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7月16日~7月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、お笑い芸人のサンドウィッチマンさん

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7月16日(月) 「ラグビー部での出会い」
サンドウィッチマンのお二人は転勤族の家庭に生まれ、何度かの引越しの後に仙台にやってきました。少年時代の富澤さんは粘土で人形を作って、これで4コマ漫画を作ったり、ファミコンの画面を録画して解説アナウンスをしたりといった、ちょっと変わったことをするのが趣味でした。一方伊達さんはリトルリーグの野球少年。家は厳しく、テレビのお笑い番組どころかバラエティ番組も見せてもらえませんでした。この二人は仙台の高校のラグビー部で出会います。偶然の重なった、ちょっと運命のいたずらを感じるような出会いでした。

7月17日(火)「お笑いコンビ結成」
高校を卒業した富澤さんは、今で言うフリーターの様な生活をしていました。一方伊達さんは専門学校を中退した後、福祉関係の会社に就職し、忙しいながらも充実した生活をしていました。
そんな中で富澤さんは他の人と組んで仙台で漫才コンビの活動を始めていました。
伊達さんはこの二人はこの道に行ってしまうんだなと思いながら、このステージを客席から見ていたのだそうです。
富澤さんに漫才に誘われても断り続けていた伊達さんですが、おじいさんが亡くなった時、ちょっと考えが変わります。20代なのだから、冒険しても良いのでは?とかんがえたのだそうです。
仙台には劇場が無くなっていたので、東京に出た二人はプロダクションも決まり、東京での生活が始まりますが、1ヶ月で仙台に戻ってしまったのだそうです。
周りからいろいろ言われて、何が面白いのかわからなくなってしまってきた為でしたが、そこにはもう一つ、意外な理由もありました。

7月18日(水) 「東京でのうまくいかない日々」
 1ヶ月で仙台に戻ったのはあまりにも負けた感じだと気がついた二人は、3ヵ月後にまた東京に戻ります。
もう一人加わり、三人になったところで、3という数字にちなんだサンドウィッチマンという芸名に変えて活動を再開しました。
その後、また二人に戻ったサンドウィッチマンはライブではとてもウケていました。
しかし、念願のテレビ出演にはたどり着けません。
しかし、最後の1年と覚悟してライブの回数を増やして活動していたとき、浅草の舞台を見ていたエンタの神様からオファーが入り、やっと二人はテレビ出演を果たします。
サンドウィッチマンの二人が一番嬉しかったこと、それは、番組が全国ネットで故郷の友人に見てもらえることでした。

7月19日(木) 「M-1グランプリでの優勝」
2007年のM-1グランプリで、サンドウィッチマンのお二人は優勝します。
敗者復活戦の会場から直接スタジオに飛び込み優勝、あまりに展開が急で、番組を見ている訳では無い事もあり、これが現実だとはなかなか信じられなかったのだそうです。
この後、急激に仕事が増えます。経済的に楽になったので引越しをしようとしますが、それは半年後、それまで休みが取れなかったのだそうです。その頃にはその部屋に、ごきぶり以外にもある生き物が居ついていました。

7月20日(金) 「東日本大震災を経て」
サンドウィッチマンのお二人は、テレビ番組のロケの最中に東日本大震災に遭いました。
高台から、8mの津波が町を飲み込む様子を目の当たりにされたのだそうです。
そしてお二人はなにかをしなくてはという気持ちから義援金基金「東北魂」を立ち上げました。
多くの方からの暖かい支援をいただけていることに本当に感謝しているとお二人は話してくれました。
サンドウィッチマンの御二人の今後の目標は、ずっと単独でライブを出来る芸人だそうです。
そして、いつも声を掛けてもらえる芸人で居たいと話してくれました。

<サンドウィッチマン(伊達みきお、富澤たけし)>
1998年、コンビ結成。4239組のお笑い芸人たちがエントリーした2007年の「M-1グランプリ」で、史上初、唯一の敗者復活戦からの劇的な逆転優勝、グランプリの栄冠を手にして全国区の知名度を獲得する。2009年には「キングオブコント」で準優勝を果たした。

7月9日~7月13日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の秋吉久美子さん

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7月9日 月曜日 「いわきで育った不思議な少女」
溺愛する愛犬・フランソワーズちゃんを連れてスタジオ入り、ひざの上に乗せての収録となった秋吉さん。父は研究者、母は看護師と、芸能界とは正反対の堅い家庭で育ちました。多感な少女時代を過ごしたのは福島県いわき市。化石を掘ったりひとりで釣りにいったりという風変わりな面もあれば、高校生になると多数の男子学生を従え、モーニングコーヒー片手に説教したりと、この頃から「女優・秋吉久美子」の片鱗が見えてきます!

7月10日 火曜日 「芸能界デビュー」
高校3年生のときにオーディションを受けて映画に初出演した秋吉さん。「秋吉久美子」という芸名はこの時生まれたのですが、いたって安易な由来だったそうです。スカウトされて上京し、デビュー後はあっという間に売れっ子に。映画「赤ちょうちん」でヌードを披露し大変な話題になりましたが、映画に必要な表現として自分で納得しているのに、最初に助監督から「本当に脱いでいいのか」と確認され「ダサい!」と思ったそうです。しかし、後のセンセーショナルな取り上げられ方でその意味を知りました。

7月11日 水曜日 「『八甲田山』そして『異人たちとの夏』」
秋吉さんの出演作で印象深いのが、高倉健さんや北大路欣也さん主演の「八甲田山」。日本映画史上類を見ない過酷なロケで話題になりました。厳寒の雪山で「吹雪待ち」と言われて、立ったまま吹雪をずっと待ち続ける、なんてこともあったとか。そして風間杜夫さん主演の「異人たちとの夏」。秋吉さんの役どころは、交通事故で亡くなったはずなのに幽霊として現代に現れる、主人公の母親役。ラストは号泣のこの映画、必見です!

7月12日 木曜日 「結婚について」
実は「できちゃった婚」の元祖は、秋吉さんなんです。あの名セリフ「卵で産みたい」も話題になりました。そして現在のパートナーとは一度別れて復縁した間柄。一見波乱万丈に見えますが、どんなときでも、子供の頃からずっと立ち位置は変わらないと語ります。そんな秋吉さん、この5日間ずっと「私はSじゃない。どMだ!」と言い続けています。本当はどちらなんでしょう?

7月13日 金曜日 「最近の秋吉さん」
秋吉さんが「自分の原点」と語る福島県いわき市は、昨年の東日本大震災で多大な被害に遭いました。秋吉さんは早速高校時代のクラスメートに連絡を取り、復興支援の活動を行っています。主演映画「「わたし」の人生(みち)~我が命のタンゴ~」の話題になったとたん「タイトルが言いづらい!」と突っ込むところはさすが女優・秋吉久美子。映画の話もたっぷり伺っています。

<秋吉久美子>
1972年、藤田敏八監督の「赤ちょうちん」「妹」「バージンブルース」に出演し、1970年代の映画史を飾る。
デビュー以来、テレビ・映画・CMなど数々な分野で活躍。
2009年9月、早稲田大学政治経済学術院 大学院公共経営研究科を卒業。

7月2日~7月6日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の六平直政さん

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7月2日(月)「六平直政さんの少年時代」
お酒が大好きなお父様と、薬剤師のお母様の間に生まれた六平直政さん。
ご自身いわく、「勉強も出来て、声も良くて、運動神経バグツン!」と、非の打ち所がない様な利発的な子供だったそうです。
そんな六平少年、通っていた絵の塾をキッカケに芸術の道に没頭していくのでした。
六平直政さんのチキンハートだったという少年時代についてお聞きしました。

7月3日「六平直政さんの学生時代」
高校3年の夏、突然、ハンドメイドな道に進学したいと思いついた六平直政さん。
しかし、付け焼き刃では合格する訳もなく、一年間「お茶の水美術学院」に通い始めます。
そこで出会った学友との交流、そこでの経験は素晴らしいものだったと語ってくれました。
その後、武蔵野美術大学に進学、生涯の師と仰ぐ世界的彫刻家「篠田守男」さんと出会います。
六平直政さんの学生時代をお聞きしました。

7月4日(水)「演劇の世界に飛び込む六平直政さん」
演劇とはまったく無縁な生活を送っていた六平直政さん。
キッカケは当時、お付き合いをしていた彼女と唐十郎さんの舞台を見に行った事と、「生涯の師」篠田守男さんからの後押しだったそうです。
いざ入ってみると、大先輩である不破万作さんに、「溶接の免許を持っていたから合格した」と言われたり、収入が無く数々のアルバイトを掛け持つなど、色々と体験したそうです。
演劇や舞台など、芸能の世界に飛び込んだ頃のお話をお聞きしました。

7月5日(木)「六平直政の演技論 」
六平直政さんの活躍はドラマだけではなく、バラエティなど幅広く活躍されています。
それはマネージャーの戦略(?)だったり、「ある方の言葉が在るからだ」という六平さん。
そんな六平直政さんに演技や芝居論を語っていただきました。
邦丸が大好きなあの作品についても熱く話していただきました!

7月6日(金)「六平直政さんのプライベート」
「僕はプライベートは明かさない。」と言いつつ、バッチリ語ってくれた六平直政さん。
趣味は散歩とサッカーという事なんですが、サッカーといえば、U-19日本代表の主将に選抜された事がある次男の「光成」さん。
六平直政さんは怪我が多いと心配のご様子。
そんな「光成」」さんとの家族のやりとりをお聞きしました。
六平直政さんのプライベートと、『しみじみ日本・乃木大将』についてお聞きしています!

<六平直政>
1954年東京都生まれ。東京都立国立高校を卒業、武蔵野美術大学彫刻科で篠田守男に師事。23歳のとき、唐 十郎主宰の劇団、状況劇場に参加。87年、新宿梁山泊を旗揚げ。その後、舞台にとどまらず、映画、テレビドラマ、バラエティーと出演作多数。北野 武映画の常連でもある。

6月25日~6月29日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の床嶋佳子さん

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6月25日(月)「クラシックバレエとの出会い」
"現在の日本のドラマで一番犯人率の高い"女優の床嶋佳子さん。クラシックバレエに夢中で、友達づきあいも恋愛にもまったく興味がなかったそうです。少女時代のお話を聴いています。


6月26日(火)「バレリーナ時代」
6歳でバレエを始めた床嶋さん。プロを目指して松山バレエ団に入団されます。その後、主演に抜擢されたミュージカルから床嶋さんの人生が変わることになります。バレリーナ時代のお話を聴いています。


6月27日(水)「バレリーナから女優へ」
バレエをやめて女優になると決めた床嶋さんですが、テレビドラマでは自然な演技ができずに苦労されたそうです。
女優になられた当時の話を聴いています。


6月28日(木)「ドラマの魅力」
サスペンスなどで似た役が多い床嶋佳子さん。しかし、役の人生や家族構成が違うため、同じ演技にはならないそうです。ドラマの話を聴いています。


6月29日(金)「プライベートのお話」
お酒が強いという床嶋さんですが、「バレリーナはみんなお酒が強い」との事。そして8月に行われる舞台の話も聴いています。


<床嶋佳子>
★主な出演作品
【テレビ】
捜し屋★諸星光介が走る! 法医学教室の事件ファイル 医療捜査官・財前一二三 おみやさん おばさんデカ・桜乙女の事件帖ファイナル フェイク
【舞台】
天璋院篤姫 エディットピアフ ANJIN~イングリッシュサムライ~

6月18日~6月22日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の稲垣潤一さん

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6月18日(月)「稲垣さんの音楽的ルーツ」
稲垣さんの音楽のルーツはビートルズ、特にジョンレノンの歌だそうです。ラジオから流れるヒット曲を聴いていた少年だったと稲垣さんは語ります。小学校時代はやんちゃだった稲垣さんですが、クラスメイトのほとんどと分かれて別の中学校に進学したのを機に音楽に興味を持つようになりました。ローン、それも友達の親を保証人にしたローンでドラムセットを手に入れると、クラスメートとバンドを活動をするようになります。最初のコンサートは図書室、この頃から稲垣さんは歌うドラマーの道を歩み始めます。

6月19日(火)「アマチュアで音楽生活」
ヤマハ主催のコンテストに出場し、地区予選を通過できなかった稲垣さんですが、その頃すでに将来の道は音楽と決めていました。高校を出て就職した会社を1日で辞めてしまった稲垣さんは、仙台市内のライブハウスで毎晩のように演奏をするようになります。東京に出て米軍キャンプやディスコでも歌いましたが、あまりに収入に結びつかないため、1年ぐらいで仙台に帰ってしまいました。米軍キャンプも凄かったけど、新宿はもっと怖いところだったと、稲垣さんは回想します。

6月20日(水)「28歳でのレコードデビュー」
デモテープを作っていろいろな処に売り込んでいた稲垣さんに、とうとう声がかかり、東京に出て行くことになりました。28歳のデビュー曲は雨のリグレット、あこがれの湯川れい子さんの作詞でしたが、それまで洋楽ばかり唄っていた稲垣さんは日本語のポップスには違和感を感じました。でも、日本語で唄うことで、自分の新しい世界が見えてきたのだそうです。3曲目のシングル「ドラマティックレイン」は大ヒットします。まだ駆け出しの作詞家だった秋元康さんの歌詞はあまりにすばらしく、スターへの階段を上りだしました。

6月21日(木)「ロングバージョンとクリスマスキャロルの頃には」
 稲垣潤一さんの曲の中で一番カラオケで歌われているのは「ロングバージョン」、この曲のイントロを聴いた瞬間に、凄い良い曲だと稲垣さんは感じたそうです。どろどろした男と女の物語を歌うこの曲を、稲垣さんは逆にさっぱりとした感じで歌っています。一方、「クリスマスキャロルの頃には」は、じっくりと温めていた曲だそうです。それが秋元康さんのドラマのテーマ曲として仕上げられ、大ヒット曲になりました。そんな稲垣さんはデュエットアルバムも発表しています。レコーディングにはいろいろと苦労をしましたが、出来上がったものは原曲から生まれ変わったすばらしいものになっていました。

6月22日(金)「これからの稲垣潤一さん」
10年ほど前から、稲垣さんは"みやぎびっきの会"という活動で宮城県の小中学校の楽器修理のためのチャリティーイベントをやっています。震災以降は宮城、そして仙台の人たちを元気付けるためのストリートライブも積極的にやられていて、改めて歌の力を再確認したのだそうです。そんな稲垣さんが6月13日にニューアルバムを発表しました。往年の欧米のスタンダードナンバーを日本語でカバーしたアルバムで、スタンダードにJ-POPの味付けを加えたものだそうです。


<稲垣潤一>
1953年7月9日生まれ、仙台市出身。
中学時代から本格的なバンド活動を始める。高校卒業後、ライブハウス、ディスコ、米軍キャンプなど様々な場所でライブ活動をする中、ドラムを叩きながらのボーカルというスタイルで注目を浴び、1982年「雨のリグレット」でデビュー。「ドラマティック・レイン」(1982)や「夏のクラクション」(1983)「クリスマスキャロルの頃には」(1992) 他、数々のヒット曲で日本を代表するAORシンガーとしての地位を確立。コンサート回数も現在では2000本を超えている。

6月11日~6月15日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の沢田雅美さん

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6月11日(月)「 沢田家の謎 」
1949年、昭和24年生まれの沢田雅美さん。お父様は戦争で亡くなっており(あれ?計算が...)、「おにいちゃん」と呼んでいた人が叔父さんで、でも本当は実のお兄様で...など、いろいろと謎が多いご家庭だったそうです。初日は、複雑怪奇な沢田雅美さんのご家庭の謎に迫ってみました。よーく聴いていないと頭がこんがらがっちゃいますのでご注意を!

6月12日(火)「 石井ふく子さん と 池内淳子さん 」
中学3年生の春にお兄様の推薦で応募したTVドラマ「ただいま11人」のオーデションでTBSのスタジオを訪れた沢田雅美さん。そこに面接官として座っていたのは、その後にいろいろとお世話になる石井ふく子プロデューサーと、主演女優の池内淳子さんでした。火曜日は、お二人との初めての出会いを振り返っていただきました。

6月13日(水)「 演技とは... 」
TVドラマ「ただいま11人」でデビュー後、数々のドラマ・舞台を経験され、その中でご自分の演技も少しずつ変化していったという沢田雅美さん。そこで気をつけていたのは「演出家の方の意図を理解すること」だったそうです。しかし、中には訳の分からない注文を出してくる演出家の方もいて、そんな時、沢田雅美さんがとる行動は...?水曜日は、沢田雅美さんの「演技論」。と言ってもそんなに堅苦しいお話ではないのでご安心を!

6月14日(木)「 渡る世間は鬼ばかり 」
木曜日の前半は、沢田雅美さんが舞台の自主公演で億単位の借金を背負ってしまい、多くの関係者に御迷惑をかけてしまったというお話。そして後半は、大ヒットドラマ「渡る世間は鬼ばかり」での裏話。「久子」というアクの強い役柄だったため、私生活でもいろいろなことがあったそうです。

6月15日(金)「 健康であるために... 」
現在62歳の沢田雅美さんですが、2年ほど前に体のあちらこちらに不調が出たため、検査をしてもらった結果、バセドウ病とヘバーテン結節という病気であることが発覚。その後は、それまで浴びるように飲んでいたビールを1日2本までと決め、健康に気を使うようになったそうです。最終日は、沢田雅美さんを突然襲った病魔のお話。同じように体の不調に悩んでいる人への沢田雅美さんのアドバイスは、「とりあえずいろんな人に聞いてみる。そうすれば解決策が見つかる」だそうです...。


<沢田雅美>
1949年、神奈川県出身。
★主な代表作品
【舞台】
ナツひとり 母の子守唄 化粧 嫁しゅうとめ おたふく物語 旦那さま大事 夢千代日記
【テレビ】
どーもキニナル 理想の生活 渡る世間は鬼ばかり おみやさん 警部補佃次郎 いい旅夢気分 はぐれ刑事純情派

6月4日~6月8日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、食生活ジャーナリストの岸朝子さん

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6月4日 月曜日 「ウーマク少女とお父様」
沖縄でワンパクという意味のウーマクと呼ばれていた少女時代を過ごした岸朝子さん。
そんな岸さんのお父様は、沖縄から海外に渡り、そこで学んだ牡蠣の養殖を、日本で成功させ広めた方なんだそうです。
お父様のエピソードを中心に、岸さんの少女時代のお話をお伺いしています。

6月5日 火曜日 「結婚後の苦しい生活」
21歳の時に結婚した岸朝子さん。
戦時中という事もあり、旦那様とちゃんとお付き合いする事無く、結婚が決まっていたんだそうです。
しかし、ご長男の死や旦那様の仕事がうまくいかなかったりと厳しい結婚生活。
そんな中、新聞に載っていた主婦の友社の求人広告に目を付け、試験を受けるのでした。
結婚した頃のお話をお聴きしています。

6月6日 水曜日 「料理記者デビュー」
妊娠していながらも、主婦の友社の試験を受け、採用となった岸朝子さん。
「料理記者なんて好きな時に料理を食べて記事書いて...」と甘く見ていたそうですが、いざ、フタを開けてみると、毎日が大変で勉強の日々だったそうです。
岸朝子さんが料理記者として活躍していた頃のエピソードをお聴きしています。

6月7日 木曜日 「料理の鉄人」
主婦の友社を退職後も、料理本の編集長や、食専門のプロダクション設立など、食の世界でご活躍を続ける岸朝子さん。
そして、岸朝子さんを一躍有名にした番組「料理の鉄人」がスタートします。
岸朝子さんが審査員という立場からコメントする上で、チェックしていたポイントや表現方法など色々あったそうです。
料理の鉄人のお話を中心にお聴きしています。

6月8日 金曜日 「岸朝子さんのこだわりと健康」
現在、88歳の岸朝子さん。お酒やタバコも嗜まれるのですが、年齢を感じさせないほど、お元気で健康的。
そこで、その秘訣などを色々とお聴きしてみました。
食にこだわる岸朝子さんならではのお話満載です。
キーワードは「魚1 豆1 野菜5」だそうです!

<岸朝子>
1923年東京生まれ。女子栄養学園(現・女子栄養大学)卒業。55年に主婦の友社に入社。その後、女子栄養大学出版部に移り、『栄養と料理』編集長を務める。79年、株式会社エディターズを設立。料理、栄養など食に関する書籍や雑誌を多数編集する。93年よりフジテレビ系「料理の鉄人」に審査委員として出演。食後のひと言"おいしゅうございます"が話題となる。著書では、東京にある老舗・名店の極上の味みやげを厳選して紹介した『東京 五つ星の手みやげ』(2004年、東京書籍刊)が30万部を超えるベストセラーになるなど、料理記者歴50年以上の間に培ったその"審味眼"は、幅広い読者層から絶大な信頼を得ている。

5月28日~6月1日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の渡部篤郎さん

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5月28日(月) 「子供の頃の話」
東京の新宿で生まれた渡部さんは一人っ子だったそうです。家は厳しかったけれど外ではやんちゃに過ごしていた渡部さんは、7歳ぐらいの頃から近所に遊びに行く感覚で映画館に映画を見に行っていましたが、その頃の渡部さんは将来自分が映画に関わるとは全く思っていませんでした。
渡部さんは飛行機が大好き。それも乗っているときより、乗る前後のわくわく感がたまらないのだそうです。これは大人になっても変わりませんでした。そんな渡部さんですが、デートをするときにはある作法がありました。それは...?

5月29日(火)「デビューのきっかけ」
渡部さんは1991年にテレビドラマ「青春の門」でデビューします。渡部さんはひどい二日酔いでこのオーディションを受けたそうです。そして、受かった時、渡部さんは「大変な事が起きるんだろうな」とは思いましたが、まだその頃は俳優の仕事がずっと続くとは思っていませんでした。
奈良弁で苦労した初の映画「橋の無い川」を経て、1995年には知的障害者を描いた伊丹十三作品、「静かな生活」で日本アカデミー賞をW受賞します。映画の内容で悩んでいる渡部さんに、伊丹監督はある言葉でふんぎりをつけさせてくれたのだそうです。その言葉とは...?

5月30日(水)「フランスでの挑戦」
渡部さんは数多くの時代劇に出演しました。大河ドラマ「北条時宗」の時は、忙しかったのではじめは断るつもりでいたら、1年前に約束していたことを思い出して引き受けたのだそうです。今になってみるとやってよかったと渡部さんは言います。
2006年頃にはフランスに渡り、半年近く公演する舞台に挑戦しました。全編フランス語によるふたり芝居、渡部さんが引き受けた訳は「かっこいいと思った」からだそうです。
でもこの舞台のお客さんは渡部さんを知りません。空のコップに少しずつ水を足していくように、演技、そして渡部さん自身をフランスの観客に理解してもらったのでした。

5月31日(木)「演技について/監督デビュー」
渡部さんが演技をする上で大切にしているのは、"楽しむ"ということです。でも、相手が余りに凄くて自分が入り込んでしまって演技が変わってしまうこともあると渡部さんは笑います。
そんな渡部さんは2010年に「コトバのない冬」で映画監督デビューをしました。これは制作出資を全く受けない自主制作映画です。海外の映画祭で学生の作った純粋な映画を見た渡部さんは、「ああ、いろんな作品があってもいいんだな」と感じて、自分の感性にあった映画を作ることを決めましたのだそうです。

6月1日(金)「外事警察/プライベート」
渡部さんの最近の代表作は外事警察。この映画が明日、土曜日に公開になります。
外事警察のOBの方の指導を受けて作ったのですが、撮影後の映像を見て、徹底している、こんなに凄いことをやっているのだと渡部さんは驚きました。
そんな渡部さんの飲み友達は元サッカー選手の中田さん、歌手の平井堅さん。フランスに居たとき、中田さんはチェコから駆けつけてくれたそうです。フラッと来てくれると気持ちが楽だと渡部さんは言います。
渡部さんのオフはほとんど体のメンテナンス。でも、乗馬も大好きなのだそうです。

<渡部篤郎>
【主な代表作品】
静かな生活 (映画) イーヨー役(1995)
ケイゾク (TBSテレビ) 真山徹役 (1999)
外事警察 (NHKテレビ) 住本健司役(2009)
コトバのない冬 (映画) 門倉渉役(2010)

5月21日~5月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントのおりも政夫さん

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5月21日(月)「ユー、うちにこないか?」
子供の頃から、習い事の延長のような感覚で児童劇団に通っていたというおりも政夫さん。そんな中、劇団の仲間と顔を出したジャニーズ事務所で、ジャニーさんに「ユー、うちにこないか?」と事務所入りを勧められたのがフォーリーブス結成の第一歩。
そんなわけで、月曜日はフォーリーブス結成までのお話。
最初のメンバーにター坊はいなかったんだそうです。

5月22日(火)「フォーリーブス、レコードデビュー」
コーちゃん(北 公次)、ター坊(青山 孝)、トシ坊(江木 俊夫)、マー坊(おりも 政夫)でレコードデビューを飾ったフォーリーブス。数年後にはNHK紅白歌合戦に出場するほどの人気アイドルグループに成長します。
メンバー間の結束は固く、それを支えていたのは、「ケンカとマージャン」。
火曜日は、一見するとフォーリーブスのイメージとは程遠いような、この二つの事柄について伺っています。

5月23日(水)「覚悟の解散」
「フォーリーブスの看板を外して自分の力を試したくなった」、「それぞれ次の一歩を踏み出す時期だった」...そんな理由で解散を決めたフォーリーブスの各メンバー。そこにはかなりの決意と覚悟があったようです。
水曜日は、解散に至るまでのいきさつを振り返って頂くとともに、人気絶頂だった時のおりも政夫さんの恋の話を伺っています。後楽園遊園地でデート中のところを修学旅行生に見つかってしまったおりも政夫さんがとった大胆な行動とは?

5月24日(木)「フォーリーブス解散後のオイシイ話」
フォーリーブス解散後も多方面で活躍されているおりも政夫さん。勿論、エピソードも豊富です。
木曜日はその中から「ごちそうさま さすらいの食いしん坊」でのグルメレポート、「アイドル水泳大会」での司会、この二つにスポットを当ててみました。
「本当においしいものを食べた時には言葉が出ない」。おりも政夫さんのこの言葉には非常に共感します。
ポロリもあるよ!

5月25日(金)「散ってしまった二枚の葉っぱ」
近年はフォーリーブスを再結成して精力的に活躍していた四人のメンバー ... 四枚の葉っぱ。しかし、二枚の葉っぱが散ってしまいました。 ター坊...。 そして、コーちゃん...。
最終日は、二枚の葉っぱを失ってしまったおりも政夫さんの現在の想いを語っていただきました。

<おりも政夫>
1968年に男性アイドルグループ・フォーリーブスのメンバーとしてデビュー。紅白歌合戦に7年連続出場するなど、1970年代を代表するアイドル歌手となる。1978年に『フォーリーブス』解散後、タレントや俳優として活躍。代表作はテレビ朝日系ドラマ『八丁堀の七人』シリーズ。旅番組やグルメ番組のレポーターとしても活動。2002年にフォーリーブスを再結成し、2009年に再び活動休止。

5月14日~5月18日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントの桑野信義さん

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5月14日 月曜日 「ミュージシャン一家に生まれて」
邦丸さんと同い年、1957年生まれの桑野さん。祖父、父はトランペッター、母はダンサーという芸能一家で育ち、子供のころから自然にトランペットを手にするようになっていました。学校のブラスバンド部には入るものの、ちょっとずつ不良になっていった桑野さんは「アレ?俺やっぱりこっちじゃないな」とやめてしまいます。当時はすごくモテた、という学生時代のお話です。

5月15日 火曜日 「シャネルズに加入」
高校卒業後、クラブのハコバンとして活動していた桑野さんでしたが、幼馴染で1コ先輩の鈴木雅之さんに誘われシャネルズに参加します。そしてあの「ランナウェイ」で衝撃のデビュー。シャネルズといえば「靴墨で黒塗り」でおなじみですが、実は・・・?ここにきて桑野さんが明かす衝撃の事実が!

5月16日 水曜日 「ミュージシャン、そしてバラエティでも活躍」
「ランナウェイ」が大ヒットして、シャネルズはいっきにスターダムにのし上がります。相当遊んだし飲みまくったという桑野さん、お酒が飲めなかったリーダーの鈴木雅之さんにお酒の飲み方を教えてからは、巡業などでも公演後に2人で飲みに出るようになりました。そして桑野さんはバラエティにも進出します。今日は芸能界での活躍のお話です。

5月17日 木曜日 「パパとしての桑野さん」
シャネルズでは一番早く、24歳で結婚した桑野さん。しかし、ほとんど家に帰らず飲んでばかりだったせいか、ある日家に帰ると、妻と子供の姿が荷物ごと消えていました。ショックで以降はかなり荒れた桑野さんですが、息子さんが「お父さんと暮らしたい」と戻ってきてからは、お弁当を作ったり仕事に連れて行ったり、よきパパぶりを発揮!桑野さんが再婚するときの、この息子さんのコメントが泣けます!

5月18日 金曜日 「師匠・志村けんさん」
桑野さんの師匠はご存知志村けんさん。「だいじょうぶだぁ」に出ることになり、初めて楽屋に挨拶に行ったときは緊張でひとことも喋れなかったそうですが、今ではもう四半世紀続いている「バカ殿様」のご家老役など、すっかり志村ファミリーの主要メンバーです。5月末から始まる桑野さん出演の舞台「志村魂」の見所もたっぷり伺っています。


<桑野信義>
1957年東京都生まれ。ラッツ&スターのトランペッター。バラエティ番組に出演するかたわら、ジャズ・クラシック・演歌など、幅広いジャンルでトランペッターとして活動中。

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