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8月1日~8月5日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」は、国生さゆりさん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」のゲストは、国生さゆりさん!

8月1日(月) 陸上に没頭した少女時代 

スタッフと邦丸さんにお手紙つきのお菓子を持ってきてくれた国生さん。お菓子をおいしく頂いてから、国生さんの少女時代についてお話を伺いました。
鹿児島生まれで、シャイな少女だった国生さんは、中学高校時代、陸上・短距離走に没頭。お父様は自衛官で、たまにチャブ台がひっくり返るような厳しい家庭で育ったということで、遅れてきた反抗期はそれはもう激しかったそうです。

8月2日(火)陸上少女がアイドルになるまで

高校時代に雑誌のオーディションを受けた国生さん。賞はもらえなかったものの、陸上の経験を買われ、レコード会社対抗運動会の運動会要員としてレコード会社から声がかかります。その運動会で、国生さんがこっぴどく怒られてしまうことになります。
体育会系の国生さんがやってしまった大失敗とはいったいなんだったのでしょうか?

8月3日(水) おニャンコ時代 新田恵理さんとの心の葛藤

おニャンコクラブに入ったものの、3列目でテレビでは半分顔が切れて写っていたという国生さん。体育会系らしくメラメラしていたそうです。さらに上京して自活していた国生さんは、バイト感覚で中央に立っている新田さんを見てさらにメラメラ!
86年に「バレンタインデーキッス」でデビューしても、やはり新田さんの「冬のオペラグラス」を意識していたそうです。時が経ち、今になって新田さんと話して、彼女の苦悩もあったことを知り、仲直りをしたそうです。

8月4日(木) 女優 国生さゆり 

バラエティや歌手としての自分に行き詰まりを感じていた国生さんはドラマに絞って活動を始めます。ドラマの現場で出会った先輩の俳優・女優さんからさまざまなことを教わり、今は演じることが楽しくてしょうがないそうです。
20代、30代と自分をダメだ、と思っていたという、国生さんは現在44歳。
年をとることが怖くなくなった、とステキな笑いジワを作りながらお話いただきました。


8月5日(金) 恋愛、そして 結婚 

33歳の頃、高校時代の初恋の相手を最初の結婚をされます。
鹿児島に帰って、洗濯物をたたみながらテレビを見て「次の仕事現場では、一番楽しい人になろう」と決めたという国生さん。その頃から仕事が増えてきたそうです。
忙しさからくるすれ違いで離婚してしまった国生さんですが、ご自分のファンだった実業家の方と現在婚約中。ノロけ話、そしてこれからの国生さゆりについて聞かせていただきました。

<国生さゆり>
高校在学中に、フジTV「オールナイトフジ」美少女コンテストに応募、優勝。
それを機に、「夕やけニャンニャン」スタート時から会員番号8番として出演。
1986年2月に「バレンタイン・キッス」でCBSソニーよりデビュー。
1987年3月、おニャン子クラブを卒業。
映画主演以来、女優としての活動を中心に多岐に渡り活躍中。

7月25日~7月29日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、高嶋ちさ子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、高嶋ちさ子さん!

7月25日(月)「 目指すはガキ大将!」
なでしこジャパンの大活躍で「女性の強さ」が注目されている今日この頃ですが、少女時代の高嶋ちさ子さんの"強さ"もかなりのものだったようです。但し、高嶋さんのそれ(・・)は、なでしこジャパンとは違って、決して褒められるような"強さ"ではなかったのですが...。
月曜日は、「子供の頃はガキ大将になりたかった」という高嶋ちさ子さんの武勇伝を伺うとともに、あのハスキーボイスの秘密にも迫ってみました。

7月26日(火)「 憧れの徳永二男(つぎお)先生 」
本格的にヴァイオリンを始めたのは、著名なヴァイオリニスト・徳永二男さんと出会ったことがきっかけだったという高島ちさ子さん。徳永二男さんの佇まいに憧れ、徳永先生にちょっとでも近づきたいという一心で一生懸命に練習をかさねたそうですが、大学時代には周りとのあまりのレベルの差にコンプレックスを感じ、やめることも考えたとのこと。そんな高嶋さんを救ってくれたのは留学先のアメリカでの音楽体験でした。
火曜日は、高嶋ちさ子さんがヴァイオリンと出会ってからアメリカへ旅立つまでの微妙な心の変化に注目です。

7月27日(水)「 自分の居場所 」
アメリカへ留学後、マイアミのオーケストラに所属して充実した毎日を送っていた高嶋ちさ子さん。アメリカでの生活が楽しくってしょうがなかったらしいのですが、「娘を日本に連れ戻したい」というお父様の策略で活動拠点を日本に移すことになります。しかし、そこに自分の居場所は無く、半ば強引に自分を日本に連れ戻したお父様とはギクシャクした関係に...。
水曜日は、高嶋ちさ子さん曰く、「この頃が一番つらかったかも...」という時代を振り返っていただきました。

7月28日(木)「 私は肉食系 」
いろんな意味で"肉食系"の高嶋ちさ子さん。現在のご主人とも、高嶋ちさ子さんの猛アタックが功を奏して結婚までこぎつけたんだそうです。
木曜日は、高嶋ちさ子さんのご家族にまつわるエピソードを伺っています。
高嶋流の婚活テクニックも教えていただいたのですが、多分、リスナーの皆様には参考にならないと思います(笑)

7月29日(金)「 高嶋ちさ子、クラシックを語る 」
「12人のヴァイオリニスト」、「バギーコンサート」、「ちさ子の部屋」などのコンサート。そして、デビュー15周年を記念して4月に発売されたCD「アダージェット」。高嶋ちさ子さんは、ともすればちょっとお高いイメージのあるクラシックと我々の距離を縮めようとさまざまな試みをしておられます。
最終日にしてやっと真面目な音楽の話。金曜日は、それぞれの見どころ・聴きどころをたっぷりとお話いただいております。

<高嶋ちさ子>
東京都出身。6歳からヴァイオリンを始め、これまでに徳永二男、江藤俊哉、ショーコ・アキ・アールの各氏に師事。桐朋学園女子高等学校音楽科、同大学を経て、1991年イェール大学音楽学部大学院に奨学生として入学。同大学院修士課程アーティスト・ディプロマコースを卒業。 '94年マイケル・ティルソン・トーマス率いるマイアミのオーケストラ、ニュー・ワールド・シンフォニー(NWS)に入団。 一方日本では'95年5月にCDデビュー。97年本拠地を日本に移し、本格的に活動を始める。 これまでに、フジテレビの軽部真一アナウンサーとの共同プロデュースによる「めざましクラシックス」や、コンポーザーピアニスト加羽沢美濃と組んだ「CHISA&MINO」、そしてチェロを加えたトリオ編成など多様な演奏形態をとりながらも、あくまでもアコースティックな音色にこだわり、年間100本以上のコンサートを開催。全国各地で数多くの観客を集め新たなクラシックファンを獲得している。 06年には新プロジェクト「高嶋ちさ子 12人のヴァイオリニスト」を立ち上げ、多いに注目を集める。08年は5月に新イタリア合奏団、12月にベルリン・フィル・ヴァイオリンアンサンブルとのツアーがそれぞれ行われた。 現在、演奏活動を中心としながらも、コンサートのプロデュース、テレビ・ラジオ番組の出演などでも活躍。

7月19日~7月22日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、梶芽衣子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、梶芽衣子さん!

7月19日火曜日 「モデルへのスカウト」
自由な家風の家に育った梶さんは遊びに行った銀座でスカウトされます。家が神田で近所だったので、アルバイト気分で高校生活のかたわらモデルとして活動を始めました。
後に女優として活動をはじめるときにもあまりにもとんとん拍子であったので、梶さんは時々、「なんでここに居るんだろう」と考えていたのだそうです。

7月20日 水曜日 「女優 梶芽衣子」
その後、梶さんは日活の専属女優として活動を始めます。撮影所では細かい事を教えてくれないため、新人の梶さんは思わぬ失敗をしたこともあったそうです。
でも、日活では周りの人に恵まれます。特に裕次郎さんはすばらしい方だったそうです。
そんなときに、マキノ雅弘監督が今の芸名を考えてくれました。名前を変えた梶さんは、自分の新しいイメージ「不良少女」を前面に出して、いろいろな作品を成功させます。

7月21日 木曜日 「密偵 おまさ誕生 」
怨み節で、映画と主題歌、両方をヒットさせた梶さんは、ここで女優を続けようか辞めようか悩みます。しかし、ここでやめてしまうと怨み節が最後の作品になってしまうということに気が付き、女優をつづけることにしました。
その後、梶さんは中村吉右衛門さんと共演したくて鬼平犯科帳の役者に加えてもらいます。こうして密偵「おまさ」が誕生するわけですが、梶さんがおまさを演じるようになったのは、意外な事情からでした。

7月22日 金曜日 「怨み節を捨てて」
鬼平犯科帳の中で、梶さんが一番心に残っている作品は「狐火」で、最後に長谷川平蔵の処に戻っていくおまさのシーンは、おまさの「女」の部分を描いた作品としてずっと心に残っているのだそうです。
そんな梶さんがニューアルバムを発表しました。宇崎竜童さんプロデュースのこのアルバムは、ジャズあり、ボサノバありと多彩な内容に仕上がっていますが、梶さんが竜童さんに付けた注文はたった一つ、「怨み節の梶芽衣子を忘れて欲しい」でした。

<梶芽衣子>
1965年スカウトにより日活映画「青い果実」にてデビュー。
日活映画 「野良猫ロック」シリーズ、東映映画 「さそり」シリーズ、東宝映画 「修羅雪姫」シリーズ、ATG映画 「曽根崎心中」 など映画約100作品出演。
主なTVドラマに「あめりか物語」「風の盆」「純情長柄川」(HNK)、「分水嶺」「風を見た女」「寺内貫太郎一家」(TBS)、「時よ炎のごとく」「笑顔、泣き顔、ふくれ顔」「鬼平犯科帳」「忠臣蔵」「剣客商売」(フジテレビ)など。
発売したレコードに東映映画「さそり」挿入歌「怨み節」(120万枚)など。

7月11日~7月15日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、村上ショージさん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、村上ショージさん!

7月11日 月曜日 【村上ショージの少年時代】
愛媛県生まれた村上ショージさん。
早くにお母様を亡くされ、金銭的に恵まれなかった家庭に育ったという少年時代をお送りするのですが、当時の話をお聞きしますと、辛いとかではなく、意外と楽しかったそうです。
小学生の頃から近所の家で見ていた吉本新喜劇に憧れ、お笑いの世界を夢見て、日々を過ごしていきます。
村上ショージさんの少年時代についてお聞きしました。

7月12日 火曜日 【村上ショージの青春時代】
テレビで見た吉本新喜劇の岡八郎さんに憧れ、「いつかはお笑い芸人に!」と、考えていた村上ショージでしたが、お兄様から「親孝行の為に働いてくれ。」と言われ、近所の造船所へと勤め始めます。
当時は中学卒業して働き始める事を「金の卵」と呼ばれ、責任ある仕事に思いを馳せるのですが、実際は地味なお仕事が待っていました。
そして、二十歳になる頃には、念願のお笑いの世界に飛び出すのですが...。
村上ショージさんの青春時代に体験した出来事についてお伺いしました。

7月13日 水曜日 【村上ショージと「師匠・滝あきら」】
吉本へ入った村上ショージさん、舞台の裏方などの雑用として働き始めます。
すると早速、村上ショージさんに初仕事が...。
あの「明石家さんま」さんよりも早く仕事を取ったという事なんですが、その仕事内容とは一体...?
また、村上ショージさんは漫談家の「滝あきら」さんに弟子入りします。
ショージさん曰く、「師匠は変わった人」との事ですが、どこがどう変わっているのか?
弟子「村上ショージ」が語る、「師匠・滝あきら」の爆笑エピソードをお聞き逃しなく。

7月14日 木曜日 【村上ショージと明石家さんま】
村上ショージさんの憧れの存在だった、「明石家さんま」さん。
どこに行くにも一緒だったという、さんまさんとの思い出話や、ここ最近のお付き合いに至るまで、細かくお話をしていただきました。
「寝ない」・「風邪をひかない」といった、明石家さんまさんの都市伝説についてもお聞きしました。

7月15日 金曜日 【天才と呼ばれる男・村上ショージ。】
ウケないことが芸風(?)の村上ショージさん。
しかし、明石家さんまさんをはじめとする数多くの芸人さんから「天才」とリスペクトされています。
そんな村上ショージさんご自身のお笑いに対する評価をお話いただきました。
そして、伝説とされている「徹子の部屋」に出演した時の村上ショージさんの悪戦苦闘ぶりをお話いただきました。


<村上ショージ>
1955年、愛媛県生まれ。
【主な代表作】
★映画 
「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」、「銀のエンゼル」

★テレビ
NHK「あすか」、CX「ホーム&アウェイ」、CX「心はロンリー、気持ちは「...」」、NTV「丹下左膳」、CX「ホームレス中学生」

7月4日~7月8日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、新沼謙治さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、新沼謙治さん!

7月4日(月)「少年時代」
自然の中で育った新沼謙治さん。
大家族だった家には、手作りの卓球台があったそうです。
中学になって左官職人として働き出すのですが、この仕事が新沼さんにあっていたそうです。
少年時代のお話です。

7月5日(火)「芸能界デビュー」
「スター誕生」でテレビに出た新沼さんですが、当時はデビューを考えていなかったそうです。
しかし、親方に背中を押されてデビューすることになります。
当時直されたのは、「なまり」と「がに股」だったそうです。

7月6日(水)「嫁に来ないか」
大ヒットした「嫁にこないか」ですが、事務所もレコード会社もまったく考えつかなかったファンがついたからなんだそうです。
奥様との出会いについても伺っています。

7月7日(木)「新沼さんとギター」
多趣味な新沼謙治さん。
現在ハマっているのは5年前から始めたギター。
特別に演奏もしてもらいました。
食事中も手放さないほどはハマリ具合だそうです。

7月8日(金)「ふるさと・大船渡市」
新沼さんのふるさとは、震災の被害を受けた岩手県大船渡市。
「歌で元気になってほしい」と話す新沼さんの現在の心境を伺っています。


<新沼謙治>
日本テレビのオーディション番組「スター誕生」をきっかけに、昭和51年2月1日「おもいで岬」でデビュー。
続く、シングル第2弾「嫁に来ないか」が大ヒットし、この年の新人賞を総ナメ、また「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たす。
その後も「ヘッドライト」「酒とふたりづれ」「津軽恋女」等、ヒット曲多数。
また、芝居の才能も発揮し、「二百三高地」(昭和54年東映)をはじめとする映画やドラマのレギュラー出演(「私鉄沿線97分署」・NHK大河ドラマ「炎立つ」)にも挑戦し、高い評価を得る。
以後、平成2年までに「NHK紅白歌合戦」通算13回出場。

6月27日~7月1日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、室井滋さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、室井滋さん!

6月27日 月曜日 【室井滋、「猫は鎹(かすがい)」】
本日のテーマは「猫」
愛猫家で知られる室井滋さん、飼い始めるまでは猫の事が嫌いだったそうです。
そして元祖オヤジギャルと呼ばれるほど、生活が荒れていた室井滋さんですが、猫がやってきてからは、猫中心の落ち着いた生活になっていったそうです。
『猫は子供以上の存在』という室井滋さんの親バカならぬ、猫バカっぷりについてお伺いしました。

6月28日 火曜日 【女優、室井滋】
お化粧するのが苦手という室井滋さん。そんな室井さんが女優を目指したキッカケは、『高校時代に学校行事で演じてみた舞台がウケた事がある。』ただそれだけなんだそうです。
しかし、お話を伺っていきますと、女優というお仕事の土台には、お父様とのエピソードがありました。

6月29日 水曜日 【思い出の出世部屋】
学生時代に上京して来てからずっと住み続けているという東京。
室井滋さんが「大好きだ!」と言わしめる部屋の思い出を熱く語っていただきました。
なにやら入居者が成功を掴むという『出世部屋』らしいのですが...。

6月30日 木曜日 【やっぱり大好き、故郷「富山」】
月1度は必ず帰るという故郷「富山」。
昔は、「絶対戻らないぞ!」と決めていたそうなのですが、年齢を重ねるにつれて都会での遊びがつまらなくなり、友人達が富山に戻り始めた頃から、故郷に思いを馳せる様になったそうです。
温かい故郷「富山」の魅力をお話していただきました。

7月1日 金曜日 【エッセイスト・室井滋さん。】
室井さんの「書く」という仕事は、先輩からの勧めでエッセイを書き、そこで褒められた事をキッカケに、書く仕事をどんどん増やしていったそうです。
そして書き溜めてきたエッセイを集めて出版した「むかつくぜ!」が、100万部を超えるベストセラーとなり、気が付けば、50冊ぐらいの本を出版されているそうです。
室井さんの友人曰く、「考えて書いてるの??」と疑われてしまう室井流の書き方とは?
そして、室井滋さんの絵本「しげちゃん」についてお話をお聞きしました。

<室井滋>
富山県出身。早稲田大学在学中の1981年、『風の歌を聴け』でスクリーン・デビュー。
映画『居酒屋ゆうれい』『のど自慢』『闇打つ心臓』など女優業を続けるかたわら、エッセイを発表。
数々のベストセラーを生み出している。

6月20日~6月24日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、草笛光子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、草笛光子さん!

6月20日(月)「内気な疎開の女の子」
横浜生まれでとにかく引っ込み思案の女の子だった草笛さんは、学童疎開に馴染めません。
縁故疎開先でも苦労しましたが、一人で居る時間が増えたのは自分のために良かったのだそうです。
疎開先で、旅回りの役者さんが白塗りしている姿を遠めに見ます。それがとても印象に残っていた草笛さんは、後に獄門島でその役をやるときに、そのときのイメージを出すために金歯を2本入れることを思いつきました。

6月21日(火)「松竹歌劇団のホープ」
草笛さんは女学校の舞踊サークルで習った踊りがどれほどのものか知りたくて、松竹少女歌劇学校を受け、見事合格します。そして、松竹歌劇団では10年に一人の逸材と言われ、舞台をこなしながらラジオ、映画で活躍しますが、これはとても異例なことでした。
しかし、草笛さんは歌劇団をやめてしまいます。それはとても草笛さんらしい理由からでした。 (まだ、ミュージカルが一般的でないとき、歌って踊るというのが辛かった)

6月22日(水)「ミュージカルとの出会い」
草笛さんはニューヨークで本場のミュージカルに出会います。そこで、やはりミュージカルを踊りたくなった草笛さんは松竹の映画で踊りますが、映画内での扱いはとても軽く、草笛さんは東宝への移籍を決意しました。
この頃、草笛さんは結婚をします。今で言うところの不倫からの略奪婚でした。しかしこの結婚は短時間で壊れてしまいます。それは、芸術家だった旦那さんの、ちょっと理不尽な要求からでした。

6月23日(木)「ラ・マンチャの男」
女優をやめたくなるような出来事にあった草笛さんは、ミュージカル「ラ・マンチャの男」を見て、これを演じるために女優を続ける決心をします。しかし、その中の役にはまり込んだ草笛さんはその役の少女のようにやさぐれてしまいます。
死にたくなった気持ちの草笛さんを救ってくれたのは母でした。電話では笑い飛ばしながら、実際は飛んできてくれた母。草笛さんを一番心配してくれました。
そんな草笛さんが常々思っている事があります。それはだれかがいつも世の中全体を見ているのではないかと思っていることです。

6月24日(金)「死んでたまるか!」
必殺シリーズに出演した草笛さんは、「殺し」の指示を出すたびに、本当にこの人を殺して良いのだろうかと考えていて、これがあの絶妙の表情を作り出していたのでした。その後、犬神家の一族の撮影中には、逆に市川崑監督の死を思わせる言葉を聴いてしまいます。
そして、今週末公開の映画「デンデラ」では、逆に「死んでたまるか!」という事がテーマになっていました。ここで草笛さんは、捨てられた冬山で必死に生きる100歳の老婆を演じています。


<草笛光子>
1933年生まれ。
1950年松竹歌劇団に入団。
1953年映画「純潔革命」で女優デビュー。
映画「無責任」シリーズ「社長」シリーズ TV「必殺必中仕事屋稼業」「元禄太平記」「赤い衝撃」「熱中時代」ほか多数出演。

6月13日~6月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」は、宮本亜門さん

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6月13日(月) 銀座育ちの演劇少年 

東京銀座の喫茶店の息子として生まれた宮本亜門さん。
新橋演舞場の目の前の喫茶店だったこともあり、いつも俳優さんたちがお客としてやってきては、お母様に人生相談をしていたそうです。
元松竹歌劇団のレビューガールだったお母様の影響を強く受けた宮本さんは大の演劇好きに育ち、次第に宮本少年は周りの友達と違和感を感じ始めます。
そして、不登校、部屋に引きこもり生活も。そのとき聞いていた音楽はクラシックのほか、宮本さんいわく、引きこもりにぴったりの井上揚水「氷の世界」だったそうです。

6月14日 演劇の世界へ そして 母との別れ

不登校を心配したお母様から精神科病院をすすめられ、そこのお医者様に話を聞いてもらい、自信を回復できたという宮本さん。
復学した後は、積極的に演劇の世界のめり込みます。大学も演劇科に進み、演出家を目指していた宮本さんですが先生の意外な言葉に反発し、中退してしまいます。中退と同時にミュージカルのオーディションを受け、合格。とんとん拍子に演劇の世界に進んでいたその矢先、2作目の作品公演前日に突然お母様がお亡くなりになります。
大好きだったお母様がなくなったときのお話を淡々と、でも心をこめてお話いただきました。

6月15日(水) 父との和解 そして演出家デビュー

お母様の亡骸にキスをする父親の姿を見て、今まで抱えていた確執が一気に消え去り、父親をいとおしくなった、という宮本さん。お母様の「ニューヨークは一流が集まる場所」という言葉を思い出し、ニューヨークに留学されます。誰もが同じ感動を分かち合っている劇場の雰囲気に「演劇は一生やっていい仕事だ」と決心をされたそうです。日本に帰国後、舞台「アイガットマーマン」で大成功。演出以外もテレビやCMなどで引っ張りだこになるまでのお話です。

6月16日(木) 沖縄での生活

「あいつはテレビの人間だ」と演劇の世界の人から距離をもたれていることに危機感を覚えた宮本さん。40歳になる前に、演出家の活動は休止し、新規一転、沖縄へ転居されます。自分は自然をわかったつもりで舞台を作っていた、と衝撃を受けた宮本さんは、沖縄からたくさんのことを教わったそうです。地元の方に言われた「花ばっかり見ていてはだめ、根っこを見なきゃ」という言葉など、沖縄のすばらしい環境についてお話いただきました。

6月17日(金)ミュージカル「太平洋序曲」

今日(6月17日)から神奈川芸術劇場で公演が始まる宮本さん演出「太平洋序曲」。
江戸末期ペリー来航時代から、現代に至るまでの日本について描かれたこの舞台は、「今の日本をどう思うか」と観客に考えさせる作品となっているそうです。
3.11を経験し、台本も少し書き換えられたという宮本さん、今だからこそ見てほしい舞台だと語られています。



<宮本亜門>
1958年東京都生まれ。
出演者、振付師を経て、2年間ロンドン・ニューヨークに留学。
帰国後の1987年に、オリジナルミュージカル「アイ・ガット・マーマン」で演出家としてデビュー。
翌88年には、同作品で「昭和63年度文化庁芸術祭賞」を受賞。
ミュージカルのみならず、ストレートプレイ、オペラ等、国内外へ活動の場を広げている。
2004年秋には、ニューヨークのオンブロードウェイにて「太平洋序曲」を東洋人初の演出家として手がけ、2005年同作品はトニー賞の4部門でノミネートされる。
2011年1月にオープンしたKAAT<神奈川芸術劇場>の芸術監督に就任。
6月には、2004年にブロードウェイで好評を博したミュージカル「太平洋序曲」がKAATで再演される。




6月6日~6月10日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、佐久間良子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、佐久間良子さん!

6月6日(月)「 練馬のお嬢様 」
東京・練馬区の旧家、お嬢様育ちの佐久間良子さん。佐久間さんは当時から目立つ存在で、学生時代には、近くにあった東映の撮影所内でも「あのキレイな女学生は誰だ?」と、話題になっていたそうです。そして、後日、東映のおエライさんが「娘さんを是非ともうちに...」と佐久間家に足繁く通うこととなるのですが...。
月曜日は、佐久間良子さんが東映にスカウトされるまでのエピソードです。

6月7日(火)「 不死身の女? 」
東映ニューフェ-スの第4期生としてスクリーンデビューを飾った佐久間良子さん。当時は週に一本ペースで新作が公開され、映画館が連日超満員となるような映画全盛期 。佐久間さんも主役の妹役や恋人役として一度に5~6本の撮影を掛け持ちするハードスケジュールをこなしていたそうです。
そんな中、作品に関して「どうして?」という素朴な疑問もあったそうなんですが ...
火曜日は、佐久間良子さんが映画デビューして間もない頃のお話。

6月8日(水)「 女優として学んだこと 」
先日お亡くなりになられた岡田茂東映元社長(当時は撮影所所長)の勧めで出演した映画「人生劇場・飛車角」で娼婦役を演じ、それまでの"清純派"のイメージから"演技派"への転進に成功した佐久間良子さん。この映画の後も様々な監督さんと出会い、いろいろなことを学び、女優としてますます磨きがかかっていきます。
水曜日は、佐久間良子さんが女優を続けていく中で感じたことなどを語っていただきました。

6月9日(木)「 女優として、母として 」
1970年に平幹二朗さんとご結婚され、双子の息子さん、娘さんのお母様でもある佐久間良子さん。
「アメリカの高校に留学したい」という息子さんに、「日本人のいない学校ならいいよ」と厳しい態度で接した佐久間さんでしたが、面接で英語に苦労する息子さんを見て、母親としての一面がポロッと...。
また、高校→大学→大学院と、留学を終えた息子さんが帰国した時、佐久間さんの知らないところで着々と進んでいた"ある企画"とは、一体??
木曜日は、佐久間良子さんに、女優と子育てを両立していく上での苦労話などを伺っています。

6月10日(金)「 一期一会 」
子供の頃から字を書くことが好きで、女優以外に書道家としてもご活躍中の佐久間良子さん。両方に共通しているのは"一期一会"。「同じ字は二度と書けないし、同じ演技は二度とできない」のだそうです。
そんな佐久間良子さんとの一期一会、「姉妹たちの庭で ~モーニングス・アット・セブン~」が6月24日から上演されます。
最終日は、舞台の見所を伺うとともに、佐久間良子さんの仕事に対する考え方などをお聞きしました。
「楽をしちゃダメ」という佐久間良子さんの言葉に、野村邦丸、反省の日々でございます...。

<佐久間良子>
1939年、東京都出身。
1956年、川村高等学校在学中東映東京撮影所を見学した時に、東映宣伝部にスカウトされる。
東映第4期ニューフェイス。
デビュー作品は「美しき姉妹の物語・悶える早春」(映画)。
代表作品に「五番町夕霧楼」(映画)(1963)、「越後つついし親不知」(映画)(1964)
「湖の琴」(映画)(1966)、「細雪」(舞台)(2004)など。

5月30日~6月3日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、平田満さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、平田満さん!

5月30日 月曜日 「平田満さんの部活ライフ」
愛知県豊橋市の大家族の末っ子として生まれた平田満さん。
小さい頃は、ガキ大将のお兄さんについて歩いていたという、引っ込み思案な平田さん。
中学生時代には野球と相撲、高校に入るとラクビー部と部活に励んでいたそうです。
いずれも愛知県の県大会でかなり良い所まで進んだのですが...。
平田満さんの学生時代のお話をお伺いしています。

5月31日 火曜日 「早稲田大学に入学・劇団『暫(しばらく)』へ」
高校を卒業後、早稲田大学へと進んだ平田満さん。
大学1年生に見えなかった平田さんは、サークルからの勧誘されなかったそうです。
そんな時に劇団「暫(しばらく)」と出会い、
「楽しそうだし、女の子もいるし...」そんな感じで何となく入部。
その後、初舞台を経験して、向いていないと思った平田さんは、
「やめたい」と伝えに行くと、そこには「つかこうへい」さんがいて...。

6月1日 水曜日 「つかこうへいさんとの出会い」
平田満さんが演劇を辞めようと思った矢先に出会った「つかこうへい」さん。
「つかこうへい」さんの雰囲気に圧され、演劇を続ける事になったのですが...。
「つかさんがいなければ、今まで芝居や俳優としての生き方は無かった。」という
平田満さんから「つかこうへい」さんとのエピソードをお伺いしました。

6月2日 木曜日 「思い出の蒲田行進曲」
平田満さんにとって、ターニングポイントになった作品「蒲田行進曲」。
風間杜夫さんや松坂慶子さんなど出演陣のエピソードや、
平田満さんが演じた「ヤス」の名シーンについて、
「蒲田行進曲」大好きの私、邦丸が思う処をお聞きしています。

6月3日 金曜日 「40歳で悩み、50歳を過ぎて・・・。」
平田満さんが40歳になる頃には、それまでの俳優人生について悩み始め、
今後どうすればいいのかと迷ってしまったそうです。
一念発起し、当時所属していた事務所を辞め、平田満さんは再スタートします。
当時は相当苦労なさったそうですが、
新しい自分を見つける良いキッカケになったそうです。
平田満さんのチャレンジと、ご出演されている舞台、映画についてお聞きしました。

<平田満>
1953年生まれ。愛知県出身。
早稲田大学在学中、学生劇団「暫」時代につかこうへいと出会い、大きく運命が開けていく。1974年、劇団「つかこうへい事務所」旗揚げに参加。「初級革命講座飛龍伝」('73年)、「熱海殺人事件」('73年)、「いつも心に太陽を」('79年)、「蒲田行進曲」('80年)などのほとんどの作品に出演する。1982年劇団は解散。その後、「泣き虫なまいき石川啄木」('86年 作井上ひさし こまつ座)や「こんな話」('87年)、「島」('88年 作エイソル・フガード、ジョン・カニ、ウィンストン・ヌッショナ 地人会)で木村光一演出と、TPT(シアタープロジェクト東京)では外国人演出家、デヴィッド・ルヴォー、ロバート・アラン・アッカーマンらと出会い新たな刺激を受けるなどし、'01年に「ART」(演出パトリス・ケルブラ 松竹)、「こんにちは、母さん」(作・演出永井愛 二兎社)で読売演劇大賞最優秀男優賞を受賞。様々な出会いが結びついた賞となった。
また、映画「蒲田行進曲」('82年深作欣二監督)では舞台と同じ「ヤス」役を演じ、1982年度日本アカデミー賞最優秀主演男優賞、報知映画賞最優秀主演男優賞を始め多数受賞。
ドラマでは「独眼竜正宗」('87年NHK)、「君の名は」('91年NHK)や「ラブジェネレーション」('98年CX)、「神様もう少しだけ」('98年CX)など、高視聴率番組にも多く出演。その他にも、「シャツの店」('86年NHK)、「こんにちは、母さん」('07年NHK)、「ラスト・フレンズ」('08年CX)、「パンドラ」('08年WOWOW)、「誰かが嘘をついている」('09年CX)などがある。
2006年、企画プロデュース共同体「アル☆カンパニー」を立ち上げ、平田俊子、青木豪、蓬莱竜太、前田司郎など幅広い作家・演出家と様々な試みに取り組んでいる。

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