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6月9日~6月13日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは嘉門達夫さん

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6月9日(月)「 大阪万博で性に目覚める 」
1959年、大阪生まれの嘉門達夫さんにとって未だに卒業できないのが「万国博覧会 ‐万博」だそうです。
1970年(当時、小学校6年生)の大阪万博では開催前から、建設中のパビリオンを見るためだけに毎日のように会場に通い、開催中には21回の来場。そして、閉幕してからは、夕日をバックに解体される建物を見ながら感傷に浸る ...そんな日々を過ごしていたとのこと。
月曜日は、嘉門達夫さんに、大阪万博について熱く語っていただきました。
嘉門達夫さんが性に目覚めたのも、大阪万博の某パビリオンでした(笑)

6月10日(火)「 落語家を破門 」
大阪万博が終わってポッカリと空いた心の穴を埋めてくれたのが「ラジオ」だったという嘉門達夫さん。高校生になるとラジオに出演する側になりたくて、当時の人気パーソナリティーだった落語家の笑福亭鶴光師匠のところへアポなしの押しかけ入門。運よく入門が認められ、すぐにラジオのレギュラー番組も決まるという、ここまではトントン拍子だったのですが...。
火曜日は、自分のやりたいことが見つかったものの少しずつ夢と現実にズレが生じ始め、ついには鶴光師匠に破門を言い渡されてしまうという、嘉門達夫さんの10代後半から20代前半を振り返っていただきました。

6月11日(水)「 ヤンキーの兄ちゃんのうた 」 
嘉門達夫さんが広く世間に知られるようになったきっかけといえば、東西で有線放送大賞新人賞を受賞した「ヤンキーの兄ちゃんのうた」のヒットが挙げられるのではないでしょうか? この曲、初めは自主製作盤だったんだそうです。水曜日は、笑福亭鶴光師匠に破門されて放浪の旅に出た嘉門達夫さんが、紆余曲折を経て芸能事務所アミューズのプロモーターとして活躍。有線放送回りでサザンオールスターズの曲をPRしながら、ちゃっかりと自分の歌も宣伝していたというお話。全ての始まりは某ラジオディレクターが持っていた一本のカセットテープでした...。

6月12日(木)「 『 鼻から牛乳 』 と 『 替え歌メドレー 』 」
これまでに作られた数多くの楽曲の中で、定番曲として生き残るのは20分の1程度と仰る嘉門達夫さん。
木曜日は、その中から「 鼻から牛乳 」、「 替え歌メドレー 」を作った時の裏話を教えていただきました。これに加えて、諸事情によりCDには収められなかった曲も生演奏で披露して下さっていますが、一部"ピー音"が入っております。ご了承下さい。

6月13日(金)「 被災地に対する想い 」
1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災。嘉門達夫さんは「自分にできること」として、被災地でのライヴも精力的に行っておられます。コミック的要素が高い嘉門達夫さんの楽曲。やはり、他のアティーストの方々と同じように、当初は、「自分がこんな歌を歌ってもいいものなのか?」と、心の葛藤があったそうです。
最終日は、嘉門達夫さんの「被災地に対する想い」をお聞きするとともに、ニューアルバムのお話、そして、現在進行中のコンサートツアーについてのお話も伺っております。

<プロフィール>
大阪府出身。1975年、高校在学中に笑福亭鶴光師匠に入門。のちに内弟子になり笑光となる。1978年、『MBSヤングタウン』レギュラー出演。1980年、放浪の旅へ出る。1981年、サザンオールスターズの桑田佳祐と出会い、彼の別名""嘉門雄三""から姓を受け、嘉門達夫と命名される。1983年、『ヤンキーの兄ちゃんのうた』でレコードデビュー、『替え唄メドレー』シリーズなどで、笑いと音楽の融合した独自のジャンルを確立した。1992年、シングル『鼻から牛乳』が大流行し、注目を浴びる。以後もあるあるネタや言葉遊びなどを使用したオモシロソングを中心にリリース。主な作品は、アルバム『お調子者で行こう』『天賦の才能』『怒涛の達人』、シングル『小市民』『NIPPONのサザエさん』『マーフィーの法則』『怒りのグルーヴ~震災編』『さくら咲く』など。

6月2日~6月6日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは若村麻由美さん

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6月2日(月) 「子供の頃の話」
東京都生まれの若村麻由美さんは、仮面ライダーごっこやチャンバラが好きな、とても活発な子供でした。ヤンチャというよりもワンパクだったと笑いながら当時を振り返る若村さんです。
日本舞踊のお稽古が大好きという女らしさもあった若村さんは、思春期を迎えてだんだんワンパクな女の子では無くなっていきます。小4で初めてフレアスカートを履いた日の事を良く覚えていると話してくれた若村さんでしたが、高校に入学したときには人の前に立つことを一切しないと決めてその通りに実行をしました。最小限の挨拶だけ、一日中誰とも話さない日もあったと、若村さんは当時を振り返って話してくれました。

6月3日(火) 「無名塾合格」
意図して人との接触を避けていた若村さんですが、だんだん本当に人との会話が苦手になってきていました。そんなある日、偶然渋谷で無名塾の公演に出会います。「この空間を作りたい!」と思った若村さんは一週間後には入塾試験を受けていました。
宮崎恭子(やすこ)さんの演技に惹かれて受けた試験だったので、審査員席に座る宮崎さんを見た若村さんは思わず真っ赤になってしまったのだそうです。最終審査は3日間、それまでの人生で教わってきたことと同じぐらいの事をこの時に教わったと若村さんは話してくれました。審査が終わった日には泣き出してしまったそうですが、それでも無事合格、人生を変えた瞬間でした。

6月4日(水) 「はっさい先生でデビュー/ヒマラヤとの出会い」
無名塾に入塾した若村さんは、しばらくしてNHKの連続テレビ小説「はっさい先生」のオーディションに合格、ヒロインとなります。番組は大ヒット、だけれども無名塾は長期欠席、気が付いたら中退のような形で無名塾は卒業していたのだそうです。
はっさい先生の後、若村さんはいろいろな仕事をこなしていきますが、テレビドラマはどうも自分に合わないと感じていたのだそうです。そんな時に仲代さんの抜擢で無名塾の舞台に出演してほっと一息をついた若村さんでした。
そんな若村さんの人生観を変える出来事はNHKの仕事で行ったヒマラヤのトレッキングでした。尾てい骨に亀裂骨折があったのですが、負けたくないという子供のころから続くワンパクっ子の精神で頑張ったのだそうです。宇宙を映しているようなヒマラヤの空を見て「シンプルに生きよう」と心に決めて帰ってきましたが、現実は難しいと若村さんは笑います。

6月5日(木) 「富士山での清掃活動」
ヒマラヤで高度順化の為に三日間歩き回っていた時、文明的なゴミが落ちているのを見つけた若村さんは、大自然にふさわしくないと感じて思わずそれらを拾い集めていました。
ヒマラヤから帰ってきた若村さんは改めて日本の富士山の美しさに気が付きます。でもアルピニストの野口さんにその話をしたところ、富士山にもゴミが多いという話を訊かされ、若村さんは富士山の清掃活動に加わります。最近はゴミが溜まる場所もわかるようになり、古いゴミを見るとその時代も感じられると、若村さんは楽しそうに話してくれました。富士山から見る日の出は格別ですが、気持ちの上では毎日が初日の出だと若村さんは言います。思わず手を合わせる気持ちは自然なもの、拝むことで幸せを感じると話してくれました。

6月6日(金)「今後について」
若村麻由美さんの趣味はそば打ち。子供の頃、信州で暮らした時に食べた美味しいそばを作りたくてやっているのだそうです。本当はそばと日本酒といきたいのだけれど、実はお酒が飲めない、この事を話した時の相手の反応が面白いと若村さんは笑って話してくれました。
もうひとつの趣味は散歩、食事の後、1時間ぐらいは歩いて帰る若村さんです。
今週から始まる舞台は3人芝居、そしてこれが終わってからは平家物語の二人芝居と古事記の独り舞台と、この後も公演が続きます。今はこれに全力を掛けていると楽しそうに話す若村さんでした。

<プロフィール>
無名塾出身。NHK連続テレビ小説「はっさい先生」でヒロインとしてデビュー。エランドール新人賞を皮切りに、数々の賞を受賞。近年作では、ドラマ「夜桜お染」「白い巨塔」「けものみち」「刺客請負人」映画「蒼き狼~地果て海尽きるまで」舞台「平家物語の夕べ」「カリギュラ」など他多数出演。ヒマラヤトレッキングをきっかけに水文化委員(国土庁)や富士山清掃隊長を務めるなど自然環境への活動も10年目を迎える。

5月26日~5月30日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは安田美沙子さん

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5月26日(月) 「本当の私が出せなかった少女時代」
京都生まれの安田美沙子さん。本当は外で元気に動き回ったり、虫や爬虫類など平気で触れるタイプなのだそうですが、転校する事が多く、学校では「おしとやかな」女の子を演じていたそうです。少女時代の安田美沙子さんについてお話をお聴きしました。

5月27日(火)「芸能界入りのキッカケ。」
空港のグランドホステスに憧れ、大阪の大学に通っていた安田美沙子さん。
友人と京都で買い物をしている最中、芸能事務所からスカウトされたことをキッカケに芸能界に飛び込みました。
デビューした当時の「京女」安田美沙子さんの感じた事をお話いただきました。

5月28日(水)「芸能人、安田美沙子のお仕事。」
健康的な美女・グラビアアイドルとして一世を風靡した安田美沙子さん。
撮影の現場での失敗や、グラビアアイドルとしての研究など、個人的に色々と経験して、余裕を持って仕事に打ち込める様に成長していったそうです。
グラビアアイドルとして成長していった安田美沙子さんのお話をお聴きしています。

5月29日(木)「私、多趣味なんです」
多彩な趣味を持っている安田美沙子さん。
中でも競馬やマラソンにはかなりの造詣があり、ご活躍されています。
特にマラソンに関しては、「自分を追い込む事がたまらなく良い」というご趣味について、熱く語っていただきました。

5月30日(金)「これからの安田美沙子さん。」
最近、洋服デザイナーの旦那様とご結婚され、仕事もプライベートも充実している安田美沙子さんが主演を務める映画「いのちのコール ミセスインガを知っていますか」が6月7日から公開されます。
旦那様との馴れ初め、映画の見所などお話頂きました。

<安田美沙子>
1982年生まれ、京都府出身。大学在学中にスカウトされて芸能界デビュー。映画やドラマ、バラエティ番組などで幅広く活躍。2008年のホノルルマラソンを皮切りに、東京マラソンや湘南国際マラソン、名古屋ウィメンズマラソンなど多数の大会に出場し、完走を果たしている。テレビ番組の企画をきっかけにトライアスロンにも挑戦している。

5月19日~5月23日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは野村将希さん

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5月19日(月) 「よし!歌手になる!」
野球少年だった野村さん、高校までは順調に野球をしていましたが、無理して体を壊し野球を断念。サラリーマンにはなりたくなかったので、プロ野球がだめなら「歌手になる」とあっさりと方向転換。そのためにはということで高校を1年で中退、東京に出ます。ところが歌手になるための情報が何もない。生活のために新宿の靴屋さんでアルバイトを始めます。

5月20日(火) 「サンミュージックに所属、そしてデビュー!」
靴屋でアルバイトをしていたところ、当時のサンミュージックの相沢社長がスカウト。
名刺の裏を見たら森田健作さんの名前が。一度歌を聞かせてくれと言われて、事務所に行って歌ったら、その場で「契約しよう!」ということになりました。そしてデビュー「一度だけなら」という曲が大ヒット。もともとはクールファイブのアルバムの中の曲でした。ものすごくラッキーだったと野村さんは当時を振り返っています

5月21日(水)「 アメリカでミュージカルの勉強」
低迷期を迎えていた野村さん、アメリカに行って勉強してみたいと思っていたところ、事務所側から「ミュージカルの勉強してこい」と偶然にも言われてすぐその話に乗ります。語学学校に行き、ミュージカルの学校にも行きました。入学テストの時にビリージョエルの「素顔のままで」を歌って合格したのでした。このころの経験が自分の表現力に大きな影響を与えたそうです。

5月22日(木) 「水戸黄門 柘植(つげ)の飛猿」
水戸黄門の柘植の飛猿役に抜擢され、野村さんは再ブレイクします。2代目黄門の西村晃さんには仲人までしてもらったそうです。西村さんのほうが結婚式では緊張してしまい、がちがちだったそうです。飛猿の演技はセリフではなく、表情や動きで表現することが多いと感じている野村さん。体を鍛えていることもあり、筋肉番付などにも出演していました。そしていま、なんと腕相撲で世界を目指しているというのです

5月23日(金) 「アームレスラー 野村将希」
ある番組がきっかけで腕相撲に挑戦することになった野村さん、6月のアジア大会に出場が決まりました。やるからには世界チャンピオン目指したいと意気込みを語っています。還暦過ぎてからの自分に期待をしています。90を過ぎても全力でスポーツができる自分を目指したいそうです。

<野村将希>
福岡県北九州市生まれ、兵庫県尼崎市育ち。1970年、レコード『一度だけなら』で芸能界デビュー。1979年にシカゴYMCAに留学し、1981年に帰国。以降、舞台、テレビドラマを中心に活動。1987年~1989年にはTBS『水戸黄門』に飛猿役で出演し、一躍有名に。2000年からは音楽活動も精力的に再開。2003年には『スポーツマンNo.1決定戦』に出場し注目を集めた。ドラマ・バラエティー・映画・舞台と幅広く活躍。

5月12日~5月16日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、漫才コンビ・ナイツの塙宣之さん・土屋伸之さん

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5月12日(月) 「2人の出会い」
のっけからイントネーションネタで邦丸さんを悶えさせる塙さんと間髪入れずツッコミを入れる土屋さんの「ナイツ」。二人とも1978年生まれの1学年違いです。塙さんは3人兄弟の末っ子で、真ん中のお兄さんはご存じ「佐賀県」でブレイクしたはなわさん。面白くて人気者の兄を持つ弟の心境は?かたや町中の大人が見に来るほどの可愛さで有名だった子供時代の土屋さん。二人は大学の落語研究会で出会いました。

5月13日(火) 「ナイツ結成、デビュー!」
大学の落研で出会った二人。プロを目指していた塙さんが土屋さんに声をかけ、「ナイツ」が結成されます。元演歌歌手の土屋さんのお母さんや、塙さんのお兄さんのはなわさんのアドバイスもあり、お笑い芸人が多く所属するマセキ芸能社に所属を決めました。プロの芸人として活動を始めましたが、社長から突然の「浅草に行って漫才協会に入れ」という、まるで時代に逆行するような命令が・・・。

5月14日(水) 「ナイツの漫才スタイル」
「目の前が真っ暗になった」と塙さんが言う、社長からの突然の浅草行き宣告。しぶしぶ内海桂子師匠に弟子入りし、浅草の漫才協会に出演を始めましたが、ここで実力を磨きました。ナイツの鉄板爆笑ネタといえばおなじみ「言い間違いネタ」。小さいボケが怒涛のように続くナイツ独特の漫才スタイルにたどり着くまでのエピソードをお話しいただきました。

5月15日(木) 「寄席とテレビの違い」
テレビでも寄席でも姿を見ない日はないほど大忙しのナイツですが、寄席をとても大切にしています。テレビは4分、寄席は15分。ネタをやるうえでこの違いは大きいそうです。また客層も全く違います。塙さんは、いつもお年寄り相手にネタをやっているせいか、若い女の子の気持ちがだんだんわからなくなってきたそうです。

5月16日(金) 「ナイツのプライベート」
既婚で小さいお子さんもいる塙さんと土屋さん。土日が営業なのでなかなか家族サービスもままならないようですが、地方への出張がとても楽しいそうです。サンドウィッチマンやU時工事といった仲良しの芸人たちと泊まりがけの出張の夜、いったいどんなところに遊びに行くんでしょう?現在発売中の独演会DVDでは、去年大ブームだったあの社会派ドラマを漫才ネタにしています!

<ナイツ>
2001年ボケの塙と、ツッコミの土屋の漫才コンビを結成。内海桂子の弟子として活動。2003年漫才協団(現・漫才協会)・漫才新人大賞 受賞。2008年お笑いホープ大賞THE FAINAL優勝&NHK新人演芸大賞受賞。M-1グランプリでは2008年、2009年、2010年3年連続で決勝進出!!THE MANZAI2011準優勝。落語芸術協会、三遊亭小遊三一門として寄席でも活躍中。

5月6日~5月9日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、日本ボウリング協会名誉会長の中山 律子 さん

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5月6日(火)「 ボウリングで気分転換 」
ボウリングを始めたのは20歳の頃。最初は息抜き、気分転換のつもりだったという中山律子さん。しかし、アベレージが上がってくるにつれて大会にも出場するようになり、そこで出会ったのが、その後ライバルとして切磋琢磨することになる須田開代子さんでした。
初日は、中山律子さんがボウリングを始めるまでを駆け足で振り返ります。
ある大会で、その時点までリードしていた中山律子さんが、偶然にトイレで鉢合わせした須田開代子さんに言われた言葉とは?

5月7日(水)「 女子プロボウラー 第一期生 」
アマチュア大会での成績が認められ、東京タワーボウリングセンターにスカウトされて上京した中山律子さん。その後、プロ組織が立ち上げられることになり、1969年に「第一回 女子プロテスト」が開催されました。
順調にスコアを積み上げていく中山律子さん。しかし、そこに立ちはだかったのは、またしても...。
水曜日は、「ライセンスNo.1」を巡る熱き女の闘い!

5月8日(木)「 なんだかんだで結婚 」
木曜日は、中山律子さん曰く、「なんだかんだで結婚した」御主人とのエピソードを中心にお話を伺っています。
中山律子さん、完全に照れていらっしゃいました(笑)。
後半は、中山律子さんが"この年になったからこそ気付いた"という「ボウリングの基本」についてお話していただいておりますので、ボウリング好きのリスナーさんは必聴です!

5月9日(金)「 シニア世代のボウリングの楽しみ方 」
古希をお迎えになっても、良いボールを投げようと研究・練習に余念がない中山律子さん。
最終日は、昨日に引き続き、シニア世代でボウリングを楽しむためのヒントをいろいろと教えていただきました。
中山律子さん、「古希パーフェクト」を狙っているそうです。そして、いける予感もあるそうです!


<中山律子>
1942年、群馬県草津町生まれ。鹿児島県育ち。鹿児島市立鹿児島女子高卒。バレーボール選手を経てボウリングに転向。69年に第1回女子プロテストに合格した。70年に女子プロ初の公認パーフェクトを達成(通算は2度)。シャンプーのCMにも出演し、「さわやか律子さん」が流行語に。永久シードプロ。

4月28日~5月2日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、保田圭さん

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4月28日(月) 「保田圭・子供の頃」
千葉県、富津生まれの保田圭さん。厳しい家庭で育った少女時代、お母様の方針で、演歌の英才教育が行われていたそうです。
そんなある日、ある男子に恋した保田さん。
その男子から勧められた曲と出会い、ポップスという音楽に引きこまれていきます。
J-POPに目覚め、安室奈美恵さんに憧れていた保田さん。
自宅にあったカラオケの機材を使って録音・反省を繰り返していく内に、音楽の世界で生きていこうと決意、高校を中退してしまいます。
とはいえ、何も決めずに高校を辞めた保田さん、テレビの向こうから、つんく♂さんの言った一言が、保田さんの運命を動かすのでした。

4月30日(水)「モーニング娘。として...。」
モーニング娘。のオーディションに合格した保田さん。
たった3か月しかデビューが違わないのに、厳しい試練を乗り越えてデビューした先輩達を目の前に怯えていたそうです。
モーニング娘。の名前が全国区になるのに、なかなか個性が出せない保田さんはファンに認知してもらうまでだいぶ時間がかかったそうです。

5月1日(木)「モーニング娘。を卒業して...」
モーニング娘。のサブリーダーとして、メンバーを引っ張ってきた保田さんは2003年に卒業をします。
長年、アイドルとして活動していたせいか、ある事をするのに悪い事をしているという戸惑いしか感じなかったそうです。
卒業後は、舞台を中心に活躍されますが、そこでも四苦八苦の連続だったそうです。

5月2日(金)「保田圭、結婚しました。」
プライベートでは昨年ご結婚され、今年の1月にはハワイで結婚式を挙げられた保田さん。
恋愛に不器用だった保田さんのお付き合いを始めるまでの奮闘記や交際2か月で電撃プロポーズされたというエピソードをお聞きしました。

<保田圭>
1980年、千葉県出身。1998年モーニング娘。のメンバーとしてデビュー。2003年モーニング娘。を卒業後は、音楽・舞台・ドラマ・バラエティ番組等で幅広く活動。代表作は舞台「羅生門」河童ペップ 役・「夏ノ夜ノ夢」ハーミア 役等多数。

4月21日~4月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、三田村邦彦さん

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4月21日(月) 「厳格な家庭に生まれて」
俳優の三田村邦彦さんは、新潟県の新発田で生まれ、育ちました。最近は雪がほとんど降りませんが、昔は雪深かったところです。お父さんは厳格な人、作法にうるさかったけれど、意外な事に叩かれたことだけはなかったのだそうです。小さいころの三田村さんは一人で遠くに出かけるのが好き、だけどなぜか小さい時から将来は俳優になりたいという気持ちがあったと言います。テレビはまだ家庭に無い時代だったので、映画に影響されたのかなと三田村さんは話してくれました。

4月22日(火) 「東京にて俳優の道を歩む」
三田村邦彦さんは俳優志望であることを隠して受験勉強をしていました。英語の先生にだけ本音を伝えた三田村さんですが、その先生からも猛反対を受けてしまいます。そこで志望は隠して予備校に通う事にして三田村さんは上京します。東京で文学座の試験を受けますが二度落ちてしまい、結局劇団青俳に所属する事になりました。そして翌年の受験シーズンがやってきたところで隠しきれなくなり、俳優志望であることを親に手紙で伝えます。まずは勘当の手紙が、更に連れて帰るためにお母さんが迎えに来ますが、なんと三田村さんはお母さんを発車間際に列車に押し込んで故郷に帰らせてしまったのだそうです。

4月23日(水) 「25歳での映像デビュー」
演劇の世界に入った三田村さんの映像デビューは映画の主役でした。村上龍さんの芥川賞作品、「限りなく透明に近いブルー」をその村上さんが監督をして作った映画でしたが、ストーリー、そして演出に不満の三田村さんは何度も村上龍さんと喧嘩をしてしまいます。でも、今となってみると、村上さんはいい人だったんだなと三田村さんは話してくれました。実は三田村さんには1年前にも主役の話が来ていたのを断っていました。蜷川幸雄さんからは「主役を断るなんて馬鹿じゃないか」と怒られていたのだそうです。その後、当時のスタッフと再会した三田村さんは、「丸くなったねェ」と言われて、思わず笑ってしまったのだそうです。とんがっていた時期を懐かしそうに話す三田村さんでした。

4月24日(木) 「数々の人気作への出演」
三田村邦彦さんの代表作と言えば必殺仕事人ですが、実はこのドラマは三田村さんには辛いものだったそうです。お金をもらって人を殺すという事、それにどうしてもなじめず、夢の中では殺した俳優さんに刀で追い回され、三月(みつき)もした頃にはストレスから体に赤い斑点ができてしまったと三田村さんは当時を振り返ってくれました。結局、6年半続けることができたのは藤田まことさんの励ましの言葉。そして、まだ、俳優として何一つできていないという自分への戒めでした。あのころは何も知らなかったと三田村さんは言います。太陽にほえろでジプシー刑事(デカ)となった頃にはもう三田村さんは丸くなっていたのだそうです。スタッフの苦労を知ったから・・・、と、三田村さんは笑って話してくれました。

4月25日(金) 「プライベートとこれから」
三田村さんには3人の息子さんが居ますがそのうちの一人(中山麻聖(ませい)さん)はお父さんと同じ俳優さんです。最近は共演もしていますが、その際に三田村さんはご自身の若い頃を反省して、「スタッフさんには親切に、監督の依頼は断らないように」と、話しているのだそうです。ミュージカル「アニー」では三田村さんはスキンヘッドの大富豪「ウォーバックス」を演じます。頭を剃り上げるのはかまわないけれど、気が付いたらウォーバックスの年齢になっていたのがショックだと話してくれました。ロメオとジュリエットをやりたかったのに、その歳の頃には時代劇をやっていたと笑う三田村さんです。
これからの夢は、皆を集めて劇団を作って日本中を廻りたいのだそうです。蜷川幸雄さんからは、「みんな最後は喧嘩別れしている」と、水をさされたそうですが。

<三田村邦彦>
1953年、新潟県出身。中学時代から演劇に憧れ、高校卒業後、劇団青俳養成所を経て、劇団青俳に所属。1977年主演映画『限りなく透明に近いブルー』でデビュー。主な出演作にABC『必殺仕事人 シリーズ』、日本テレビ『太陽にほえろ!』、NHK『壬生の恋歌』、TBS連続ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』、テレビ朝日『将軍家光忍び旅』、フジテレビ『金曜エンタテイメント「京都祇園入り婿刑事事件簿」』、テレビ朝日『土曜ワイド劇場「殺人スタント」』など。情報・バラエティ番組にも多数出演している。

4月14日~4月18日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、俳優の佐藤B作さん

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4月14日(月)「故郷・福島」 
B作さんは福島の飯坂温泉の出身。実家は青果店。小学校4年から地元の小学校で演劇部に所属。部長もしていました。顧問の女性の先生が厳しくて居残り練習をよくさせられていたそうです。東日本大震災のあと、田舎に帰ることに対して休まるどころか考えさせられることが多くなってしまったと語るB作さん。地元に残る友人たちとの会話を紹介してくれました。

4月15日(火)「東京」 
外交官であるとか商社マンなど海外に行く仕事がしたいということで、東京の大学を受けたB作さん。早稲田大学商学部に入学します。上野駅に着いたとき「空気がにおう」と感じたそうです。最初の1か月はまともに学校に行っていたが1か月でその生活も崩壊。ジャズ喫茶に入り浸ることになります。その喫茶店で見たドラマを見て「役者になろう」と思ったそうです。その時入った演劇サークルに意外な人がいたのでした。

4月16日(水)「演劇」 
文化放送の三木社長との学生時代のエピソードを披露してくれたB作さん。
プロの演劇集団をいくつか受けたが全部落ちてしまいました。アングラ劇場の自由劇場に裏方として入ります。半年裏方やったらレッスンを受けさせるということで頑張りました。その甲斐あって卒業公演の時には主役の座を射止めたのでした。その後、もっと面白いことをやりたいと思って自分で劇団を立ち上げました。それが東京ボードビルショーだったのです。

4月17日(木)「テレビ」 
テレビに出られる俳優になりたかったB作さん。旗揚げした東京ボードビルショーの劇団員の中に山口良一さんがいました。萩本欽一さんの「欽ドン」に出演することになったのです。お礼のあいさつをすることになり、萩本さんと面会。その時のしぐさが面白かったらしく、別の萩本さんの番組「週刊欽曜日」にお声がかかったのでした。萩本さんの演技について、熱く語っていただきました。テレビに出た後の田舎の反応の話は笑えます。

4月18日(金)「人生」 
2007年に胃がんが見つかり、手術をしました。それからは楽しい人生を送っていこうと考えを変えたそうです。前より酒を飲むようになったそうです。悔いのないように楽しい人生、やりたい芝居をしてうまい酒を飲む。今は日本酒にはまっているそうです。息子さんの佐藤銀平さんに役者になりたいといわれて正直うれしかったそうです。フジテレビのドラマの宣伝もしていただきました。

<佐藤B作>
1973年、劇団東京ヴォードヴィルショー結成。1978年、同劇団として第15回ゴールデンアロー賞芸能賞(新人賞)受賞。1986年、舞台『吉ちゃんの黄色いカバン』で紀伊國屋個人賞受賞。1999年『戸惑いの日曜日』で名古屋演劇ペングラフ賞個人賞受賞。2004年、平成16年度第1回喜劇人大賞特別賞受賞。その他の主な出演作品に、映画『マルサの女』『息子』『四十七人の刺客』『ラヂオの時間』、舞台『居酒屋ゆうれい』『國語元年』『江戸の花嫁』、テレビ/NHK『陽炎の辻』、NHK大河ドラマ『新撰組!』、TBS『こちら本池上署5』、CF『小林製薬「トイレその後に」「鼻スースークール」他』『レディースアートネイチャーピュアライン』他多数。特技は三味線。

4月7日~4月11日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の宇都宮隆さん

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4月7日(月)「宇都宮さんの少年時代」
1957年東京生まれの宇都宮さん。実は、宇都宮さんと邦丸アナは、山梨の日大明誠高校の1学年違いの(邦丸さんの方が上)同窓生なんです。そしてひとりっ子同士と、似た境遇。東京の西部で育った宇都宮さん、小学校で、長い付き合いとなる木根尚登さんと出会います。当時はこんなに長い付き合いになるなんて思っていなかったとか。少年時代のお話です。

4月8日(火)「TM NETWORK結成」
高校生の時に音楽への興味が強くなり、木根尚登さんとフォークデュオを結成、文化祭などで演奏します。「TMのウツ」が人前で初めて歌った曲は、意外にも直球フォークのあの曲でした。高校卒業後も音楽活動にのめり込み、20才の時に、木根さんと一緒にやっていたSPEEDWAYというバンドでレコードデビュー。ところがほとんど売れずに解散となります。しかしこのバンドがきっかけで出会ったのが小室哲哉さんでした。やがて、3人でTMネットワーク結成となります。

4月9日(水)「TM NETWORK、大ブレイク」
TMネットワークはコンテストで満場一致で優勝、鳴り物入りでデビューしました。小室さんの作る、いわゆる小室サウンドを歌うことになった宇都宮さん、今までバンド編成でロックを歌ってきたので、最初は、ダンスミュージックってどうやって歌えばいいの?という驚きと、良い刺激があったそうです。最初は売れませんでしたが、1987年「SELF CONTROL」「GET WILD」等のヒットで一気にブレイク。多忙を極める生活となります。

4月10日(木)「TMネットワークからTMNへ、そしてソロ活動」
TMネットワークは、1990年に「TMN」にリニューアル。ダンサブルなサウンドからロック路線への変換を図ります。1992年には、宇都宮さんはソロとしても活動をスタート。やはり自分の音楽の原点はバンドだ、ということでバンド形式での活動を展開します。そして1994年にはTMN終了するも、1999年には再始動。音楽的に激しく変化を遂げていく時期のお話です。

4月11日(金)「最近の宇都宮さん」
音楽と並行して役者としての活動もしていた宇都宮さん、高校生の頃にちょっと憧れた世界でしたが、いざ演技の世界へ入ってみると大変!朝は早い、セリフは膨大。ドラマやミュージカルなどに出演後、オレ、もう無理、いいやと思ってしまったのだそうです。そして、去年の4月、膵臓の周流摘出手術をしました。ほぼガンに間違いないと言われ動揺した宇都宮さんでしたが、経手術後の経過は良好。これから始まるTMネットワーク30周年のライブツアーに向け、全力投球です!

<宇都宮隆>
1983年、宇都宮隆(Vo)、小室哲哉(Key)、木根尚登(G)で、TM NETWORK結成。
1994年、TMN10年間の活動を終了。
TMNとして10年間に、SINGLE25枚、ALBUM22枚、VIDEO13本をリリース。
1996年、ソロ「宇都宮隆」としてプロジェクトをスタート。
現在も精力的に活動を展開。

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