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9月9日~9月13日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ミッキー吉野さん

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9月9日(月)「 お茶室から学んだこと 」
少年時代は野球をしたくてピアノのレッスンをサボり、高校ではバンド活動が忙しくて学校の授業をサボり...と、基本的には「すぐにサボりたがる性格」だと自己分析をするミッキー吉野さん。
初日は、そんなミッキー吉野さんに「音楽の原点」についてのお話を伺うところからスタートです。途中で、おデブっ子共通の話題で盛り上がったりしておりますので、その辺りもお聴き逃しなく!

9月10日(火)「 ハモンドオルガンとフェンダー・ローズ 」
高校生でザ・ゴールデン・カップスに加入したミッキー吉野さん。
火曜日は、そこで使っていたハモンドオルガンとフェンダー・ローズにまつわるエピソードを披露してくださっています。
当時の日本にはまだ入って来ていなかったフェンダー・ローズ。これは、イギリスの超大物バンドが日本に置いて帰ってしまったものをミッキー吉野さんが買い取ったものなんだそうです。果たして、その超大物バンドとは?

9月11日(水)「 GODIEGO結成 」
日本のポップスに物足りなさを感じ、ザ・ゴールデン・カップスを脱退してアメリカのバークリー音楽院に留学したミッキー吉野さん。その時に考えていたのが、「ジャパニーズ・イングリッシュで世界に通用するバンドを作る」ということだったそうです。そして、バークリーを卒業して日本に帰ってきたミッキー吉野さんが、自身の考える音楽を具体化するために結成したのが「GODIEGO」でした。
水曜日は、GODIEGO結成までのエピソードを伺っております。現在のメンバーはどのようにして集まって来たのか、バンド名「GODIEGO」に隠された秘密などが明らかになります。

9月12日(木)「 GODIEGOの音楽とは... 」
木曜日は、GODIEGO作品のほとんどのアレンジをなさっているミッキー吉野さんに、GODIEGOサウンドが目指しているものについてお話していただきました。イントロが印象的なモンキー・マジックについてのレコーディング秘話なども聞けますよ!
また、後半では、GODIEGOが解散した経緯を振り返っていただいております。

9月13日(金)「 復活!10円コンサート 」
GODIEGOでの活動以外にも、ザ・ゴールデン・カップスの限定再結成や映画「スウィング・ガールズ」の音楽を担当するなど、幅広い活躍をなさっているミッキー吉野さん。9月22日には日比谷野音で、ミッキー吉野さんプロデュースによる「10円コンサート」も開催されます。そして、同所では10月にGODIEGOのコンサートも予定されているとのこと。
最終日は、今後の活動についてのお話を中心に伺っております。


<ミッキー吉野>
1951年、神奈川県横浜市出身。3歳からピアノを習い、中学時代からバンド活動を開始。68年~70年にかけて"ザ・ゴールデン・カップス"で活躍する。71年から米国バークリー音楽大学に留学。74年に帰国後はミッキー吉野グループを結成し、寺尾聡、中村雅俊、タケカワユキヒデなどの音楽監督をつとめた。76年、タケカワユキヒデと共にゴダイゴを結成し、リーダーとして活躍する。ゴダイゴ活動休止後は後進の指導にあたる一方、音楽プロデュース、コンサート・プロデュース、CM音楽、映画音楽など精力的な活動を展開。映画『スウィングガールズ』(04年)において日本アカデミー賞最優秀音楽賞、日本レコード大賞企画賞を受賞している。

9月2日~9月6日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、草刈正雄さん

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9月2日(月) 「福岡で生まれ育った草刈少年」
お父さんは生まれる前に亡くなっていたので、ハーフの草刈正雄さんは福岡の母子家庭で育ちました。狭い家で一緒に住んでいたお母さんはしつけにはとても厳しかったのですが、勉強についてはあまりうるさくなかったそうです。草刈さんはアメリカのコメディ仕立てのホームドラマが好きでした。内容もさることながら、そこに出てくる広い家、裕福なアメリカの家庭をTVを通して見ていたのだそうです。
高校は定時制、軟式野球をやってからスナックでバイト、昼も仕事をしていた草刈さん、仕事は辛くなかったそうですが、その頃憧れていたのは毎日スーツを着る生活でした。

9月3日 (火) 「モデルデビューのきっかけ」
17歳の時、草刈さんはモデルになることを勧められ、上京します。モデルの仕事はありましたが、女性とあまり付き合った事の無く、女性モデルと手をつなぐときに手が震えてしまうなどの失敗もあったそうです。
その後、資生堂を担当しているプロデューサー、杉山さんによって「MG5」のキャラクターに抜擢されます。この時の草刈さんは、お母さんのいる九州でも見られるCMに出ることができたのが一番うれしかったのだそうです。

9月4日(水) 「俳優デビューから、国民的スターに」
19歳の時、草刈さんは自動車で人身事故を起こしてしまいます。仕事が手につかず、高崎に住み着いて毎日お見舞いをしていた草刈さんでしたが、この姿が報じられたことで篠田正浩監督の映画「卑弥呼」に抜擢されます。
ドラマ華麗なる刑事では、田中邦衛さんと共演します。ずっこける邦衛さんと、ロス帰りという設定の草刈さんのミスマッチを見せるはずのドラマでしたが、草刈さんはついつい邦衛さんと一緒にずっこけてしまいます。プロデューサーには申し訳なかったと草刈さんは回想します。そして、なんとこのドラマはインタビューア野村邦丸のカーライフにも影響を及ぼしていたのでした。 

9月5日(木)  「大人の俳優への脱皮」
一時はやる気をなくしていた草刈さんですが、映画「復活の日」では主役を務めます。
世界中の一流俳優が出ている大作に出られたのは役者冥利に尽きると、話してくれましたが、撮影は過酷で、この撮影ではヘリが落ち、船が座礁しと、何度も危ない目にあったのだそうです。
のちに草刈さんは舞台に立ちます。映画で言えば2時間ワンシーンノーカットである舞台に立つことはとても怖かったのだそうです。

9月6日(金)  「これからの草刈正雄さん」
 「自分は時代劇には向かない」と思っていた草刈さんですが、実際に大河ドラマなどに出てみると、とても自分に合っていたのだそうです。諭す役が多いけど、本当は自分が諭される側なんだと草刈さんは笑います。
 下の娘さんがお芝居をやりたいと言ってきたときは、まだ早いなと思っても泣かれて負けてしまった草刈さん、ダンスを極めたいので芸能の仕事もしたいと上の娘さんに言われてからは、失敗しないかなとドキドキしているのだそうです。今はお芝居が楽しくて仕方がないと草刈さんは言います。バックグランドが無かったからネガティブになりやすかったけど....と最後までハニカミながら話してくれました。


<草刈正雄>
福岡県出身。俳優としてTV・映画・CMなどで活躍。主な出演作品に、映画『卑弥呼』『火の鳥』『くまちゃん』『0093 女王陛下の草刈正雄』、フジテレビ『アタシんちの男子』『トリプル捜査線』『グッドモーニング』、NHK『坂の上の雲』『ROMES/空港防御システム』『篤姫』、TBS『冗談じゃない!』『白い闇』、CM『資生堂』『富士通「らくらくホンプレミアム」』『東芝』、舞台『ミー&マイガール』『越路吹雪物語』『マイ・フェア・レディ』など多数。

8月26日~8月30日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、美奈子さん

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8月26日(月)  「16歳で母親に」
自動車会社の社宅に住んでいた子供のころの美奈子さん。
外国の方も住んでいて、外国人の友達がたくさんできたそうです。
でもさみしがり屋だった美奈子さん。よくお母さんの後を追いかけていたそうです。
人見知りが激しかったそうです。(今でもそうらしいです)。高校一年生の時に妊娠。
母親は「産めばいいじゃん」父親は「お前もやってくれるな」という反応だったそうで
無事母親になったのでした。

8月27日(火) 「ビッグダディーとの出会い」
ビッグダディーこと林下清志さんに出会ったのが整骨院の新年会。たまたま隣に座ったのでした。あっという間に意気投合。子だくさんのあるあるの話で盛り上がったそうです。
次の日、前の日の時の約束、覚えてるだろうなと言われ、呼出し。あれよあれよという間におつきあいすることになったのでした。

8月28日(水) 「テレビ番組に自分が出るようになって...」
痛快ビッグダディーの裏話をしてくれた美奈子さん。11か月も密着すると、もう家族のような感じ。でもたまにはイラっとすることもあったのでした。でも、飾ることはなく「素」のままを出していたそうです。小豆島に住んでいたころは知らない方が訪ねてきたり、ネットに悪意の書き込みなどもあったが、いい人との出会いの方が多かったと振り返っていました。

8月29日(木) 「写真集撮影秘話」
ビッグダディーと離婚することになった美奈子さん。でも本当は別れたくはなかったそうです。写真集を出すことになったのですが、「だれが見るんじゃ」と思っていたそうです。
カメラマンに褒められてその気になってしまったなど撮影秘話をしてくれました。
もう一度話が来てももうやらないそうです。子供たちの反応は上々だったそうです。

8月30日(金) 「これからの美奈子さん」
写真集が23万部も売れてしまい、その数字のすごさにピンとこないそうです。
握手会で結婚してくださいと言われたりしたそうですが、まんざらでもなさそう。
でも相手に求めるのは男としてよりも父親としての力量。ダウンタウンの浜田さんが大好きなのだそうです。物まねのリクエストがあり、お答えしました。大喜びの美奈子さんでした。趣味・妊娠、特技・分娩でいきたいなぁと思っているそうです。


<美奈子>
テレビ朝日系のドキュメンタリー番組『痛快!ビッグダディ』に出演した6人の子を持つシングルマザー。
出産後17キロのダイエットに成功。
講談社より、半生をつづった自伝『ハダカの美奈子』を出版。

8月19日~8月23日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、高橋真麻さん

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8月19日(月)「 嘘のつけない性格 」
御自身を"嘘のつけない性格"と分析する高橋真麻さんですが、その裏にはどうも、お父様である高橋英樹さんの教育方針が関係しているようです。「父の名を汚すことのないように真面目に真面目に生きてきた」という、子供の頃のお話。この嘘のつけない性格、社会人になってからはいろいろと苦労が多いそうです。

8月20日(火)「 縁と運とタイミング 」
「人に何かを伝える仕事をしたい」ということでアナウンサーを目指した真麻さん。「縁」と「運」と「タイミング」でフジテレビに合格するまでのエピソードを中心に伺っています。更に、大学まで女子高だった真麻さんの恋愛観も語っていただいたのですが、これがまた恋愛圧力が強すぎて(笑)

8月21日(水)「 父、高橋英樹の言葉 」
フジテレビアナウンサーとしてデビューした真麻さんでしたが、当時、ネットに書かれていた言われなき誹謗中傷を目にしてすっかり自信を失くしてしまい「自分に回ってくるのは、誰がやってもいい仕事ばっかり...」などとネガティブな考えを持つようになってしまっていたそうです。そんな真麻さんを救ってくれたのは、お父様である高橋英樹さんの"ある言葉"でした。
フジテレビ時代の真麻さんの心の動きを追いかけていきます。

8月22日(木)「 フリーになったきっかけ 」
ある朝、突然「会社を辞めようかな...」と思い、局アナからフリーアナウンサーに転身したという真麻さんですが、「今から思うと、あのイベントがきっかけだったのかも...」とのこと。
果たして、そのイベントとは?
フリーアナウンサーとして活動していくことになった経緯を振り返っていただきました。
そして、前半はかつての上司だった福井謙二さんとの思い出話。大井町で一緒に飲んでいると、そこに現れたのが!

8月23日(金)「 現在進行形の恋 」
29歳にして初めて彼氏が出来たという真麻さん。最終日は、お付き合いを始めて2年が経過したにもかかわらず、未だに「彼氏に会いたい!」という気持ちを抑えきれないという、まるで高校生のような恋バナをたっぷりとお楽しみ下さい!


<高橋真麻>
昭和56年(1981)10月9日  東京都出身
昭和63年(1988)四谷雙葉小学校入学
平成12年(2000)東京女子大学 文理学部社会学科入学
平成16年(2004)同大学卒業後、株式会社フジテレビジョン アナウンス室入社
平成25年(2013)株式会社フジテレビジョン 退社

8月12日~8月16日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、桂米丸さん

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8月12日(月)「子供の頃の米丸師匠」
生まれも育ちも横浜という桂米丸さん。
落語家の命でもある大きな声は、お父様譲り。落語に興味を持ったキッカケは、お父様のレコードの中に落語があったからだそうです。その魅力にハマった米丸師匠は、何回も聞きながら覚え、その後、同級生の前で一席演じた所、一躍、有名になり、まずます落語が好きになっていきました。

8月13日(火)「桂米丸・落語家になる為に...」
米丸師匠が旧制中学を卒業する頃、世の中は戦争真っ只中。勤労動員として働いている中でも落語を披露し、楽しませていたそうです。終戦後、本格的に落語家を目指す為、家族を説得しに奔走する事になります。
当時の状況を彷彿させる米丸師匠の話をお楽しみください。

8月14日(水)「桂米丸の原点」
落語の世界を目指す為に、桂米丸さんは師匠である古今亭今輔さんを尋ねます。
しかし、終戦後という事で、内弟子になることが出来ず、通い弟子として、落語の世界に歩みを進めます。
新しいスタイルの弟子を育てたかったという今輔さん。米丸さんにある提案を突きつけるのでした。

8月15日(木)「新作落語家・桂米丸」
新作落語の名人として知られる米丸師匠。ネタを作る時の目線や苦労などお聴きしました。
話を進めている最中、なんと贅沢にも話の1つをご披露(?)いただきました。
80歳を過ぎてもまだまだ創作落語を続けられる米丸師匠の世界観についてお話をお聴きしました。

8月16日(金)「米寿を迎えた米丸師匠」
今年の春に米寿を迎えられた桂米丸師匠。
芸の世界で長く、そして幅広く活動されている米丸師匠は、寄席の他に、これまでに数多くの番組やCMにご出演されてきました。
中でも、野村邦丸の少年時代に見ていた「長崎タンメン」のCMやあわや大惨事になるところだったという温泉地での撮影など、米丸師匠のこれまで、そして、これから先についてのお話をお聴きしました。

<桂米丸>
神奈川県横浜市出身。
昭和21年 古今亭今輔に入門。
昭和22年 古今亭今児(いまじ)を名乗り、二ツ目。
昭和24年 桂米丸を襲名。
昭和51年 協会の会長になる。
平成11年 会長職を勇退、顧問になる。
~受賞歴~
平成4年秋 紫綬褒章
平成10年4月 勲四等旭日小綬章受章

8月5日~8月9日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、藤井フミヤさん

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8月5日(月) 「子供のころの話」
父が国鉄職員、母が町で唯一の美容室を営んでいた家庭でした。
フィンガーファイブにあこがれていたフミヤさん、中学1年の時に「キャロル」の解散コンサートをテレビで見て音楽をやってみたいと思うようになったそうです。その頃のスタイルはボンタンでリーゼント、かばんはペッちゃんこだったそうです。バンドを始めたものの楽器経験者は一人だけ。ギターを買ったものの知らないことが多すぎて困ってしまうことが多かったそうです。

8月6日 (火) 「チェッカーズ 結成 解散」
中学でバンド活動、誰も歌いたがらないのでフミヤさんが「ルイジアナ」をうたったところ、いい感触だったのでボーカルに。高校に入ってからはアメリカンポップとロックロールを演奏するようになっていきました。高校卒業ののち、コンテストで全国優勝。その時のメンバーがチェッカーズでした。この時すでにチェッカーズはもう完成していたのだそうです。デビュー直後、水戸で行ったイベントで邦丸さんが司会をした話も出てきます。

8月7日(水) 「TRUE LOVE ソロ活動開始」
チェッカーズ解散ののち、アメリカに住もうかと考えていたところ、フジテレビのドラマ「あすなろ白書」主題歌の作成依頼が舞い込みます。初めて作曲した曲が大ヒット曲の「TRUE LOVE」。簡単なコードでできているので、いまだにギター教則本に載っているそうです。この曲が大ヒットしてしまったので、レコード会社がアルバム、コンサートツアーを企画、流れに乗る感じでソロ活動が始まってしまったのでした。

8月8日(木)「職業は歌手」
50歳を過ぎて歌手活動に専念したいと思うようになったフミヤさん。
映画は2時間、本はもっと時間をかけて人を感動させたりするが歌は3~4分で人の心を動かすことができる。そう考えると「歌」はすごい。これからはもっと歌を歌っていきたいと改めて思うようになったのだそうです。弟と組んだ解散のないユニットF-BLOODにつても語ってくれました。

8月9日(金) 「今、そしてこれからのフミヤさん」
居酒屋が好きというフミヤさん。友達と行くのだそうです。最近は早起きになったそうです。午前中は文章書いたり家でする仕事。午後は人と会う仕事。楽しみは夕食。一日のご褒美と感じているのだそうです。デビュー30周年記念30枚目のシングル「青春」についても語っています。最後に自分の将来像について聞いています。目標は陽気なジジイだそうです。

<藤井フミヤ>
1962年、福岡県生まれ。
'83年 チェッカーズ としてデビュー。'93年以降、ソロアーティストとして活動。
「TRUE LOVE」や「Another Orion」等ミリオンヒットを世に送り出す。
今年デビュー30周年&ソロデビュー20周年のダブルアニバーサリーを迎える。
7月10日にはソロ通産30枚目のシングル「青春」をリリース。
デビュー日に当たる9月21日からは1年間に及ぶ30周年プロジェクトの第1弾として
全国ツアー「藤井フミヤ 30TH ANNIVERSARY TOUR vol.1 青春」を開催。

7月29日~8月2日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、有馬稲子さん

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7月29日(月) 「子供の頃の話」
1932年に大阪で生まれた有馬稲子さんは4歳のときに釜山(ぷさん)に住む親戚に引き取られます。そこは裕福な家庭でしたが、養父が亡くなり、戦争が激しくなると有馬さんの生活は激変しました。ほうほうの体で慰問先の満州から戻ってきた養母と日本に帰り、実の両親のところに住んだ有馬さんでしたが、そこは14、5人の大所帯、そして気性の荒い父の元、有馬さんにとってここは休まる場所ではありませんでした。そこで有馬さんは、この家から逃げ出すために、宝塚を受験することを決意します。

7月30日(火) 「宝塚時代の活躍」
宝塚音楽学校受験の話が学校中に広がり、意地でも合格するしかないと思っていた有馬稲子さんは無事、宝塚に合格します。入学式に向かう電車の中で、実は母も宝塚出身だったと言うことを知って有馬さんは驚きました。当時、4人の二世が入学し、学校の方針で有馬さんは母の名前を継ぐ事になりました。有馬稲子は、実は二代目だったのです。宝塚に受かった有馬稲子さんは、レッスンに精を出します。他の人より覚えは遅い代わりに、覚えたら寸分たがわず同じ演技ができたのだそうです。 有馬さんは自分が男役を演じるのは嫌いでした。そして、宝塚には一つだけ馴染めないものがあったそうです。この癖が付く前に宝塚を辞めようと、有馬さんは考えていました。
                       
7月31日(水) 「映画女優としての活躍」
活躍の舞台を映画の東宝に移した有馬稲子さんですが、思わぬ世間の風を感じるようになります。組で演じる宝塚と違って、映画の世界は一人、自分自身が直接批判にさらされたのです。撮影現場でもいろいろなことがありました。殴打されるシーンで、練習でも本気で殴られ、最後の本番で頭が真っ白になってしまったこともあれば、「待って」という一言を撮る為に1週間掛かったこともありました。この頃、有馬さんは道ならぬ恋にはまり、7年にわたって辛い思いをしてきました。しかし中村錦之助さんとの出会いが有馬さんを変えたのです。
 
8月1日(木)「舞台女優としての活躍」
 中村錦之助さんと結婚した有馬稲子さんは主婦として頑張りますが、結局、力尽きてしまい離婚してしまいます。でも子供は欲しかったと有馬さんは話してくれました。
離婚後女優に復帰した有馬さんは、こんどは活躍の場が舞台に移りました。そうした中有馬さんは宇野重吉さんの劇団民藝に参加します。民藝での毎日はとても勉強になったのだそうです。
 1980年に、ライフワークとなる舞台、「はなれ瞽女(こぜ)おりん」と出会います。
 その後24年間の公演回数は684回、何回演じても泣ける、とても良い話だそうです。でも一つだけ残念なことがあると、有馬さんは話してくれました。
                         
8月2日(金)「朗読の活動/今後について」
今のライフワークは朗読、瀬戸内寂聴さんの源氏物語の朗読を10年ほど前にやったのがきっかけでした。
有馬稲子さんは今、ついのすみかとしてマンションに住んでいます。殺風景な庭があったので有志の方々と一緒にここに花を植えて、「モネコガーデン」と名づけたのだそうです。ずっと広い家に住んでいた有馬さんですが、今は住民同士の交流も盛んな、このマンションの生活がとてもお気に入りです。
 有馬さんは、これからも朗読を続けていきたいと話してくれました。まだまだレパートリーを広げていきたいのだそうです。

<有馬稲子>
大阪府池田市生まれ。幼年時代を釜山で過ごす。戦後引き揚げ。1948年宝塚歌劇団入団。53年映画界に転身し、小津安二郎監督『東京暮色』、今井正監督『夜の鼓』、内田吐夢監督『浪花の恋の物語』など日本映画黄金時代の名作に出演、出演総数は70数本を数える。やがて舞台に情熱を傾け、東宝の『奇跡の人』や『風と共に去りぬ』に出演。宇野重吉の劇団民藝に参加。80年ライフワークとなる『はなれ瞽女おりん』と出会い、684回の旅公演を重ねた。

7月22日~7月26日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、中山秀征さん

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7月22日(月)「芸能界にあこがれた中山少年」
群馬県にある縫製工場の子供として生まれた中山秀征さん。
フィンガー5が大好きだった中山秀征さんは「いつかアキラさんと一緒に歌いたい」という想いを胸に将来は歌手になると決心されます。
その後は何をやるにも芸能界を意識してやる様になったそうです。
芸能界に憧れる中山少年のお話をお聴きしました。

7月23日(火)「俳優デビューを目指して」
子供の頃から芸能界を目指し、日々努力を続けていた中山秀征さん。
3ヶ月でデビュー出来なければやめると児童劇団に入所します。
約束の3ヶ月で準主役を射止めた中山さんでしたが、その後は来るのは脇役だけだったそうです。色々考えた結果、群馬を飛び出し、東京の高校を受けるために1人上京することになります。
俳優を目指して上京するまでの話をお聴きしました。

7月24日(水)「ワタナベプロに入所して」
芸能界に入りたい一心で上京してきた中山秀征さん。
来ては見たものの、エキストラしか仕事がない日々に住んでいた場所まで追われてしまったそうです。
これはマズいと思った中山さんは、オーディション雑誌に掲載されたオーディションを片っ端から受けて、ワタナベプロに合格します。
ワタナベプロに入った頃の話をお聴きしました。

7月25日(木)「ウチくる ~飯島愛との交遊録~」
中山秀征さんは数々のバラエティ番組にご出演されてます。
「DAISUKI」や「ウチくる」といった番組で、共演された「飯島愛」さん、「飯島直子」さん、「松本明子」さんといった出演陣の思い出話を中山さんにしていただきました。

7月26日(金)「中山秀征から見た立川談志師匠」
NHKのドラマで、立川談志師匠の半生を演じる事になった中山秀征さん。
談志さんの娘さん「弓子」さんから直接オファーがあったそうです。
撮影が進むとついには、弓子さんからも間違われるほど、似てきたという中山さん。
大役に望む心構えや意気込みをお聴きしました!

<中山秀征>
1985年、フジテレビ『ライオンのいただきます』のアシスタントとしてデビュー。
番組卒業後は、俳優・司会の仕事を中心に数多くの番組に出演。フジテレビ『ウチくる!?』でメイン司会を務めるなど、バラエティ番組を中心に活躍している。日本テレビの関東ローカル『ラジかるッ』のメイン司会者でもあり、後番組の全国ネット『DON!』で日本テレビのお昼の顔となった。プライベートでは元宝塚トップスター白城あやかと結婚し、4人の男の子の父親でもある。

7月15日~7月19日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、藤巻潤さん

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7月15日(月)「 義理の兄、大山倍達 」
子供のころは無口で大人しい性格。だけど、スポーツは器用にこなす。
そして、将来の夢は飛行機のテストパイロットか外交官だったという藤巻潤さん。月曜日は初日ということで、藤巻潤さんの少年・青年時代のエピソードなどを伺う予定だったのですが、話は意外な方向に展開していき、義理のお兄さんである大山倍達さんの豪快な素顔が明かされる破目に!

7月16日(火)「 エキストラのジレンマ 」
経済的な事情で大学を中退。その後、就職先として大映のニューフェイスを受け、見事に合格した藤巻潤さん。しかし、当然のように、しばらくはエキストラでの出演のみ。たまにはアドリブでも言って監督にアピールしようかと思ったこともあったそうですが、中途半端に目立ってしまうのは、その他大勢役のエキストラでは致命傷。出番が減って、当時は時給で貰っていた稼ぎに影響が出てくるということで、いろいろと葛藤があったそうです。火曜日は、藤巻潤さんの下積み時代のお話。

7月17日(水)「 東京警備指令 ザ・ガードマン 」
藤巻潤さんの代表作「東京警備指令 ザ・ガードマン」。
このテレビドラマは意外にも少人数のスタッフで撮影されており、出演者が照明さんを手伝ったりするのは日常茶飯事。カースタントも藤巻潤さんが自ら行っていたとのこと。
水曜日は、そのカースタントの撮影秘話を伺っているのですが、これが、今では考えられないほど無茶苦茶なんです!

7月18日(木)「 鬼平犯科帳、五鉄の三次郎 」
木曜日の前半は、カーレーサーをしていたこともある藤巻潤さんが大好きな「自動車」のお話。
後半は野村邦丸が聞きたくてしょうがなかった、藤巻潤さんが現在ご出演中のドラマ「鬼平犯科帳」での裏話をお届けします。見るからに美味しそうな「五鉄の軍鶏鍋」。そのお味についてお聞きしたところ、返ってきた答えは...?

7月19日(金)「 これからの藤巻潤 」
藤巻潤さんは、虐待された子供たちを支援するボランティア活動にも積極的に参加されています。
最終日は、そのボランティア活動についての藤巻潤さんの想い、また、最新のドラマ出演情報を含めた、これからの活動についてお話を伺っております。

<藤巻潤>
1936年、東京都出身。
★主な出演作品
【テレビ】 鬼平犯科帳、ザ・ガードマン
【映画】  南京の真実、若親分シリーズ、人生劇場、熱砂の月
【舞台】  眠狂四郎、忠臣蔵

7月8日~7月12日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の佐藤江梨子さん

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7月8日 月曜日 「佐藤江梨子は、文化放送育ち!」
1981年生まれの佐藤さん。
実は、本格的な芸能界デビューの前に、文化放送の夜ワイド番組「古本新之輔ちゃぱらすかWOO!」のアイドルグループ「くらぶ・ちゃぱらっち」のメンバーだったというのは知る人ぞ知る事実です。当時を思い出しながら、佐藤さんが思わずスタジオで涙ぐみながら話してくれたエピソードとは?

7月9日 火曜日 「芸能界デビュー」
芸能界に憧れを抱いた佐藤さん、芸能人が多く通うことで有名な堀越学園に入学すれば芸能人になれると勘違い(?)し、高校は堀越に進みます。
その後大磯ロングビーチキャンペーンガールに選ばれ、晴れて芸能界デビュー。グラビアアイドルとして一世を風靡します。人前に出ることが好きでなかった佐藤さんも、グラビア撮影は少人数の家庭的な雰囲気だったので、緊張もせず楽しく出来たそうです。

7月10日 水曜日 「キューティーハニー」
佐藤さんの代表作のひとつが、主演映画「キューティーハニー」。
庵野秀明監督との面接でもいたってマイペースにふるまって大役をゲットしました。撮影は過酷でしたが、新たに子供たちのファンも獲得。この映画に出たことでその後の「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」など話題の主演作品につながったのだと佐藤さんは語ります。
自分に自信がなかった佐藤さんも、この頃やっと「佐藤江梨子」に慣れ、受け入れることができるようになってきたそうです。

7月11日 木曜日 「書くことが大好き」
新聞や雑誌で連載を持っていた佐藤さんは、書くことが大好き。
もともとメモ癖があったそうですが、事務所の名物社長から「人から言われたことは忘れないようにとにかく全部書いとけ!」と言われ一生懸命メモするうちに書くことが好きに。いずれ長編小説も書いてみたいそうです。そして先月、10年ぶりの写真集「es(エス)」が発売。久々のグラビア撮影についてのお話も伺っています。

7月12日 金曜日 「佐藤さんの憧れの人は・・・・」
佐藤さんの憧れの人は、なんと大沢悠里さん。ゆったりと穏やかに喋る人が好きなんだとか。
現実の恋愛のほうはというと、人並みはずれた汗っかきで寝汗もすごい量で、この汗を他人に見せたくないのでできるだけ一人で寝たい日々だそうです。しかし今回の写真集は婚活のためのお見合い写真として作った(笑)とのことで、今後は写真集を引っさげて婚活に励む所存だそうです!


<佐藤江梨子>
'81年、東京都生まれ。その抜群のスタイルには女性のファンも多い。『キューティーハニー』('04)『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』('07)など数多くの映画に出演し、存在感のある演技で話題に。一方で文筆家としての活動もこなし、『気遣い喫茶』を上梓。

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