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8月18日~8月22日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、富田靖子さん

8月18日(月)  「子供の頃の話」
富田靖子さんの子供の頃は成績は真ん中、クラスでも目立つことのない普通の女の子でした。好きな子にバレンタインのチョコレートをあげても、皆の中に紛れてしまい覚えていてもらえたかどうかもわからない、そんな女の子だったそうです。引っ込み思案だった富田さんには、小5の時に転機が訪れます。必修クラブを選ぶときにバスケットボール部を希望していた富田さんでしたが、ジャンケンに負けてしまいます。富田さんは演劇部に入ることになったのです。

8月19日(火) 「演劇の世界へ」
偶然入った演劇部は富田靖子さんにとって居心地の良い物でした。みんなで一つの物を作るのが楽しかったと話す富田さんは、翌年は部長に、そして主役に自分から立候補をするぐらい積極的になっていたのだそうです。
14歳で映画「アイコ16歳」のオーディションに合格、ヒロインとなります。オーディションを重ねていくうちに私ならやれるという自信が出てきた、根拠はなかったけど。と、当時の気持ちを話す富田さんです。
最初は家族の猛反対にあった富田さんですが、親戚のおじさんの鶴の一声で映画出演を許されます。親の心が分からない子供だったと話す富田さんに、お子さんが同じ立場になったらどうしますかと意地悪な質問をぶつけてみると、そこは予想通りの答えが返ってきました。

8月20日(水) 「休業と復帰」
14歳から女優として活躍していた富田さんですが、19歳の時、行き詰まりを感じて突如休業してしまいます。友達と喫茶店に行ったり、カラオケに行ったり・・・、普通の高校生のような生活を楽しんでいた富田さんでした。
でも、誘われてつかこうへいさんの舞台を見に行ったとき、それに魅せられてしまいます。気が付いたら次の舞台には自分が立っていたのだそうです。舞台に慣れていない富田さんはいろいろと苦労しますが、いつまでも真ん中に立ち続けてやる!という気持ちで頑張ったと富田さんは話してくれました。
30歳になった時のインタビューでは、「やっと肩の力が抜けました」と答えたけれど、実際は違うのだそうです。女優としての心構えもお訊きしています。

8月21日(木) 「女優以外の仕事」 
富田靖子さんはアイドル歌手でもありましたが、本人はあまり乗り気ではなかったのだそうです。芝居を表現する自信はあったけど、歌はよく分からなかったと話してくれました。
富田さんは結婚されています。結婚していちばん感激したのは生活上の苗字が変わった事、普段の生活が楽になったと富田さんは言います。逆に苦労しているのは料理の味付け、旦那さんだけでなくお子さんも辛みが苦手で、自分の分だけ別に料理を作っているのだそうです。でも運動会で頑張るお子さんを見たときは、自分と似ている部分があることを強く感じた富田さんでした。

8月22日(金) 「今一番やりたい事」 
今が一番楽しいと話す富田靖子ですが、最近一番困ったのは自分の時間が無いことでした。夜中に起きて台本を覚え、そのまま朝になりお子さんを起すという生活をしていたこともあったそうです。娘さんが小学校に上がってずいぶん楽になった、ありがとう小学校!と富田さんは笑って話してくれました。普段から家事をしているおかげでお母さん役が自然に演じられるのは良いけれど、と富田さんは楽しそうに話します。 
そんな富田さんが一番やりたいことはネールなどのおしゃれ。女優さんが一番制限されるのがこのおしゃれだそうで、いつかやってみたいけれど、面倒くさがりだからダメかなとも話してくれた富田さんでした。

<プロフィール>
1969年2月27日生まれ。福岡県出身。女優。1983年『アイコ十六歳』で127,000人の応募者から選ばれ主役デビューし、日本アカデミー賞新人賞を受賞。『さびしんぼう』(85年)主演と同時に主題歌「オレンジ色の絵葉書」で歌手デビュー。また『BU・SU』(87年)、『ほんの5g』(88年)、『マイフェニックス』(89年)で青春群像を爽やかに演じる。その後『あ・うん』(89年)などで実力派女優として成長。日本香港合作映画『南京の基督』(95年)、『キッチン』(97年)などに出演。

8月11日~8月15日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、宮川一朗太さん

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8月11日 (月) 「名門中学に入学して気づいたこと」
実家が土佐料理店。お母様がなんと元文化放送社員。同期にはすぎやまこういちさんがおられたそうです。両親が教育熱心だったこともあり、慶応にも受かっていたのに、もう一つ波にもまれろとの父親の一言で東京の男子校御三家のひとつ武蔵高等学校中学校に進学。入ってみると女子がいない。小学校の同級生がテレビの金八先生に出ていて、うらやましくなり、高校に入って行動を起こし、劇団に入団します。

8月12日 (火) 「映画のオーディションに合格」
大学受験を控え、親からもう劇団の月謝は払わないといわれて「店を手伝うからバイト代を月謝に充ててくれ」と懇願。その2か月後に「家族ゲーム」のオーディション合格の通知が来ました。封筒には「にっかつ」の文字が。すっかりロマンポルノのオーディション合格と勘違いし、ドキドキしながら封を開けたのだそうです。その後、主演が松田優作さんと知り、一気に緊張が高まります。

8月13日 (水) 「松田優作さんの言葉」
映画の試写を見て自分の演技に失望する宮川さんにやさしく声をかけてくれた松田優作さん。その言葉は今も役者人生の支えになっています。いざ映画が公開になると、周りの状況が一変。期末試験の最中に見回りの先生が声をかけてくるほど。大学は推薦で早稲田に。
高校時代は授業を抜け出して麻雀をしていたこともあったそうですが、みんな要領がよくてハイレベルの大学に入っていったそうです。

8月14日 (木) 「悪役とマイケルJフォックス」
いい人、さわやかな人の核が多かった宮川さん。悪役の仕事が来たときはやったと思ったそうです。主役を堂々といじめられる。役の幅が広がるし、いろいろと考えながら演じるのが楽しいのだそうです。ドラマ半沢直樹での嫌味たっぷりの銀行員役では原作者に「一番銀行員っぽい」と褒められたそうです。一方マイケルJフォックスの日本語吹き替えを30年近くやられていたのですが、一つだけやっていない映画がありました。

8月15日 (金) 「現在恋人募集中」
ぶらり途中下車の旅はほぼ等身大。でも表現については他の人の回を見ながら自分へのフィードバックをするそうです。他の方の演技もいいところを自分に取り込みたいと考えながら見ているそうです。習い事は最近茶道を始めたそうです。そして、現在恋人募集中の宮川さん、23歳の女性に最近ふられたばかり。二人の娘さんの反応と理想の女性像について話してくださいました。

<プロフィール>
1966年、東京都出身。映画・TVドラマ・CMなどを中心に活躍。1982年に映画『家族ゲーム』(森田芳光監督)作品にて、主演デビュー。日本アカデミー賞優秀新人賞を受賞。代表作は『呪怨 白い老女』、『呪怨 黒い少女』、『希望ヶ丘夫婦戦争』、『感染列島』など。近年の出演作に、TBS『半沢直樹』、フジテレビ『よろず占い処 陰陽屋へようこそ』、映画『武士の献立』、テレビ東京『殺しの女王蜂』などがある。趣味は競馬、麻雀、パソコン、映画鑑賞。

8月4日~8月8日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、井森美幸さん

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8月4日(月) 「バラドル・井森美幸の少女時代」
井森美幸さんは、群馬県の下仁田の自然に囲まれた中で、ノビノビと育ったそうです。
小学生の頃は少年野球に参加し、将来は女子プロレスに入りたかったそうです。
そんな井森美幸さんの少女時代についてお聞きしました。

8月5日(火)「12万分の1に選ばれるまで。」
ホリプロスカウトキャラバンを受けたキッカケは、「ノリ」だったという井森美幸さん。
オーディション当日、ふと気が付けば、テレビ番組での最終選考に進んでいたそうです。
今日は、レオタードで踊る姿が印象強い、井森美幸さんの当時の心境などお話し下さいました。

8月6日(水)「デビューしたのはいいけれど...。」
満を持して歌手としてデビューした井森美幸さん。しかし、なかなか結果が出ず、歌手の道は諦めて、女優としての方向転換を試みますが、主演したドラマは、これまた視力検査みたいな数字に打ち切り。
デビュー1年目にして早くも行き詰ってしまいます。
しかし、当時のマネージャーの英断で、井森美幸さんはバラドルとしての道を開拓していくのでした。

8月7日(木)「井森美幸、本当にまだ誰のものでもありません。」
デビュー当時のキャッチフレーズを今も守り続ける井森美幸さん。
いつまでもフリーなのは、仕事のせいか、それとも性格のせいなのか、その理由や井森美幸さんなりの自己分析などしていただきました。

8月8日(金)「私、これやりたい!」
芸能界(バラエティ番組)で、確固たる地位(?)を築いた井森美幸さん。
そんな井森さんが挑戦してみたいという仕事は、「真面目な」ナレーションなんだそうです。
しかし、なかなかそういったお仕事が来ないそうで、このコーナーの中で精いっぱい告知されていかれました。
そして最近、ポエムに凝っているという事で、一つ披露していただきました。

<プロフィール>
群馬県出身のタレント。「第9回ホリプロタレントスカウトキャラバン」でグランプリを獲得し、1985年の春にアイドル歌手としてデビュー。デビュー曲は『瞳の誓い』。当時のキャッチフレーズは「井森美幸16歳、まだ誰のものでもありません」。デビューの2、3年後にバラエティーアイドル(バラドル)に転向。全国的な人気と知名度を獲得し、多くのバラエティ番組で活躍。主な出演作に日テレ『秘密のケンミンSHOW』『ヒルナンデス!』など。2008年には群馬県公認のぐんま大使に就任。

7月28日~8月1日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、コージー冨田さん

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7月28日(月)  「子供の頃の話」
コージー冨田さんは神戸生まれ、その後、愛知県へ引っ越していきました。神戸は関西弁、愛知は三河弁と言葉が違う中、ふと出てしまった関西弁でいじめに遭いそうな雰囲気を感じたコージーさんは、愛知の言葉を耳で聞きこれを真似しようとします。コージーさんの初めてのモノマネはこれ、必要に迫られてだったのだそうです。
その後、家や教室でものまねをやるようになったコージーさんは、鶴見慎吾さんなどテレビに出ている人のモノマネをカセットで練習するようになりました。似ていなくて笑いを取れるタイプではない、自分はものまねが似ていて初めて尊敬されるタイプだとコージーさんは自身を語ってくれました。

7月29日(火) 「デビューまでの道のり」
コージー冨田さんはいろいろとものまねをやっていました。でも、アイドルのものまねはやる人によって評価が変わるので怖かったのだそうです。そんなコージーさんですが、現実には、芸人になるどころか、なりたいものが全然無かったのだそうです。
家の居酒屋を手伝ったりしていた時に、テレビ東京の「全日本そっくり大賞」に応募します。葉書ではなく電話で応募できるのが手軽だったので応募したけれど、間違えて応募電話を受けたオペレータさんに物まねをやってしまったとコージーさんは話してくれました。
最初の応募ではものまねのモノマネと言われてしまいます。しかし次にチャレンジした時はオーディションを通過する事が出来ました。

7月30日(水) 「ものまねタレントとしての転機」
コージー冨田さんは、三重県の四日市のものまねのお店に出入りするようになり、いっそ仕事を辞めて四日市に移ろうとします。しかし「夢持って四日市に来るような奴おるか!」と言われて、東京へ行くことにします。
六本木のショーパブで、だれでもできるものまねでお客が爆笑しているのを見て、テレビとお客さんには違いがあることにコージーさんは気が付きます。新しいことを求められるテレビと、知っているギャグで笑うショーパブという違いがあるのだそうです。
ひょんなことからタモリさんを真似ることになったコージーさんは、カッコまで似せたらタモリさんになりきれることに気が付きました。それはあまりにもぴったりで、他の方のものまねが皆飛んでいってしまったとコージーさんは話してくれました。

7月31日(木) 「ものまねタレントとしての活躍」
コージー冨田さんはライブに力を入れています。ネタ半分、アドリブ半分でやるなかで、他の人とは違う見方をしてまねてみることで、より面白いものに仕上がるのだそうです。考えてみれば、子供の頃の読書感想文でほかの人と違う処で感動している子供だったと、コージーさんは振り返ります。
ものまねをするときは、その相手が乗り移ってくるのだそうです。面白いのは会ったばかりの人には影響されること、だからそのタイミングを逃さないようにしているのだそうです。
真似る相手に特徴的な部分を見つけたら、それにタイトルを付けてみるのだそうです。「ワンシーンを作品にする」そんな気持ちのものまねを、コージーさんは実演してくれています。

8月1日(金) 「今後について」
ものまねをしてると面白いのは、その相手をキャスティングできること。いたずら心でコージーエッセンスを効かせることができるのが面白いと、コージー冨田さんは話します。
そんなコージーさんの仕事以外で一番好きな遊びは「なぞかけ」。頭を使う遊びが好きなのだそうです。飲んでいても謎かけをはじめてしまうので嫌がられることもあるけれどと笑うコージーさんです。
これからのコージーさんは、全く違う世界で頑張ってみたいのだそうです。そしてもう一つ、ものまね番組の審査員をやりたいとも話してくれました。でも、その理由は結構辛口でした。

<プロフィール>
愛知県出身。タモリのものまねで一躍有名になる。バラエティ番組、映画、CMなどで活躍する。主な出演作品は、テレビ/日本テレビ『ものまねグランプリ』『ものまねバトル★クラブ』、TBS『オールスター感謝祭』、フジテレビ『とんねるずのみなさんのおかげでした!』、映画『掌の小説』、CM『ウルトラクイズ風インフォマーシャル2007』、DVD『爆笑!ものまねチャンネル』ほか。他に笑福亭鶴瓶、島田紳助、板東英二、ルー大柴などレパートリー多数。第38回ゴールデンアロー賞芸能新人賞受賞。

7月22日~7月25日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、真琴つばささん

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7月22日(火)「ちょっと変わった家族」
実家は化粧品店を営んでいたという真琴さん。年中無休だったので正月は夕方4時まで寝るのが恒例。家族で食事に行くときも駅ビルまでは一緒だけどその先はそれぞれバラバラのお店へ。小学校5年生の時にベルサイユのばらを見て「ここ入ろう」と決心。音楽学校での思い出はとにかく「眠い」だったとか

7月23日(水)「入団7年目で初主役」
入団7年目初めて主役。すべてを集中してやり遂げた。先輩の言葉に感銘したそうです。
男役の真琴さんですが花組から月組に組み換え。そこで娘役にもチャレンジ。風と共に去りぬのスカーレット・オハラ役。気が強い女役。気持ちよかった。その後トップになります。
退団を決意した時の瞬間を語っていただきました。

7月24日(木)「宝塚の退団後」
退団した後、後援者などにお手紙を書いたりして過ごしたのですが、テレビドラマの話が舞い込んできます。舞台とドラマの違いと戸惑いを振り返っていただきました。黒柳徹子さん直伝のセリフ覚えの方法を教えていただきました。カメラが共演者という話も
宝塚100周年記念公演についても語っていただきました。

7月25日(金)「理想の男性像」
理想の男性像についての話。理想と現実は違う。掌の上でどうぞ自由にしてくれよ。でもいざとなったら俺はいるよというスタンスがいいのだそうです。お酒は飲むとかわいくなる...そうです。トークライブの話もしていただきました。


<プロフィール>
元宝塚月組トップスター。1985年宝塚歌劇団入団。花組に配属 「愛あれば命は永遠に」で初舞台。1997年「EL DORADO」で月組主演男役に就任。哀愁漂う二枚目男役としてファンを魅了。又「風と共に去りぬ」のスカーレットや「ミー&マイガール」のジャッキーなど女役でも活躍。在団当時から宝塚随一のエンターテイナーといわれたが、惜しまれつつも2001年退団。ファイナル公演のパレードに集まったファンは約1万人。退団後は、舞台、テレビ、ラジオと多方面に活躍。特に、バラエティー番組での、トークには定評がある。

7月14日~7月18日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、武井壮さん

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7月14日(月)「百獣の王の少年時代。」
負けず嫌いで勉強もスポーツも一番だった少年時代。
小学2年生の時に、「かけっこ」で負けそうになった事から、学校までの通学路がトレーニングの場所へと激変します。この頃から「疲れ」について、興味が湧き勉強したそうです。
何でも研究していたという少年時代についてお話をお聴きしました。

7月15日(火)「百獣の王、陸上を始める。」
武井壮さん、大学で陸上の十種競技で日本チャンピオンになるのですが、最初はプロ野球選手を目指していたので武井さんは、陸上部の事を「スパッツがダサい!」とバカにしていたそうです。
では、そんな武井壮さんがなぜ陸上部に入ったのか、お話をお聴きしました。

7月16日(水)「百獣の王、ゴルフを始める。」
陸上の十種競技で日本の頂点にたった武井壮さん。
突然、プロゴルファーを目指し始めます。その動機には、ゴルフ界のスーパースターの姿がありました。しかし、まったくゴルフ経験がゼロだった武井さんが起こした行動とは...。
プロゴルファーを目指した武井壮さんのエピソードをお聴きしました。

7月17日(木)「百獣の王の目覚め。」
ゴルファーとして、アメリカで活動をしていた武井壮さん。
ある日、自分の姿を見てダイエットを始めた時に出会ったある動物が、現在の「百獣の王・武井壮」が誕生したキッカケなんだそうです。
「百獣の王・武井壮」が誕生するまでのお話です。

7月18日(金)「百獣の王からのメッセージ」
今では街に出て、「百獣の王は?」という質問をするとライオンよりも、「武井壮」という答えが出始める様になった(?)という武井壮さん。
百獣の王を目指したのは、動物を倒す為ではなく、ある別の目的があって百獣の王を目指したのだそうです。
今日は、百獣の王からラジオをお聴きのみなさんへ、聞いてほしいメッセージがあるそうです。

<プロフィール>
陸上競技・十種競技の元日本チャンピオン。 十種競技で数々の国内タイトルを獲得し(十種競技の100mのベスト10秒54は今も破られない十種競技においての日本最高記録)、独自の『パーフェクトボディーコントロール』理論をもって、ゴルフ・野球・ボクシング・陸上・柔道などさまざまなスポーツにチャレンジし続け、いまもなお、地上最強の百獣の王をめざして日夜トレーニングをつづけている。アスリートチーム「EARTHLETES」代表。

7月7日~7月11日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、クリス・ハートさん

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7月7日(月)「 Chris Hart is Shy Boy 」
1984年、アメリカ・サンフランシスコ生まれのクリス・ハートさん。子供の頃はとてもシャイな男の子で、人前に出るのが苦手。部屋で音楽を聴いたり、楽器を触ったりして毎日を過ごしていたそうです。初日は、そんなクリス・ハートさんが日本に興味を持つようになり、ついには日本への留学を希望するまでになった経緯についてお話を伺っています。
きっかけは、小学生の時に学んだ日本語と、テレビから流れてきたKiroroの美しい歌声でした。

7月8日(火)「 日本へ... 」
13歳の時の茨城県・新治村(現 土浦市)への交換留学を機に、「将来は日本に住みたい」と思ったというクリス・ハートさん。アメリカで日本語を活かせる仕事に就きながら来日の機会をうかがい、24歳の時、ついに念願だった日本での生活が始まります。そして、その後、Youtubeへの動画投稿やTV番組「のどじまん ザ!ワールド」への出演でその歌声に注目が集まり始め...。
とにかく、クリス・ハートさんの「日本に対する熱」を感じて下さい!

7月9日(水)「 松田聖子さんと出会って... 」 
歌手デビューが決まって程なくして、憧れの松田聖子さんとのデュエット曲「夢がさめて」出すことになったクリス・ハートさん。もちろん、この曲は大きな話題となり、発売から2か月でNHK紅白歌合戦に出場という快挙を成し遂げました。水曜日は、「松田聖子さんから学んだたくさんの事」をいろいろと教えて頂きました。

7月10日(木)「 結婚のきっかけはyoutube 」
奥様とは動画投稿サイトで知り合い、2週間後に婚約。「たくさんケンカもするけど、その度に成長している」と語るクリス・ハートさんにとって、この結婚は間違いなくプラス方向に作用しているようです。木曜日は、クリス・ハートさんに思いっきりノロケて頂きました。
「一目惚れだった」というクリス・ハートさんでしたが、告白は奥様からだったとのこと。これはシャイ・ボーイの面目躍如といったところでしょうか?(笑)

7月11日(金)「 J-POPを歌うということ 」
最終日の前半は、「クリス・ハートさんって本当に日本が大好きなんだなぁ...」というエピソードを中心に、後半は、外国人が日本でJ-POPを歌うことについてのクリス・ハートさんのお考えを伺っています。
クリス・ハートさんは日本流のお酒の飲み方も大好きで、仕事終わりに仲間たちと居酒屋に行って「とりあえず生!」というような雰囲気がお気に入りだそうです。

<プロフィール>
1984年生まれ、アメリカ出身。日本の文化に興味を覚え、2009年に日本に移住。12年3月に出演した番組『のどじまん ザ! ワールド』で優勝し、翌年5月にシングル「home」でデビューを果たす。

6月30日~7月4日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、女優の藤吉久美子さん

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6月30日(月) 「医者一族に生まれた箱入り娘」
ケラケラと良く笑う明るい藤吉さんは1961年、福岡県のお生まれです。実家は産婦人科医院で、厳格なお父さんでした。中学・高校と陸上部に入っていた藤吉さんは、あることがきっかけでこの厳しいお父さんを激怒させ、泣く泣く陸上部をやめることになってしまいます。これも、後から考えると女優への道が開かれた第1歩なのかもしれません。

7月1日(火) 「NHK朝ドラのヒロインでデビュー」
陸上からダンスに鞍替えした藤吉さん、厳しいお父さんを説得し、大学は大阪芸術大学の舞台芸術学科へ進学します。ここで出会ったのが、旗揚げしたばかりの「劇団☆新幹線」。先輩から劇団の振付担当を引き継いだ時に、女優として舞台にも出て、と頼まれしぶしぶ舞台に出ることになりますがこれが運命の分かれ目!舞台を見に来ていたNHK大阪放送局の人に勧められ、朝の連続テレビ小説のオーディションを受け、見事ヒロインの座を射止めます。

7月2日(水) 「女優としての活動」
藤吉さんはNHK朝ドラのヒロイン終了後、本格的に女優の道を選びます。厳しいマネージャーに鍛えられ、現場では監督さんに鍛えられ、ひたすら頑張っているうちに今日まで来てしまったそうです。2時間サスペンスドラマで、犯人役を演じることが非常に多い藤吉さん。普段こんなに明るいのに、苦労の果てに罪を犯す悲しい犯人役を演じることに葛藤はなかったのでしょうか(笑)2時間ドラマの裏話もお話いただきました。

7月3日(木) 「藤吉久美子さんと家族」
藤吉さんの旦那様は、旅番組等で人気の太川陽介さん。1995年に結婚し、19年になりました。39才で男の子を授かりました。何しろ実家が産婦人科、出産のときのエピソードを話し出すと止まらない藤吉さんです。母になってから、ドラマで演じる母親役にも感情が入りすぎてしまうのだそうです。今日は、間違いなく明るさ100%の、藤吉さんのご家族の話題です。

7月4日(金) 「これからの藤吉久美子さん」
夫婦それぞれに旅番組の仕事が多い藤吉さんと太川さん。プライベートで家族で食事に行っても、
職業病なのか、カメラが回っていないのに「この食感は・・・」とつい感想を述べてしまうのだそうです。藤吉さんが現在出演中の舞台「タクフェス~夕(ゆう)」は、宅間孝行さんが作・演出の話題の作品。宅間さんの演出は、舞台が日々変化していきます。初日と楽日では全く違ったものになることも。是非複数回見てほしいそうです。

<プロフィール>
1961年福岡県出身。1982年 NHK連続テレビ小説『よーいドン』のヒロインでデビュー。主な代表作として、『毛利元就』『ちりとてちん』(NHK)、『報道特捜プロジェクト』『情報ライブミヤネ屋』(NTV)、『温泉へ行こう』『はなまるマーケット』(TBS)、『しのぶ』(CX)、『美食コンシェルジュ』『土曜スペシャル』(TX)などドラマ・バラエティに多数出演。また、『女系家族』(1985)、『お気に召すまま』(90)、『アステアーバイマイセルフ』(1990)、『しぐれ茶屋おりく』(1993)、『赤ひげ診療譚』(94)、『黒猫ときどき花屋』(NHK)、『37歳で医者になった僕』(CX)、『強行帰国』(TBS)、『ほのぼの散歩』(BS11)、映画『津軽百年食堂』などの舞台・ミュージカルにも出演し、硬軟両役をこなす演技派女優として幅を広げる。2009年には自身15年ぶりとなる舞台『ありがとうと言いたくて~椿山課長の七日間~』、『淋しいのはお前だけじゃない』に出演。宅間孝行作品には『くちづけ』『笑う巨塔』に続き 3作品目となる。

6月23日~6月27日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、川崎麻世さん

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6月23日(月) 「子供時代の麻世さん」
京都生まれ大阪育ちの川崎麻世さんは、自称、正義のヤンチャ、友人がとても多い少年時代を過ごしたのだそうです。両親が小さい時に離婚していたので、麻世さんはお父さんを知らなかったのですが、30歳の時に思う処があってお父さんを探し出します。もう末期ガンだったお父さんと再会し、知らない親戚の中で喪主も務めた麻世さんは、会えてよかったとしみじみ話してくれました。おばあちゃんが虫歯で痛がっていた時、なんですぐに痛みを取ってあげられないのだろうと思った麻世さんは、歯医者さんになるために京大を目指しますが、関西のテレビ番組に西條秀樹さんのモノマネで出たらあまりに好評で、いつの間にか自分のコーナーができてしまいした。そしてこれがジャニーズ事務所の目に留まり、東京に行くことになります。

6月24日(火) 「アイドル・川崎麻世」
ちょっと東京に行ってくるという軽い気持ちで上京した川崎麻世さんはすぐにジャニーズの寮に入り、仕事を始めます。寮生活は楽しかったけれど、台本など覚えないといけないことがたくさんあって大変だったと当時を懐かしむ麻世さんです。アイドルとして、多くの番組に出るようになった麻世さんですが、大型新人がたくさんデビューした時だったので、とうとう最優秀新人賞をとることができませんでした。この挫折で強くしてもらったと麻世さんは話してくれました。同じ事務所からのたのきんトリオのデビューもあり、アイドルのままではいけないと思った麻世さんは、劇団四季のオーディションを受けます。ミュージカル俳優になるためでした。

6月25日(水)「ミュージカル俳優への道、カイヤさんとの出会い」
劇団四季のオーディションを受け、ミュージカル俳優となった川崎麻世さんは、今度は世界をめざし、「スターライト・エクスプレス」のワールドツアーのメンバーになります。この時、英語力の無さを実感していた麻世さんは、中学校の英語の教科書を丸暗記したり、外国人の話す英語の発音を書き留めたりして、英語力を磨いていました。奥さん、カイヤさんとの出会いはスターライト・エクスプレスのツアーが終わった頃に東京で開かれたマイケルジャクソンのパーティ。しつこくナンパされていたカイヤさんを助けたところからだそうです。その後うまく連絡の取れない麻世さんでしたが、六本木の路上でナンパされていたカイヤさんをまた助けた頃から風向きが変わり、毎日会って話すようになったのだそうです。

6月26日(木)「カイヤさんとの夫婦生活」
カイヤさんの妊娠がわかり、川崎麻世さんは仕事をなげうっての渡米を決意します。一番良い環境で生ませてあげたかったのですが、もちろん不安もありました。でも、無事子供が生まれ、パパ、一緒に頑張ろうねと、赤ちゃんに言われたように思えた瞬間、麻世さんから迷いは消えたのでした。その頃日本では「川崎麻世失踪」と騒がれていて、帰国時には、芸能レポーターが多数待ち受けていました。でも逃げずに堂々と子供を抱いて通ったら、「おめでとうございます」と逆に声援を受けることができたのだそうです。鬼嫁キャラとして有名な奥さん、カイヤさんは本当に怖いのだそうです。喧嘩は毎日、物は飛ぶ、車で突っ込まれたことまであったと、しみじみと麻世さんは話してくれました。

6月27日(金) 「これからの川崎麻世さん」
カイヤさんに手を焼いている川崎麻世さんですが、離婚する気は無いそうです。せっかく一緒になったのだからぎりぎりまで頑張りたいと話してくれました。カイヤさんには内緒でお子さんとは時々会っていると、麻世さんは笑います。このところ、麻世さんは舞台の仕事が続いています。8月にはGACKTさんとの芝居を控えていて、これが一番の楽しみだそうです。麻世さんはやりたいことだらけ、やりたいと思ったらできるだけすぐに行動するようにしています。そして良い役者になりたい、居るだけで良いよと言われるような光がある役者になりたいと、これからの事を話してくれました。

<プロフィール>
昭和52年に歌手としてデビュー、その後も俳優としてもTV舞台に活躍。
1983年に劇団四季の「CATS」出演を 皮切りに数多くのミュージカルに出演。
舞台俳優として注目を浴びている。

6月16日~6月20日の「ラジオバイオグラフィー5冊のアルバム」のゲストは、タレントで女優 中島知子さん

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6月16日(月) モテるか目立つか
小学校のころからとにかく目立ちたかった。しかも負けず嫌い。学級委員になれなくて泣いたこともあったそうです。関西ではモテるか目立つかのどちらかしかない。小学校の文化祭では眠れる森の美女の美女に立候補したのですが、次の日行ったら魔女になっていた。そんなエピソードが満載です。

6月17日(火) 芸能界に入るきっかけ
小学校のころは弁護士になりたいと思っていたそうです。大学の時に人数合わせで出たミスコンテストで、やったパフォーマンスが受けて優勝。その後1年は「あのミス、ミスっとるがな」と言われ続けたそうです。その後スカウトされ芸能界へ。そこで組んだのがオセロでした。

6月18日(水) 女優として活躍、そして休養
芸能界に入ったらいい男がいっぱいいてうれしかった。女優としても活躍。ラブシーンもあってドキドキしていた。男優さんはうまいなぁと感じたそうです。まさに夢見心地。そのあと体調を崩して休養。いろいろ書かれた。自分も読んでいた。反論もしたが取り上げられなかった。週刊誌のターゲットにされたなと感じたそうです。

6月19日(木) 念願の写真集!
写真集を出した中島さん。極道の妻たちの大ファン。かたせ梨乃さんの妖艶さがたまらない。
自分の写真集は気に入っている。その後、話は石田えりさんや小柳ルミ子さんの写真集の話に。自分の撮影の時のエピソードを語っていただきました。映画の話も。

6月20日(金) 男性には自分から行く!
彼氏には自分のいうことを聞いてほしい。というところから男性の話に。交通事故の加害者がイケメンで、その後仲良くなってしまいます。ある日、今日は親がいないからうちに来ないかと言われ、ドキドキしながら行ってみると...
今の彼氏、2年前に結婚話を中島さんから振ったが、そのまま保留中。なので最近はちょこちょこコンパしているそうです。

<中島知子プロフィール>
誕生日:1971年8月26日
血液型:A型
趣味:漫画(読むこと書くこと)
特技:水泳
好きな街:新橋
上京して最初に住んだ街:築地

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