の恋」についてもじっくりお話しいただきました。意外とプライベートな時間は取れているのだそうです。これからは健康第一、楽しむこと、そして仕事もしっかりやっていきたいそうです。


<平泉成>
1944年、愛知県出身。

ジャンル別出演作品
★映画
のぼうの城
死刑台のエレベーター
花とアリス
蛇イチゴ

★テレビ
災調査官・紅蓮次郎シリーズ
ダブルス~二人の刑事
あまちゃん
純と愛
おひさま
家政婦のミタ
サラリーマンNEO

ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム 5月27日~31日は、全日本女子レスリングヘッドコーチ 栄和人さん

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5月27日(月)「いざレスリングの世界へ」
鹿児島県奄美大島出身の栄和人さん。奄美大島で相撲チャンピオンだった父親に憧れ、ご自身も相撲に明け暮れるのですが、身体的な問題で相撲を諦め、高校生に進学する時にはレスリングへと方向転換します。
116連勝の負けなしという記録を打ち立てるのですが、大学に進むと、日本レスリング界の壁に厚さに愕然としてしまうのでした。
栄和人さんがレスリングの世界に入るキッカケや学生時代のお話をお伺いしました。

5月28日(火)「オリンピックは自分との戦い。」
一旦は挫折したものの、大学4年生の頃から調子を取り戻し、ついに憧れのロサンゼルスオリンピック出場に手が届く所まできていたのですが、その選考会で、自分の心の弱さに負けて出場権を逃してしまいます。
家族との絆をキッカケに、再びオリンピックにチャレンジし、見事4回戦まで進みます。
その後、栄さんは(B型)肝炎にかかり、生死の狭間を彷徨う事になります。
栄和人さんにオリンピック出場した当時のお話を中心にお伺いしました。

5月29日(水)「栄和人、指導者として」
病気の治療を終えて、「今後は指導者としてレスリングに関りたい...」と思う様になり、尊敬する高田裕司さんに電話で相談すると「女子レスリングの指導を!」という話が舞い込みます。
その後、中京女子大学付属高等高校(現在の至学館高等学校)へ赴任し、坂本登美選手や岩間怜那選手、宮本知恵選手といった選手を育てる事になるのでした。
コーチとして、再スタートした栄和人さんについてお話をお伺いしました。

5月30日(木)「教え子達とその活躍。」
2004年、アテネオリンピックから、念願の女子レスリングがオリンピック正式種目になるのですが、指導していた選手達が金メダルを取れるのか、とても不安だったそうです。
その後、なんと借金をしてまで合宿所兼、自宅を建てるなどして、選手達の為に出来る事は何でもしようと思ったそうです。お話の中に、栄和人さんの指導論がギッシリと詰まっています!
ぜひ、お聴き逃がしなく!

5月31日(金)「ロンドンオリンピックを振り返って...レスリングの未来について」
ロンドンオリンピックでは教え子である「吉田沙保里」選手と、「伊調馨」選手が見事、金メダルを獲得。この時の様子を、栄和人さんは感慨深く語っていただけました。
また現在、「レスリングがオリンピックの種目から除外されるのでは。」という話題についてもお話をしていただきました。

<栄和人>
鹿児島県奄美市出身。
1976年、鹿児島商工高校(現:樟南高校)でレスリングをはじめ、日本体育大学に進学し全日本選手権大会6回優勝。
世界選手権大会で銅メダルを獲得し、現在は至学館大学 教授、日本レスリング協会女子強化委員長、至学館大学(元中京女子大学)レスリング部監督。
教え子には、吉田沙保里選手、伊調千春選手、伊調馨選手がおり、オリンピックメダリストを輩出している。

5月20日~24日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは女優 田中美奈子さん

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5月20日(月) 学ランを着ていた中学時代
子供のころから活発だった田中さん、小学校のころはサッカークラブ、中学に入ると男友達から学ランんを借りてきていたそうです。力もあって男勝り。高校時代はモデルの仕事もしていましたが、本人は実は歌手志望。高校では先生やクラスメイトの応援もあって、歌手になるための活動をしていました。本人的には3の線かもしれないと思っていたそうです。

5月21日(火) 負けん気の強さと根性の女
理解のある先生や友達に恵まれ、芸能活動を始めた田中さん。運動もできたので芸能界か体育大学か進路に迷ったそうです。その後、レナウンのオーディションに準グランプリ。ところがその直後交通事故で大けがをしてしまいます。手首を骨折しながらもなんとそのままでCM撮影をこなしたそうです。他の人に変わられたらもうチャンスがない。負けてたまるかと思ったそうです。

5月22日(水) 女優へのシフトと石原軍団
石原プロモーションのドラマ「ゴリラ」で渡哲也、舘ひろし、神田正輝と共演。そのカリスマ性、そして共演者、スタッフに対する配慮に「男が男に惚れる」っていうのはこれか!と思ったそうです。結婚した時、一番最初に花とお祝いを送ってくれたのは渡さんだったそうです。撮影の移動中の石原軍団のおちゃめな話もしてくださいました。

5月23日(木) 田中美奈子もうひとつの顔
テレビ番組への出演がきっかけで、イギリスで犬のトリマーの資格を取ります。
その時、犬の里親探しの活動を体験して、自分で動物愛護団体を設立。チャリティーコンサートも開催。ブッキング、細かいところまですべてかかわって大成功させたそうです。
7歳年下の同じ町内会に住んでいた今のご主人との出会いについても話してくださいました。

5月24日(金) ドラマ「幸せの時間」の現場
いろいろと話題になったドラマ「幸せの時間」撮影現場は実に明るくあっけらかんとしていたそうです。でも、話の内容を知ったご主人は、田中さんの出演を嫌がっていたそうです。でも撮影最終日にお子様を連れて現場に来てくれたので少し安心したそうです。これからは今まで仕事で行った世界各地を子供を連れてもう一度訪れる家族旅行したいそうです。

<田中美奈子>
千葉県出身。TVドラマ・映画・CMを中心に活躍。
主な出演作品は、NHK『義経』、テレビ東京『水曜ミステリー9「ガンリキ 警部補・鬼島弥一」』、CM『JR西日本』、CM『ローソン』など。愛玩動物飼養管理士、動物共生型住宅アドバイザー、アロマセラピストなどの資格を持つ。

5月13日~5月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ロス五輪 体操 金メダリストの森末慎二さん

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5月13日(月)「 鉄棒との出会い 」
森末慎二さんは子供の頃からとにかく目立ちたがり屋で、小学校3年生の時に "目立つにはどうすればいいか" と考えて辿り着いた結論が、「ブランコで一回転すれば目立つ!」というもの。そして、試行錯誤を繰り返した結果、それは無理と分かった森末少年が次に目を付けたのが「鉄棒での大車輪」でした。
月曜日は、森末慎二さんが鉄棒と出会うまで。

5月14日(火)「 ムーンサルト中学生 」
中学生の時に砂場の鉄棒で、見よう見真似で「ムーンサルト‐月面宙返り」をキメてしまったという森末慎二さん。
体操競技の名門校である関西高校に進んで、初めて体操部に所属するのですが、鉄棒以外はまったくの未経験だったために、いろいろと苦労も多かったそうです。
火曜日は、体育会特有の理不尽な縦社会について熱く語っていただきました。

5月15日(水)「 "器用" と "不器用" の対立 」
「練習は各々の自主性に任せる」という日本体育大学の体操部で、ゆる~く過ごしていた森末慎二さん。練習中に怪我をして入院をしてしまった時にも、正直、「やった~、これで練習を休める~! バラ色の入院生活だ~!」と思っていたそうです。しかし、そんな幸せも、隣のベッドに "ある人" が入院してきたために地獄の黙示録へと一変してしまい...。
水曜日は、日本体育大学在学中のエピソードをあれやこれやと伺っています。

5月16日(木)「 オリンピックの魔物 」
1984年のロサンゼルスオリンピックの体操競技で10点満点を3回も叩き出して金メダルを獲得した森末慎二さん。
木曜日は、宿泊先で目覚めてから、得意の鉄棒の演技直前までの出来事や気持ちの変化などを振り返っていただきました。競技中は体に力が入りすぎていて、視界も狭まり、常にフワフワしているような状態だったそうです。
頭の中に当時の情景が浮かんでくるような森末さんのお話、たっぷりとご堪能ください!

5月17日(金)「 10点満点、金メダル 」
最終日は前日に引き続き、1984年のロサンゼルスオリンピックで森末慎二さんが10点満点で金メダルを獲得するまでの軌跡をお届けします。
金メダルを目前にして次々に明らかになってくるさまざまなリスクを、一つずつ、確実にクリアしていく森末慎二さん。
話もいよいよ佳境に入ってきて、思わず聞き入ってしまいました。故に、私、野村邦丸、ほとんど喋っていません(笑)


<森末慎二>
高校で本格的に体操を始め、大学入学後に頭角を現す。
1984年、ロサンゼルスオリンピックに出場し、団体 銅メダル、跳馬 銀メダル、鉄棒 金メダルを獲得。
オリジナル技「モリスエ」(後方棒上かかえ込み2回宙返り腕支持)を生み出し、世界中を魅了。
引退後はテレビ界に進出し、子供達に体操のおもしろさを伝えるための漫画の原作を手がけるなど活躍。

5月6日~5月10日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、川越達也さん

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5月6日(月) 「川越少年の料理への目覚め」
今週のお客様はシェフの川越達也さん。
小さい時から中性的な顔立ちでそれなりにモテたという川越さん。
学生時代にはプロ野球の世界に憧れ、練習を続ける日々を過ごしていたそうです。
それなりに器用で万能選手として活躍していたそうなのですが、大事な試合でミスをしてしまった事から野球の道を諦める事になります。
今日は料理の世界に飛び込む前までの川越達也さんのエピソードをお伺いしました。

5月7日(火) 「苦労が大好き!? 川越達也の修行時代」
川越達也さんは高校を卒業すると同時に大阪の調理師専門学校に進学します。
学費から生活費まで、自分で賄う為に毎日、夜遅くまでバイトしていたせいで、「申し訳ないけど授業は寝てました」という川越さん。
専門学校を卒業してからも、「今の内から苦労しておきたい」と、殴られる、給料安い、キツイと、3拍子が揃ったお店を探し、就職するのでした。
今日は、川越達也さんが自分のお店を持つまでのお話です。

5月8日(水) 「タツヤ・カワゴエの誕生」
川越達也さんが28歳になる頃、目黒区に居抜きで改装したお店をオープンされます。
最初は、「シェフのお任せコースだけを出すお店」といった形で雑誌などで紹介され、お客さんの客足は好調だったそうなんですが、良い時もあれば悪いときもあるようで、暇な時には、仕入れのお金を握り締めてパチスロへ向かうという事もあったそうです。その後、代官山にお店を移転「タツヤ・カワゴエ」としてリニューアルオープンします。
今日は自分のお店をオープンさせてからのお話をお聞きしました。

5月9日(木) 「川越達也さんのシェフ以外の活動」
現在、テレビなどでも活動をされている川越達也さん。
よく、厳しい採点をしている所をクローズアップされている場面が多いですが、川越達也さんなりの色々な決まりを持って評価をしているそうです。
今回の話を聞いて、川越達也さんがテレビにご出演されている時のイメージが変わるんじゃないでしょうか?

5月10日(金) 「今後の川越達也について」
とても40才を越えているとは思わせない川越達也さん。
健康へのこだわりや、厨房に立つ為のこだわりなど、色々とお聞きする事が出来ました。
また4月中は、お店を休業していたというその理由、お店で出す料理への挑戦といったお話もお聞きしました。

<川越達也>
宮崎県出身。大阪あべの辻調理師専門学校卒業。
大阪・東京のフレンチ、イタリアン、日本料理店で修業し、その後、数店の料理長を務める。
2000年、『ティアラ・K・リストランテ』をオープン。
「ジャンルにとらわれないイタリアン」をコンセプトに独自のスタイルを打ち出す。
2006年、店名を『タツヤ・カワゴエ』とし、 東京・代官山に移転。
店舗での本格的な料理提供をする「シェフ」と、多数のテレビ・雑誌 メディア出演で見せるカジュアルな「料理講師」のふたつの顔を持つ。

4月30日~5月2日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の麻倉未稀さん

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4月30日(火)「子供の頃の話/デビューのきっかけ」
大阪の、普通のサラリーマンの家庭に生まれた麻倉未稀さんですが、お姉さんはミス・ユニバースの近畿地区代表でした。お父さんは麻倉さんにソフトボールを教えますが、朝倉さんは歌を習いはじめます。
 お姉さんの影響もあり、1年間のファッションモデルを経て、CMソング「ミスティ・トワイナイト」で歌手としてデビューします。忙しい毎日の中、本当は歌の練習の時間が欲しかったと、麻倉さんは当時の心境を話してくれました。

5月1日(水)「ヒット曲ヒーロー」
 「スクール☆ウォーズ」の主題歌ヒーローが大ヒットした麻倉さんは、当初、この曲がずっと自分のトレードマークになっていることに戸惑いを感じていました。
 その後、ヘアヌード写真集も出しました。当時の旦那さんの反対も無く、麻倉未稀らしい写真集ができたと話してくれました。
 旅番組のレポーター等でも活躍した麻倉さんには、意外な一面もありました。美味しいものに出会うと箸が止まらない!のだそうです。

5月2日(木)「今後について」
 岡崎ゆみさんとの紀尾井ホールでのコンサートなど、麻倉未稀さんは活躍を続けている麻倉さん、お酒が大好きだそうです。酔ってしまうと唄い、踊る、そして旦那さんを躍らせる。楽しい毎日を過ごしている麻倉さんです。
 昔のハードなヒット曲もリクエストに応えて歌って行きたいと麻倉さんは話してくれました。でも、そろそろ体力が続かないことも。そう笑いながら、もっとゆっくりとした唄、バラードなどにも挑戦したいと、麻倉さんは話してくれました。


<麻倉未稀>
1981年、都会派美人シンガーのムーブメントより彗星のごとく CMソング「ミスティ・トワイライト」でデビュー。
80年代の大ヒットテレビドラマ「スクール・ウォーズ」「スチュワーデス物語」 の主題歌「HERO」「What a feeling~FLASH DANCE」はいまだに強烈な印象を残す。 その類まれな歌唱力は折り紙つきで、ポップスにとどまらずJAZZ、ゴスペル、ラテン、クラシックに至るまで幅広く歌いこなす。クラシックの聖地紀尾井 ホールでの2年連続出演はポップス歌手としては異例の出来事として語り継がれている。

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