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ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

3月31日~4月4日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、藤竜也さん

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3月31日(月)「藤竜也少年と映画の出会い」
戦後の混乱期に育った少年時代。
早くからお父様を亡くされた事や時代の背景も影響してガキ大将として成長したそうです。
そんな藤竜也さんと映画の出会いは、亡くなる前のお父様とみた映画「ターザン」だったそうです。
以来、お小遣いは映画に費やしたという藤竜也さんの少年時代のお話をお聴きしました。

4月1日(火)「藤竜也、俳優になる」
もともと、映画の中の人物になるなんて思ってもいなかった藤竜也さん。
そんな藤竜也さん、「15分の遅刻があったからこそ。」と、俳優の道に進むキッカケ私達に教えてくれました。
意外と不純な考えで俳優の世界に進んだという藤竜也さんのエピソードをお聴きしました。

4月2日(水)「人生を変えた作品、愛のコリーダ」
藤竜也さんの人生を変えた作品と言われるのが大島渚監督の映画「愛のコリーダ」。
当時、所属していた事務所からは反対の声が上がっていましたが、この映画との出会いを大切にしたいと、事務所を辞めてまで出演したそうです。撮影している毎日は新鮮な発見の連続で大変充実したものだったという、当時のエピソードをお伺いしました。

4月3日(木)「藤竜也さんの俳優論」
藤竜也さんは「愛のコリーダ」の撮影終了後、これまでは来た仕事はすべて請けるというスタンスから、自分で、仕事を選んで出演するという風に変わっていったそうです。中でも重要視しているのが「台本」なんだそうです。
台本からの声が聞こえるという藤竜也さんの俳優論についてお話をお聴きしました。

4月4日(金)「藤竜也の今後について」
とにかく凝り性という、72歳の藤竜也さん。
日常からやっている事や現在、挑戦中の事についてお話をお伺いしました。
そして、藤竜也さんがご出演の最新映画「サクラサク」について、ストーリーや魅力、撮影中のエピソードについてお話をお聴きしました。

<藤竜也>
1941年北京生まれ。大学在学中にスカウトされ、62年日活からデビュー。「野良猫ロック」シリーズなど数多くの映画に出演。70年代からは「時間ですよ」などのテレビドラマでも活躍し、人気を博す。主演した大島渚監督作品「愛のコリーダ」(76年)、「愛の亡霊」(78年)は国際的にも大きな話題となる。「アカルイミライ」(2003年)、「海猿」(04年)など若手監督の作品にも意欲的に参加。三原光尋監督作品「村の写真集」(03年)では、05年上海国際映画祭最優秀主演男優賞を受賞。

3月24日~3月28日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、華原朋美さん

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3月24日(月) 「乗馬で国体4位になった少女」
東京下町生まれの華原朋美さんは、男兄弟に囲まれたやはり男っぽい子供でした。
負けず嫌いで、目標ができるとそこまで頑張る子だったそうです。
子供の頃大きな病気をし、この病気には潮風が良いという事で家族は浦安に転居、そこで乗馬を覚えた華原さんは、なんと、高校時代には国体で4位になるほどになります。しかし華原さんは1位でないのが嫌で乗馬を辞めてしまい、友人と普通に遊ぶ高校生になります。
華原さんが吉野家でスカウトされたという話は本当だそうです。実際はその後何度も声を掛けられ、有名人になりたい!と思って、スカウトに応じたのだそうですが。最初はモデルを目指しますが、ぽっちゃり体型を直すためのサラダだけの生活に耐えられない華原さんは、「はい無理!」とダイエットをやめてしまいます。

3月25日(火) 「CDデビューし、大ブレイク」
減量が嫌でモデルを辞めた華原朋美さんはその後アイドルへの道を進むことになりました。水着グラビアやタレントとしての仕事などをしていましたが、それも結局辞めてしまいます。年齢を誤魔化すのが嫌だったのだそうです。
その後、小室哲哉さんと出会い、プライベートな付き合いもある中で、華原さんの唄を聴いた小室さんに認められ、CDデビューが決まります。この後は出す曲出す曲大ヒットした華原さんですが、ご本人は「景気が良かったのよ」と謙遜しています。いろいろあったけれど今は幸せ、小室さんあっての華原朋美だったと笑って話す華原朋美さんでした。

3月26日(水) 「大ヒットの陰での不安」
1996年のファーストアルバムは、300万枚を超える大ヒットとなりました。当時を振り返ることはありますか?と訊かれた華原さんは、大事な過去なので振り返ることもありますが、その頃の私は勘違いしていたと思うと答えてくれました。周りの大人がみんなやってくれていたからダメになっていく自分に気が付かず、その後、自分一人になった時にはどうしたらよいかわからなかったのだそうです。なぜ乗馬会見などやってしまったのだろうと、明るく笑いながら華原さんは話してくれました。
その後、「進ぬ!電波少年」の企画で7か月にわたりアメリカに渡りました。この仕事をうけるかどうかはとても迷ったのだそうです。周りに大人が居ないから全部自分でやらなければならず、大きく私を変えてくれたと華原さんは話してくれました。

3月27日(木) 「休養、そしてフィリピンでの生活」
休養中の華原朋美さんは、死にたいなぁと思うような不安の中、医者からもらった薬に頼る毎日でした。ずっと寝ていてお腹も空かない。歌が歌いたいという気持ちだけは変わらなかったけれど、そう思ったらまた薬を飲んで寝てしまう日々だったと、当時を振り返って華原さんは話してくれました。でも、そんな毎日でも少しずつ成長することはできると華原さんは言います。これを飲んだら逃げることになるんだろうなぁと考える自分がそこには居たのだそうです。
兄たちの手で病院に運ばれたのち、お父さんの居るフィリピンでの生活で華原さんは回復していきます。歩くのもしんどかったところから、だんだん明るくなり、ボランティアをするようにもなりました。生まれてよかったと初めて思えるようになったのも、そしてまた復帰したいと思ったのもこの頃だったそうです。
 
3月28日(金) 「華原朋美さんの近況」
初めてのカバーアルバムを華原朋美さんは発表しました。これは自分の青春時代の思い出の曲をカバーしたもので、華原さんは楽しそうに選曲のエピソードを話してくれました。
ちなみにグローブの楽曲「DEPARTURE」を唄うに当たっては、16年ぶりに再会した小室哲哉さんに直接了解をもらったのだそうです。そんな華原さんが今一番したいことは結婚!そして出産だそうです。まだ相手もいないけれど・・・・、噂の彼とはお付き合いまで至っていないので・・・・と、笑いながら話す華原さんです。ちなみに華原さんの理想の彼はなんと「失敗の多い人」自分も失敗が多いので、それをわかってくれる人がいいのだそうです。


<華原朋美>
1995年「keep yourself alive」でデビュー。以後「I BELIVE」「I'm proud」等ヒット曲をリリース。
歌手活動以外にもCM・ドラマ・バラエティー等で活躍するも2007年活動休止。
そして2012年12月、5年ぶりに芸能活動を再開。
今春、7年ぶりの新曲、ミュージカル「レ・ミゼラブル」の劇中歌「夢やぶれて- I DREAMED A DREAM -」を日本語訳カバーしリリース予定。

3月17日~3月20日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、小野寺昭さん

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3月17日(月)「 小野寺昭さんの下積み時代 」
北海道・帯広のご出身。アマチュア劇団を主宰していたお父様と、映画で見た石原裕次郎さんに影響を受け、いつの頃からか俳優の道を志していたという小野寺昭さん。しかし、数々の劇団のオーディションに落ち続け、なかなか夢には手が届きませんでした。
初日の月曜日は、小野寺昭さんの下積み時代を振り返ります。俳優を目指していたのに、当時は人形劇団に所属し、人形操作や着ぐるみの中の人という、顔が出ない仕事ばかりでストレスが溜まったそうです。

3月18日(火)「 石原裕次郎さんとの思い出 」
下積みを重ね、25歳の時になんとかテレビドラマデビューを果たした小野寺昭さん。これをきっかけに徐々に注目され始め、その3年後には「太陽にほえろ」で、子供の頃から憧れていた石原裕次郎さんと共演という、夢のような展開に!
火曜日は、小野寺昭さんが多大なる影響を受けたという石原裕次郎さんについて熱く語っていただきました。

3月19日(水)「 太陽にほえろ 」 
小野寺昭さんと言えば、「太陽にほえろ の 殿下」を思い浮かべるリスナーさんは多いと思います。
水曜日は、「太陽にほえろ」の撮影秘話や、あっけなかった殿下の殉職シーンの裏話などを伺っています。
やたらと走るシーンが多かった「太陽にほえろ」。小野寺昭さんは犯人を追いかけるシーンで、ちょっとだけズルをしていました。それは...?

3月20日(木)「 若さの秘訣は 『 山登り 』 」
最終日は、小野寺昭さんのプライベートに迫ります。とは言っても、ほとんどは趣味である「登山」の話。
既に日本百名山の半分以上をクリアし、しかも、一人っきりの単独行とのこと。富士山には6回も登っているそうなのですが、「富士山は下から見るもの」と思っている、私、邦丸にはまったく理解できませんでした(笑)
ただし、この登山が小野寺昭さんの若さの秘訣ということだけは間違いないようです。


<小野寺昭>
1943年、北海道出身。
1969年、「パンとあこがれ!」 でデビュー。
★代表作
1972年 太陽にほえろ (日本テレビ)
1983年 御宿かわせみ (NHKテレビ)
2000年 釣りバカ日誌シリーズ (映画)
2003年 花あかり (舞台)

3月10日~3月14日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、紫吹淳さん

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3月10日(月)「バレエ少女が宝塚の道へ」
群馬県生まれの紫吹淳さんは、運動靴を履かず、ランドセルも使わない、ちょっとおめかしした女の子として小学生時代を過ごしました。中学に上がった直後にはこれが原因で上級生のいじめに遭いますが、この時はお父さんが相手の家に乗り込んで行ってくれて一件落着となったそうです。小さいころ、すぐに転んでしまうような紫吹さんに、お母さんはモダンバレエ教室に通わせます。トゥシューズが気に入った紫吹さんは喜んでバレエを習いますが、中学1年の白雪姫の時、王子様より大きな自分に気が付いてバレエを続ける気持ちを失ってしまいます。でも、もともとバレエが大好きだった紫吹さんは中学三年の時、その教室に戻ったのでした。すると先生が、身長が高くても大丈夫な「宝塚」という道を教えてくれ、紫吹さんの宝塚人生が始まったのでした。

3月11日(火) 「宝塚音楽学校時代」
紫吹淳さんは宝塚を受験し合格します。東京で試験があることを知らずに1次から宝塚に行き、2次までの間は一人でホテル暮らし。周りが美しい装いの中、一人だけセーラー服にポニーテールといういでたちで、いろいろとちょっとずれていた、でもこれが合格理由だったのかもと紫吹さんは笑います。なんと、宝塚を初めて観たのもこの時でした。思い違いもあり、知らず知らずのうちに紫吹さんは男役として勉強をすることになります。その頃は宝塚に興味は持てなかった、でも、やめようとも思わなかったと紫吹さんは当時を回想してくれました。

3月12日(水)  「宝塚歌劇団トップスター」
紫吹淳さんが最初に自分が男役だと気が付いたのは歌劇団2年目の新人公演の事、歩きながら(男として)セリフを言う場面でロボットのようにぎくしゃくしてしまった時なのだそうです。そして4年目、音楽学校から数えて6年目に、新人公演とはいえ、初めて主要人物の役をもらいました。この時にお芝居っておもしろい!もっとうまくなりたいと初めて思ったそうです。紫吹さんは宝塚の中でも変わった人として、いじめられた事もあったそうです。その後宝塚のトップになりますが、いじめられたから悔しくてトップになろうと思ったと、今は笑って話す紫吹淳さんでした。

3月13日(木)「宝塚退団後の紫吹淳さん」
宝塚に居る間、紫吹さんがいつも思っていた事、それは「なんで女の一番良い時期に男の格好をしなければいけないのだろう」という事でした。でも、結局紫吹さんは宝塚に18年居ました。宝塚の男役は退団すると女優になる人が多い中で、紫吹さんは男役も女役もこなす俳優さんになりました。ご本人曰く「女優という枠がひとつ増えただけ」なのだそうです。でも、一番芸能界に入ってから一番迷ったのも男と女を演じ分けることでした。デビュー25周年の公演で両方を演じてファンの皆さんに喜んでもらったことで、両方やろうという踏ん切りがつき、やっと吹っ切れたのだそうです。そして紫吹さんは面白い話をしてくれました。どちらを演じるかで体つきも変わってくるというのです。

3月14日(金) 「これからの紫吹淳さん」
ずっと紫吹さんは独身です。その訳を尋ねたら、「ずっと自分が理想の男性を演じてきたら、条件が高くなってしまった」と、話してくれました。今は少し条件が低くなったけれど、やっぱり三高が良い!そうしたら無条件に尊敬できるからと、紫吹さんは笑いながら話します。ちなみに占いでは今年中に結婚するのだそうです。「今年中に結婚できれば占いを信じる、そうでなければ一生占いは信じない」本気か冗談かわからない紫吹さんの話です。
4月、7月にミュージカル舞台を控えている紫吹さんですが、これからの目標を伺ったところ、やはり「結婚」という言葉が返ってきました。人生は長いようで短い、そして老後は一人で過ごすのはさびしいからそれまでに・・・・と話してくれた紫吹淳さんでした。

<紫吹淳>
元宝塚歌劇団月組トップスター。1986年、『レビュー交響楽』で宝塚初舞台を踏み、1992年『スパルタカス』新人公演で初の主演。その後、数々の作品で主役に抜擢され、2001年トップに抜擢。2004年3月宝塚歌劇団退団後、オスカープロモーションに所属。同年4月、「女優宣言お披露目記者会見」を行い、女優としてデビューを果たす。主な出演作品に、舞台『ホテルマジェスティック~戦場カメラマン澤田教一 その人生と愛~』、ミュージカル『9時から5時まで』、テレビ朝日『ナサケの女~国税局査察官』、コンサート『紫吹 淳 ソロコンサート』などがある。

3月3日~3月7日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、歌手の小柳ルミ子さん

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3月3日(月) 「母からの英才教育」
1952年、福岡生まれのルミ子さん。お母さんから勧められてピアノやバレエ、歌など8種類の習い事をしていました。目指すはもちろん芸能界。中学を卒業して当然のように宝塚音楽学校に入学しましたが、ルミ子さんは成績が良かったので委員長を任され、年上のクラスメートも統率していかなくてはならない立場に・・・。

3月4日(火) 「『私の城下町』そして『瀬戸の花嫁』」
天下の渡辺プロダクションの社長さんの「宝塚を首席で卒業したらナベプロに入れてあげる」という約束通り、ルミ子さんは音楽学校を首席で卒業、ナベプロ入りしました。満を持してのデビュー曲は「私の城下町」。和の曲調に最初ルミ子さんはとまどいを覚えたそうですがこれが大ヒット。そして日本のスタンダード曲ともいえる「瀬戸の花嫁」へと続きます。

3月5日(水) 「映画女優として」
歌手から少しシフトチェンジしようと、ルミ子さんが選んだ道は「映画」でした。萩原健一さんと共演の「誘拐報道」。事務所の反対を押し切って汚れ役の出演を決めた結果、作品の評価も上々。そして出演2作目があの「白蛇抄」。若山富三郎さん、杉本哲太さん等と共演で激しい濡れ場もある話題作の主演で、見事日本アカデミー賞主演女優賞に輝きました。

3月6日(木) 「辛かった2年間」
映画出演でイメージチェンジを果たし、歌手としても「お久しぶりね」や「今さらジロー」がヒット、歌手と女優の両方で活躍の範囲を広げていたルミ子さんでしたが、結婚や事務所からの独立問題などあり、2年のあいだ表舞台から遠ざかりました。誰もが敵に見え、外出もできず、あらぬことばかり考えていたルミ子さんに、福岡のお母さんから1本の電話が・・・。

3月7日(金) 「これからの小柳ルミ子さん」
日本で一番、ミュージカルを愛し、理解しているのは自分だと胸を張るルミ子さん。舞台で大怪我を追っても痛みに耐えて楽日まで演じ抜いたこともありました。今後はミュージカル舞台のスタッフやアドバイザーとしても活動したいそうです。「誰もが歌いやすい、いわゆる歌謡曲」という新曲のお話も伺っています。

<小柳ルミ子>
1970年、宝塚音楽学校を首席で卒業し、NHK連続テレビ小説「虹」で女優としてデビュー。1971年4月25日「わたしの城下町」で歌手デビュー。この曲が160万枚の大ヒットとなり日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。以降「お祭りの夜」「瀬戸の花嫁」(日本歌謡大賞受賞)など、いずれも50万枚以上のセールスを記録し、70年代を代表するアイドルとして活躍。また「星の砂」「お久しぶりね」「今さらジロー」など多数のヒット曲を輩出。 女優としても、映画「白蛇抄」での迫真の演技により日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。映画・テレビ...女優として、歌手として、コンサート・ディナーショー...を全国で展開中!

2月24日~2月28日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、丸岡いずみさん

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2月24日(月) 「水泳大会で大パニック」
徳島県出身の丸岡さん。一人っ子で両親が高校の教師。小さいころから独立心旺盛な女の子でした。水泳が得意で、小学校ではクロールで一番の速さでした。高校時代も水泳が得意でした...が唯一苦手なのが飛び込み。他の選手が飛び込むスタートなのに丸岡さんは、け伸びでスタート。それでも勝っていたそうです。高校最後の大会の時、決勝で意を決して飛び込みを敢行してみたのですが、、、そこで大事件が起きてしまうのでした。

2月25日(火) 「北海道のテレビ局に就職して」
北海道のテレビ局に就職した丸岡さん。料理番組を担当した時、生放送で火のついたままのコンロの上に台本を置いてしまい、燃え広がるという事件を起こしました。いろいろと楽しいこともあったのですが、ある時、子供の特集を組むということで丸岡さんは引きこもりの少女と出会います。取材しているうちに自分のライフワークにしたいという気持ちも沸いてきたその少女とはいまだにお付き合いがあるそうです。

2月26日(水) 「警視庁捜査一課担当記者」
日本テレビに転職し、ニュースなどを読んでいましたが、アメリカのディズニーの取材の翌日から警視庁捜査一課担当記者を命ぜられます。電柱の番号を言って出前を取るなど記者時代を振り返っていただきました。その後、ミヤネ屋で人気が出始めますが、そのあとから眠れなかったり食欲がなかったりを感じるようになってきました。気を張っていましたがついに限界が来てしまいました。

2月27日(木) 「鬱になりました」
ある日の放送の後、プロデューサーに休暇を申し出ます。小学生でも読める漢字にまでフリガナを振らないと不安になるほどだったのです。徳島に帰り、精神科を受診すると「鬱」との診断。それまでの偏見もあってその結果を受け入れられませんでした。最終的に入院。そうすると薬は強制的に飲むことに。すると、見る見るうちに改善してきたのでした。そのころサポートしてくれたご主人有村昆さんとのいきさつもお話しいただきました。

2月28日(金) 「今の生活は楽しいです」
有村さんと結婚して新婚生活真っ只中。料理を作って帰りを待つのが楽しみなのだそうです。警視庁捜査一課担当記者時代からは想像もできない今の状況を楽しんでいます
これからは鬱の現実、まだまだ正しい認識が一般に受け入れられていないので、講演活動などで理解を深めてもらいたいと考えているそうです。あと、直近では子作りに積極的にトライしたいということでした。

<丸岡いずみ>
関西学院文学部日本文学科卒業、早稲田大学大学院人間科学研究科(修士課程)修了。1994年に北海道文化放送にアナウンサーとして入社。 2001年に日本テレビ報道局に中途入社、報道記者として社会部 警視庁捜査1課を担当する。 その後、「情報ライブ ミヤネ屋」のニュースコーナーを担当。 司会の宮根誠司さんとの掛け合いが話題となる。 2010年3月26日の出演をもってミヤネ屋を卒業し 夕方のニュース「news every.」のキャスターとなる。 夫である映画コメンテーター有村昆さんとの結婚を機に日本テレビを退社、再びフリーとして活動を開始する。

2月17日~2月21日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、松田美由紀さん

2月17日(月)「 熊谷(くまがい)家の人々 」
お父様の「自分は生まれ故郷の福岡を離れたくないが、娘たちには東京の教育を受けさせたい」という信念から、子供の頃はお父様と別々に暮らしていたという松田美由紀さん。
月曜日は、「バリバリの九州男児で、ちょっと怖かった」というお父様、そして、お姉さまである熊谷真実さんのエピソードを中心に伺っています。

2月18日(火)「 北の国から 」
NHKの朝ドラでヒロインを務めていた、お姉さまである熊谷真実さんに刺激を受け、自身でも女優のお仕事を始めた松田美由紀さん。数々の印象的な役柄の中から、二日目は、野村邦丸の独断と偏見で "TVドラマ「北の国から」の吉本つらら" 役にスポットを当てております。撮影中に、広大な北海道で迷子になってしまった事件の顛末、お聴き逃しなく!

2月19日(水)「 私はネットガール 」
水曜日の前半は、松田美由紀さんが女優という仕事について、「皆さんの感情を代弁すること」と熱く語って下さっている一方、後半は、「私はインターネットが得意」という話題をきっかけに、話がおかしな方向に展開してしまいます。
どうやら、松田美由紀さんの触れてはいけないスイッチをONにしてしまったようで、とんでもないエピソードが明らかになります!

2月20日(木)「 思いついたら0.5秒で動き出す 」
『松田優作全集』のアートディレクション手掛けたことをきっかけに、女優以外のさまざまな表現方法に常に挑戦し続けている松田美由紀さん。近年では、写真を撮ったり、音楽フェスを開催したり...。
木曜日は、「思いついたら0.5秒で動き出す」を信条としているという、松田美由紀さんの前向きな姿勢の理由に迫ってみました。
『松田優作全集』を手掛けた際には、専門学校に入って写真やデザインを勉強し、テレビ局からの資料の発掘も自ら行うなど、4年かけて松田優作さんの真実に徹底的にこだわったそうです。

2月21日(金)「 戯曲 『フローズン・ビーチ 』 」
「いろいろなことを次々と吸収していかないと将来が不安でしょうがない」という松田美由紀さん。そんな松田美由紀さんが、今、全力で取り組んでいるのが、戯曲『フローズン・ビーチ』です。
最終日は、この戯曲の見どころなどをお話していただきました。
膨大な台詞の量で、演じている4人の女優さんたちはかなり苦労されていらっしゃるとのことなのですが、見る側としてはとても面白い仕上がりになっているようです!

<松田美由紀>
1979年女優デビュー。演技の幅広い個性派女優であるとともに『松田優作全集改訂版』(幻冬舎)のアートディレクションを手がけるほか、写真家として写真集『私の好きな孤独』(リトルモア)他、多数活躍している。エグゼクティブプロデューサーとして、映画『SOUL RED松田優作』を製作。また、映像監督として短編『月刊 早乙女太一KOKUHAKU』などを製作。環境問題にも積極的に取り組み、発展途上国の孤児たちへの支援、自殺防止問題や、東日本大震災以降は、環境問題を考える「ロックの会」の発起人として、エネルギーシフトに取り組んでいる。Twitterで「愛の言葉」を贈り話題に。半年でフォロワーが数万人を超え、特に若い世代から強い支持を得ている。

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そして、今週はSPウィークということで、「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム 特別編」(お昼12:35~12:45)もあります!
ゲストは、歌舞伎俳優の片岡孝太郎さん。

2月17日(月) 「 子供の頃の話 」 
片岡孝太郎さんのお父さんはやはり歌舞伎俳優の、15代目片岡仁左衛門さん。350年続いた京都の梨園の一族に生まれた孝太郎さんですが、小さいときはタクシーの運転手さん、電車の運転手さんなどになりたかったのだそうです。
歌舞伎の世界に進むことをお父さんに伝えたのは中学三年生の時。普通とは違う家に生まれたのだから、この環境を活かしてみようとしてのことでした。
孝太郎さんの家が普通の家と違うと気がついたのは日曜日にお父さんが家に居なかったこと。仕事が休みになると幼稚園を休ませてでも遊園地に連れて行ってくれる子煩悩なお父さんでしたが、その頃から練習はとても厳しかったそうです。
初舞台は5歳のとき、孝太郎さんはこのときを鮮明に覚えているのだそうです。おじさんに当たる中村芝翫(しかん)さんのいたづらまで・・・・。

2月18日(火) 「 女形としてのスタート 」
歌舞伎俳優の道を進み始めた孝太郎さんは、最初は他の役者さんと同じように立役(たちやく)、女形の両方を演じていました。しかし芝翫(しかん)さんの、体つきが女形にちょうど良いというアドバイス、そして自身の背が低いことなどを考えて、孝太郎さんは女形の道を進み始めます。家に女形が居ないので、型は自分で作らなければならず、孝太郎さんは練習には苦労し、文楽を参考にしたり、玉三郎さんに教えてもらったりしました。
一度演じた演目は、次には150%、200%の力を出さないと、お客さんには納得してもらえないのだそうです。覚えが悪いからと謙遜しつつ、孝太郎さんは他の人の3倍ぐらいお稽古をしていることを話してくれました。

2月19日(水)「 親子共演/大切にしていること 」
片岡孝太郎さんはいつからお父さんと共演するようになったかは良く覚えていないのだそうです。共演で覚えているのは20台の半ばの事。お父さんと二人椀久(ににんわんきゅう)を踊ったら、顔と顔がキス寸前にまで近くなったことを笑いながら話してくれました。
十代終わりごろ、舞台上の上役の目ではなく、親の目で自分のことをみているお父さんを感じて"はやくこれから脱しないと"と思ったと孝太郎さんは話してくれました。後にうまく踊れて、お父さんから「孝太郎さん」とさん付けで呼ばれたときはとてもうれしかったのだそうです。
女形はあくまで男がやるもの、女性にはできないと、孝太郎さんは言います。流れていくのではなく、きちんと形を作っていく、これが女形だと孝太郎さんは話してくれました。

2月20日(木)「 歌舞伎以外のお仕事 」
孝太郎さんは歌舞伎以外の世界でも活躍していますが、実は19歳のときに、もうスピルバーグ監督の映画「太陽の帝国」に出演しています。ギャラ1億円に惹かれてオファーを受けた孝太郎さんですが、実際のギャラは3桁少なかったと笑いながら話してくれました。
昨年公開の映画、「終戦のエンペラー」では孝太郎さんは昭和天皇を演じています。オファーがあったときには平成中村座の舞台が決まっていたのですが、中村勘三郎さんの「行って来い!」の一言で仕事を受けることに決めます。
この映画で共演したのはトミー・リー・ジョーンズさん。なんとこの人は歌舞伎が大好きで、「君と仕事ができて良かった」と向こうから話しかけてくれました。孝太郎さんはとてもうれしかったのだそうです。

2月21日「 最新作と今後について 」
片岡孝太郎さんの最新映画は「小さいおうち」。新歌舞伎座のお披露目のタイミングでオファーがあったため、孝太郎さんはこの映画へ出演するかどうか悩みますが、結局映画に出演することになりました。
この映画は山田洋二監督の作品です。この監督は恐いと聞いていた孝太郎さんはいろいろと策を練りますが、出来上がった作品を見ると、山田監督でなければできない作品に仕上がっている、やはり映画は監督で違うと孝太郎さんは思ったのだそうです。
孝太郎さんは、求められる役者になれというお父さんの言葉を大事にしています。自分は求められればどこにでも行きますと、片岡孝太郎さんはきっぱりと話してくれました。

<片岡孝太郎>
1968年1月23日、十五代目片岡仁左衛門の長男として生まれる。73年7月、歌舞伎座「夏祭」の市松で片岡孝太郎を名のり初舞台。新世代の若女方として、江戸・上方の枠を越えてめざましい活躍を見せる。94年名題昇進。関西・歌舞伎を愛する会奨励賞、眞山青果賞、大阪舞台芸術奨励賞など受賞。

2月10日~2月14日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、木田優夫さん

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2月10日(月)「木田優夫少年と野球」
今回のゲストは邦丸さんの出身高校の後輩、木田優夫さん。
元・高校球児だったお父様の影響で小さい頃から野球に親しんだそうです。
世間はサッカーブームの中、何の根拠もなく、プロ野球選手になると思っていた木田優夫さんの少年時代のお聴きしました。

2月11日(火)「高校球児・木田優夫」
中学の頃から、長身のピッチャーとして活躍していた木田優夫さん。
周りから薦めもあり、邦丸さんの母校でもある日大明誠高校に進学すると、1年生の秋からエースとして投げていたそうです。
当時の通学や練習での思い出や、甲子園に一度も出場出来ず悔しい思いをした事など、野球部だった頃の思い出話をしていただきました。

2月12日(水)「プロ野球へ進む」
高校生の時にジャイアンツからドラフト1位で指名されたのですが、甲子園に進む事が出来なかった事、オリンピックで野球が正式種目になった事から、当時は入団する事に躊躇していたそうです。
しかし、木田さんのお兄様からの「ある一言」でジャイアンツへの入団を決意します。
木田優夫さんがプロ野球の世界に進んだ頃のお話です。

2月13日(木)「メジャーリーガーとして」
木田優夫さんは、1999年にメジャーリーグのデトロイト・タイガースにFA移籍します。
日本のプロ野球とメジャーリーグでの違いの凄さに驚き、「これがメジャーか!」という体験を数々されたそうです。
またメジャーリーガーとして活躍している時にあった事故についてもお話いただきました。

2月14日(金)「木田優夫さんの今後」
今年でプロ野球選手として28年目に入る木田優夫さん。
明石家さんまさんと交遊録や、木田さんが出版されたご著書など、野球選手以外のお話などをお聴きしました。

<木田優夫>
1968年生まれ。東京都出身。1987年、日大明誠高校からドラフト1位で読売ジャイアンツに入団。98年、トレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。同年10月にFA宣言し、日本人8人目のメジャーリーガーとしてデトロイト・タイガースに入団。その後も、オリックス復帰(00~01)、ロサンゼルス・ドジャース(03~04)、シアトル・マリナーズ(04~05)、東京ヤクルトスワローズ(06~09)、北海道日本ハムファイターズ(10~12)と、日米7球団を渡り歩く。2013年からは、日本の独立リーグ・BCリーグの石川ミリオンスターズに所属し、「投手兼営業」の肩書きで現役を続けている

2月3日~2月7日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、楠田枝里子さん

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2月3日(月) 「子供の頃の話」
楠田枝里子さんは子供の頃、機械を分解するのが大好きでした。お気に入りのドライバーセットでミシンや掃除機を分解して遊んでいたのだそうです。また、バレリーナになるのが夢で、そのレッスンも受けていましたが、あまりに背が伸びすぎてしまって、この夢は挫折してしまいます。
でも、今でもバレーやダンスを見るのは大好きなのだそうです。特にお気に入りはピナ・バウシュ。公演があればそれが世界中のどこであってもすぐに飛んで行ってしまうと楠田さんは話します。
その楠田さんが生まれ育った伊勢は、神様と人間が一緒に暮らす街。この地で受けたインスピレーションがその後の楠田さんに大きく影響しているのだそうです。
  

2月4日(火) 「アナウンサーになって」
高校生になった楠田枝里子さんは、生徒想いの先生に出会います。この先生が化学の先生であったことから、東京理科大学の応用化学科に進みます。最初は受験をし直すつもりでしたが、良い友人に恵まれ、結局4年間、楠田さんはこの大学で過ごしました。
楠田さんは絵本を書くのが好きで、大学生の時はその絵本を使って、近所の子供相手に公園で紙芝居をしていました。このとき、話すってなんて楽しいんだろうと思った楠田さんは日本テレビのアナウンサー試験を受け、こちらも合格します。
でも、アナウンサーの世界は想像と全然違っていました。入社3か月で最初の辞表を書き、結局7年経った頃、退社することになります。このとき、楠田さんはほんとうにほっとしたのだそうです。

2月5日(水) 「なるほど!ザ・ワールド」
学生時代から続けていた絵本作家とアナウンサーの両方をこなす生活に疲れ日本テレビを辞めた楠田さんは、司会者の道を歩み始めるようになります。肩書にこだわる訳ではないけれど、尊敬する久米宏さんの「私は司会者です」という言葉がカッコ良かったので、なにか肩書が必要なら"司会者"が良いなと思ったと楠田さんは話してくれました。
そして楠田さんはなるほど!ザ・ワールドの司会者になります。
新しさがあり、手間とお金が掛かった、だけどありのままの姿を大事にした、とても素晴らしい番組だったと楠田さんは言います。この番組の中で楠田さんは衣装にも凝るようになりました。こいのぼりになったりお雛様になったり、とても楽しかったのだそうです。

2月6日(木)「作家としての活動」
楠田さんは1982年に、「ロマンチック・サイエンス」というベストセラーになる科学エッセイを書きました。面白い科学の本が無いなと感じていた楠田さんには、科学はいつもロマンチックという思いがあり、それを本にしたのだそうです。
楠田さんは天文にも興味があり、彗星の話を夢中に話してくれました。前回のハレー彗星接近の時のワインを2ダース取ってあって、次の接近の時にこれを皆で飲むのが楽しみなのだそうです。他の彗星がやってきたときにかなり飲んでしまったらしいのですが・・・。
楠田さんはいつも先の楽しみを想像しながら暮らしています。過去のことはどうでもいい、これからの事を楽しみにする、いつも夏休み前の子供のような状態だと楠田さんは笑いながら話してくれました。

2月7日(金)「ナスカの地上絵/今後について」
楠田さんはナスカの地上絵にもいち早く注目しました。その中の一枚の写真に写ったおばあさんに釘付けになった楠田さんは最初は資料を探しますが見つかりません。そこで楠田さんは一人ナスカに旅立ちました。地上絵の真実を極めた科学者マリア・ライさんに会い、楠田さんは「ナスカ 砂の王国」という本をまとめます。
また、今世紀になって急にチョコレートの研究が進んだことにも楠田さんは注目しました。その素晴らしさ、そしてチョコレートを作るショコラティエさんの芸術性に注目し、これを「チョコレートの奇跡」としてまとめました。
目標は無いけれど楽しい事ばかり、ここ半年の楽しみを追いかけるのに精いっぱいと楠田さんは言います。ずっと先を見ている楠田枝里子さんです。

<楠田枝里子>
三重県伊勢市に生まれる。東京理科大学理学部を卒業。
日本テレビにアナウンサーとして入社し、「おしゃれ」の司会等で注目を集める。日本テレビを退社し、フリーとなった後、本格的な海外情報番組の先がけとなった「なるほど・ザ・ワールド」(フジテレビ)の司会で人気を博する。
同時期に、最初の科学エッセイ「ロマンチック・サイエンス」がベストセラーとなり、続いて「不思議の国のエリコ」「気分はサイエンス」等、科学エッセイの新分野を開拓。最新刊は、「チョコレートの奇跡」。
司会者としても高い評価を受け、「世界まる見えテレビ特捜部」(日本テレビ)「FNS歌謡祭」(フジテレビ)などで活躍。現在も、数々の番組の司会者として、意欲的に仕事を展開している。

1月27日~1月31日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、タレントの磯山さやかさん

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1月27日(月)「念願の、高校野球のマネージャーに」
メロンで有名な茨城県鉾田町で育った磯山さん、活発で外で遊ぶのが好きな子供でした。磯山さんといえばやはり「野球」。家族が野球好きだったことと、実際に試合を見に行って感動したことで野球にハマり、高校に入学するとすぐ野球部のマネージャーになりました。そしてホリプロタレントスカウトキャラバンがきっかけで芸能界入り。今日はデビューまでのお話です。

1月28日(火)「野球部のマネージャーが芸能界デビュー」
野球部のマネージャーとタレント活動の両立でハードだった高校時代。水着のグラビアが男性誌を飾りますが、絶対に見ているはずの野球部員たちは照れてるのか、なぜか触れようとしなかったのだそうです。そして高校3年の最後の夏。大事な試合とドラマの撮影が重なってしまいました。邦丸さんが何度聞いても涙ぐむこの「最後の夏」のエピソード、是非聞いて下さい。

1月29日(水)「グラビアアイドルとして」
最初はグラビアの仕事が多かった磯山さん。少しでもキレイに見せようと、いろんなグラビアを見て研究した結果、顔を見なくても体だけでどの子かわかる「ききグラビア」ができるようになったそうです。そして磯山さんの代名詞「ぽっちゃり」。ダイエット企画で頑張って痩せたのはいいのですが、肝心のファンの反応は・・・?

1月30日(木)「東京ヤクルトスワローズの公認マネージャー」
野球に関わる仕事がしたいという願いが叶い、磯山さんは東京ヤクルトスワローズの公認マネージャーに選ばれました。最初の顔合わせの際、「野球で好きなプレーは?」と聞かれ、野球好きならではの玄人な答えを返した磯山さんは即採用!野球を知らないアイドルがちゃらちゃらしてる、と思われるのがイヤで、毎日朝早くから球場に通って地道に取材し勉強した日々だったそうです。

1月31日(金)「磯山さやかの婚活事情」
現在30歳。もっと早く結婚したかったのにいまだに独身と嘆く磯山さん。絶賛婚活中ですが
その独特の結婚観には邦丸さんも若干引き気味。相手に気を遣い過ぎる性格が災いしているのだそうです。
もちろんグラビアアイドルとしても現役!最新写真集のお話も伺っています。

<磯山さやか>
フジテレビ『スワローズベースボール』で番組マネージャーを務めたことをきっかけに野球関係の仕事で活躍し、スポーツキャスターを目指す。また、茨城出身で2006年に「いばらき大使」に任命され、CFにも出演。他にも、趣味のゴルフ、世界遺産の仕事も多く、幅広く活躍。主な出演作は、テレビ朝日『磯山さやかの旬刊!いばらき』、BSフジ『山中秀樹のあそびにマジメ』、舞台『志村魂~「先づ健康!再び」~』、写真集『GRATITUDE~30~』など他多数。

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