終わりよければ・・・(放送終了)

ラジオ サロンdeくにまるの最近のブログ記事

1月11日~1月14日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、角野卓造さん

kakuno-kunimaru.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、角野卓造さん!

1月11日 火曜日 【角野少年、大阪と東京の生活】
今週のゲストは俳優の角野卓造さん。
東京生まれ、大阪育ちという角野少年は、大阪の名門小学校に通い、
デパートを遊び場にしていたという、自称「シティーボーイ」だったそうです。
中学生にもなる頃、東京に戻り、ここでも名門中学「麹町中学校」に進学、
ここで芝居と出会うことになります。
角野卓造さんの子供の頃や、お芝居との出会いについてお伺いしました。

1月12日 水曜日 【文学座に入るきっかけ】
演劇の楽しさ、魅力にのめりこんでいった角野卓造さんでしたが、
俳優という職業に就く事にはネガティブな考えだったそうです。
そんな中、試しの受けた劇団への試験を受けたところ、早稲田小劇場と文学座に合格。
そして、角野卓造さんは「文学座」へと進みます。
角野卓造さんが文学座へ進んだ『理由』や、
初めての舞台についてお話をお聞きしました。

1月13日 木曜日 【北村和夫さんとの出会い、奥様とのなれそめ】
文学座に入った角野卓造さん。入団3年目に抜擢され出演した舞台
「花咲くチェリー」で『北村和夫』さんと出会います。
芝居の稽古では、角野卓造さんの演技を全否定され、
「もう、これっきりでやめてやる!」と心に決めるほどでしたが、
舞台が始まってみると、役者として大事な事を学ぶ事が出来たそうです。
また、文学座で奥様とも出会うことになるのですが、その馴れ初めもお聞きしました。

1月14日 金曜日 【角野卓造さんと「渡る世間は鬼ばかり」】
現在、放送中のシーズンが最終作となる「渡る世間は鬼ばかり」。
20年出演している角野卓造さんに、
これまでの思い出や裏話についてお話していただきました。
また、来月17日から上演する舞台、
西荻の会「ロスト・ロング・フレンド」について、お聞きしました。

<角野卓造>
東京都出身。1970年文学座研究所に入所。
「第19回紀伊國屋演劇賞・個人賞」「第7回読売演劇大賞・最優秀男優賞」「第55回芸術祭賞」「第6回朝日舞台芸術賞秋元松代賞」など数々の受賞歴がある。
『夢の痂(かさぶた)』『ゆれる車の音』などの舞台をはじめ、映画・テレビ・CMなどでも幅広く活躍。主な出演作品に『THE 有頂天ホテル』(CX)『HERO』(CX)『渡る世間は鬼ばかり』(TBS)『万引きGメン・二階堂雪』(TBS)などがある。
趣味はバスケットボール、ギターなど。

1月4日~1月7日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、五大路子さん

 

godai_kunimaru.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、五大路子さん!

1月4日 火曜日「演劇への思い」
横浜の郊外で生まれた五大路子さんは、天然の自然児でした。その後、高校の演劇経験を経て、芸大の野口三千三(みちぞう)先生に出会ったときに衝撃を受けます。演劇とは自分の中に価値を求める自分探しだったのです。
一人娘が演劇の世界に入ろうとしていたのを知った父は猛反対します。でも、五大さんは諦めませんでした。この、父の猛反対はその後の五大さんに大きな影響を残します。

1月5日 水曜日「テレビデビュー」
桐朋学園演劇科へ進学した五大さんは、早稲田小劇場を経て、新国劇に所属します。後に、これは自分の中の宝物を探すための回り道だったと五大さんは言います。
そして、NHKでテレビデビューを果たします。このとき、お父さんが一番喜んでくれました。この頃の一番思い出は父が演劇を見に来てくれたこと。新橋演舞場で父が声を掛けてくれたとき、五大さんは涙が止まりませんでした。

1月6日 木曜日「メリーさんの話」
五大路子さんのライフワークとなったのが、「横浜ローザ」。実在した娼婦、メリーさんの生涯記です。メリーさんに初めて出会った時、「私のこと、どう思う?」と、心の中に話しかけられたのだそうです。あの人は誰?と思った五大さんはいろいろ調べて、メリーさんの生涯を伝えていこうと決心し、「横浜」という街の知られていない一面が浮かびあがる、日本の戦後史を伝える劇が誕生しました。

1月7日 金曜日「横浜夢座」
五大路子さんは、今、横浜夢座の座長をしています。ある時、原因不明の足の病気で1年間倒れたときに、「私が私であるためのものは何か?」を自問自答した末、いろんな思いを発信する事だと気がつきました。野口先生の教えがここで生きてきたのです。そこで横浜発のムーブメントのために、集まってくれた仲間と夢座を立ち上げたのでした。
そこからいろんな苦労が始まりますが、これは五大さんへの皆の期待を背負う、楽しい苦労です。横浜を描く演劇はまだまだ続きます。

<五大路子>
桐朋学園演劇科を卒業後、早稲田小劇場を経て新国劇へ。NHK朝のテレビ小説「いちばん星」でテレビの主役デビュー。一人芝居「横浜ローザ」で横浜文化奨励賞受賞。99年横浜夢座を旗揚げ後、「横浜行進曲」(99年)、「奇蹟の歌姫 渡辺はま子」(01年)上演のほか、NHK大河ドラマ、舞台各方面で活躍。

12月27日~12月31日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、佐良直美さん

sagara_kunimaru.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、佐良直美さん!

12月27日(月) お嬢様時代
とても裕福な家庭のお嬢様だった佐良さん。
バイオリンやピアノのレッスンなどが嫌で逃げ回っていたそうです。
「危ないから自転車は乗ってはいけない」と言ったおじい様が代わりに許したのが「馬」。
東京オリンピックを目指すほどの実力をお持ちだったとお話しされていました。

12月28日(火) 大ヒット直前のお話
テレビ音楽番組のディレクターになりたかった佐良さんですが、女性の採用枠が無く断念。
代わりに、レッスンを受けていた歌を生かし、
シンガーとして米軍キャンプやシャンソン喫茶などで歌われていたそうです。
ある日、米軍キャンプでなぜか、喝采とブーイングをうけた佐良さん。
そのあと、ある女性たちから聞いた言葉で佐良さんは大変励まされたそうです。

12月29日(水) 大ヒットと紅白
大ヒット曲「世界は二人のために」を初めて聞いたとき、童謡かと思ったという佐良さん。
「いいじゃないの幸せならば」は、歌詞の意味をあまり考えずに歌ったことがよかったとも語られました。
ヒット曲に恵まれた佐良さんは、NHK紅白歌合戦に13回連続出場、司会も5回務められました。
紅白ならではの緊張感や、楽屋での裏話などたっぷりお話いただきました。
楽屋での和田アキ子さんをある動物にたとえていらっしゃいます。
また一方で、まったく緊張していなかったというのが・・・・あの大物女性歌手です。

12月30日(木) 歌手・佐良直美から実業家・佐良直美へ
喉ポリープの手術を受けられた佐良さん、その後も歌うときに違和感があったといいます。
またそのころ、ご家族の会社を手伝われて、歌手生活との両立が困難に。実業家に専念されます。
小さなころから動物に囲まれて育ったことなどから、
現在の、那須にある家庭犬のしつけ教室を開かれます。

12月31日(金) 再び、歌手へ
28年間、実業家として過ごされていた佐良さん。
テレビ出演も断り、あの手この手でCDを出すことを断ろうとしていた佐良さんが
とうとう、11月発売の「いのちの木陰」で27年ぶりに歌手としてカムバックされたいきさつについてお話を伺いました。


<佐良直美>
1945年、東京都出身。1967年に歌手デビューし、NHK『音楽の花ひらく』のレギュラーに起用。その年デビュー曲として発売された「世界は二人のために」が120万枚の大ヒットとなり、レコード大賞新人賞を受賞。69年には「いいじゃないの幸せならば」で日本レコード大賞を受賞。ドラマ出演や司会業など幅広い分野で活躍。

12月20日~12月24日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、西村徳文さん

西村監督.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、西村徳文さん!

12月20日(月)「 西村野球の原点 『チームの"和"』 」
中学で本格的に野球を始め、高校でも野球部に所属していた西村徳文さん。しかし、生まれつき「楽なほうへ、楽なほうへ」と流される性格だったため、一時期、オートバイに魅力を感じて「野球は辞めよう」と思い始めたのですが、それを思いとどまらせたのはチームメイトによる熱心な説得でした。
月曜日は、西村野球には欠かせない「チームの"和"」。その原点に迫っていきます。

12月21日(火)「 スイッチヒッターへの転向 」
「楽なほうへ、楽なほうへ」と流される性格の西村徳文さんは、社会人野球を経てドラフト5位でロッテオリオンズ(当時)に入団してからもしばらくは「厳しい練習は嫌だなぁ。いつ辞めようかなぁ...」と、そんなことばかり考えていたそうです。そんな時、西村徳文さんの耳に首脳陣の"ある言葉"が聞こえてきて...。
火曜日は、西村徳文さんが首脳陣の"ある言葉"に発奮して右打者からスイッチヒッターに転向するまでの話を中心に伺っております。今でもハッキリと覚えているという左での初打席の結果は、果たして?!

12月22日(水)「 西村監督、現役時代を振り返る 」
スイッチヒッターに転向してから3年後には二塁手のレギュラーを獲得した西村徳文さん。その後もベストナインやゴールデングラブ賞を受賞、また、盗塁王や首位打者のタイトルも獲得して個人的には大活躍だったのですが、チームの成績はそれに反比例するかのように低迷したまま。そんな中、'97年のシーズン開幕前に引退。
水曜日は、西村徳文さんに現役当時の思い出を振り返っていただいております。

12月24日(金)「 初監督で日本一、そしてアジアNo.1! 」
監督就任1年目で千葉ロッテマリーンズ日本一、アジアNo.1という偉業を成し遂げた西村徳文監督。最終日は、シーズン中から、野村邦丸が聞いてみたかったあれやこれやを西村監督にぶつけてみました。あれだけ練習嫌いだったのに、今季からはチームの練習量が増えたってホント? スタメンを固定したのは何故? ギリギリの戦いを支えていたものは何? などなど...ご期待ください!

<西村 徳文>
1960年、宮崎県出身。宮崎福島高(甲)~鹿児島鉄道管理局(81年 ドラフト5位)
★主なタイトル
(首)90 (盗)86~89 (ベ)85、90 (ゴ)85、90
背番号は「78」。
2010年シーズンからは、千葉ロッテマリーンズの監督を務める。

12月13日~12月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、渡部陽一さん

watanabeyoichi-kuni.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、渡部陽一さん!

12月13日 月曜日 【戦場カメラマンのルーツ】
戦場カメラマンの渡部陽一さん。そのルーツは中学生のときに見たあるCMと大学の講義でいまだ狩猟生活をおくる人たちがいると知ったからなんだそうです。学生時代のお話です。

12月14日 火曜日 【戦場カメラマンになる決意】
軽い気持ちでピグミー族に会いに向かった渡部陽一さん。ところが少年たちのゲリラに殺されそうになったんだそうです。帰国後、その話をしても理解してもらえず、そこで渡部さんはカメラマンになる決意をしました。

12月15日 水曜日 【戦場カメラマンの仕事とは】
戦場カメラマンとして取材、そして写真を売り、その資金でまた戦場取材に行っていたんだそうです。最近はテレビに出る渡部さんですが、一番うれしかったのはテレビを通じて自分の写真を多くの人に見てもらえることなのだそうです。

12月16日 木曜日 【海外でのさまざまな体験】
命をかけて渡部陽一さんがカメラマンを続ける理由に「現地の友人」というのがあります。友人やガイドを探す方法とは? そして渡部さんから見た日本とは?

12月17日 金曜日 【家族を持ってからの戦場カメラマン】
結婚された渡部陽一さん。取材スタイルが以前よりも危険管理を徹底するようにしているんだそうです。キーワードは「引き返す勇気」です。家庭での渡部さんの様子も伺っています。

<渡部陽一>
1972年、静岡県生まれ。学生時代から世界の紛争地域を専門に取材を続ける。長期取材を得意とし、イラク戦争では日本人初の米軍従軍取材を経験する。アフリカ・ザイール内戦、アフリカ・ルワンダ内戦、イラク紛争、パレスチナ紛争、コロンビア内戦などを取材。 著書に「報道されなかったイラクと人々」、「世界は危険で面白い」など。

12月13日~12月17日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」<特別編>は、ピンクレディーさん

pinklady-kunimaru.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」特別編のゲストは、ピンクレディー!

12月13日(月)
邦丸さんとほぼ同年代のピンクレディーのお二人。出会いは中学時代でした。小さなときから活発な子で大人の歌を歌っていたケイさん、引っ込み思案で、最初は役者になりたかったミイさんの二人は、中学校の演劇部で出会いました。高校3年間、ケイさんの髪はミイさんがカットしていたぐらい、二人はとても仲良しになりましたが、そんな二人がお互いを大切な人と思えるような出来事がある雨の日にありました。

12月14日(火)
同じ高校に進学した二人は、ヤマハの新人オーディションを受けて合格します。ポプコン出場のためにはじめてデュエットを始めた二人、なんと、1年ぐらい歌声をうまくハモらせることができなかったそうです。デビューの見通しも立ちません。そこでオーディション番組を受けてみました。一度目は失敗。二度目は、わざとイメージを変えて見事にオーディションを突破します。それが災いするのですが...。

12月15日(水) 
スター誕生でデビューを勝ち取りましたが、マネージャーやレコード会社から期待されることも無く、フォークデュオとしてデビューする予定でした。しかし、二人の個性を見事に見抜いた阿久悠・都倉俊一コンビによって、最高のデビュー曲「ペッパー警部」を得ます。ピンクレディーという名前も決まり、ここからは大ヒットの連続! 睡眠時間は1日2時間、振り付けの練習時間もぜんぜん取れなくなってしまいます。衣装合わせの時間も無い中で、思わぬアクシデントがミイさんを襲いました。

12月16日(木)
阿久悠・都倉俊一コンビの強力なタッグは、ピンクレディーの二人にぴったりの曲をどんどん作り出していき、どれも大ヒット。睡眠不足で立っているのが不思議なぐらいの忙しさになります。しかし、盲学校の生徒のためのチャリティコンサートの為に紅白歌合戦出場を辞退したあたりから、マスコミは二人に冷たく当たり始めました。1980年はじめにはアメリカに進出、米国人以外が初のキャスターを務めたテレビ番組「ピンクレディショー」は、視聴率32%を記録しますが、帰国したときには、「解散」「不仲」といったマイナスイメージだけが踊っていました。翌年、ピンクレディーは解散を宣言しますが、その理由は意外なもので、失敗でも不仲でも無かったのです。二人は解散コンサートの後一緒に語り明かそうとしますが、疲れて眠ってしまうミイ、そんなミイに長い手紙を書いたケイ。ピンクレディーとしての忙しい日々の終わりでした。

12月16日(金)
ピンクレディを解散してから、二人はソロ活動をしますが、どうしてもピンクレディーのイメージが付きまとってしまい、思うようなソロ活動ができません。そして年月が過ぎ、ピンクレディーを作り上げてくれた人の相次ぐ―訃報に、いつまでも永遠じゃない、できるうちにピンクレディーを復活させてなくてはと思うようになります。そして再結成。オリジナルマスターテープに新たな息を吹き込んだCDも出しました。3月には大きなイベントも待っています。


<ピンクレディー>
1976年NTV系番組「スター誕生!」決戦大会でスカウトを受けたビクターより、「ペッパー警部」でデビュー。 続く「S・O・S」「カルメン'77」「渚のシンドバッド」「ウォンテッド(指名手配)」「UFO」「サウスポー」などを立て続けにリリースし、そのいずれもがチャートの1位を獲得。 81年3月31日後楽園球場にて解散。活動期間4年7ヶ月。
解散後~これまでに4回、期間限定の再結成を行う。 2010年9月1日、解散宣言からちょうど30年の節目の日に、ビクタースタジオで《解散やめ!》を宣言。ピンク・レディーの永続的な活動再開を発表するとともに、ニューアルバムのレコーディング中であることを明らかにした。

12月6日~12月10日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、夏木陽介さん

natsuki-kunimaru.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、夏木陽介さん!

12月6日 月曜日 【夏木陽介さんの原点】
子供の頃から車やバイクが好きだったと言う夏木少年は、
自転車で片道40キロの道のりを自転車で走破していたんだとか。
そして、俳優になるキッカケは、大学時代に知り合いだった
画家の中原淳一さんの手伝いでモデルをしていた所、
スカウトされて俳優の道に入ったんだそうです。
夏木陽介さんの趣味やお仕事の原点についてお伺いしました。

12月7日 火曜日 【映画黄金時代...黒沢明は凄かった!?】
明治大学を卒業後、映画会社の東宝に入社した夏木陽介さん。
映画の黄金時代からテレビの全盛期まで体験してきたという夏木さん。
当時のお仕事や遊び方は今では考えられない様な豪快さだったんだそうです。
また、黒沢明監督の映画「用心棒」に出演した時の裏側もお話してくれました。

12月8日 水曜日 【大ヒットドラマ「青春とは何だ」】
1965年、夏木陽介さんが29歳の頃、
当時は映画界の人間は歴史の浅いテレビを下に見る風潮があった時代で、
夏木さんも最初はテレビに出演するのを拒んでいたそうです。
しかし、スタッフの熱い(?)気持ちに押されて出演する事を決めます。
そして、この時に出演したドラマ「青春とは何だ」が大ヒット。
テレビの世界でも成功を収めます。
「青春とは何だ」について、じっくりとお話をお聞きしました。

12月9日 木曜日 【Gメン'75と、その裏側】
夏木陽介さんが出演された代表作といえば、
刑事ドラマ「Gメン'75」を上げる方が多いのではないでしょうか?
このドラマの中で印象的だった有名なタイトルバックの撮影裏話や、
映画界の頃から付き合いのあった丹波哲郎さんとのエピソードなど、
Gメンが始まってから謎の降板するまでを語っていただきました。
夏木さん演じる「小田切警視」の降板の謎が今、明らかに!!

12月10日 金曜日 【夏木陽介、結婚をしない理由(わけ)】
ずっと独身でいらっしゃる夏木陽介さん。その理由は・・・
「自分のやりたい事・趣味を思う存分楽しみたいから!!」とおっしゃいます。
中でもパリ・ダカールラリーのお話を聞いていると、
思わず「なるほど...。」と感じてしまいます。
そんな夏木陽介さんの人生を書いた本、
「好き勝手 夏木陽介 スタアの時代」についてもお聴きしました。

<夏木陽介>
1958年、「密告者は誰か」の主役で映画デビュー。
以来、映画約120本、ドラマ約40本に主演する。
代表作は映画「太平洋の嵐」「夜盗風の中を走る」「億万長者になった男」、テレビでは学園ドラマの草分け「青春とは何だ」をはじめ、「Gメン75」「荒野の用心棒」など、ドラマ多数に出演。
車・バイクに造詣が深く、世界中の名車のほとんどが、一度は彼の手元にあったともいわれる。
1985年から1993年までチャレンジした"パリ~ダカール・ラリー"では、日本中にRVブームを引き起こした。
水彩画、音楽鑑賞、読書、乗馬など幅広い趣味を持つ。著書に「サハラ」「男がひとりでいる理由」「アソビ半生記」などがある。

11月29日~12月3日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、森田芳光さん

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、森田芳光さん!
11月29日(月)「料亭で育った森田監督」
円山町の料亭の息子だった森田芳光監督は、三味線の音の響く中で育ちました。芸者衆と一緒にテレビの子供番組を見るような生活だったのです。その後、お客さんにジャズのレコードをもらいジャズへ、そして祖母の影響で芝居へ傾倒していきます。
子役としてテレビ・ラジオに出たこともあった森田監督ですが、とても不純な!?動機で、転校してきた女の子に初恋をしまうのでした。

11月30日(火)「8ミリから35ミリへ」
森田芳光監督は、放送局志望で日大芸術学部の放送学科へ入りますが、8ミリ映画に熱中して就職浪人をしてしまいます。その後、映画館でのアルバイトで「映画というものはヒットすれば皆が幸せになる」ということを痛感します。
8ミリ映画「ライブイン茅ヶ崎」が評判になりますが、より本格的な映画を目指して35ミリに進むことを決意し、「の・ようなもの」を制作しました。問題はその制作費の出所、親も巻き込んだ人生最大のギャンブルとなりました。

12月1日(水)「挫折とともに見えたもの」
映画「家族ゲーム」は森田芳光監督も驚くほどの大ヒットとなりましたが、監督はその要因として、その前に撮ったアイドル映画と2本のロマンポルノで映画制作システムを勉強できたことが大きかったといいます。
家族ゲームのヒット後、いきなり期待の新人としてちやほやされた監督は、映画の方向性について悩み、数年の沈黙期間を過ごしました。
競馬評論などをした後に発表した映画「ハル」は、賞はとれたもののお客さんはついて来なかったのですが、この頃はもう、自分が進むべき方向をはっきりさせたのだそうです。

12月2日(木)「映画を撮り続ける理由」
「人間をどうやって出すか」これが自分の映画のテーマであり、ミスキャストは絶対に許されないと森田芳光監督は言います。キャスティングと同時に役は決まっているのだそうです。
そして、いつまでも振り子のように振れて、一作毎に異なるタイプの映画を撮りたい、そうしないと演出が堕落してしまうという信念を持ち続けています。森田ブランドはビックリ箱でありつづけたいと考えていますが、その為にいつも心がけていることがあるそうです。さて、それは.....

12月3日(金)「武士の家計簿」
明日から森田芳光監督の最新作、「武士の家計簿」が公開になります。この映画は、藩の会計を担当する御算用者と呼ばれる武士が、倹約で自家の借金を無くすまでの描いたものですが、そこで描かれているのは「家族・家庭」でした。
そんな映画を見ていて、インタビューアの野村邦丸が困ってしまったことがひとつありました。意外なことですが、実は、それも森田監督が描く家族の形だったのです。

<森田芳光>
1950年、東京都生まれ。日本大学芸術学部放送学科を卒業。78年、28歳の時に撮った「ライブイン茅ヶ崎」が話題となり、81年「の・ようなもの」で劇場映画デビュー。83年「家族ゲーム」で芸術選奨文部大臣賞新人賞を受賞。85年「それから」で第9回日本アカデミー賞優秀作品賞、モントリオール世界映画祭にてエキュメニカル・ジュリィ賞特別表彰を受賞。そのほか主な監督作品に「キッチン」、「(ハル)」、「失楽園」、「模倣犯」、「阿修羅のごとく」、「海猫」、「間宮兄弟」、「サウスバウンド」、「椿三十郎」など。

11月15日~11月19日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、劇画家・声楽家の池田理代子さん

kunimaru_radiobio.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、劇画家・声楽家の池田理代子さん!

11/22(月) 空想少女時代
授業中の窓の外を眺めて雲を見つければ、雲に乗って旅に出るのを空想したり、
校庭に水溜りが見えたら泳いでしまったりしていた池田理代子さん。
学校でも心配をされていたそうです。
でも。先生に呼び出された池田さんのお母さまは「この子は時間をかけてじっくり
やれば才能がわかる子です」と先生説得してくれたということです。
想像力豊かな子ども時代のお話をお伺いしました。

11/24(水) 学生運動からベルサイユのバラ誕生まで
大学入学すると同時に学生運動は全盛期に。
池田さんも影響を受け、家出をします。自活するためにウエイトレスや工場の女工さん
など、さまざまな仕事をされて気がついたことは・・・・「人前で話すのは向いて
いない」ということだったそうです。そして選んだ仕事が、漫画家でした。
大学生でありながら始まった「ベルサイユのバラ」の連載。少女マンガで時代物は
売れない、と反対する出版社に、池田さんは「これで売れなかったら自分の才能が
ない」と衝突されたそうです。

11/25(木) 更年期障害をきっかけに新たな道へ
ベルサイユのバラは国民的ブームとなりその後も数々のヒット作を生み出した池田さん
ですが、40歳のとき、体調を崩します
原因がわからず病院を転々として、やっとたどり着いた婦人科で診断されたのは更年
期障害。あわただしくすごされていた日々から立ち止まり、改めて自分の夢について
かんがえたそうです。そして目指したものは・・・。

11/26(金) 声楽家として
仕事をしながら受験勉強をされ、東京音楽大学に入学。声楽家として訓練をつむ日々は
まるで「アスリート」。30歳も下の同級生たちと切磋琢磨した池田さんは、「私には
経験も表現したいこともたくさんある!」と声楽家として活躍されています。
来年にはなんと、ベルサイユ宮殿で歌う機会もあるということです。
またオペラの演出もされるそうです。
12月8日には朗読劇「ラブレターズ」ではささきいさおさんとご出演される池田さん、
いったいこれからどこへ向かうんでしょうか、いたずらっこのような瞳でお話いただき
ました。

池田 理代子
大阪府出身の漫画家・劇画家。声楽家でもある。
東京教育大学文学部哲学科にて学者を志し、生活の糧として漫画を描き始め、下積み生活の後、1967年に『バラ屋敷の少女』でデビュー。
1972年に連載を開始した『ベルサイユのばら』は空前のヒットとなった。1975年からは『オルフェウスの窓』の連載を開始。1980年、この作品で第9回日本漫画家協会賞優秀賞受賞。
その後、更年期障害に悩まされ、残りの人生について考た末、45歳で音大受験を決意。1995年、東京音楽大学声楽科に入学。
2009年3月11日、フランス政府から、多くの日本人が『ベルサイユのばら』を通じ、フランスの歴史、言葉、食文化などに関心を持ったとし、レジオン・ドヌール勲章シュバリエ章を授与される。

11月15日~11月19日の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」は、サンプラザ中野くん

 sunplaza-kunimaru.jpg

今週の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」のゲストは、サンプラザ中野くん!

11月15日(月)「 ミック・ジャガー と かぐや姫 」
山梨県のお生まれ。子供のころは小児まひの影響で思うように体を動かせず、部屋の中で遊ぶことが多かったというサンプラザ中野くん。そんなサンプラザ中野くんが音楽に興味を持ったきっかけとは何だったのか?
月曜日は、そのあたりから切り込んでいきたいと思います。キーワードは「ミック・ジャガー」と「かぐや姫」。

11月16日(火)「 ミミズのボーカリスト 」
早稲田大学に進学後、「ミミズの衣装が似合いそう」という理由で「スーパースランプ」というバンドのボーカルに
スカウトされたサンプラザ中野くん。このバンドが、後に、「爆風銃(ばっぷがん)」というバンドと合体して結成されたのが、あの「爆風スランプ」です。火曜日は、「爆風スランプ」結成秘話!

11月17日(水)「 ♪ 走る 走る オレ~たちぃ~ ♪ 」
1984年、爆風スランプ、メジャーデビュー。初めはパフォーマンスばかりが先行し、周りには "色モノバンド" と揶揄されていたものの、翌年、いきなりの武道館ライブ大成功。そして、「Runner」で大ブレイク&紅白出場と、常に全力で走っていたサンプラザ中野くん。
水曜日は、「何が何だか分からなくなるほど忙しかった」という"あの時代"を振り返っていただいております。
大ヒット曲「Runner」にはさまざまな想いがあるようですが、私が好きなあの切ない名曲「大きな玉ねぎの下で」が作られた理由をリスナーのみなさんはご存知でしょうか? 正直、ちょっとガッカリしました(笑)

11月18日(木)「 125歳まで生きる 」
30歳を迎えるころに「ロックを歌っていくことへの限界」を感じて精神的に追い込まれてしまったというサンプラザ中野くん。その後は不摂生で怠惰な生活を続けていたそうなのですが、お父様の死に直面してからは「健康法」に関心を持つようになり、現在は「125歳まで生きる」ことが目標だそうです。
木曜日は、125歳まで生きるために必要だという 「健康」 と 「投資」 について、サンプラザ中野くんに熱く語っていただきました。
「投資を勉強すると世の中が見えてくるんですよ!でも、儲かりません...」と、サンプラザ中野くんは申しておりました。

11月19日(金)「 爆風スランプの活動休止。そして、復活 」
諸事情により現在は活動休止中の爆風スランプが、12月12日(日)に一夜限りの復活ライブを行います。最終日はサンプラザ中野くんに、このライブの見所をたっぷりと伺うはずだったのですが ... 何故か今回は「まんす語」の話題で盛り上がってしまいまんすた。 「まんす語」の詳細につきましては、是非とも放送をお聴き下さい!

<サンプラザ中野くん>
1960年、山梨県生まれ。
2年間のアマチュアバンド活動を経て、'84年に爆風スランプのヴォーカルとしてデビュー。
翌'85年12月には初の日本武道館公演を果たす。
'88年「Runner」の爆発的ヒットで幅広いファンを獲得、同年のNHK紅白歌合戦に出場。
その後も「月光」「リゾ・ラバ」「大きな玉ねぎの下で~はるかなる想い」「旅人よ~The Longest Journey」などヒット曲多数。

前の10件 22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  32