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5月23日~5月27日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、河村隆一さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、河村隆一さん!

5月23日(月)「虫取りとサーフィン」
神奈川でお生まれになった河村隆一さん。
子供の頃は虫取りが大好きだったそうです。
そして、最近までなさっていたサーフィンの地元の方たちとの温かいエピソードも伺っています。

5月24日(火)「LUNA SEA」
音楽のため高校をやめ、ライブ活動を続けた川村隆一さんですが、そのバンドは解散。
その後、今のLUNASEAに参加することになったんだそうです。
当時はバンドだけで食べられずバイトをするのですが、バンド活動費用に消え、その日食べるのもままならない時に後輩におごったものとは?

5月25日(水)「LUNA SEA大ブレイク そしてソロ活動」
「LUNA SEA」としてメジャーデビューし、オリコン1位、武道館、東京ドームと活躍。
そんな中、ソロ活動を始めます。
その真意とは? 
そして、「車のゴルフもボクシングも楽器」とはどういう事?

5月26日(木)「別の顔、役者として父として」
役者としても活動されている河村隆一さん。
演じることは人のシナリオを生きること。
音楽で言えば、カバーのようなものなのだそうです。
そして2歳になる息子さんとのエピソードも伺っています。

5月27日(金)「ミュージカルについて」
先日行われた武道館ライブで6時間半に104曲歌われた河村さん。
なんとペース配分もせず、最初から全力だったそうです。
そして主演を務めるミュージカル「嵐が丘」のお話も伺っています。

<河村隆一>
1997年LUNA SEAの活動休止期間中、シングル「 I love you 」でソロ活動をスタート。
ドラマ出演や小説の出版、他アーティストへの曲をプロデュースするなどの活動の一方、2ndシングル「 Glass 」は100万枚以上のセールス。
オリジナルアルバム「 Love 」は320万枚のセールスを記録した。
2007年12月 LUNA SEA一夜限りの復活ライブを東京ドームにて行う。
2008年2月 ソロ活動10周年の集大成の71曲ライブを日本武道館にて行う。
2009年4月にはニューアルバム「ピアノ」をリリース、5月から全国ツアーをスタートさせ、8月22日東京国際フォーラム公演にてファイナルを迎えた。
2010年1月20日にシングル「抱きしめて」発売。
また、同名タイトルにて恋愛小説「抱きしめて」(泉忠司×河村隆一)が発売。
2010年2月にエイベックス移籍第一弾アルバム「Sora」発売。

5月16日~5月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、手塚理美さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、手塚理美さん!

5月16日(月)「女優デビュー」
子役モデル時代、そして衝撃的な写真集を経て、手塚理美さんは女優になりました。
世間の反応とは違い、自分にとって写真集は10代の良い記念だったそうです。
お芝居は他人になるから嫌だと思っていたのに、自分の眠っている部分を出させてもらうものだという事に気がついて、それまで演技をすることを嫌っていた手塚さんは、自分で連続テレビ小説「ハイカラさん」のオーディションを受けに行きます。

5月17日(火)「ふぞろいの林檎たち」
ハイカラさんが終わってからの次の大きな仕事は「ふぞろいの林檎たち」でした。女優としての心構えは出来ていたのですが、その分、これからの方向性に悩んでいた手塚さんは、同じように悩んでいた同世代のタレントさんと一緒に、この「不ぞろい学校」とでも言うべき場所でいろいろ勉強していくことになります。長いシリーズでしたが、皆、成長していったのでした。
小さいときから芸能活動をしていたので青春が無かった手塚さん。その青春を取り戻したような仕事がこの、ふぞろいの林檎たち、そして男女七人秋物語でしたが、ここでは手塚さんのしぐさから、ある有名なギャグも生まれていました。

5月18日(水)「ロンドン留学」
ふぞろいの林檎たちの中では、自分が一番充実しているときの作品である3作目が一番好きなのだそうです。妊娠3ヶ月なのに走るシーンを撮るときだけは気にしたつもりなのに、出来たものを見てみたらがむしゃらに走っていたのは笑ったそうですが。
この頃、ロンドンにも留学しています。
何でも出来ると思っていた自分がロンドンでは何も出来なかった。これがわかって人生をリセットできたのだそうです。
そして、人生の中でいちばんやりたかったことに手塚さんは気が付きました。

5月19日(木)「お母さんとしての一面」
お母さんとしての手塚さんは女優の手塚さんとは違う一面をもっているのだそうです。
特に御長男はマイペース。時間をぜんぜん気にしません。
そんな子供に手を焼きながらもいろいろと付き合い方を学び、こんな長男を手塚さんは「師匠」と呼ぶようになります。
長男はある日、手塚さんに本をプレゼントしてくれましたが、それはちょっと変わったタイトルの本でした。お子さんはきちんとお母さんを見ていたのです。

5月20日(金)「50代を迎えて」
もうすぐ50歳になる手塚さんですが、本人はまだ20歳のときのままなのだそうです。演じてみたい役柄も「天然ボケのお母さん」クールでないビューティが良いのだそうです。
でも、手塚さんは隠れ完璧主義者、大変だと思うことに興味があるのです。下のお子さんの受験は親子で楽しんでいました。
上の子が再婚は絶対に嫌だというので再婚しなかった手塚さん。今はもう良いかなとおもっているようですが、その条件がこれまた変わっています。

<手塚理美>
1974年2代目ユニチカキャンペンガールでデビュー。
主な出演作は、テレビドラマ「ふぞろいの林檎たち」、「男女7人秋物語』、
NHK朝の連続テレビ小説「ハイカラさん」、「ふたりっ子」、「筆談ホステス」、
映画「アホ-マンズ」「ジュリエットゲーム「ALWAYS 続・三丁目の夕日」「余命1カ月の花嫁」など。
数多くの映画・ドラマで活躍中

5月9日~5月13日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、内海桂子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」のゲストは、内海桂子さん!

5/9(月) 働き暮らした少女時代
芸歴75年の内海佳子師匠は、1922年、お母様が駆け落ちした先、銚子でお生まれになったそうです。
お父様と別れたお母様と東京浅草の実家に戻った後のつらい状況に、自ら命を絶つことも考えられたそうです。
しかし、お母様を支えるために神田のお蕎麦屋さんに奉公へ行き、さらに三味線や踊りを稽古してチンドン屋さんの一行と旅へ出られる、など必死に働き暮らした少女時代のお話を明るく、お話いただきました。

5/10(火) 漫才師デビュー
昭和13年、16歳となった佳子師匠は、師匠曰く、「お金のため」に漫才の舞台に上がります。
最初は夫婦漫才の代役でしたが、練習もしていないのにうまくツッコめるなど、トントン拍子に人気者に。
時代は第二次大戦へと移りますが、満州における軍の慰問漫才でも大人気だったそうです。
終戦後、団子を売ったり、キャバレーの女給さんとして働くなどパワフルに働かれ、その後、芸人の道一本に絞るまで激動の時期をお話いただきました。

5/11(水) 名コンビ誕生 
14歳も年下となる内海好江さんとコンビを組んだのは昭和25年。
「一人前にしてやってほしい」と好江さんの親から頼まれ、時には厳しく芸を教え込んだということです。
絶対に口答えはしなかったという好江さんにキツイ言葉をかけて、好江さんを追い込んでしまったこともあったそうです。
たくさんの賞を得た名コンビについて、そして97年にお亡くなりになられた好江さんについて、思いを語られています。

5/12(木) マネージャー、今の夫との出会い 
小学生から佳子師匠のファンで、300通のラブレターを送ってきたという今の旦那様は24歳も年下。
結婚を申し込まれた佳子師匠の「私の死に水とってくれる?」という質問に対し、旦那様は「うん、一緒に飲むよ!」といい返事をされたそうです。
今はマネージャーとなった旦那様もお話の輪に入って、銀婚式を迎えた仲むつまじいご夫婦のお話を伺っています。

5/13(金) 生涯現役!現在の佳子師匠
今年で90歳となる佳子師匠は、今も元気いっぱい。現役の漫才師として活躍されています。
ツイッターも駆使し、街中で若者に声を掛けられる佳子師匠は「老人は老人の感性で活躍するべき」と語られています。
現在、佳子師匠は、 あした順子さんとコンビを組んで漫才をされています。
意識しているのはなんとあの・・・「AKB48」なんだそうです。
24時間でも話したりない!という佳子師匠のお話で、元気をいただきましょう。

<内海桂子>
1923年、東京都出身。
1938年、高砂屋とし松とコンビで浅草橋館に漫才初出演。
1950年、内海好江とコンビ≪内海桂子・好江≫結成。
1958年「NHK漫才コンクール」優勝、1998年に漫才協団会長に就任。
漫才活動の他、映画・ドラマ・トーク番組・バラエティ番組などに出演し、最近ではレポーター、講演会の講師、今村昌平監督の日本映画学校・演劇科講師を務めるなど常に新境地を開拓。
1982年度に授賞した芸術選奨文部大臣賞は漫才としては初の栄誉。

5月2日~5月6日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、市毛良枝さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」のゲストは、市毛良枝さん!

5月2日(月)「なめるように可愛がられた少女時代 」
静岡県・伊豆市修善寺で、三人姉兄妹の年の離れた末っ子としてお生まれになった市毛良枝さん。ご両親はそんな市毛さんを溺愛し、ご本人いわく、「なめるように可愛がられて育てられた」そうです。
しかし、そんなご両親の愛が市毛さんにとっては負担となった時期もあり...。
月曜日は、市毛良枝さんが「サンタクロースは何で私の欲しいモノが分かるんだろう?」と真剣に悩んでいた頃、 "泣き虫" で "いじられキャラ" だった少女時代のエピソードを語っていただきました。

5月3日(火)「 運命を変えた『 宝塚 』 」
静岡県・修善寺の小学校を卒業後、ご両親の方針で東京の中学校に進学し、大叔母さんのお宅にお世話になっていた市毛良枝さん。そこで見た「宝塚」の舞台中継に感銘を受け、宝塚歌劇団への入団を目指したはずだったのですが、ちょっとした勘違いで結局は新劇の道へ...。
火曜日は、その勘違いぶりに容赦なく突っ込みを入れていきます。

5月4日(水)「 『 嫁姑ドラマ 』 での "ささやかな抵抗" 」
市毛良枝さんと初井言榮さん。このお二人の名前を聞いて思い出されるのは「私は泣かない」などの一連の「嫁姑ドラマ」ではないでしょうか? 市毛良枝さんの分析によれば、この「嫁姑シリーズ」が長きに渡って好評だった理由は、「私(市毛さん)のささやかな抵抗がテレビを見ている女性の方にウケたのかも...」とのこと。
水曜日は、市毛良枝さんが女優デビューを果たしたものの、いまいちパッとしなかった頃のお話を中心に!

5月5日(木)「 お嫁さんにしたい女優No.1 ~ 世間とのギャップ 」
一時期、「お嫁さんにしたい女優さんは誰?」と問われれば、世の男性の多くが「市毛良枝さん!」と答えて
いた時代がありました。しかし、当の御本人は和田アキ子さんに「アンタって男みたいだね」と言われるような性格で、世間の認識とのギャップにストレスを感じていたそうです。また、「こんなにフツーの自分が、こんなにきらびやかな芸能会にいてもいいのだろうか?」という戸惑いも...。
木曜日は、市毛良枝さんのさまざまな"迷い"を伺っております。

5月6日(金)「 映画『 岳 ‐ガク‐ 』 」
山好きの知り合いのお医者さんに「今度、一緒に山に連れてって下さいよ~」と、半ば社交辞令で言った一言から、それまではまったく興味がなかった"山"に登るはめになり、以来、すっかり山登りに魅せられてしまった市毛良枝さん。そんな市毛良枝さんが、ご自身にピッタリの役、「山小屋のおばちゃん」として出演する映画「岳‐ガク‐」が5月7日から公開されます。
最終日は、山登りの魅力と映画「岳‐ガク‐」の見所をたっぷりと!

<市毛良枝>
静岡県生まれ。
1971年 TBS「冬の華」でテレビ初出演。
1977年 フジテレビ「私は泣かない」での演技が好評で、これがシリーズ化。
"理想の嫁ナンバーワン"として、お茶の間の人気を得る。
その後、ドラマ・映画・舞台と幅広く活躍。
また、登山を始めたことでそれまでの人生が一変。
現在、NPO法人日本トレッキング協会理事。

4月25日~4月29日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、香山美子さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、香山美子さん!

4月25日(月) 「演技が好きな朗読少女」
東京生まれの香山美子さん。お父様は吉本興業の文芸部長をされていたそうです。
活発だった香山美子さんは、中村メイコさんのマネをして朗読をしているうちに、演技にハマっていったんだそうです。
少女時代のお話をお伺いしています。

4月26日(火)「女優デビュー」
17歳の時、ミスコンテストで準ミスに選ばれた香山美子さんは、松竹映画でデビューする事になります。
19歳の時、撮影中に監督に「カンが悪い」と言われた事が、香山美子さんの「女優」という仕事にやる気をつけたんだそうです。
デビュー当時のお話をしていただきました。

4月27日(水)「映画にテレビに大活躍!」
松竹時代の香山美子さんは、家と撮影所の往復する毎日で、旅行はおろか恋する時間もなかったんだそうです。
そんな中、テレビ番組「銭形平次」の仕事を受け、さらに忙しくなっていったそうです。
大川橋蔵さんとの思い出を伺いました。

4月28日(木)「結婚、そして出産」
香山美子さんが29歳の時、テレビ番組で知り合った三条正人さんとご結婚されました。
実は香山美子さん、最初は三条さんの事が嫌いだったそうです。
その後、39歳で出産し、子育てをすることで、香山美子さんは、客観的に物事が見られるようになったんだそうです。
プライベートなお話をお聞きしています。
料理に関するエピソードは笑えますよ!

4月29日(金)「これからの香山美子さん」
子供を通じて知り合ったママさん友達と接している内に、香山美子さんの世界が広がったのだそうです。
専業主婦をやっている今が楽しいとおっしゃる香山美子さんは、今後「おばあちゃん」役をやりたいんだそうです。
7年前の「治らない」といわれた大怪我の話もお伺いしています。

<香山美子>
1944年、東京都出身。
【主な作品】
★舞台:祇園に生きる いろどり橋 温泉芸者奮闘記・わたしの宝島 白蓮れんれん 愛愛のれん 佐渡島他吉の生涯
★テレビ:中央流沙 みの刑事の愛の事件簿大作戦 天竜・伊那殺人渓谷 温泉に行こう4 幼稚園ゲーム3

4月18日~4月22日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、ヨネスケさん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、ヨネスケさん!

4月18日 月曜日 【ヨネスケさんの少年時代】
千葉県市原市に、4人兄弟の末っ子として生まれたヨネスケさん。
海と山に囲まれた環境が「突撃!隣の晩御飯」に活かされているそうです!
今で言う「シングルマザー」の家庭で育ったヨネスケさんは、お母様への気持ちと、周りの大人達に対しての不信感と反抗心が、人一倍強かったそうです。
ヨネスケさんの子供時代にスポットを当ててお話をお伺いしました。

4月19日 火曜日 【落語家デビュー!修行は辛かった】
落語家になる事を決めたヨネスケさん。
そのキッカケは憧れだった、柳家金語楼師匠の存在と、
ずっと抱いていた成り上がるという野望があったからだそうです。
その後、桂米丸師匠の内弟子として落語家としての第一歩を踏み出すのですが、
その修行時代の厳しさたるや...。
ヨネスケさんの修行時代のお話をお聞きしました。

4月20日 水曜日 【二つ目に昇進してから...】
若手の噺家さんに対して「真面目過ぎる!」と一刀両断するヨネスケさん。
二つ目に昇進した頃はヤンチャを繰り返していたんだそうです。
また、その頃に出会った奥様とした「駆け落ち」についても、
楽しそうにお話されていました。
当時のハチャメチャなエピソードをお聞きしています。

4月21日 木曜日 【突撃!となりの晩ごはん!!】
ヨネスケさんといえば、「突撃!となりの晩ごはん」ではないでしょうか。
およそ20年続いた番組の中で訪れたお宅の数は5000にもなるそうです。
番組の裏側についてと、ヨネスケさんの番組に対する思い入れなど、
お話していただきました。

4月22日 金曜日 【ヨネスケさんと野球】
落語以外に多方面でご活躍されているヨネスケさん。
特に野球に関しては解説者を務めるほど詳しいのですが、
そのキッカケは高校生時代の恩師からの一言があったからなんだそうです。
ヨネスケさんが大好きな野球についてお話していただきました。

<ヨネスケ>
1967年 高校卒業後、(昭和42年)桂米丸氏に弟子入り。内弟子として噺はもちろんのこと、箸の上げ下げから礼儀を仕込まれる。
1967年 浅草演芸ホールでデビュー。
1971年 4月、二つ目に昇進。「笑点(日本テレビ)」の前座をつとめ「日曜招待席」では大喜利のメンバーになる。
1981年 真打ちに昇進。
1982年 放送演芸大賞ホープ賞を受賞。
現在、社団法人落語芸術協会理事を務める。

4月11日~4月15日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、兵藤ゆきさん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、兵藤ゆきさん!

4月11日「枠にとらわれず育った少女時代」
名古屋で生まれた兵藤さんは、とてもほめ上手の両親の元で育ちました。
特にお父さんは兵藤さんが「究極の平和主義者」と表現するぐらい穏やかな人で、お父さんが語る昔話はすべて最後がハッピーエンドに作り変えられているというぐらい、
それは徹底していました。
そんな兵藤さんが偶然入った高校はまるで軍隊のような高校でした。しかし、高校3年になってから、理解のある先生に出会います。

4月12日「深夜ラジオのカリスマ」
お母さんの洋裁の腕を見ていた兵藤さんは、手に職を付ければ怖いものは無いと思い、将来の進路はファッションデザイナーと決めていました。
しかし、ひょんな事からDJを勤めることになります。それも当時あまり仲の良くなかった東海ラジオと中部日本放送の両方で。その後、気が付けば東京・名古屋・大阪のラジオで生の深夜番組を持つ、カリスマラジオパーソナリティとなりました。
兵藤さんのDJはそれまでの深夜放送のDJとはちょっと違っていました。それがリスナーには新鮮だったようです。

4月13日「TVの世界の人気者に」
兵藤さんのTVデビューのきっかけは、マネージャーさんとフジテレビの横澤プロデューサーとの偶然の居酒屋での出会いでした。
こうして笑っていいともに出演した兵藤さんは、深夜放送の様なバラエティを創りたいと考えていたテリー伊藤さんに出会い、元気が出るテレビで活躍することになります。
この番組は大変だったけれどとても面白かったので、勉強になったのだそうです。この頃は、芸能人、出演者というよりもただひたすら体当たりをしてきたのだと兵藤さんは話してくれました。

4月14日「はじめての子育てとニューヨーク生活」
実は兵藤さんには長い間付き合っていた人が居ました。お互いに忙しい、東名阪を挟んだすれ違いの生活の中で、ずっと気持ちを通わせていた人です。
お子さんができたので入籍したのですが、一人での子育ては大変で、兵藤さんは旦那さんの留学先であるニューヨークに旅立ちます。そしてニューヨーク生活を始めた兵藤さんは、英語に苦しめられながらも優しい人たちに助けられて生活を続けました。


4月15日「ほめて教えるということを知って」
考えただけで気持ちが悪くなるぐらい英語が苦手だった兵藤さんが、今は英語を教える立場になりました。そんな兵藤さんは、教えるときには褒める事が大切だと言います。ほめるのは甘やかすことではなく、認めてあげるという事だから、どんどん上達を認めてあげて欲しいというわけです。考えてみると、このほめ上手、兵藤さんはお父さんから受け継いだものでもありました。
そんな兵藤さんが、英語の学び方を書いた本を出しました。漫画エッセイ本ですが、この本の漫画は、くにまるさんからのアドバイスで、どんどん変わっていったのだそうです。


<兵藤ゆき>
1996年長男誕生後、夫の留学先であるニューヨーク(NY)に子育てを中心に11年ほど移住。
民主主義の本場NYでの子育て経験をつづったエッセイ集も多数発表。2007年、家族で完全帰国。(NYの住居はそのままにしてあるので、家族で時々NYに行く)
帰国を機に、子どもと大人のよりよい関係、ペットと人とのよりよい関係、心地よい衣服の在り方、楽しくできる英語習得法など、人が幸せにポジティブに生きていくための知識を、NYでの経験を踏まえた上で再度アカデミックに勉強し直し、小学校英語準認定指導者、チャイルド・コーチング・アドバイザー、ペット介護士の資格を取得。
帰国後に、NYで見聞きした参考になるニューヨーカーの子育てエッセンスをまとめたエッセイ集、「子どもがのびのび育つ理由(わけ)」、元WBA世界スーパーフライ級チャンピオンの飯田覚士氏と子どもの脳の発達を促す体遊びとビジョン能力を鍛える遊びをまとめた、「脳を育てるからだ遊び」、英語習得奮闘紀「ゆき姐の漫画エッセイ 英語と格闘 in New York」も出版。
現在は、テレビ、ラジオ、執筆などで活躍するかたわら、NYでの子育てや異文化体験から得た様々な話題の講演依頼も多数寄せられ、全国に精力的に出向いて行っている。
また洋裁正教員資格を生かし、2009年5月、ストレス・フリーをテーマにした、下着、ホームウエアーなどのブランドyukine inc.(ユキネエインク)を立ち上げ、服飾デザイナーデビューも果たす。
2010年5月 一般社団法人「子どもの発達科学研究所」特別研究員就任。

4月4日~4月8日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」は、村上弘明さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 」のゲストは、村上弘明さん!

4/4(月) 被災地となった故郷・陸前高田への想い
岩手県・陸前高田で生まれ育った村上弘明さん。東日本大震災の発生後、ご両親となかなか連絡が取れず、不安な日々を過ごされたそうです。
ご両親はご無事だったものの、ご実家は1階部分が流されるなどの被害にあわれました。
今までの俳優人生は「恵まれていた」と言う村上さんは、この震災復興のために生涯かけて何かをなすよう、現在の立場に立たされている、と感じられているそうです。
故郷、そして被災に会われた方々へのメッセージもいただいています。

4/5(火) 大自然に囲まれ、野球選手を目指した少年時代
岩手の大自然に囲まれて育った村上さんの少年時代は、海に素もぐりして遊んでは、アワビとウニを取り放題、食べ放題だったそうです。
中学時代は野球に熱中、急激に背が伸びた村上さんは「これはプロでもやっていけるかも」と、甲子園出場経験のある宮城の気仙沼高校へ進学。しかし、下宿を許さないご両親の方針から野球の道をあきらめるなど、かわいらしい少年時代をのお話をお話していただきました。

4/6(水) 映画に熱中した学生時代とちょっと意外な映画デビューのお話
医学部を目指していた村上さんの浪人時代は、勉強もせず映画館通い。
そして東京の法政大学に進学されても、授業に出ず映画館通い。
映画にかかわる仕事をしたい、と思っていたところ、友人から勧められ「もう頬づえはつかない」という映画のオーディションを受けられます。
「ヒロインの相手役」として決定を伝えられていた村上さんですが、いつのまにかヒロインの相手役には違う俳優さんが決定。どういうわけか村上さんの役は・・・・ヒロインをナンパする街の男役だったそうです。

4/7(木) バイクに乗れないのに仮面ライダーになった話

「もう頬杖はつかない」が初仕事だった村上さんは、その後仮面ライダーのオーディションを受けることに。
バイクに乗れない村上さんは、エントリーの条件「バイクに乗れること」を無視してオーディションに望みますが、バイクに乗っての審査では、ギアの切り替え方も、止め方もわからない。
バイクを飛び降りたのはよかったのですが・・・・。審査会場が大変なことになってしまったお話を臨場感たっぷりにお話いただいています。

4/8(金) 時代劇への想いと主演映画

最初はなかなか時代劇に入り込めなかったという村上さんですが、必殺仕事人や、銭型平次など次々と時代劇にご出演され、次第に入り込みやすくなってきたということです。
そして9日に公開となる主演映画、不良少年などの自立支援に生涯をささげた社会福祉家・留岡幸助の映画「大地の詩―留岡幸助物語―」のお話を伺いました。

<村上弘明>
1956年、岩手県出身。'79年に俳優デビュー。ドラマのほか、映画、舞台など幅広く活躍。代表作として、NHK連続テレビ小説「都の風」、大河ドラマ「元禄繚乱」、金曜時代劇「柳生十兵衛七番勝負」シリーズなど数多くの作品に出演。

3月28日~4月1日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、オール阪神・巨人さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、オール阪神・巨人さん!

3月28日(月)「 対照的な二人 」
まっすぐな性格で、子供の頃は警察官・力士・体育教師・歌手になりたかったという巨人さんと、ひょうきん者で、早くからお笑いのプロを目指していた阪神さん。
月曜日は、何から何まで対照的な阪神さんと巨人さんが出会う前、子供時代のお話です。
巨人さんはお酒が大好き、阪神さんはまったく飲めない。
巨人さんはタバコを吸わない、阪神さんは吸う。
巨人さんは奥さんが一人、阪神さんは...。

3月29日(火)「 マネマネ ゴンスケ・マンスケ 」
マネマネ ゴンスケ・マンスケ ... これは、オール阪神・巨人さんが素人時代に、ある大物落語家さんに付けていただいた芸名だそうです。
火曜日は、お二人が大阪の素人参加番組で注目されていた頃のエピソードを伺っています。
オール阪神・巨人さんの"お笑いの原点"ともいえる「芸」も披露して下さっておりますのでお聴き逃しなく!

3月30日(水)「 不仲説の真偽は如何に? 」
オール阪神・巨人さんが毎日放送(MBS)のお化け番組「ヤングおー!おー!」に出始めてから、お二人の間には常に「不仲説」が囁かれていたことをご記憶のリスナーさんも多いかと思います。
水曜日は、その辺りに深く斬り込んでみました。果たして真偽のほどは如何に?

3月31日(木)「 MANZAIブームを振り返る 」
80年代のMANZAIブームの時にはオール阪神・巨人さんがテレビに出まくっていたという印象があるのですが、実際は、テレビ出演のために吉本の劇場に出られなくなった芸人さんの代役を淡々とこなす日々だったそうです。
木曜日はお二人に、「他のコンビの活躍を見ていて悔しかった」というMANZAIブームの頃を振り返ってもらうとともに、劇場での漫才に対する熱い想いを語っていただいております。

4月1日(金)「 ガチンコ漫才道(まんざいどう) 」
近年、若手のお笑い芸人さんが次々と出てきていますが、今から10年ほど前、テレビの番組『ガチンコ』の
『ガチンコ漫才道』というコーナーで若手漫才コンビの指導をしていた巨人さん。当時は、巨人さんの生真面目な性格と番組の演出スタイルとが合わずに、スタッフとの間に色々な問題が勃発していたようです。
最終日は『ガチンコ漫才道』でのエピソードと、2月に発売された巨人さんの新曲についてお話を伺っています。そして、コーナー終盤にはちょっとしたハプニングが...。


<オール阪神・巨人>
■オール巨人 
生年月日 1951年 11月 16日
出身地 大阪府大阪市
■ オール阪神
生年月日 1957年 3月 7日
出身地 大阪府泉大津市

<受賞歴>
「上方漫才大賞」第11回(1976)新人賞
「大阪舞台芸術賞」(2005)
「大阪府民劇場賞」(1986)奨励賞
「日本放送演芸大賞」第11回(1983)奨励賞 など多数

3月21日~3月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、神田正輝さん

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今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、神田正輝さん!

3月21日 月曜日 「神田正輝さんのご両親」
今週のゲストは俳優の神田正輝さん。
お母様で舞台女優の旭輝子さんは放任主義で何をするにも
幼い神田さんの自主性を尊重する一方、決して甘やかさず欲しいものがあっても、
お母様から与えてくれなかったんだそうです。
またお父様との思いは今では考えられない様なエピソードが飛び出しました。

3月22日 火曜日 「石原裕次郎との出会い」
神田正輝さんが、当時では珍しいプロスキーヤーを目指していた頃、
共通の知人を通じて石原裕次郎さんと出会ったんだそうです。
その後、石原裕次郎さんから会社に呼び出されます。
最初はスキーやゴルフ、車などの趣味について話ばかり。
それから撮影所に呼び出されるのですが・・・。
今日は石原裕次郎さんとの出会った頃のお話をお聞きしました。

3月23日 水曜日 「神田正輝の意外なデビュー秘話」
「ひやかしでいいから1本だけ出てみたら...。」石原裕次郎さんのひと言に、
軽い気持ちで出演したのがドラマ「大都会」。
ところが、この「1本」という言葉、「1回分」ではなく
「ドラマ1作品分 = 52回分」だったんだそうです。
また、石原裕次郎さんのアドバイスで、大失敗した事もあったとの事。
今日は、神田正輝さんがデビューした頃のお話をお聞きしました。

3月24日 木曜日 「石原裕次郎さんとの思い出"ソルティドック"」
ハワイにて病気の手術を終えた後、石原裕次郎さんに呼び出された神田正輝さん。
そこでは、まさかの逃避行を裕次郎さんから命じられたんだとか。
逃げた先で、裕次郎さんが注文したのは「ソルティドック」。
当時、手術したばかりで絶対禁酒だった裕次郎さん、
あわてて止める神田正輝さんに裕次郎さんは...。
今日は石原裕次郎さんとの思い出をお話していただきました。

3月25日 金曜日 「娘・沙也加さん と 今後の夢」
神田正輝さんには、女優として活躍する娘の神田沙也加さんがいらっしゃいます。
「沙也加さんの「避難所」でいい』という神田正輝さん。
親として色々と思う処があるそうです。
また、将来は山小屋に住むのが夢とお話していただきました。
今日は、娘、沙也加さんについてと、今後の夢についてお話していただきました。

<神田正輝>
1950年、東京都生まれ。母は女優の旭輝子さん。日大芸術学部卒。
73年に石原プロ入り。76年に日本テレビ「大都会」の新聞記者役で俳優デビュー。
85年に映画「カリブ・愛のシンフォニー」で共演した歌手松田聖子さんと結婚。
86年に長女沙也加さん(SAYAKAとして芸能活動中)が誕生。

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